2012年8月28日火曜日

捨土土手把握のための予察作業と新発見

天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その2

2 予察作業
捨土土手の詳細検討で成果を得たいので、闇雲に作業に突入しないで、予察作業をしてみて、効率的作業のあり方や作業上の問題を探ってみました。

まず、下図のような20本の地形断面図作成のための直線を引き、その地形断面図を作成し、このような地形断面図作成で初期の目的が達成できそうか検討してみました。

予察作業のための地形断面線の設定

花見川の柏井高校-横戸台付近の約450mの区間に、花見川に直行する20本の地形断面線(延長約450m)を設定しました。

地形断面図(予察断面17の例示)
20本の地形断面線の地形断面図を作成しました。

この予察作業をして次の事柄に気がつきました。

作業の効率化について
1 地形断面図線を等間隔に機械的作業で設定する必要があること。
2 地形断面図線の間隔は、作業量との兼ね合いからは予察作業と同じ程度の間隔(約25m)でも可能であること。追加で後から地形断面図線を増やすことも可能であることも確認できた。
3 地形断面図はグラフ画像(altキー+prtscnキーで切り取る)を利用するのではなく、csvデータを取得し、そのデータをエクセルのグラフ作成機能で描いた方が、グラフの整形や多断面比較が効率的に出来ること。

予察作業における新発見と対応
4 明確な「土手」形状の下にその土台となっている広い捨土場がある可能性を発見したので、地形断面図線の延長をより長く設定する必要があること。

予察作業を行って、精度の高い地形断面図を見ていると、これまで認識していた捨土土手の下に土台となる捨土場の存在を新発見できました。

次の断面図に説明します。


明瞭な土手地形の下に存在する土手の土台部分(断面) 予察断面17

明瞭な土手地形の下に存在する土手の土台部分(断面) 予察断面19

この土手土台部分の分布は地形段彩図から確認することもできます。

土手土台部分の分布イメージ(平面、地形段彩図)

この土手土台部分の分布と横戸台団地との関係は次のようになります。

土手土台部分の分布イメージ(平面、DMデータ)
(DMデータは千葉市提供)

横戸台開発前に測量された千葉都市図をみると、土手土台部分の地形を確認できます。

開発前の状況(千葉市都市図「千葉27」)
昭和35年測量、昭和45年一部修正
(千葉市立郷土博物館所蔵)

土手土台部分がどうして造られたのか、それが天保期普請より前の天明期普請の土捨場であった可能性も感じられ、強く興味をそそられます。

また、横戸台団地開発工事でこの土手土台部分がどのように改変されたのか知る必要があることが判明しました。

予察作業にしては、価値ある重要な新発見がありました。

なお、花見川沿川の主要開発における切土、盛土の状況を知り、捨土土手改変の様子を調べることの重要性に今更ながら気がつきました。
たとえば次の事例です。
・戦前鉄道連隊架橋
・戦後印旛沼開発
・鷹の台カンツリー倶楽部造成(戦前、戦後2回のゴルフ場造成及び戦後開拓地造成)
・横戸台団地開発
・柏井高校造成
・その他小規模開発

つづく

2012年8月27日月曜日

天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その1

捨土土手検討プロジェクトの企画

1 検討の目的
地形断面図を5mメッシュ標高データの最少表示単位である10㎝単位で作成できるツールを思いがけなく入手しました。(2012.8.23記事「地形断面図作成の強力ツール入手(報告)」)
そこで、早速このツールを使って、手始めに天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討を行います。

天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の現在の分布状況
5mメッシュを地図太郎PLUSとカシミール3Dで運用
図上のメッシュは2秒間隔経緯線(横方向=東西方向の間隔が約50m、縦方向=南北方向の間隔が約61m)

天保期印旛沼堀割普請の捨土土手付近の地形3D表現
5mメッシュを地図太郎PLUSとカシミール3Dで運用

天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の分布状況は上図に示す如く、5mメッシュにより分布図として、感覚的には詳細に把握することができます。

しかし、私の使えるツールでは、これまで詳細検討に耐えうる精度の地形断面図をつくることが出来ませんでした。
そのため、次に示す興味をさらに一歩進めることが出来ない状況にあり、それらはいつか取り組めることが出来るようになる日のために、温めておくしかありませんでした。

●分析ツールを所持しないために、これまで詳細検討できなかった天保期印旛沼堀割普請捨土土手に関する興味
1)土木遺構としての天保期堀割普請跡の範囲把握
2)天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の土量の把握
3)天保期印旛沼堀割普請前の谷津地形の把握
4)捨土土手以前のもともとの台地地形の把握

このたび、新たに入手したツールにより、これらの興味に取り組むことが可能になりました。

そこで、これらの興味を深めることを目的に、天保期印旛沼堀割普請捨土土手に関する詳細検討をスタートさせることとしました。

詳細検討の4つの目的について説明します。

目的1 土木遺構としての天保期印旛沼堀割普請跡の範囲把握
花見川両岸の台地等の上に分布する天保期天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細断面図を必要に応じていくらでも作れますので、捨土土手の範囲を明確に特定することが可能になります。
これにより、天保期印旛沼堀割普請の土木遺構としての範囲を特定することができます。
以前、千葉市教育委員会に問い合わせたところ、この土木遺構を千葉市が文化財として扱わない理由の一つが、「その範囲が明確でない」ということでした。
土木遺構としての範囲が特定できれば、天保期印旛沼堀割普請跡を文化財として扱おうとしない消極思考の一端を除去することができます。

