2014年11月30日日曜日

Google earthを使った古代東国駅路網変遷文献調査 その4

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.9Google earthを使った古代東国駅路網変遷文献調査 その4

3 奈良時代前半~中期
東国B期(「日本の古代道路を探す」(中村太一))とⅠ期(「千葉県の歴史」(千葉県))の駅路網図を比較検討します。

3-1 2つの図書の駅路網の比較
次の図に、2つの図書の駅路網の比較と検討箇所を示します。

二つの図書の駅路網の比較と検討箇所

3-2 検討箇所1と2
検討箇所1と2の拡大図を掲載します。

検討箇所1と2の拡大図
検討1…2つの図書とも地名走水から浦賀水道を横断したという考えになっていますが、2014.11.23記事「相模湾と東京湾の古代水運路をつなぐ船越」で検討した通り、この考えは間違っていて、駅家(津)は横須賀市田浦付近にあったと考えます。
また、そもそも「走水駅」という名称自体が文書で確認されたことはなく、想像の産物です。

検討2…房総側の駅家(津)は富津岬北側の小糸川河口のあったと考えることが自然地理的に合理的です。

3-3 検討箇所3と4
検討箇所3と4の拡大図を掲載します。

検討箇所3と4の拡大図
検討3…河曲駅付近のルートがトライアングルとなっていると考える方が合理的です。

検討4…浮島駅の位置推定はこのブログで検討している古代「東海道水運支路」(仮説)にとっての重要であるので、今後検討を深めます。
もし、浮島駅が花見川河口から離れた場所にあると考えると、房総でこの駅家だけが津と関わらない駅家になります。

3-4 検討箇所5と6
検討箇所5と6の拡大図を掲載します。

検討箇所5と6の拡大図
検討5…2つの図書で駅家の位置、分岐地点が大きく異なります。2つの図書では「千葉県の歴史」の方が最新情報ですので、検討5は「千葉県の歴史」の記述をメインの下敷きとして検討を深めていきたいと考えています。

検討6…2つの図書で香取の海の横断場所のイメージがことなります。検討5と同様に、今後「千葉県の歴史」を下敷きに検討を深めます。

3-5 検討箇所7と8
検討箇所7と8の拡大図を掲載します。

検討箇所7と8の拡大図
検討7…東海道と東山道を結ぶ連絡支路の分岐の様子と、平津ルートの分岐の様子が異なります。検討5と同様に「千葉県の歴史」の記述をメインの下敷きとして検討を深めていきたいと考えています。

検討8…東山道の分岐支路の位置のイメージが異なります。検討5と同様に、今後「千葉県の歴史」を下敷きに検討を深めます。

Google earthのカメラアングル保存

これまでGoogle earthのカメラアングルの保存方法を知らなかったため、類似の画面をつくる時に、ピタリと同じ画面をつくることが出来ませんでした。
2014.11.29記事「Google earthを使った古代東国駅路網変遷文献調査 その3」では2枚の類似画像を掲載していますが、カメラアングルは違ってしまっています。
それに気がつくと、今後の作業では一連の説明をする場合には、画像のカメラアングルは同じにしたくなります。

調べたところ、いとも簡単にカメラアングルを保存できることがわかりました。

Google earth画面で表示しているカメラアングルを保存する方法 1
Google earth画面の左にある場所パネルの表示しているkmlファイルを右クリックして、出てくるメニューの中から「ビューのスナップショット」をクリックするだけです。

Google earth画面をいろいろ変化させた後、再び保存したカメラアングルに戻る時は、先ほどの場所パネルのkmlファイル名をダブルクリックすれば、保存したカメラアングルに自動で戻ります。

さらにGoogle earthの使い勝手の良さを見つけました。

表示しているkmlファイルに目印を加え、その目印を右クリックして出てくる「ビューのスナップショット」をクリックすれば、その時のカメラアングルが保存されます。
つまり、目印を沢山加えて、それぞれに別のカメラアングルを保存することができるのです。

Google earth画面で表示しているカメラアングルを保存する方法 2
この例では5つのカメラアングルをそれぞれの目印に保存しています。

様々なカメラアングルの画像
ここでは説明のために目印を表示していますが、実用するときは目印を消すことができます。

一旦セットすれば様々なアングルからの表示が即時にできますので、現在取り組んでいる考古歴史に関する空間的認識を深める上でGoogle earthは強力なツールになると確信しました。

北が上の地図ではない地図を見ると、おそらく新たな空間的関係が見つかり、空間的発想が刺激されて発想が豊かになると思います。
また、遠方まで汎日本的、汎東アジア的にまで空間を広げることができますから、その点でも発想が豊かになると思います。

同時に、通常のGISと異なり専門的操作を憶える(習う)必要がほとんど無いのでGoogle earthに強く魅力を感じます。
今後は基礎的地理情報はGISでつくり、空間的検討と表現はGoogle earthで行おうと思います。

……………………………………………………………………
参考
●Kashmir3Dでは、カシバード(3D地形を作成する機能)で「ファイル」→「名前をつけて保存」で、3D地形画像のカメラアングル等の設定を保存できますから、同じカメラアングルを再現できます。

