2019年9月27日金曜日

武居幸重著「縄文人の心」に興味津々

縄文土器学習 263

尖石縄文考古館を訪問した際、多数の図書やパンフレットを入手し今後の学習のために備えました。この付近の縄文遺跡に興味が生れましたので絶版となっている「茅野市史上巻原始考古」もWEB古書店から入手したほどです。
そのようにして入手した図書の中に武居幸重著「文様解読から見える 縄文人の心」があり、きわめて興味深い内容でありますので記録しておきます。

武居幸重著「文様解読から見える 縄文人の心」
この図書は2013年に尖石縄文考古館での筆者の講演をまとめたものです。尖石縄文考古館でしか入手できないのかもしれません。

この図書の精読はまだですが、水野説(土偶祭祀は女性側、石棒祭祀は男性側)に対し、武居説(土偶祭祀と石棒祭祀が双分したのち、融合祭祀を行うことが最終目的であり、その証拠に男女の性に関わる土器交合文様、交合土偶、交合石棒の存在をあげる)を開陳している点に最初の特色があります。

また「重想」という新概念を提起して説明を進めています。
「重想」…一つのデザインで二つ以上のモデルと二つ以上の意味を持たせる表現方法を示す。

棚畑の土偶(国宝縄文のビーナス)の重想関係を次のように説明しています。

棚畑の土偶重想関係説明図
武居幸重著「文様解読から見える 縄文人の心」から引用
「上に示した国宝「棚畑の土偶」はみぞおちを境にして上が女性の若年期で下が女性の熟年期を表わし、かつ下半身に男根が組み込まれているから男女の合体造形である。よって交合土偶である。上段の側面図で点で埋めた部分が男根との重想文である」武居幸重著「文様解読から見える 縄文人の心」から引用

参考 尖石縄文考古館展示縄文のビーナスの写真

重想という概念が大変興味深く感じます。一つの造形に異なる複数の意味を持たせるという造形技法が存在することは良く理解できます。しかしだれにでも明解な第一の意味は別にして、暗喩として表現されている意味の抽出は「名人芸」になり、万人が「そうだ」と納得する説明は困難になるに違いありません。

「顔はフクロウと嬰児の重想造形」という説明で、嬰児はわかりますが、フクロウは?と感じてしまいます。
下半身に男根が組み込まれているから男女の合体造形であり交合土偶であるという説明も飛躍しすぎているように感じてしまいます。

とてつもなく深い検討を感じる側面と、素朴な疑問を感じる側面のある、とてつもなく魅力的な図書です。

大山山椒魚文様の説明は大変論理的です。
一方、「畑の鳥瞰図の模式表現」は縄文時代畑区画が出土した遺跡を知りませんから、素朴な疑問となります。「畑の鳥瞰図の模式表現」が本当ならば、土器文様に地図が描かれていたのと同じになり、興味津々です。

2019年9月24日火曜日

尖石縄文考古館展示ジオラマの3Dモデルと地形3Dモデル

尖石縄文考古館展示ジオラマの3Dモデルを作成し、地形3Dモデルとの比較を遊びました。

1 尖石縄文考古館展示ジオラマ3Dモデル

尖石縄文考古館展示ジオラマ3Dモデル
撮影場所:尖石縄文考古館
撮影月日:2019.09.13
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.509 processing 24 images

尖石縄文考古館展示ジオラマの様子
緑点は旧石器時代遺跡
赤点は縄文時代遺跡

2 茅野市付近地形3Dモデル

茅野市付近地形3Dモデル
DEM:ALOS30mメッシュ(JAXA提供)
画面:国土地理院標準地図+色別標高図
QGIS(プラグインQgis2threejs)で作成
垂直強調度2.0

QGIS作業画面の様子

3 感想
・地形3Dモデルは広域にわたるためALOS30mメッシュ(JAXA提供)を使いました。地理院提供DEMとことなりTIFFファイルで提供されているので使い勝手が大変よいです。
・パソコン画面内に限定すれば、QGISに遺跡分布をプロットしてジオラマと同等(あるいはそれ以上)のプレゼン効果(機能)をもつ3Dモデルができます。
・またこの3Dモデルを3Dプリンターでアウトプットすればすぐにリアル展示物になる原理になっています。(自分は3Dプリンターを利用したことはありません。)