目的2 天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の土量の把握
天保期印旛沼堀割普請では、捨土土手がある範囲では、掘り下げた土は全て両岸の台地上に捨土したものであると考えられます。
従って、昭和・平成期などの人工改変の影響を既知のものとすることができれば、普請当初の捨土土手の土量を把握できます。
そうすれば、普請の時の土工量を正確に把握できます。
それは、普請の土木活動量を知る上で貴重な情報となります。

目的3 天保期印旛沼堀割普請前の谷津地形の把握
捨土土手の土量分を、戦後印旛沼開発前の谷地形に対して埋め戻せば、普請前の谷地形を想定することが可能になります。
つまり、もともとの自然地形としての谷地形復元の手がかりが得られます。
この付近は花見川河川争奪により東京湾水系谷津と印旛沼水系谷津の谷中分水界があった場所であり、地形学的に有用な情報入手の期待が高まります。

目的4 捨土土手以前のもともとの台地地形の把握
5mメッシュのデータレベルで、捨土土手以前の台地縁の地形を復元することにより(つまり、5mメッシュデータ上で捨土土手を除去することにより)、そのデータを使って、花見川谷津付近の縄文遺跡や古墳から見えた土地の範囲を復元することができます。(景観復元図や可視領域復元図の作成)
それにより、縄文時代住居や古墳の立地環境としての景観環境や、近世における古墳の測量杭利用に関して検討を深めることが出来ます。

2 検討内容
次のような検討を予定します。

1)現状の捨土土手の範囲の把握
2)現状の捨土土手の土量の把握
3)昭和・平成期に除去等された捨土土手の範囲、土量の推定
4)土木遺構としての天保期印旛沼堀割普請跡の範囲確定
5)天保期印旛沼堀割普請の土工量検討
6)戦後印旛沼開発前の花見川地形の把握
7)普請前の谷津地形の復元
8)普請前の台地縁からの景観や可視領域の検討

(つづく)

2012年8月23日木曜日

地形断面図作成の強力ツール入手(報告)

このブログでは地形分析のツールとして地図太郎PLUSとカシミール3Dを使ってきています。
次のような地形段彩図を地図太郎PLUSで作成できます。

双子塚古墳付近の地形段彩図
DMデータ(千葉市提供)をオーバーレイしてある。
5mメッシュから地図太郎PLUSにより作成。
○印は双子塚古墳の位置

この地形段彩図をフリーソフトのカシミール3Dにより立体的に表示し、地形を感覚的に理解できるようにしています。

双子塚古墳付近の地形3D表現図
地形段彩図と5mメッシュデータ(標高)からカシミール3Dにより作成

これらはいずれも地形分析の強力ツールです。

このたび、地形断面図作成の強力ツールを入手しましたので報告します。

これまで地形断面図はカシミール3Dの機能を利用していました。
その機能自体、とても素晴らしいものです。大変たすかりました。
しかし、カシミール3Dが主として山岳域を想定して作成されているソフトのためか、標高表現の刻みを1m単位より詳細にすることができません。
このブログで扱う地形の凹凸把握は1m単位では粗すぎ、検討を十分深めることができないこともしばしばありました。
なんとかより精細の地形断面図を作る方法がないものか、いろいろ物色していました。

そんな時、私が使っているGISソフトの地図太郎PLUSが8月1日にバージョンアップし、v.3となり、地形断面図作成機能が新たに加わりました。
その機能を使うと、5mメッシュ(標高の刻みは10㎝間隔)では断面図の標高の刻みが10㎝となり、カシミール3Dを使った地形断面図と比べてはるかに精細な情報を得ることが出来ました。

カシミール3Dと地図太郎PLUS v.3の地形断面図の比較

地図太郎PLUS v.3による地形断面図では堀割の小段等も正確に表現されています。
今後この強力ツールを活用して、花見川河川争奪や小崖の検討等をより精度を高めて行うつもりです。
なお、地図太郎PLUS v.3では作成した地形断面図のcsv情報を書き出すことができます。

上記地形断面図のcsv書き出し結果(一部)

このcsv書き出し情報を使えばエクセル等でより高度なグラフ作成や分析を行うこともできます。

2012年8月21日火曜日

今朝またハクビシンを見る

早朝の散歩でまたハクビシンを見ました。柏井橋付近にある青い水管橋付近で花見川岸からサイクリング道路を横断して堀割の崖を登って行きました。夜間の活動を終えて近くの林のねぐらにもどるところだと思います。
鼻先から尾の端まで1mくらいで、崖をよじ登る所を下から見ると、丸々太っているように感じました。顔は見ることが出来ませんでしたが、胴と尾は深いグレーに見えました。

ハクビシンのイメージ

ハクビシンは明治時代に毛皮用に中国などから持ち込まれた外来種ですが、外来生物法に基づく特定外来生物には指定されてはいません。日本に生息する唯一のジャコウネコ科の哺乳類です。
このような野生哺乳類を見かけると、なにか得をしたようなプラスの感情が生じます。