●QGISには「空間ブックマーク」という機能があり、ブックマークした画面をいつでもそのまま復元できます。大変便利です。

●地図太郎PLUSでは画面位置・縮尺を保存する機能がないため、画面中央位置情報を「センタリング」という機能で知り、その時の縮尺表示を含む画面全部をプリントスクリーンキーを使って画像として保存しておきます。画面を復元したいときには保存しておいた画面画像を見て、センタリング数値と縮尺数値をそれぞれ手入力します。大変原始的です。

2014年11月29日土曜日

Google earthを使った古代東国駅路網変遷文献調査 その3

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.8Google earthを使った古代東国駅路網変遷文献調査 その3

これまでの記事で、2つの図書の駅路網図変遷を紹介しましたが、その2図書の情報を比較(オーバーレイ)しながら、次のような検討を行います。
1 2つの図書の駅路網図変遷の比較と問題点の把握
2 「千葉県の歴史」(千葉県、平成13年)の記述の検討
3 駅路網図変遷と古代「東海道水運支路」(仮説)」との関係

1 2つの図書の駅路網図変遷時代区分の対比
2つの図書の駅路網図の年代区分がほぼ重なります。

2つの図書の年代区分対応

そこで、次のように駅路網図を対応させて、オーバーレイさせて、その違いをみながら、問題点を検討します。

●2つの図書の駅路網図を比較する時の対応
・古墳時代末期 東国A期(「千葉県の歴史」には対応図なし)
・奈良時代前半~中期 東国B期とⅠ期
・奈良時代後期 東国C期①、東国C期②とⅡ期
・平安時代 東国D期とⅢ期

2 古墳時代末期

東国A期の道路網
Google earth(斜め衛星写真)投影

律令国家成立以前の7世紀後半頃(古墳時代)の道路網図は「千葉県の歴史」には掲載されていませんから2図書の比較はできません。

この時期の道路網は、大局的に房総付近をみれば上図のように捉えてよいのではないかと考えます。

上図に、千葉県範囲の古墳時代遺跡分布密度図(カーネル密度推定図=ヒートマップ)を重ねてみると次のようになります。

東国A期の道路網図と古墳時代遺跡分布密度図のオーバーレイ図
(古墳時代遺跡分布密度図は遺跡の住所表示からアドレスマッチングにより経緯度情報を取得し、半径パラメータ5000mによりカーネル密度推定図を作成したもの。)
(遺跡密度図は遺跡分布の高密度→低密度を赤→白→青の色で表現している。)
(遺跡密度図はその時代の地域開発の活発な場所、人々の活動が濃厚に行われた場所を示す地図の意味に読み替えて用いることができると考える。)

房総では遺跡密度図の赤いところ、つまり遺跡密度が高い場所を東国A期の道路が貫いていて、古墳時代の地域開発状況と道路網推定がよく整合している様子を示しています。

「千葉県の歴史」では次の文章記述があります。
「Ⅰ期以前の7世紀後半の路線は、Ⅰ期の路線に近いことが推定できる。それは、Ⅰ期の路線が古墳群や6・7世紀の遺跡付近を多く通ることから、7世紀前半以前の中央と房総を結ぶ路線がⅠ期路線に大きく影響していると考えるからである。」
上記オーバーレイ図通りの説明です。

「千葉県の歴史」では次の文章記述もあります。
「下総国の国府の初歩的施設を8世紀の本格的国府が成立する葛飾郡に求めるか、それとも房総でも屈指の終末期古墳群や初期寺院(龍角寺)が所在する埴生郡に求めるかによって推定する路線が異なってくる。葛飾郡の場合は井上駅-浮島駅-河曲駅ルートが成立していたことになる。」
古墳時代遺跡密度図を見る限り、下総国の国府の場所(市川市付近)は古墳時代遺跡密度が特段高い場所ではありません。したがって大局観としては下総国府はもともとその場所に拠点があったと考えない方が合理的です。国家中央の政策で国府の場所が計画的につくられたと考えます。従って、井上駅-浮島駅-河曲駅ルートは古墳時代には成立していなかったと考えます。上図の東国A期の道路網でよいと思います。

「千葉県の歴史」ではさらに、次の文章記述もあります。
「Ⅰ期以前では、下総国香取郡-常陸国鹿島郡の路線が、下総国荒海駅-常陸国榎浦駅路線以前に機能していたことも想定できる。」
鹿島神宮、香取神宮の香取海一帯における意義を考えた時、この記述通りに考えたくなります。

2図書の8世紀以降駅路網図比較は次以降の記事で説明します。
つづく

2014年11月28日金曜日

Google earthを使った古代東国駅路網変遷文献調査 その2

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.7Google earthを使った古代東国駅路網変遷文献調査 その2

「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県、平成13年)に記述されている房総を中心とした東国駅路網変遷について、地図をGoogle earthに投影して「空間直感」的にわかるようにして紹介します。

この記事ではその記述をそのまま紹介することをメインとし、若干のメモ(問題意識、検討課題)を付けます。

次の事項は追って別記事で展開します。
・この図書の記述に関する検討
・この図書と「日本古代国家と計画道路」(中村太一、吉川弘文館、平成8年)及び「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)掲載の駅路網変遷との対照
・紹介した2つの駅路網記述に基づいた自分の考え(駅路網変遷と古代「東海道水運支路」(仮説)との関連)の検討

1 「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県、平成13年)掲載の駅路網図
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県、平成13年)には次の3葉の駅路網図が掲載されています。