2019年9月23日月曜日

展示ジオラマ3Dモデルと地形3Dモデルの比較

千葉市土気あすみが丘プラザ展示室に展示されている土気地区ジオラマを全周多視点撮影して3Dモデルを作成しました。それと同じ空間の地形3DモデルをQGISにより作成し比較して遊びました。
2019.08.27記事「千葉市土気あすみが丘プラザ展示室の観覧」参照

1 千葉市土気あすみが丘プラザ展示室の土気地区ジオラマ3Dモデル

千葉市土気あすみが丘プラザ展示室の土気地区ジオラマ3Dモデル
撮影場所:千葉市土気あすみが丘プラザ展示室
撮影月日:2019.08.26
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.509 processing 32 images

土気地区ジオラマの様子

2 土気地区地形3Dモデル

現在の土気地区地形3Dモデル
QGISプラグインQgis2threejsで作成
地形情報は5mメッシュ
空中写真はGoogle earthによる
垂直強調度5.0

QGIS作業画面

3 感想
・ジオラマ3Dモデル作成がガラス面がないため難の少ないものになっています。
・ジオラマは開発前の土気地区の様子を、地形3Dモデルは現在の様子を表現しています。2つの3Dモデルを作ることによりその過去・現在の比較が容易になります。
・ジオラマは開発地域に限定してつくられていて、周辺の興味ある急崖の様子の表現が弱くなっています。そのため旧石器時代や縄文時代の狩猟を念頭に置いた観察では物足りなさを感じます。
・地形3Dモデルは地形強調度を思い通りに変更できるので便利です。地形を好みに合わせてデフォルメできます。
・尖石縄文考古館で見かけた遺跡分布ジオラマについても同じように3Dモデルを作成し、地形3Dモデルと比較してみることにします。
・現在利用できる5メッシュ標高データは最新版であり、当然ながら開発後のものです。開発前の標高データを旧版25000分の1地形図等から作成し、より自然地形に近い地形3Dモデル作成にチャレンジしたいと希望しています。

2019年9月19日木曜日

道具と意欲

縄文土器学習 262

観念思考のメモです。
昨晩たまたま目に飛び込んできたテレビ番組で道具と意欲に関する発言があり、縄文土器について連想が及びましたのでメモします。

1 武器と攻撃意欲
長岡藩河合継之助がアメリカ商人からガトリング砲(機関砲)2門を購入し、結局北越戦争でそれを使い、戦いに敗北していった様子をテレビ歴史番組で放送していました。その番組のなかで女流脳学者が「武器を持つと人の攻撃意欲は100倍も強まることがある」旨説明していました。その通りだと納得しましたが、武器に限定しないで道具一般でも同じことが言えるのではないだろうかと直観しました。

2 道具(3Dモデル作成パソコンソフト)と学習意欲(3Dモデル作成意欲)
自分に当てはめると道具(3Dモデル作成パソコンソフト)を入手してから、学習意欲(3Dモデル作成意欲)が急激に高まったことは明白です。
道具(ある事柄を実現する機能)の所持が意欲(ある事柄を実現したいと考える欲)を増進させることは自分に限らず人類共通であると直観します。

3 デザインされた縄文土器と食事満足感増幅意欲
土器を発明した縄文人が、ある時デザインされた土器、装飾を施した土器の方が煮沸機能一点ばりの土器より食事がおいしいことを発見したのだと思います。
土器の機能に食事満足感増幅機能(煮たものをよりおいしく食べる機能)があることを発見したのです。
それ以来、食事満足感増幅意欲を満たすために波状口縁とか大きな把手とか、さらに火焔土器にいたるまでの各種デザインを施し、食事満足感増幅意欲を満たしてきたと考えます。
食事を美味しく食べ、食べた後の満足感を得るために土器にいろいろなテーマで形状デザインを施し、装飾を加えたのだと思います。
煮沸してそこから食べ物を汲みだすという実用機能だけからみると著しい障害があったとしても、その土器を使うことによってトータルの食事満足感が大きかったのだと思います。

現代のファッションショーなどみると、生活活動では不自由であることが明白な衣服が多く出品されます。しかし、それを着ることで実用不自由さを十分にカバーして満足感を得られるので出品されるのだと思います。極端なデザインの縄文土器と極端なデザインの現代衣類は双方ともに実用性を犠牲にしても人々に満足感を与えることが出来るという点で共通しています。