これまで見かけたハクビシンとノウサギの位置を地図にプロットしてみました。

ハクビシンとノウサギを見かけた場所
基図はDMデータ(千葉市提供)

これらの哺乳類は花見川水面、堀割斜面の林、台地に広がる市街化調整区域の農地や林地がセットで存在しているから、辛くも生息できていると考えます。

2012年8月19日日曜日

双子塚古墳の未来(シリーズ最終回)

双子塚古墳の過去・現在・未来 その12(最終回)
双子塚古墳出土物を閲覧して

6 未来
6-1 双子塚古墳の歴史イメージの振り返り
この記事シリーズを書いてきてみると、私(クーラー)の双子塚古墳の歴史に対するイメージは次のようにまとめることができることに気がつきました。

双子塚古墳の歴史イメージ

双子塚古墳は大変ドラマティックな歴史を歩んできています。

古墳築造とその古墳が祭祀の場として活用されていた時代があります。

次の時代はこの古墳が横戸村に奪取され、測量杭として活用された時代です。
でも、この時代はまだ花見川源流部の地形と湧泉が残っていて、古墳の立地条件は現場で自明でしたから、古墳の聖性は残存していたものと想像します。

印旛沼堀割普請によって花見川源流部の地形と湧泉が失われると、古墳が拠って立っていた条件が失われ、聖性は漂流し、ついには穢れへと180度の転換があったものと想像します。

戦後経済の高度成長期がはじまり、穢れの場の必要性がなくなると、人々の記憶から急速に双子塚古墳の存在が消されていったものと考えます。

そのような時代に横戸台団地開発が行われ、双子塚古墳は記録はされましたが、存在自体は除去されました。
これにより、人々の記憶からも、存在自体も消去された時代が訪れ、現在にいたります。

穢れの場であったという事実は、散歩人の心情からすると、それを取り扱うことには強い心理的抵抗があり、苦しいものがあります。
しかし、そのような事象も含めて歴史をありのままに認識し、古墳の歴史全体像を認識することこそ、真に地域づくりに役立つ情報を得る近道だと考えるにいたりました。
それで、穢れの場であったという事実を忌避するような態度をとることはやめました。
ドラマには良いこともあれば悪いこともある、山もあれば谷もある、それが通例です。それが歴史というものです。

6-2 双子塚古墳の未来
このブログで双子塚古墳を取り上げなければ、いつまでもその記憶と実在が失われた時代がつづいたものと思います。
しかし、このブログで双子塚古墳のドラマを取り上げたからには、私としては、双子塚古墳の歴史のふりかえりが社会で行われ、地域づくりの視点から双子塚古墳の意義が検討されることを願っています。
そのような活動に取り組みたいと思います。
手始めに、双子塚古墳が存在していたという事実を、人々が現場で認識できる説明看板の設置を行政当局にお願いしたいと考えています。

(おわり)

2012年8月17日金曜日

双子塚古墳を古墳として認定しない怪

双子塚古墳の過去・現在・未来 その11
双子塚古墳出土物を閲覧して

5 現代
5-2 双子塚古墳を古墳として認定しない怪
報告書(「千葉市双子塚-横戸団地建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」1983、千葉県住宅供給公社・財団法人千葉県文化財センター)では「Ⅳむすび」で次のように記述しています。

本遺跡は、古墳としての可能性を認めながらも、塚として調査を開始した。塚として扱われた埋由は、近接して古噴が認められず、北東約600mに明らかに塚と認められる庚申塚群が存在することによった。一方、古墳としての可能性は、その規模が庚申塚群のそれと比して大きいこと、周囲に周溝を思わせる窪みが存在することと、その「双子塚」と称せられる名称にあった。 調査の結果、周溝の存在、規模、積土の状態などからして古墳として築造され、江戸時代に塚として利用されたものと推測されるに至った。古境としては、主体部も検出されず、遺物としても古墳に直接的に関係すると判断できる遺物はなく、その時期的な判定は困難である。 塚としては、寛永通宝・片口鉄鍋・皿などからして江戸時代に利用されたものと推測される。…

要するに単なる塚であるのか、古墳であったものが塚として使われたのか不明であったが、調査の結果古墳としてつくられ、江戸時代には塚として利用されたことが判ったという結論が述べられています。

ところが、千葉県埋蔵文化財分布図(3)(平成11年3月、千葉県教育委員会)には地図上の位置とともに次の情報が掲載されています。

埋蔵文化財包蔵地所在地名一覧(抜粋)

事項
記載内容
遺跡名
双子塚(ふたごつか)遺跡
所在地
千葉市花見川区横戸町1346-1
種別
包蔵地、
時代等
縄文(中)、古墳、近世
遺構・遺物等
縄文土器(加曾利E)、土師器、陶器、片口鉄鍋、寛永通宝
立地
台地上・宅地、荒地
文献
117
備考

双子塚古墳の埋蔵文化財種別が「塚」となっています。「古墳」になっていません。
遺跡名にも古墳が表示されていません。

ですから、これまでに著述された、千葉市の古墳を扱った全ての文献で、千葉市最北端の古墳である双子塚古墳はリストアップされていません。
古墳として検討対象となったことはありません。