「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県、平成13年)掲載駅路網図

この駅路網図をGoogle earthにプロットした画像等を用いて、「千葉県の歴史 通史編 古代2」における古代交通に関する記述を次に紹介します。

2 Ⅰ期(8世紀初め~771年)の駅路

Ⅰ期(8世紀初め~771年)の駅路
平面図投影

Ⅰ期(8世紀初め~771年)の駅路
Google earth(斜め衛星写真)投影

【「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県、平成13年)記述要旨】
・駅路(えきろ)や駅家(えきか)の設定と制度の確立は大宝律令や養老律令がつくられた8世紀初めといわれる。Ⅰ期はこの時期から、771年(宝亀2年)武蔵国の東山道から東海道編入までの期間である。

・相模国から房総に向かう駅路は海路と陸路の2つがあり、本路線は海路であった。

・海路は日本武尊の伝説が残る古い路線で、上総国東京湾岸に大型の前方後円墳が集中することは、海路が駅路設定以前から中央と房総を結ぶ主要な路線であったことを物語る。相模国から船出する場所は、日本武尊が船出した場所走水(横須賀市走水付近に推定)が妥当で、富津岬北側の津に向かった。

・海路で下総国・常陸国へ向かう路線は、走水駅-大前駅-藤瀦(ふじぬま)駅-島穴駅-上総国府-大倉駅と北上した。

・大倉駅を過ぎてから、常陸国へ向かう本路線と下総国へ向かう支路線に分岐した。本路線は鳥取(ととり)駅-山方駅を経て再び分岐し、本路線は荒海(あらみ)駅から海路で榎浦(えのうら)駅を経て常陸国府へ向かった、山方駅で分岐した支路線は真敷(ましき)駅を経て香取神宮に向かった。

・大倉駅を過ぎてから分岐した支路線は河曲(かわわ)駅-浮島駅-井上(いかみ)駅を経て下総国府に着いた。

・安房国を経由する路線には2つの考えがある。その1 走水駅-大前駅-天羽駅-川上駅-安房国府-白浜駅という路線。その2 走水駅-(海路で大前駅か天羽駅の津に立ち寄り)-白浜駅-安房国府-川上駅-天羽駅-大前駅という路線。

・板来(いたく)駅は鹿島神宮へ向かう駅家であった。

・武蔵国が東山道に編入されていたため、新田(にった)駅から東山道路線が武蔵国府まで南下していた。武蔵国府の駅家から乗瀦(あまぬま)駅-豊島(としま)駅を経て井上駅に支路線が通じていた。また夷参(いざま)駅を経て東海道路線の箕輪(みのわ)駅に通じる支路線もあったので、武蔵国府は坂東の主要路線が交わる場所であった。

・Ⅰ期以前の7世紀後半の路線は、Ⅰ期の路線に近いことが推定できる。それは、Ⅰ期の路線が古墳群や6・7世紀の遺跡付近を多く通ることから、7世紀前半以前の中央と房総を結ぶ路線がⅠ期路線に大きく影響していると考えるからである。

・下総国の国府の初歩的施設を8世紀の本格的国府が成立する葛飾郡に求めるか、それとも房総でも屈指の終末期古墳群や初期寺院(龍角寺)が所在する埴生郡に求めるかによって推定する路線が異なってくる。葛飾郡の場合は井上駅-浮島駅-河曲駅ルートが成立していたことになる。

・Ⅰ期以前では、下総国香取郡-常陸国鹿島郡の路線が、下総国荒海駅-常陸国榎浦駅路線以前に機能していたことも想定できる。

【検討メモ】
1 走水駅の位置
2014.11.23記事「相模湾と東京湾の古代水運路をつなぐ船越」で検討したように、走水駅の場所はこの図書で想定している場所ではないと考えます。
古代水運を知るキー概念と考える「船越」についての認識を深めるために、走水駅の位置に関する考察を深めます。同時に対岸房総の津場所についての考察も行います。

2 浮島駅の位置
この図書では浮島駅の位置を花見川河口である幕張付近ではなく、津田沼付近に推定しています。
推定根拠が示されていないので、明確な推定理由は存在しないようですが、間違っています。
浮島駅の位置は古代「東海道水運支路」(仮説)からみると重要な項目であるので、浮島駅位置の推定に関する検討を深めます。

3 駅家と津との関係
房総の駅家の推定場所は(浮島駅の推定間違いを正すと)恐らく全部(!)津の位置にあり、水運の要衝になっています。
その実体を調査したいと思います。
特に鳥取駅(鹿島川)、山方駅(印旛浦)について水運との関係がどうであったのか調べたいと考えます。山方駅に関していえば、公津との関係について知りたいです。

4 用語「津」の原義について
この図書では用語「津」を景観的意味での港、船着き場、停泊地としての意味で使っています。
例えば次のように使っています。「日本武尊の伝説では、浦賀水道を横断した後、海路で房総半島沿岸をめぐり陸奥国に向かったとされる。富津岬より南方の津を目指したことも考えられる。」
ここでの「津」は停泊や上陸に適した場所という意味で、すでに開発され支配している港湾という意味でないことはあきらかです。
現代ではこのような用語法が一般的だと思います。

しかし、このブログでのこれまでの地名検討から、古代~中世にあっては「津」は官が設置した港湾施設、支配拠点・軍事拠点としての港湾施設を意味していたと考えています。「津」とは官が使うテクニカルタームであったと考えます。(2013.07.01記事「古代水上交通関係地名・施設としての「津」と戸」など多数)