土器に各種情念とか神話とかを投影してデザインし、実用機能はある程度は犠牲にしたのが縄文社会であったと考えます。

4 実用機能土器の誕生
精製土器と粗製土器という区分がありますが、粗製土器とはつまり実用土器であるということです。
個人で使う土器はまだしも、組織(集団)で使う土器(いわば業務用土器)に「いちいち時間をかけて情念を投影するといった余裕はないよ。俺たちは忙しいんだ。」という縄文社会が縄文中期以降増えたと考えます。
・精製土器と粗製土器の割合を分析すれば、その社会の組織性(集団で保存食をつくるなどの組織活動の発展)が判るかもしれません。

尖石縄文考古館展示縄文土器
 

2019年9月18日水曜日

諏訪市博物館の観覧

縄文土器学習 261

諏訪市博物館を訪問して縄文土器や遺物を観覧しました。

藤森栄一記念コーナー
諏訪市博物館の許可による撮影・掲載

この館ではじめて諏訪湖湖底にある曽根遺跡について知りました。

曽根遺跡出土物
諏訪市博物館の許可による撮影・掲載

入手した曽根遺跡資料
曽根遺跡は旧石器及び縄文草創期遺跡で爪形文土器が出土します。

縄文土器展示の様子(蛇体文土器)
諏訪市博物館の許可による撮影・掲載

縄文土器展示の様子
諏訪市博物館の許可による撮影・掲載

縄文土器展示の様子
諏訪市博物館の許可による撮影・掲載

縄文土器展示の様子
諏訪市博物館の許可による撮影・掲載

興味ある縄文土器が浮かび上がるように見える展示方法となっています。
今回の初訪問で諏訪湖湖底に旧石器から縄文草創期の曽根遺跡があることを知り、大収穫となりました。資料をまだ十分に読んでいませんが、遺跡の存在が地盤変動に関わるものでないとすれば漁労との関わりも検討選択肢に入り、興味が倍加します。

このほか片倉館所蔵縄文土器10数点が展示されています。
なお、8月末まで資料公開展「諏訪市の縄文世界」が開催されていたとのことでした。

藤森栄一記念コーナーはピラミッド型ガラスケースに覆われていますが、これ全体を3Dモデルにすることができるかどうか、いまからその作業が技術面でどうなるか、楽しみです。

尖石縄文考古館観覧で生まれた感想

縄文土器学習 260

尖石縄文考古館観覧で生まれた感想のうち、千葉との対照に関するものをメモします。

千葉でよく見る縄文土器と、ここでみる縄文土器のデザインなどがかなり違いますが、その違いに関連した感想が次々と連続して生まれました。

以下の感想は千葉と長野の実物土器の対照分析ではありません。
千葉と長野の土器の違いを感じて生まれた一般論的感想です。
より正確に言えば、千葉の土器の特性をあぶり出す方法に関する感想です。
すべて知識虚弱の学習初心者の感想です。

1 千葉と長野の土器デザインの違いを知る方法
例えば縄文中期の地域社会盛期の千葉と長野の土器デザインの違いをある程度客観的に把握できる方法を知る必要があります。
問題
・展示施設の展示土器は珍品や美術的価値のあるものなどがメインで、展示土器から当時の平均的デザインを、特に一般素人は見つけることが困難。
・ある器種について、出土復元土器を全部並べて観察すれば「これが平均的デザインである」と定性的な直観を得ることができるに違いない。そのような平均的デザインの土器を知る方法を知りたい。(土器図鑑の挿図がそれであるかどうか?)

尖石縄文考古館展示風景

[以下、千葉の中期縄文土器は長野の中期縄文土器とくらべて「淡白」である、「装飾が少ない」という違いが本当にあると仮定した場合の感想]
2 千葉と長野の土器デザイン相違の理由
千葉と長野の土器デザインの違いは生業分野数の違いに起因しているのではないか。

千葉の生業…動物の狩猟、植物の採集、魚介類の獲得→より豊かな社会・より安定した社会
長野の生業…動物の狩猟、植物の採集→普通の豊かさの社会・普通の安定社会

千葉の生業にかかる時間・エネルギー…長時間・大
長野の生業にかかる時間・エネルギー…普通の時間・普通(魚介類の獲得の分だけ千葉より少ない。それが列島全体で普通である。)

千葉の社会組織性…強い(生業運営が高度である分、組織性を必要とする)
長野の社会組織性…普通(生業運営が普通である分、組織性も普通である)