せっかくの発掘調査報告書の検討成果が社会的にまったく活かされていません。
学術的情報面で生じている社会ロスは大きなものであると考えます。

発掘調査により双子塚古墳が記録され、除去された後、約30年経ちますが、その跡地の現況は次のようになっています。

双子塚古墳除去跡地の現況

古墳除去跡地は、30年間雑草再生天国になっています。あるいは除草業者の不滅の仕事場というべきか。(草刈の費用は千葉市民が納めた税金で賄われています。)

双子塚古墳の記録はしたけれど、その活用もおざなり、その跡地も放置という状況は軌を一にしています。
誰がどうしてとまで考えても詮方なしですので止めますが、一言でいえば、1983年(昭和58年)当時、双子塚古墳の扱いについて、頭から軽視してかかる態度が開発部局にも、埋蔵文化財担当部局にも存在していたのだと思います。
アリバイを残せば一件落着といったところでしょうか。
当時の行政担当者には、埋蔵文化財から地域の歴史を読み取り地域づくりに活かそうなどという思考は存在しなかったようです。
そうした風潮にもかかわらず、双子塚古墳の現場の記録だけはきちんと行われたので、それが一つの救いになっています。

(つづく)

2012年8月16日木曜日

忘れ去られた双子塚古墳

双子塚古墳の過去・現在・未来 その10
双子塚古墳出土物を閲覧して

5 現代
5-1 発掘調査時点の近隣住民の意識
報告書によれば双子塚古墳について近隣住民の意識は次のように記載されています。
塚としては、寛永通宝・片口鉄鍋・皿などからして江戸時代に利用されたものと推測される。元地主をはじめとする横戸および柏井地区の聞き込みを実地したところ、北東約600mに位置する庚申塚群および庚申塔については、庚申祭や「横戸村に婿入りした人が、力量を示すために朝食前に築いてみせた塚だ。」という伝承など具体的で、あり多くの人が知っているのに対し本双子塚については存在を知らない人も多く、わずかに旧横戸村と旧柏井村の村界にあたることと、「境神」ということを聞いた人がいたのみであった。

双子塚古墳に対して近隣住民の意識が大変希薄であったことがわかります。

大正6年測量旧版1万分の1地形図には、双子塚はケバ記号でわざわざ記載されており、地図測量隊が見つけた土盛りを、通常なら、近隣住民が知らないわけがありません。
大正6年測量旧版1万分の1地形図に表現された双子塚古墳
「三角原」図幅
赤丸内の星状の記号が双子塚古墳
赤点線は現在の町丁目界線

1983年頃(昭和58年頃)の近隣住民の意識の中で双子塚古墳の存在そのものが希薄化していた理由について、次のような想像も成り立つと考えました。


双子塚古墳に対する近隣住民の意識が希薄化した理由の想像

1 古墳であることの記憶が一旦途切れてしまったこと。
双子塚古墳が柏井村にではなく、横戸村にあることに示されるように、近世の柏井村住民をはじめ近隣住民は双子塚古墳を古墳として認識することが一旦途切れた時期があったのだと思います。

一方、双子塚という名称は「双子塚」=「前方後円墳」=「古墳」というイメージ連鎖を呼び起こす名称であり、人々の意識の奥底には双子塚が古墳であるという真実が伝わってきてはいるのだと思います。

しかし、次の理由により、最後まで古墳という認識が意識の表面で回復されることはなかったのだと思います。

2 古墳立地要件が物理的に失われてしまったこと。
印旛沼堀割普請により、東京湾水系花見川源流部の地形や湧泉が物理的に失われ、なぜこの場所に古墳がつくられたのか、人々がイメージできる条件が決定的に欠如してしまいました。

古墳であることが想像できれば、近隣住民の心情としてその場所に何らかの神を祀ることになるのだと思います。
しかし、大規模工事の土捨現場近くにあるこの土盛りにあまり神聖性を感じることが無かったのだと思います。

聖は聖でも「意味不明の聖」になっていったのだと思います。

塚として利用しつつ(供え物をしたり賽銭をしたりして願掛けはした)、一方柏井村と横戸村の境に位置していて、双方の村から「境」というか、「塚から向こうは村の外」という感覚でとらえられていたのだと思います。

3 聖から穢れへの転換
前記事で述べたように、片口鉄鍋が伏せた状態で見つかったことから、疫病等による不浄の遺体を周溝内で土葬し、この片口鉄鍋で顔を覆ったという可能性もあると考えました。

もしそうだとすると、双子塚古墳は江戸時代に聖の場所から穢れの場所に180度転換したのだと思います。

近隣住民にとって穢れの場所を確保することも生活上必要であり、双子塚古墳は「意味不明の聖」であり、「村境」であり、ここを穢れの場所にすることは合理的だったのだと思います。

4 穢れの場所の記憶を消す
1983年頃(昭和53年頃)は経済の高度成長期まっただ中であり、穢れの場所を開発工事によって一挙にリセットしたいという社会心理が働いたものと想像します。