駅家と津との関係考察の中で、津の原義の考察も深めたいと思います。

5 下総国の国府位置に関する検討
房総でも屈指の終末期古墳群や初期寺院(龍角寺)が所在する埴生郡ではなく現在の市川市に国府がつくられたことの意味について、考察したいと考えます。
香取の海ではなく、東京湾に面した場所に拠点を設ける必要性が、中央政府が確実な房総支配と蝦夷戦争遂行のために必要だったと予感します。
下総国府の位置の意味を知ることが、東京湾と香取の海の間の交通を考える際に役立つように感じます。

3 Ⅱ期(771年~805年)の駅路

Ⅱ期(771年~805年)の駅路
平面図投影

Ⅱ期(771年~805年)の駅路
Google earth(斜め衛星写真)投影

【「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県、平成13年)記述要旨】
・Ⅱ期は771年(宝亀2年)の武蔵国の東海道編入から805年(延暦24年)の下総国の鳥取・山方・真敷・荒海駅廃止までの期間である。

・771年武蔵国内の東山道駅路が廃止され、相模・武蔵・下総の3国は東海道駅路で結ばれる。それまでの武蔵国乗瀦(あまぬま)駅-下総国河曲(かわわ)駅の支路線が東海道駅路の本路線となり、Ⅰ期の浦賀水道を横断する本路線は廃止される。房総の東海道駅路は下総国から始まることになる。

・井上駅-浮島駅-河曲駅-鳥取駅-山方駅を経由して常陸国へ向かうルート(香取路(かとりじ))が本路線となり、大きな役割をはたした背景に征夷(蝦夷征討)がある。

・征夷は律令国家の大事業であり、房総を含む坂東諸国は兵士や兵糧の供給基地として重視され、その画期は709年~730年代、750年代後半~760年代、770年代中頃~805年といわれ、Ⅱ期はまさにその時期に該当する。

・Ⅱ期の途中に井上(いかみ)駅-下総国府-茜津(あかねつ)駅-於賦(おふ)駅の路線ができて常陸国へ向かい、この路線(相馬路(そうまじ))が優勢になり、征夷が終わった次のⅢ期では河曲駅から北上する路線(香取路(かとりじ))が廃止される。

・Ⅱ期になって大倉駅が廃止される。

・Ⅱ期の駅路は、律令制以前の影響が残るⅠ期の路線を、利用の実態にあわせて改変し、国府間の距離を短縮するために設定されたのであろう。

【検討メモ】
1 駅路網と水運網の関連検討
・この図書では駅路網が征夷と強く関係していたことが延べられています。駅制の基本は情報連絡網であり、運搬路ではありませんから、駅制に対応した運搬路つまり水運路を検討する必要があります。

・兵員を東京湾岸から香取の海に輸送する水運路(船越)は3箇所に限られていて、その中で古代「東海道水運支路」(仮説)と考える花見川-平戸川ルートを位置付けることができると考えます。他のルート(手賀沼ルート、都川-鹿島川ルート)が軍事輸送路として意義があるようなものであったのか、検討します。

4 Ⅲ期(805年~10・11世紀代)の駅路

Ⅲ期(805年~10・11世紀代)の駅路
平面図投影

Ⅲ期(805年~10・11世紀代)の駅路
Google earth(斜め衛星写真)投影

【「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県、平成13年)記述要旨】
・征夷終結と同じ年である805年(延暦24年)に下総国の鳥取・山方・真敷・荒海駅が廃止された。これが画期となり、駅路は「延喜式」の駅家を結ぶ路線のみとなる。

・井上(いかみ)駅-下総国府-茜津(あかねつ)駅-於賦(おふ)駅の相馬路が本路線となる。

・相模・武蔵国内でも駅家の異動があり、路線が短縮し、武蔵国府へな店屋(まちや)駅から支路線が向かうことになった。

・Ⅲ期はⅡ期より各国間の距離が短縮し、支路線が廃止された。これは全国的交通政策の転換期による。

・Ⅲ期は東海道や東山道の駅路ごとに都と地方をより短距離で結ぶ路線のみとなった。中央と地方を結ぶ情報伝達を迅速に行う駅制の本来的目的からすれば、Ⅲ期は制度が完成したとみることができる。

・一方地域における交通の実態とはかけ離れてしまい、形骸化を招く原因となった。

・11世紀の交通の例(菅原孝標の行程)ではかつての駅路の路線と同じ路線を通っているところがある。下総国内では「いかた」「くろとの浜」に泊まっている。「いかた」は池田郷、「くろとの浜」は千葉市中央区・稲毛区・花見川区の東京湾岸に推定すると、それぞれの所在は河曲駅や浮島駅の付近に推定できる。

・駅制という制度と交通路の実態は別で、12世紀になっても、駅路もしくはその路線が地域の幹線道路であった場所もある。(相馬御厨の南限の上大路、坂東大路)

【検討メモ】
1 浮島駅の位置
この図書の交通例の記述(菅原孝標の行程)で出てくる「くろとの浜」が浮島駅の近くであるという記述は、とりもなおさず、浮島駅が幕張付近にあったことを示していると考えます。「くろとの浜」の場所について検討します。

2014.11.28 今朝の花見川

紅葉と落葉が進んで秋という季節もそろそろ終わりです。
足元の路面が見えないほど落葉が積もった場所もあります。

柏井橋近くの花見川に続く緩斜面の家庭菜園
遠くに花見川対岸にある最成病院が見えます。
この緩斜面(河岸段丘面)がブログで検討している花見川船越の中で唯一古代の地形がそのまま残っているところです。古代交通遺跡がでてくるかも!?