千葉の土器作成にかける時間・エネルギー…時間をかけない(組織人による実務的作成、情念はあまり込めない)、エネルギーをあまりかけない
長野の土器作成にかける時間…普通の時間をかける(普通の縄文人による普通の作成、情念を込める)、エネルギーを惜しみなく投入する

千葉の深鉢デザインの役割…イボキサゴ汁によるうまみ成分で植物質食材を美味しく食べられるので、鍋(深鉢)デザインの役割が弱い(豪華な深鉢デザインでまずい食材をごまかす必要がない)。
長野の深鉢デザインの役割…うまみ成分(貝汁など海産物)がないので植物質食材がおいしくなく、それを鍋(深鉢)デザインの豪華さで補う必要がある。

尖石縄文考古館展示風景

3 千葉の加曽利EⅡ式頃(最盛期)とその前後の土器デザインの違いは2と類似している
(千葉だけの検討)
加曽利EⅡ式頃は社会の最盛期(人口急増期)で土器デザインは口縁部が平滑化して明らかに実利的・工業デザイン的になりました。その前後の時期は波状口縁や把手が付き縄文土器一般のデザインに近づきます。
狩猟・採集・漁労の3つの生業を組み合わせ、急増した人口を擁する高度な社会では組織性が発達し、土器作成もこなすべき多数作業の1つの実務作業になったと考えます。そこでは、情念の投影や過大な時間・エネルギーの投入は疎んじられたと考えられます。
人口急増期には集落の分村とそれに伴う各種縄張りの分割調整とか、生業地の新開発とか、衛生問題とか、環境破壊とか、交易ネットワークの再編成とか無数の社会問題が噴出したに違いありません。その新たな社会問題解決を意識すればするほど社会の在り方は組織的・実務的・生産効率的・技術開発的にならざるを得ません。そうした状況では土器づくりに情念を燃やすことは下火になると考えます。

尖石縄文考古館展示風景

4 千葉と長野の土器デザインの変異の程度の違い
千葉では土器作成が実務作業となり、大量生産され大量消費された。土器デザインに個人の情念がその場で直接投影されることは少なかった。(大量工業生産的)
長野では土器作成時に個人の情念が投影される割合が千葉より多かった。(一品手作り生産品的)
従って千葉のある集落から出る土器群のデザイン変異の幅より、長野のある集落から出る土器群のデザイン変異の幅の方が大きい。
この仮説が成り立つか?

尖石縄文考古館展示風景

5 同じ時間と人口を対象としたとき、千葉の方が長野より土器作成数が多い
千葉では廃用土器は定期的に土器塚や低地祭場(西根遺跡など)で祭祀的に破壊し堆積した例が発掘されています。きわめて多量の土器が出土します。
長野では多数土器出土例として「吹上パターン」などがあります。しかし土器数は限られたものです。
長野では千葉程には(同じ時間・人口で比較した時)土器がつくられなかったのではないかと想像します。
長野では情念を投影した土器がつくられ愛着があり丁寧に使われたに違いありません。千葉ではそれほどでもなかったと思います。逆に千葉では廃用土器を破壊する活動が重要であり、極端にいえば破壊する祭祀のために作られたとも想像します。
千葉より長野の方が土器作成数が少ないことを証明する方法を見つることがまず必要です。
もしこの想像が正しければ、長野が列島で普通であり、千葉が特異であるのだと思います。

茅野市尖石縄文考古館の観覧

縄文土器学習 259

茅野市尖石縄文考古館を観覧しました。

観覧の趣旨は千葉県における縄文土器、縄文遺物を別の地方のものと自分の目で比較対照するためです。可能ならば、千葉と長野茅野を比較して千葉の特性を自分のなかで浮かび上がらせるためです。
千葉から長野に出稼ぎにでてみて、自分の知らない広い世の中のことを知ろうという算段です。

1 尖石縄文考古館の展示の様子
この施設は縄文土器専門展示館で土器数は数百点以上の規模で1000点に届いているかもしれません。驚くべき展示施設です。眩暈を感じました。(※)
縄文土器の展示は主に4室から構成されています。
1-1 特別展示室
「吹上パターン」(時間の経過した廃絶遺構からの完形に近い土器多数一括出土)に関する展示などの特別展示が行われていました。
「廃用土器の最後はそれを壊して撒く」などの土器一生に興味がある自分にとっては特別に興味のある展示でした。

特別展示室の様子

1-2 展示室A
尖石遺跡、与助尾根遺跡と発掘者宮坂英弌に関する遺物等の展示があります。

展示室Aの様子

展示室Aの様子

1-3 展示室B
縄文のビーナス(国宝)と仮面の女神(国宝)の展示室です。

仮面の女神(国宝)