報告書では双子塚古墳に対する意識が希薄であったことが述べられていますが、その理由の背後には次のような状況が存在していたと考えます。
つまり、戦後の近隣住民自身が、江戸時代から伝わる穢れにまつわるイメージから、この双子塚古墳を存在必要性のないマイナス事象として捉え、意識の視野から消そうとする無意識が社会集団的に働いていたのだと思います。
そして、若い世代はそのような複雑な意識状況も消失してしまっていて、双子塚古墳の存在そのものを知らないという状況が存在していたものと考えます。

(つづく)

2012年8月15日水曜日

双子塚古墳の近世の遺物

双子塚古墳の過去・現在・未来 その9
双子塚古墳出土物を閲覧して

4 近世
4-1 双子塚古墳の近世遺物閲覧
近世になると双子塚古墳は古墳としての意義はすでに忘れさられており、それを築造した小豪族の本拠地とは関係のない横戸村が奪取するところとなりました。
そして、横戸村と柏井村の領域確定のための境界杭として利用され、その後横戸村と柏井村の境界付近にある境界塚として利用されました。

次の出土遺物は報告書では次のように記載されています。 「5の皿は径13.5cm、器高3cmの高台付の有田焼の皿である。文様はくすんだ藍色を呈し、蛇の目型に釉をふき取って重ね焼きしたあとが見られる。江戸時代後期。」

有田焼の皿
(千葉県立房総のむら所蔵)

江戸時代に双子塚古墳は境界塚として利用されたのですが、この皿は信心深い近隣住民が供え物をしたり、灯明を灯したりするのにつかったのでしょうか。

寛永通宝は報告書で、次のように記載されています。 「7と8の寛永通宝は、古寛永であり、7は径1.9、8は径1.8cmを計る。」

寛永通宝
(千葉県立房総のむら所蔵)

双子塚古墳の南東部の裾部から検出されたとのことであり、双子塚古墳の東側を通り柏井村と横戸村を結ぶ道路に近いことから、通行人(旅人)などが安全と願い事成就を祈願して賽銭として置いていったものかもしれません。
あるいは、数十m西で行われた天保期印旛沼堀割普請の関係者(幕府監督役人や庄内藩現場監督等)が工事安全・目標達成祈願をしたのかもしれません。

4-2 片口鉄鍋
以上のほか、片口鉄鍋が出土しています。しかし、出土物を所蔵している千葉県立房総のむらには最初から伝わってきておらず、現物は紛失してしまったようです。

報告書では次のような記載と図版、写真が添付しています。 「6の片口鉄鍋は、周溝南西部のa層中に伏せた状態で検出された。掘り込み等の遺構は特別認められなかった。口径32cm、器高21cm、器厚2.5mmを計り、片口を持つ独特な形態の鉄鍋で、いわゆる燗鍋と称せられる形式の鍋である。」

片口鉄鍋の出土状況
報告書(「千葉市双子塚-横戸団地建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」1983、千葉県住宅供給公社・財団法人千葉県文化財センター)より引用

この片口鉄鍋が伏せた状態で見つかったことから、疫病等による不浄の遺体を周溝内で土葬し、この片口鉄鍋で顔を覆ったという可能性もあります。
もし仮にそうだとすると、遺体を土葬したのに、遺体はもとより「掘り込み等の遺構は特別認められなかった」という土層形成の特徴が浮かびあがります。

そうした土層形成の特徴は、古墳主体部が見つからなかったという特徴に通じます。

古墳築造当初のローム層撹拌・混合・堆積というプロセス、及びローム層の理化学的特性などの条件がこのような土層形成の特徴に結びついているのかもしれません。

(つづく)

2012年8月14日火曜日

双子塚古墳を築造した小豪族の本拠地

双子塚古墳の過去・現在・未来 その8
双子塚古墳出土物を閲覧して

3 古墳時代
3-7 双子塚古墳を築造した小豪族の本拠地
双子塚古墳を築造し、花見川源流部一帯を聖地化して独占したと考えられる小豪族の本拠地を考えてみました。
花見川谷津に本拠を持つことは当然だとおもいます。

以前の記事で、弥生時代や古墳時代の居住地の大半は、現在の集落と重なるため、遺跡が消滅したと述べました。(2012.7.8記事「花見川流域の弥生時代遺跡の予察」及び2012.7.19記事「花見川流域の古墳時代遺跡の予察」参照)

これを逆に考えると、江戸時代や明治時代から続いている集落は弥生時代や古墳時代の居住地である可能性が濃厚であるということです。

この点を踏まえて、花見川谷津(犢橋川合流部より上流)にある集落分布を見てみました。

次の図は明治15年測量迅速図です。

明治15年測量迅速図
集落記号を黒線で囲む。 「千葉県下総国千葉郡大和田村」図幅及び「千葉県下総国千葉郡畑村」図幅の各1部。

明治前期には柏井付近と花島付近にしか集落がありません。
これから、双子塚古墳を築造した小豪族の本拠地はそのどちらかであることになります。

そして、次の条件から双子塚古墳を築造した小豪族は柏井を本拠地としていたと考えてほぼ間違いないと思います。

ア 柏井には河岸段丘が両岸に広く発達していて、集落面積が広い。花島の河岸段丘は狭小で集落面積が狭い。…小豪族が拠点を設ける上で一族郎党を近くに居住させる必要があることは、集団の結束を強め管理を強化するうえで、あるいは防衛上の観点からも必要であることは論を待ちません。わざわざ花島に拠点を設けることは考えられません。