横戸緑地下付近

弁天橋から下流

弁天橋から上流
紅葉が鮮やかで、朝日に光る雲、その水面反射などが絵になっています。

弁天橋
鉄骨やコンクリートが画面に入ると、そうでない写真と比べてピントがより合っているように感じますが、錯覚です。

2014年11月27日木曜日

Google earthを使った古代東国駅路網変遷文献調査 その1

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.6Google earthを使った古代東国駅路網変遷文献調査 その1

2014.11.25記事「古代「東海道水運支路」(仮説)の検討項目」に従って、まず古代駅路網変遷に関する文献調査を行います。

1 検討対象・方法等
手元にある次の2つの図書の駅路網変遷図を検討し、駅路網変遷の概要を知り、古代「東海道水運支路」(仮説)との関連について検討します。

●検討対象図書
ア 「日本古代国家と計画道路」(中村太一、吉川弘文館、平成8年)及び「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)
イ 「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県、平成13年)

ア、イの両方の図書とも、その駅路網変遷図を既にこのブログで紹介したことがあります。

●検討方法
検討の方法は次のように行います。
・各図書の駅路網変遷をGoogle earthにプロットすることにより、俯瞰的にその変遷を見て、駅路網や駅家(えきか)の位置や変遷推移の説明記述を理解し、その問題点等を検討します。
・同時に、駅路網変遷と私の古代「東海道水運支路」(仮説)を対照して、古代「東海道水運支路」(仮説)の大局的な位置づけについてイメージを持ちます。

●Google earthを使う理由とGoogle earthプロット方法
駅路網変遷情報をGoogle earthにプロットすることにより、駅路網をGoogle earthの3D表現(衛星写真・空中写真の地形凸凹の上での表現)の中で俯瞰できますから、駅路網と地形・河川等との関係、現代都市との関係等を詳しく知り、問題意識を深めることができます。また他の地理的情報(地形段彩図や遺跡位置図等)を必要に応じてGoogle earthに一緒にプロットできますから検討を深めることができます。

Google earthプロット方法は次のような方法で行います。
ア 駅路網図をGISソフト地図太郎PLUSに取り込む(位置合わせする)
イ 地図太郎PLUSで駅路網ルート、駅家地点等のレイヤーをつくる。
ウ 駅路網ルート、駅家地点等のレイヤーをkmlファイルで書きだす。(「他形式で編集レイヤーを書き出す」)
エ kmlファイルをGoogle earth画面にドラッグ&ドロップする。

図書に印刷された地図情報をそのままの精度でGoogle earthにプロットするのですから、位置の正確性は厳密なものでないことは言うまでもありませんが、ここでの検討では位置の正確性よりも、その地図の全体像をより「空間直感的」に知ることにありますから、この方法で十分です。

2 「日本古代国家と計画道路」(中村太一、吉川弘文館、平成8年)及び「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)の検討
「日本古代国家と計画道路」(中村太一、吉川弘文館、平成8年)の時期区分を「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)で一部修正しているので二つの図書名を書きました。基本は「日本古代国家と計画道路」(中村太一、吉川弘文館、平成8年)です。
この図書では次の5枚の駅路網図を掲載しています。

「日本古代国家と計画道路」(中村太一、吉川弘文館、平成8年)及び「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)に掲載されている駅路網図

この5枚の駅路網図を平面図(地図太郎PLUS)とGoogle earth(斜め衛星写真)にプロットすると次のようになります。
参考として「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)の記述要旨を付けました。

自分自身が行う詳しい検討や問題意識の投影は別の資料が揃ってから行います。この記事では文献に記述されている情報をそのまま参考として紹介します。

2-1 前期計画道路の形成(7世紀中頃~持統3(689)年)
東国A期の道路網
平面図投影

東国A期の道路網
Google earth(斜め衛星写真)投影
【「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)記述要旨】
・全国の多くの白鳳期寺院が道路に接して建てられていることから、これらの寺院が建立された7世紀末頃には計画道路がすでに存在していた可能性が高い。
・西日本で、天智朝頃から建設が急ピッチで進められた古代山城が計画道路と関連した分布であることが判明している。
・埼玉県所沢市の東の上遺跡では東山道武蔵路の一部と考えられる道路側溝から7世紀第3四半期の土器が出土している。
・後の大宰府レベルや国府レベルの官衙に相当する施設、あるいは山城のような軍事施設が、道路建設の目標・中継地点とされたことが想定される。