1-4 展示室C
八ヶ岳山麓の縄文遺跡出土物が所狭しと多数展示されています。

展示室Cの様子

展示室Cの様子

展示室Cの様子

参考

リーフレット(部分)

2 全周多視点撮影
通常のガラス面越し多視点撮影だけでなく、ガラスショーケース内土器の全周多視点撮影、ガラス面のない露地(?)展示土器の全周多視点撮影を3時間にわたって行いました。カウントはしていませんが恐らく100点以上の土器・土偶の3Dモデル作成用撮影ができたと思います。

カメラから回収したファイルのフォルダー
約7200ファイル(シーン数約1200×6フィルター)

3 感想
・展示物、展示物の説明、関連図書がとても豊富であり、八ヶ岳山麓の縄文遺跡について体系的な知識を得たくなりました。
・千葉では開発によって発掘され、遺物が出土し、台地地形は原形が判らないほど平滑化してしまいます。地形破壊が顕著です。縄文時代の地形を知ることが思いのほか困難です。学習を進める上で強い抵抗感が生れます。ところが八ヶ岳山麓では顕著な地形破壊はあまりないようですから学習上の抵抗感が生れません。
・千葉県と八ヶ岳山麓の縄文土器比較に関連して初歩的な幾つかの発想や疑問が生れました。山と海という環境の違いがデザインが異なる理由に影響しているのではないか。デザイン変異の程度が千葉と長野で異なるのではないか。同一時間・人口を想定したとき土器出土量が異なるのではないか。などです。詳しくは別記事で検討します。

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あちらの展示館で縄文土器を5点観察、こちらの展示館で10点、20点以上縄文土器が展示されている館では狂喜乱舞の心情の私が、この数百点以上展示縄文土器を目の当りにしてどのような心でいるべきか迷いました。
狂喜乱舞の延長の心にすると本当に「狂ってしまい」進行中認知症が一気に加速しそうな危険を感じます。「眩暈がする」という一種の逃げをふくむ心情で体をその場に置くことにしました。

2019年9月17日火曜日

野田市郷土博物館における縄文土器閲覧

縄文土器学習 258

8月~10月の3ヶ月間限定で主に千葉県内の縄文土器展示施設を訪問しています。展示縄文土器の3Dモデルを作成して縄文土器学習を深めています。
野田市郷土博物館の常設展示には縄文土器はありませんが収蔵土器について閲覧の機会を得ることができました。
先日、縄文土器5点について直に観察させていただき、同時に全周多視点撮影をしました。
難の少ない3Dモデルができると想定できるので、3Dモデル作成が楽しみです。

観察し、3Dモデル作成用撮影を行った縄文土器5点
野田市郷土博物館の許可による撮影・掲載

関山式土器(稲荷前遺跡)
野田市郷土博物館の許可による撮影・掲載

縄文土器撮影をきっかけにして野田市域の縄文遺跡にも興味を持ちたいと考えています。
縄文海進が海退に転じ、海(奥東京湾)が南に去っていった時、この付近の縄文社会がどのように変貌したのか、興味が湧きます。

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参考

野田市郷土博物館リーフレット
常設展示に縄文土器はありませんが、自分が以前から別途特別の興味を持っている小字の展示があり、刺激を受けました。

尖石(茅野市尖石遺跡)3Dモデル

茅野市の尖石縄文考古館を訪問した際、尖石遺跡の尖石を見学し3Dモデルを作成しました。

尖石(茅野市尖石遺跡)3Dモデル

尖石は上部にモノを研いだ跡があり、縄文時代の石斧等の研ぎ場であったと考えられています。

現場の尖石説明

戦前の尖石写真をみると現在より背が低く、土に埋まっている部分が多かったようです。

戦前の尖石写真
「尖石発掘記」(尖石縄文考古館)から引用

尖石遺跡は国の特別史跡に指定されています。

尖石遺跡説明看板

尖石縄文考古館内における眩暈をもよおすほどの多量縄文土器・土偶を観察し、長時間にわたる3Dモデル作成用撮影をした後に、野外でこの尖石を観察しました。土器・土偶に支配され狭窄した縄文意識をこの自然物をみてもみほぐし、問題意識視野を拡大することができました。