イ 柏井は花見川本川の谷津だけでなく、西から(前谷津)及び東から(後谷津)流入する谷津があり、それぞれ水田経営をする場所です。花島はそのような水田経営ができるような流入谷津がありません。…柏井は水田経営上の重要な結節点であり、ここに拠点を設ける必要があることは重要なことです。柏井を外して、わざわざ花島に拠点を設けることは考えられません。

次の図は大正6年測量旧版1万分の1地形図に双子塚古墳と近隣古墳のそれぞれの築造小豪族の本拠地の想定を示したものです。

双子塚古墳等の築造小豪族の本拠地想定
基図は大正6年測量旧版1万分の1地形図 「大久保」図幅及び「三角原」図幅の各1部

双子塚古墳を築造した小豪族について考えれば、犢橋川合流部までの幅狭い谷底が続く花見川谷津全てを自らの版図としていたのではないかと想像します。
従って、花島の集落は柏井の集落の配下にあったいわば出先として捉えられるのではないかと想像します。

(つづく)

2012年8月13日月曜日

双子塚古墳と花見川源流部の聖地化

双子塚古墳の過去・現在・未来 その7
双子塚古墳出土物を閲覧して

3 古墳時代
3-6 双子塚古墳と花見川花見川源流部の聖地化
双子塚古墳が花見川最源流の湧水部(※)(東京湾水系と印旛沼水系の谷中分水界の場所)を見下ろす場所に造られたことから、花見川の谷津で水田経営を営んでいた小豪族が花見川の水を支配しているという統治権力を確実なものにするために双子塚古墳がつくられたと考えます。

※ 印旛沼堀割普請前に、この場所に湧水があったことは、この場所に縄文遺跡があることから証明されます。

花見川源流湧水のすぐ近くに古墳を設けそこで祭祀を行うことにより、古墳及び源流湧水部一帯を小豪族一族の聖地として独占したものと考えます。

花見川源流部一帯を聖地化することで、
ア 小豪族は水管理という実務・実利上の優位性を確実なものにするとともに、
イ 権力の所在を住民に徹底するという社会統治上の効果を得た
のだと思います。

双子塚古墳祭祀イメージ
双子塚古墳を築造した小豪族が聖地化し独占した空間のイメージ
基図はDMデータ(千葉市提供)

このように考えると、双子塚古墳から出土した土器は祭祀に使われ、その中に入れた物は花見川源流部湧泉の水であったと強く感じることができます。

東京湾水系源流部湧水とその場所一帯を統治者(=祭祀者)が押さえた事例には、二宮神社御手洗之泉、滝ノ清水、子和清水などがあり、双子塚古墳と花見川源流の事例も加えて詳細に比較することによって個々の事例では発想できないより高次の知見を得ることが可能になると考えています。

(つづく)

2012年8月12日日曜日

双子塚古墳の体積

双子塚古墳の過去・現在・未来 その6
双子塚古墳出土物を閲覧して

3 古墳時代
3-5 双子塚古墳の体積
双子塚古墳の体積を報告書に掲載されている情報から試算してみました。

双子塚古墳の発掘調査時点の実測図
報告書(「千葉市双子塚-横戸団地建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」1983、千葉県住宅供給公社・財団法人千葉県文化財センター)より引用

次の2ケースで計算してみました。
ケース1 発掘調査時点の双子塚古墳の見かけの円墳地形の体積
ケース2 土層断面図から推察できる築造当時の円墳地形の体積(※)
※古墳北側の近世掘削部分を復元するとともに、周溝内覆土は本来古墳を構成していた土であったので、その体積を加える。

古墳体積は、フォトショップを用いて土層断面図(正スケール)から必要な長さと面積を計測し近似法で体積をもとめました。
具体的には、南北と東西2つの土層断面をそれぞれ頂部で2分割し、分割断面に近似する三角形を設定して、その三角形が回転してできる円錐体の体積を4つ求め、その平均をもって古墳の体積としました。
周溝内覆土の体積は南北と東西2つの土層断面にある4つの周溝内覆土断面積の平均値をもとめ、その断面積が回転した時のドーナツ状立体の体積を求めました。

計測した双子塚古墳の体積は次の通りです。

双子塚古墳の体積

ケース
古墳の概形
古墳の体積
ケース1
発掘調査時点の見かけの体積
地表からの高さ約1.7m
墳の半径約7.9m
110立方m
ケース2
築造当時の体積(推定)
地表からの高さ約2.8m(※)
墳の半径約約8.1m
周溝外縁部の半径約11.8m
180立方m

古墳の体積は発掘調査時点では約110立方mでしたが、築造時の体積を推定すると、約180立方mとなりました。
築造時の墳丘が雨水浸食等で削られ、その分の土が周溝に堆積し、見かけ上6割の体積に減じたことになります。
この体積から築造当時完全な円錐体としてつくられたと仮定して割り戻すと、高さは約2.8mになりました。
築造当時の完全な姿では、墳の頂部は発掘調査時点より約1mほど高かったことになります。

なお、古代人の土工能力が1立方m/人日と仮定して単純計算すると、この古墳は180人日の工事であったことになります。

(つづく)