2-2 前期駅路の隆盛(持統3(689)年~神護景雲2(768)年)
東国B期の駅路網
平面図投影 駅家名記入

東国B期の駅路網
Google earth(斜め衛星写真)投影
【「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)記述要旨】
・律令制-駅制・令制国の成立によって、制度面を含めた駅路体系が完成する。
・武蔵国府-下総国府間の陸路が建設され、相模-武蔵-下総を連結する東海・東山道路連絡駅路が成立した。
・この時期に令制の国が成立し、その役所である国府が設けられ、それに伴って各国府に至る駅路が設定され、東海道や東山道以外に、支路も建設されたであろう。これに該当するものは、東海道下総路(上総-下総)、安房路(上総-安房)などがある。
・常陸国平津路(安侯駅-平津駅)、東海・東山連絡路(常陸-下野)なども存在したことが判明する。
・ほとんどの駅家・駅路はこの時期の早い段階で一斉に整備された可能性が高い。

2-3 前期駅路の合理化(神護景雲2(768)年~延暦15(796)年)
東国C期の駅路網①(C1期の変革が終了した状況)
平面図投影 駅家名記入

東国C期の駅路網①(C1期の変革が終了した状況)
Google earth(斜め衛星写真)投影
【「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)記述要旨】
・煩雑化した部分の整理と手薄な部分の充当による前期駅路体系の合理化の時期。
・東山道武蔵路と東海道走水ルートが廃止され、相模国府-武蔵国府-下総国府-上総国府というルートが東海道本路になる。

2-4 後期計画道路の形成(延暦15(796)年~弘仁年間(810~824))
東国C期の駅路網②(C2期の変革が終了した状況)
平面図投影 駅家名記入

東国C期の駅路網②(C2期の変革が終了した状況)
Google earth(斜め衛星写真)投影
【「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)記述要旨】
・複雑に発達した駅路網の整理などが集中的に行われた時期。
・房総地方から常陸国に入るルートが下総国から直接常陸国に入るルートに変わる。
・常陸国入国ルートが変更されることにより、駅家・駅路の整理・改変が集中して行われ、常陸国の駅路は南北に貫く路線に1本化されることになった。

2-5 後期駅路による安定(弘仁年間(810~824)~10世紀代)
東国D期の駅路網(C3期の変革が終了した状況)
平面図投影 駅家名記入

東国D期の駅路網(C3期の変革が終了した状況)
Google earth(斜め衛星写真)投影
【「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)記述要旨】
・武蔵国における駅路路線が再び変更され、相模国浜田駅-武蔵国店屋駅-小高駅-大井駅を経て、豊島駅-下総国井上駅と続くルートになる。
・このルート沿いには郡家が多く、元々は伝馬路か伝路であった可能性が非常に高い。
・駅路や伝馬路・伝路の統合を伴う官道体系の変革は全国的に見ても、9世紀前半代、それも初頭に行われた例が多い。
・東海道と東山道が分離され、きわめてシンプルな駅路体系が現出した。
・10世紀末頃には全国一律の駅制は崩壊すると考えられる。

2014年11月26日水曜日

外付け電子辞書の活用

半年程前からパソコンに電子辞書を外付け活用して重宝していますので、報告します。

購入した製品は次のものです。
DF-X10001(セイコーインスツル株式会社)

パソコンに外付けした時の電子辞書の様子

電子辞書を外付けした理由は次の通りです。

ブログ記事などを書く時、用語の意味を確かめたくなる時があります。
その場合、WEB検索画面に用語そのものや用語の意味を入力すると、9割方は疑問や疑念が解決します。
紙の辞書を引く手間より短時間で確かめることができますから、便利な世の中になったといつも感心します。
ところが、10回に1回くらいはWEBでは疑問や疑念が解決しないことがあります。
やはり、WEBですぐに検索できるレベルは、用語の一般的意味、用法です。一段深い専門的レベルの知識を瞬時に得ることはできないことの方が多いです。

外付け電子辞書を用意する前は、WEBで知識が得られなかった時は結局紙版の国語大辞典(小学館)、世界大百科事典(平凡社)、類語新辞典(角川)、漢和広辞典(集英社)等を引張りだすことになります。

しかし、パソコンで効率的な情報操作を行っている最中に、デスクから離れて分厚い本を手に取り調べるという行為は思考の流れを中断してしまいます。
折角生れたアイディアを忘れたり、アイディアのワクワク感がなくなってしまい、思考が元の木阿弥に戻ってしまうリスクがあります。
検討考察対象の図書は別ですが、用語レファレンス図書はできれば利用したくないと思っていました。

そうした状況の中で、偶然に自分が必要としている辞典類が入っていて、パソコンでそれを利用できる電子辞書があることを知りました。

少し値段が張りますが、国語大辞典(小学館)や世界大百科事典(平凡社)等をパソコンで利用できる、つまりそのテキストをいちいちキーボードで入力するのではなく、コピペで取得出来るという魅力に魅かれて購入しました。

電子辞書を使ってみて、WEBで通常得られる用語知識より、一段深い知識を得られる場合が多いことを実感します。
また、ある専門的概念を以前知ったことがあり、そのイメージ的なものは記憶にあるけれども、その用語が思い出せないという場合にも、WEBでは得られない知識や用語を電子辞書から得られたというケースもあります。
世界大百科事典では関連語にリンクが貼ってありますので、世界大百科事典内でサーフィンすることができます。30数巻の大型本を次々に手繰ってサーフィンしていた過去がウソのようです。