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参考

尖石3Dモデル作成画面



2019年9月10日火曜日

縄文時代列状陥し穴の事例(鎌ヶ谷市東野遺跡)

鎌ヶ谷市史上巻(改訂版)に東野遺跡の列状陥し穴が紹介されていて、珍しいと思いましたので興味をメモします。

1 東野遺跡列状陥し穴
金山落しの上流にあたる東野遺跡から陥し穴22基が列状に配置され発掘されています。
遺物など時期を推定する積極的な根拠がありませんが、調査者は縄文早期後半のものと考えていると記述されています。
鎌ヶ谷市史資料編Ⅰ(考古)ではこの陥し穴列はシカ捕獲用で、水を飲んでいるシカを斜面を追い上げて陥し穴で捕まえる方法が効率的であると書かれています。

列状陥し穴平面図
「鎌ヶ谷市史資料編Ⅰ(考古)」(鎌ヶ谷市)から引用

陥し穴平面・断面図例
「鎌ヶ谷市史資料編Ⅰ(考古)」(鎌ヶ谷市)から引用

東野遺跡全景写真
「鎌ヶ谷市史 上巻(改訂版)」(鎌ヶ谷市)から引用

2 類似列状陥し穴の例
千葉市内野第1遺跡から36基と42基の陥し穴列2条が発掘されています。(発掘調査報告書では「土壙」列)
時期は不明ですが、古墳時代前期住居に切られているので、それ以前であることだけ判っています。
台地から谷津谷底に下がる斜面の台地面に近い上部に設置されています。
台地面でシカを集めその群れを斜面に誘導して追い落とし、その時シカを大量に捕獲する装置であると考えました。谷底沖積地から鹿骨多数が出土していて、谷底の川の水を利用してシカ解体を行ったものと考えました。

内野第1遺跡陥し穴列 検討 1

内野第1遺跡陥し穴列 検討 2

ブログ「花見川流域を歩く 番外編」2015.04.16記事「千葉市内野第1遺跡 縄文時代遺構の土壙列に注目する
ブログ「花見川流域を歩く 番外編」2015.04.18記事「千葉市内野第1遺跡 縄文時代土壙列と地形
ブログ「花見川流域を歩く 番外編」2015.04.20記事「千葉市内野第1遺跡 縄文時代大規模落し穴シカ猟

3 東野遺跡列状陥し穴の地形
3-1 誤解を招く地形平面図
東野遺跡の範囲図を次に示します。
東野遺跡位置図
ちば情報マップ(埋蔵文化財包蔵地)から引用

東野遺跡位置図
上記の東野遺跡範囲図をGISにプロットしたものです。


東野遺跡位置図
東野遺跡範囲図の背景地図を旧版地形図(1/25000、大正年間測量)にしたものです。
この地図から東野遺跡は全域が斜面上にあり、台地平面はほとんど含まれていないことが判明します。陥し穴列は斜面上にあったと考えられます。

「鎌ヶ谷市史上巻(改訂版)」や「鎌ヶ谷市史資料編Ⅰ(考古)」に掲載されている陥し穴平面図では陥し穴は台地平面の縁に存在しているように見えてしまします。
これは錯覚です。
東野遺跡全景写真でわかる通り、発掘のためのある任意の平面まで削平し、その平面で陥し穴を発掘したものであると考えられます。その現場の平面図が図書に掲載されている平面図です。台地平面のように見える等高線の無い面は掘削平面であり、原地形とは無関係です。


東野遺跡の地形復元モデル

原地形を掘削して設定した任意の削平面から陥し穴を発掘したという事情はつぎの情報からも確認できます。
斜面から離れた陥し穴は浅く(つまり断面の上部がたくさん失われ)、斜面に近い陥し穴は深く(つまり断面の上部があまり失われていない)なっています。

図書掲載陥し穴列平面図は大きな誤解を招く図面です。

3-2 陥し穴利用方法
陥し穴列は、台地平面を追われたシカ群れが斜面を下ろうとしたとき、見えない位置でかつ台地縁直近斜面に位置していたと推定します。シカ追い込み猟で最も効率的に捕獲できる場所に陥し穴列が作られたと考えます。
図書記載では「水を飲んでいるシカを斜面を追い上げて陥し穴で捕まえる方法が効率的である」旨書かれています。しかし、シカがいつもいる場所とか効率的な追い込み方法とか陥し穴をできるだけ隠すとかの様々な理由から首肯できません。おそらく平面図から陥し穴列が台地縁の平面の上にあると錯覚したことが影響した思考であると想像します。