2012年8月11日土曜日

双子塚古墳の築造工程

双子塚古墳の過去・現在・未来 その5
双子塚古墳出土物を閲覧して

3 古墳時代
3-4 古墳築造工程の検討
出土土器閲覧と少し離れますが、報告書「千葉市双子塚-横戸団地建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」1983、千葉県住宅供給公社・財団法人千葉県文化財センター)の情報から双子塚古墳本体のつくり方等について検討してみます。

報告書掲載の墳丘土層断面図を次に掲載します。

墳丘土層断面図
報告書掲載図を縦方向に2倍拡大(水平線は高さ方向に20cm間隔)

凡例
基本層
Ⅰ層:表土層(黒褐色から暗赤褐色)
Ⅱ層:旧表土層(黒色)
Ⅲ層:明赤褐色軟質ローム層
Ⅳ層:明褐色硬質ローム層

積土層
1層~5層(「いずれもローム土と黒色土の混合土を主体とするが、その割合とロームブロック・黒色硬質土ブロックが含まれる量によって分層した。」)詳細は別記。

周溝内覆土
a層:著しく黒色味の強い黒色土。やや粘性を帯びる。
b層:わずかにローム粒を含み黒褐色を呈する。
a層と同様やや粘性を帯びる。
c層:ローム粒を主体とし、ロームブロックも含む。明褐色を呈する。

古墳本体の積土層の分層について詳細を記述し、黒色土の割合等をまとめてみると次の表になります。

表 積み土層分層表

この表から、双子塚古墳のつくり方の概要が浮かびあがります。
古墳の積み土は下から上に進んだことは間違いありませんのでその順番に検討します。

1 古墳築造工事前
古墳築造前は古墳下に発見された旧地表面が付近一帯に広がっていたと考えます。

古墳築造前の地表面と旧表土層のイメージ

2 基礎工事(分層4及び分層4´の積上げ)
報告書記載から分層4、4´に黒色土が少なく、特に旧地表面付近ではロームブロックが集中し、「やや固められ」ていることが判ります。
つまり、表土(黒色土)は柔らかく使えないので、表土(黒色土)の下にあるロームだけを取り出し、古墳築造場所に敷き、突き固めたのだと思います。古墳をつくる場所に、土を積み上げる土台をつくったのです。
古墳時代に、土を突き固めるためにどのような道具を使ったのか、興味が湧きます。

基礎工事のイメージ

3 積土工事(分層3、分層2及び分層2´の積土)
基礎工事で使うためのローム層を取り出すために除けられ集められていた表土(黒色土)を分層4及び分層4´の上に積土しそれが分層3になります。
さらに表土下のローム層も掘って分層3の上に積みます。これが分層2及び分層2´となります。単純化すればこのように説明できます。
縄文土器の破片が積土中から発見されていますが、おそらく分層3から出土したものと考えます。

積土工事のイメージ

4 周溝工事
積土工事の最終段階で周溝工事をして、その掘削土を積土して古墳の姿を完成させたものと考えます。分層1がこの工事段階に該当するものと考えます。
分層1の記載が「ローム土の割合が多く積土中最も明るく赤褐色を呈する」となっていますが、周溝工事掘削土は表土(黒色土)が混ざり込む可能性が低く、分層1の土が周溝工事掘削土であることを物語っています。

周溝工事のイメージ

5 埋葬
古墳完成後、墳丘の上から穴を掘り、その底に棺を据え付け、埋め戻したものと考えます。
双子塚古墳からは主体部(墓坑、棺)が見つかっていませんが、分層5の存在が主体部の存在を暗示しています。
分層5は黒色土で古墳の頂部から旧地表面まで断片的に分布していて、古墳中央付近と東裾部の2個所に分かれています。

古墳中央付近の分層5は墓坑の跡を示すものかもしれません。
あるいは、分層5は盗掘の跡を示すものかもしれません。

分層5が黒色土であることから、おそらく盗掘の跡を示すものであると考えます。墓坑工事なら黒色土(表土)で埋め戻すのではなく、ローム層を使ったと考えられるからです。
古墳の表面に表土(黒色土)が発達した後の時代に、古墳の頂部から、あるいは東の裾から盗掘工事が行われ、その一部が断片的に調査断面に表れたのが分層5だと想像します。

分層5の分布

以上の検討で双子塚古墳築造の工程(ステップ)を土層観察結果を手がかりに、イメージすることができました。 また、基礎工事としてロームの突き固めをしていることや土層の強弱を理解していることなど、当時の土木技術の一端に触れることができました。

(つづく)