電子辞書のパソコン画面

パソコンで検索できる辞書
これ以外に電子辞書単体で利用できる辞書が6つほどあります。

この製品は、本来は英語専門家用の電子辞書のようです。
本来機能である英語関係は使っていないので宝の持ち腐れですが、日本語・百科事典の機能を活用し満足しています。

2014年11月25日火曜日

古代「東海道水運支路」(仮説)の検討項目

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.5古代「東海道水運支路」(仮説)の検討項目

古代「東海道水運支路」(仮説)を船越という概念で捉え、これから詳細に検討します。

1 検討範囲
検討範囲の位置図を示します。

古代「東海道水運支路」(仮説)検討遺跡・区間の位置

検討遺跡・区間を次のように設定します。

古代「東海道水運支路」(仮説)検討遺跡・区間の設定
なお、メインの検討はA~Gの範囲を予定しています。

2 検討項目
2-1 古代駅路網変遷に関する文献調査
「千葉県の歴史」(千葉県発行)および他の図書により、千葉県付近の古代駅路網変遷にかんする研究結果を把握し整理します。
特に陸路網と水運路網の有機的な結びつきについての情報を調べます。
浮島駅の場所に関する検討も行います。

2-2 古代花見川地峡の地形復元
古代「東海道水運支路」(仮説)の検討を可能にする前提条件として、古代花見川地峡の地形を復元します。
近世における印旛沼堀割普請で花見川地峡の地形が大幅に改変されましたので、その改変以前地形の復元は検討のための必須事項です。
また花見川地峡が河川争奪地形という特殊地形であることの認識も、検討の前提として必須です。
主にB~E付近の地形を復元します。

2-3 関連遺跡・谷津区間付近の埋蔵文化財調査
A~Gの関連遺跡・区間付近について、古墳時代~平安時代を対象として、埋蔵文化財分布図を作成するとともに、埋蔵文化財調査報告書を閲覧して古代「東海道水運支路」(仮説)に関連する可能性のある情報をピックアップします。

2-4 杵隈・船越区間・高津に関する詳細検討
2-4-1 杵隈に関する検討
地名柏井が杵隈であることの検討を行います。
市川市柏井の歴史環境を調べ、参考とします。
現在の地形から船着場のイメージについて検討します。

2-4-2 船越区間(陸路区間)に関する検討
取りつけ道路区間(杵隈-双子塚区間)の現場状況把握(唯一古代の地形が残っていると考えられる区間)
直線道路区間(二子塚-高台南古墳間)の地籍資料等を用いた検討、米軍空中写真を用いた検討、現場状況把握。

2-4-3 高津に関する検討
高津土塁跡と考える地物の検討(米軍空中写真、柏井小学校建設時ボーリング資料)、現場状況把握。
高津土塁と高津馬牧に関する検討

2-5 調査結果のまとめ
調査結果をまとめます。

2-6 古代「東海道水運支路」(仮説)検討
調査結果まとめに基づき、古代「東海道水運支路」建設の時代、建設目的、使われなくなった理由・時代等を考察します。

2-7 参考検討 広域遺跡密度分布等の情報と古代「東海道水運支路」(仮説)との関連
カーネル密度推定による広域遺跡密度分布から得られる情報と古代「東海道水運支路」(仮説)との関連を検討し、古代「東海道水運支路」(仮説)の意義について検討します。

2-8 参考検討 古代水運技術に関する検討
船越という古代水運技術の体系がどのようなものであったのか、地道に情報収集して、古代「東海道水運支路」(仮説)の検討に役立てたいと思います。
例えば、船着場や津(港湾)の施設建設技術、船の停泊技術、水位低下期の曳舟技術、荷物陸運方法・陸運人夫組織、陸運路建設技術・維持管理技術などです。



検討が広範な領域に及びますが、過去に既に検討してきた事柄が多いので途中で行き詰ってしまうようなことは無いと思います。

自ら心配することは、興味が特段に深まる事項に出会ってしまい、それに集中しすぎて視野狭窄状態になってしまい、古代「東海道水運支路」(仮説)の確からしさを実証的に深めるという本来目的を忘れてしまうことです。

2014年11月24日月曜日

有明海と大村湾の古代水運路をつなぐ船越

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.4有明海と大村湾の古代水運路をつなぐ船越

長崎県にある、有明海と大村湾の古代水運路をつなぐ船越を紹介します。

有明海と大村湾

次の図は「事典日本古代の道と駅」(木下良、吉川弘文館、2009)掲載の「肥前国(値嘉嶋)の古代交通路」の部分図です。

「肥前国(値嘉嶋)の古代交通路」の部分図 
「事典日本古代の道と駅」(木下良、吉川弘文館、2009)より引用 赤点追記

現在の諫早市に古代陸路の駅として船越駅があり、同時にその場所が水運路の船越であったことがわかる例です。

この場所は大村湾と有明海のそれぞれの低平な平野(有明海側は近世以降の諫早湾干拓)が低い丘陵で間近に接していて、それぞれの平野の河川を遡上した船による水運が短い陸路でつながっているところです。
大村湾水系と有明海水系の分水界付近には地名船越(諫早市小船越町)があります。

諫早船越

上記写真に1900年(明治33年)測量地形図をオーバーレイしてみると、地名船越が有る場所付近が二つの水系を分ける狭小な地峡になっている様子がよくわかります。

諫早船越(旧版20000正式図「諫早」投影)