3-3 設置利用時期
東野遺跡も内野第1遺跡も陥し穴列の時代は不明です。東野遺跡では縄文早期後半であると調査者が推定しています。
陥し穴の形状が時期によって土器形状のように変化するならば時期がわかるのだと思います。しかし、シカを動けなくするという単純機能が実務的に求められる装置ですから果たしてその形状に時期変化があるのかどうか疑問が湧きます。
陥し穴列の作り方は時期変化があるかもしれません。(斜面地形を無視して直線状に作る例、斜面地形を利用して曲線状に作る例・・・内野第1遺跡の2つの例)

次のような事情からも時期が推定できるものであるかどうか、興味を持ちます。
1 掘削道具
多数の陥し穴を一斉に掘るのですから、掘削が効率的にできる道具が必要です。掘削道具の進化という点から時期を検討できないか。
2 シカ個体数の増加
台地面を周遊するシカ群れが多いからこそ陥し穴列を作ったものであると考えます。陥し穴列で多数シカを捕獲できるほどのシカが増えている時期から検討できないか。
3 社会の組織性
陥し穴列を作るためにはシカ群れ挙動の十分な観察による設置場所の選定、陥し穴を掘る多人数労働管理、他の生業を中断して行う多人数によるシカ追い込み猟実施、シカ解体・干し肉作成・皮干し等集約労働が必要で、高度な社会組織性が必須です。このような社会組織性の発達という観点から時期を検討できないか。

全くの素人考えですが、縄文後期晩期に人口が減り、貝塚も低調になった時期に獣骨出土が急増します。そのころにこの陥し穴列がつくられた可能性があるかどうか、興味を持ちます。

2019年9月9日月曜日

下総歴史民俗資料館観覧

縄文土器学習 257

成田市下総歴史民俗資料館を観覧しました。歴史宝庫の都市である成田市だけに展示物の質・量の凄さに感動しました。

成田市下総歴史民俗資料館 見学のしおり

縄文土器は1箇所の露天(?)展示と3か所のショーケース展示に分かれ多数に及びます。ご担当の方の説明では、つい数時間前まではより多数の土器が展示されていたけれども、某博物館企画展のために貸出搬出が終わったばかりだとのことでした。歯が欠けたような部分もありますが、自分にとってはそれが殆ど気にならないような豊富な学習対象展示の空間でした。
縄文土器以外にも石枕、動物埴輪、・・・ガラス製絵馬、・・・などなど自分にとって危険展示物(※)ばかりで、そちらに対する興味を自制するのにエネルギーを使いました。
今はレプリカ展示になっていますがムササビ埴輪が展示されていて、最近まで印幡郡市文化財センターの企画展「印旛のはにわ」で展示され、現在は福島の方の博物館に出稼ぎにでているとのことでした。
※危険展示物・・・その展示物にたいする興味が嵩じて、縄文土器学習を時間的に圧迫する可能性のある展示物。とても素晴らしい、魅力的な展示物にたいする自分語です。

縄文土器は興味のあるものばかりですが、大きな田戸下層式尖底深鉢2点は自分は初めての観察となりそれだけでも満足できました。

土器展示の様子

土器展示の様子

また以前から気になっていた縄文時代前期デスマスク(レプリカ)展示も大いに好奇心を刺激されました。なにかの本で、ミイラの口が開かないように上下の唇を縫合するという状況が表現されているデスマスクが存在していると読んだことがありますが、このデスマスクの唇も出っ張っていて、興味がわきます。

デスマスク(レプリカ)展示

デスマスクがデザインされた図書表紙

撮影した写真をもとに各土器の3Dモデルを作成して学習を深めることにします。


2019年9月8日日曜日

根郷貝塚付近の中期環状大集落

縄文土器学習 256

鎌ヶ谷市郷土資料館展示中峠式深鉢形土器(根郷貝塚)の3Dモデルを作成しましたが、この土器をキッカケにして寄り道学習をしています。
この記事では根郷貝付近の中期環状大集落に関する学習を鎌ヶ谷市史上巻(改訂版)に基づいて行います。
なお、鎌ヶ谷市史上巻(改訂版)掲載情報は類似図書と較べると最新情報が掲載されていて各種興味が芋づる式に展開しています。しかしきりがないので、この記事で鎌ヶ谷市関連の寄り道学習を打ち止めにします。