2012年8月10日金曜日

双子塚古墳の過去・現在・未来 その4

双子塚古墳出土物を閲覧して

3 古墳時代
3-2 土器の出土状況

2つの土器は報告書によれば次の土層から出土しています。

古墳時代土器の出土層
報告書による

3-3 土器形式からみた古墳年代と利用期間
双子塚古墳出土土器の形式と出土状況を一覧表に整理し、土器と古墳築造年代との関係を見てみました。

出土土器
土器形式
年代
出土状況
土器と古墳築造年代との関係
甕型土器底部破片
和泉期
古墳時代中期(5世紀代)
周溝覆土の最上層のa層よりの出土
古墳築造年代は出土土器年代と同じか、それより古い
小型甕
鬼高期
古墳時代後期
周溝覆土の最上層のa層よりの出土
(和泉期土器が出土しているので)古墳築造年代は出土土器年代より古い
(参考)岩波日本史辞典(岩波書店)による土器形式説明
和泉式土器:関東地方に広く分布する5世紀を中心とした時期の土師器。東京都狛江市にある和泉遺跡出土土器を標式として、1940年杉原荘介によって命名された。西日本同期の土器の影響を強く受けている。関東地方の中期古墳の副葬品として出土するほか、祭祀遺構からもまとまって出ることが多い。
鬼高式土器:関東一円に分布する5世紀末~7世紀後半の土師器。千葉県市川市にある鬼高遺跡出土の土器を標式として1938年に杉原荘介が命名。大きな特徴は坏(つき)や高坏に赤彩を施すものが多いことで、長胴の甕と須恵器の形態を取入れた坏が目立つ。

ここでは、出土土器の形式判定に間違いがなく、また、土器形式の年代認識が上表の通りであることを機械的に前提とし、検討します。

双子塚古墳からは、古墳時代中期と後期の2つの年代の土器が出土したことになります。

このことから、次の2点が判明します。
1 古墳築造年代をある程度絞り込むことができる情報が得られること。
2 古墳利用期間に関する情報が得られること。

古墳築造年代に関してみると、土器の出土状況は、いずれも古墳築造時につくられた周溝が後の時代に覆土され、その覆土中から見つかっていることが重要な手がかりとなります。(報告書では逆にこれを持って「断定できない」とし、そこで思考を停止しています。)

つまり出土状況からみて、ア 古墳築造年代は土器作成年代と同じか、イ それより古いか、のどちらかになります。

上記のうち、「イ 土器作成年代より古墳築造年代が古い」かもしれないという条件は直感的に理解していただけると思います。
「ア 古墳築造年代は土器作成年代と同じ」かもしれないという条件は、土器がもともと古墳本体中に埋納されていて、それが後代に何らかの理由で一旦出土し、その後二次的に周溝覆土中に収まったという可能性があることから考えられます。

周溝覆土a層は、断面分布形状から明白に把握できるように、古墳本体の積土が雨水等によって流下して形成されたものです。
従って、土器がもともと古墳本体の積土中にあり、雨水浸食(や盗掘等)で一旦古墳の外に出て、周溝に落ちたという可能性は十分にあり得ます。

結論としては、古墳築造年代に関する情報として、古い方の土器(甕型土器底部破片、和泉期)が示す年代、つまり古墳時代中期が双子塚古墳の作成年代か、あるいはそれより以前に作られたという情報が得られたことになります。

また、和泉期と鬼高期の土器が(祭祀が行われたと考えられる)テラス近くの周溝覆土の中から見つかったということは、和泉期から鬼高期にわたるある期間、つまり古墳時代中期から後期にかけてのある期間、この古墳が祭祀の場として使われていたということを物語っていると思います。

おそらく柏井、場合によっては花島付近を拠点とする小豪族の支配力が、ある一定期間安定して継承されていたことを示す情報を得ることが出来たと考えます。

和泉式土器を配下の各地小豪族に普及した時の中央権力が、鬼高式土器を普及させた次の中央権力に移行していった時間の中で、双子塚古墳を築造し利用した小豪族はその時々の中央権力と折り合いを付けながら、自らの支配力を子孫に継承させていったと考えることもできます。

土器が出土した周溝覆土は古墳本体から流出した土ですが、その古墳本体のつくり方や築造後の浸食のされ方について、次に、参考までに検討します。

(つづく)

2012年8月9日木曜日

双子塚古墳の過去・現在・未来 その3

双子塚古墳出土物を閲覧して

3 古墳時代
3-1 2つの出土物
報告書(「千葉市双子塚-横戸団地建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」1983、千葉県住宅供給公社・財団法人千葉県文化財センター)では古墳時代の出土物として次の2点を記載しています。

「古墳時代の遺物 いずれも周溝覆土の最上層のa層よりの出土であり、古墳に直接関わるものとは断定できない。3は底部の突出する甕型土器の底部破片。和泉期。4は小型甕で、1/3ほど遺存し推計で口径14㎝、底径6㎝、器高15㎝を計る。最大径は胴中位にあり15.6㎝を計る口線部横ナデ、胴部ヘラナズリ。鬼高期。」

次に閲覧した資料現物の写真を掲載します。

3 甕型土器底部破片(和泉期) 表面
3 甕型土器底部破片(和泉期) 裏面

4 小型甕(鬼高期) やや上方より正面
4 小型甕(鬼高期) 甕口
4 小型甕(鬼高期) 甕底

閲覧資料はいずれも千葉県立房総のむら所蔵

古墳との直接関係を断定できないにしても、この2つの土器が双子塚古墳形成時期等を推察する唯一の手がかりです。

断定はできないということで、そこで思考を停止してしまい、撤退してしまうのではなく、手がかりとなる資料から、双子塚古墳についてできるだけ情報を引き出してみたいと思います。

幸い、報告書では土器の形式と出土状況、土層断面を明らかにしてますので、これらの情報を分析すれば、報告書記載情報にプラスアルファの情報を加えることができそうです。

(つづく)