2014.11.24 今朝の花見川

この2~3日で花見川の紅葉が一気に進み最終段階になりました。

2014.11.24 6:33 花見川 横戸緑地下

2014.11.19 6:29 花見川 横戸緑地下

2014.11.24 6:37 花見川 鉄道連隊柏井橋梁跡

2014.11.19 6:33 花見川 鉄道連隊柏井橋梁跡

2014年11月23日日曜日

相模湾と東京湾の古代水運路をつなぐ船越

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.3相模湾と東京湾の古代水運路をつなぐ船越

古代の内海・沿岸・河川水運路は、このブログで「船越」と仮名称を与えた陸運路で結ばれることにより、遠方を含む広域交通ネットワークを形成できたことを既に述べました。(2014.11.22記事「古代「東海道水運支路」(仮説)を理解するためのキーワード「船越」」参照)

この記事では、古代水運路における船越の例として、逗子横須賀船越を紹介します。

船越という用語こそ使っていませんが、古代水運路における船越の様子が「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)の中で紹介されています。

●コラム 海の道「東海道」 一部引用
列島を象徴する山として古来聖山とされてきた富士山は、南西は和歌山県那智勝浦町の妙法山、南は八丈島、東は銚子市犬吠崎、北東は福島県二本松市の日山から遠望することが可能で、その可視範囲は約600キロにわたる。東海道は、日常的に富士山を望むことができる広域な交通路であり、弥生文化の東漸以降、この道を通って東西の文物が盛んに行き交うようになる。特に、天竜川以東の駿河湾、相模湾、三浦半島を経て東京湾東岸に至る海道は、弥生時代中期から後期にかけて、交流圏としてのまとまりを形成し始める。逗子市と葉山市にまたがる長柄・桜山古墳群は、三浦半島の渡海地点を知る重要な遺跡である。やがて、道筋はさらに太くなって古墳時代の社会・経済・文化の動脈となっている。この海道の終着点である東京湾東岸は東漸するあらゆる文物の上陸する所であり、西に向かって開かれた地域であった。

●掲載図

古代の道
情報追記
図版、文章とも「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)から引用
(この図の東京湾横断ルートは、素直に物事を考えると、このようになるということを示しているように考えます。既存の誤った知識に染まると(踏襲すると)、この図は書けなくなります。下記「疑問」参照)

この逗子横須賀船越付近の縄文海進分布資料を次にしめします

縄文海進でつくらた内海
「貝が語る縄文海進」(松島義章、有隣新書、平成18年)より引用

船越付近は古逗子湾が半島の奥深くまで入りこみ、横須賀の内湾との距離は1.2㎞ほどです。
古代(古墳時代~奈良時代)にあってはこれほど深く海が入っていたことはないと考えますが、この海分布の範囲が水運可能な地勢であったことは十分考えられます。
つまり、この場所は相模湾と東京湾を1.2㎞程の陸路で結ぶ稀有な地勢であり、古代水運路の船越であったのです。

さらに、この場所には地名「船越」が横須賀市船越町として現存しています。まさに、正真正銘の船越です。

この場所の空中写真を示すと次のようになります。

逗子横須賀船越付近の地勢と説明

……………………………………………………………………
疑問
この記事で、水運という観点から逗子横須賀船越について合理的な思考が出来たと考えます。

しかし、「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)では別の場所で同種地図を示し、東京湾横断の場所を地名走水の場所にしています。

古代の東海道
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)から引用

「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県、平成13年)では古代駅路網図で走水駅を地名走水の場所としています。

Ⅰ期(8世紀初め~771年)の駅路
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県、平成13年)から引用

走水駅を地名走水(観音崎付近)に比定することは一般的で疑問を持ってこなかったのですが、逗子横須賀船越という検討をしてみると、疑問が湧きます。

相模湾から古逗子湾奥深くに船が入り、一旦人や荷物を降ろし、最短陸運路(約1.2km)で東京湾側(横須賀市田浦付近)に運び、そこから東京湾を横断して上総に着くと考えたのが船越という概念を使って考えてことがらです。

そうではなく、古逗子湾の奥深くまで船が入り、そこで下した人・荷物を地名走水(観音崎)まで陸路約12㎞運び、そこから船で東京湾を横断したと考えることは、あまりに非現実的です。そのような非合理的発想を古代人がしたとは到底考えられません。

古代水運では船越が使われ、一方陸路網としての古代駅路網はそれとは別に地名走水の場所に走水駅が在ったというデュアルモードみたいなことも考えられなくはないですが、説得力がほとんどない思考だと思います。

私は、地名走水(観音崎付近)に走水駅を比定することが間違っていて、走水駅は横須賀市田浦付近(船越町付近)に比定すべきものではないかと考えます。

地名走水は走水神社の設置と関わり、その場所が言葉の元来の意味である走水(東京湾を流れる速い潮流)を眺めるのに好都合な場所であるということに関連していると思います。日本武尊の船出を想う場所としてはうってつけの場所です。

走水駅の駅名「走水」は言葉の元来の意味である走水(東京湾を流れる速い潮流)を渡る場所という意味であり、地名走水と関連付けて考える必然性は無いと思います。
同時に、船越の検討から走水駅は横須賀市田浦付近に比定すべきであると考えます。

船越という概念を使うことによって、走水駅比定の間違いを発見できたと考えます。

余談 なお、船越という概念を使うことによって、花見川付近でも「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県、平成13年)における浮島駅の比定場所の間違いを発見できたと考えています。近々記事にします。

次の記事で長崎県の事例を紹介します。