1 鎌ヶ谷市史上巻(改訂版)で言及されている中期環状大集落
鎌ヶ谷市史上巻(改訂版)で中期遺跡に関して次のような興味ある記述がされています。
また、前期との違いは、貝塚遺跡の分布にも表れている。前期にピークを迎えた縄文海進は、中期には海退に向かっていたと考えられるにもかかわらず、貝塚を形成した遺跡の分布域、数は拡大しているのである。それも根郷貝塚や大堀込遺跡と同じような継続期間をもち、多数の竪穴住居跡や土坑が規則的に配置され、環状を呈する大集落が、特に、東京湾水系において多く分布するようになる。市川市の今島田貝塚(阿玉台Ⅳ~加曽利EⅢ式期の竪穴住居跡22軒)・姥山貝塚・向台貝塚(阿玉台Ⅲ~加曽利EⅡ式期の竪穴住居跡31軒)、松戸市の子和清水貝塚(阿玉台~加曽利E式期の竪穴住居跡268軒)・中峠貝塚(阿玉台Ⅲ~加曽利EⅡ式期の竪穴住居跡20数軒)、船橋市高根木戸貝塚(阿玉台~加曽利E式期の竪穴住居跡100軒以上)などはその典型である。また、船橋市海老ヶ作貝塚(阿玉台~加曽利E式期の竪穴住居跡80軒以上)は、印旛沼・手賀沼水系の谷奥に位置しているが、貝塚を構成する貝種は、ハマグリやキサゴなど、東京湾水系に立地する貝塚のそれと同様であった。これはこの時期の活動領域の広がりを示す具体例の一つである。
両水系の最奥部にあたる本市域において、遺跡数が急増し、貝塚を伴う大集落が残されるという事象は、このような周辺地域全体の動きのなかの一環であると考えられる。」鎌ヶ谷市史上巻(改訂版)から引用

この記述で言及されている中期環状大集落を地形3Dモデルで表示すると次のようになります。

鎌ヶ谷市史上巻(改訂版)で言及されている中期環状大集落
地形:5mメッシュDEM

阿玉台の頃から始まった谷奥集落が加曽利EⅡ式頃最盛期を迎え、その後急速に衰退したという記述です。

2 「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」の「貝塚」との対応
上記記述は「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」の「貝塚」で述べられているⅣ期の東京湾口部貝塚群の様相そのものです。

縄文時代の時期区分

Ⅳ期貝塚分布図(部分)

Ⅳ期貝塚分布図(部分拡大)

「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」では次のように記述されています。
この時期の遺跡群は、広場集落がひとつないし2つあって、その周辺にのみ小規模な集落が点在して遺跡群を形成するのが特徴である。この状況は、 これまで説明されてきた大規模な貝塚集落の周囲の広域に多数の小規模集落や包含層が分布するというものとはかなり違っている。いわゆる「加曽利E式期」は、Ⅳ期とⅤ期というまったく居住様式の異なる時期にまたがっており、両者を一括した分布図や説明によって誤解を生んできたといえる。広場集落の大半は貝層を形成しており、ほぼ阿玉台Ⅲ期ないし中峠期から加曽利EⅢ式土器の成立前後まで、 という集落の継続期間や、広場と群集貯蔵穴をもつ集落形態、多数の遺構内貝層、 イボキサゴや小型ハマグリ中心の貝層、多量の土器片錘、石器組成など共通点が多く、 きわめて均一性が高い。Ⅲ期の広場集落には定住的な特徴と、頻繁な移動を想定させる特徴を併せもっていたが、Ⅳ期の集落は長期にわたる通年定住型の集落とみてよいだろう。
Ⅳ期に多数存在した通年定住型の集落は、加曽利EⅡ期の終わりから加曽利EⅢ期の始まりにかけて、すべてが消滅したものとみられている。」「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」から引用

3 縄文中期遺跡の分解
2の記述から、根郷貝塚など阿玉台式期から始まり加曽利EⅡ式にピークとなる遺跡群と加曽利EⅢ式、EⅣ式の遺跡群では居住様式が異なり、同じ「加曽利E式」でも分布上の意味が全く異なることが判りました。
次の分布図は縄文中期遺跡全部をプロットしたものですが、この遺跡プロットを加曽利EⅡ式までの成長期遺跡と、加曽利EⅢ式と加曽利EⅣ式という衰退期分散居住した遺跡に2分するような空間分析的検討が必要であることがわかりました。

縄文時代中期遺跡