2012年2月29日水曜日

小崖2に起因する谷津パターン

小崖2には次のような谷津パターンが繰り返して観察できます。

小崖2に関わる谷津パターン

この谷津パターンは次のような経緯で形成されたと考えられます。

小崖2に起因する谷津形成の経緯(小崖2発生前)

小崖2に起因する谷津形成の経緯(小崖2発生中)

小崖2に起因する谷津形成の経緯(小崖2発生後)

2012.1.31記事「河川争奪の新発見」では小崖2に起因する河川争奪を説明してあります。

こうした形成経緯を前提に谷津に分類名称(仮称)を与えてみました。

小崖2に起因する谷津形成経緯からみた谷津分類名称(仮称)

小崖2に起因する谷津パターンを現実の地形(人工改変前)にあてはめると次のようになります。

実際に見られる小崖2に起因する谷津パターン(代表例)

詳細に地図をみると、もっと沢山の同じパターンが観察できます。
これと同じ谷津パターンが小崖3の長沼付近でみられます。

小崖3長沼付近の谷津パターン

小崖2がもたらしたのと同じ谷津パターンが、長沼地区で小崖3によって出現したものと考えます。

この谷津パターンは、形成後、その場所に湖沼(古長沼)が出現し、その湖沼が終焉した場所に再び表現された(出現した)ものと考えます。

小崖2がもたらしたのと同じような谷津パターンが、小崖3によっても普遍的に生まれたと考えると、東京湾側水系(犢橋川)の浸食作用で失われたかのように見えている小崖3沿いの場所の過去(東京湾側水系浸食以前)に、光が当たる可能性が高まります。 (つづく)

2012年2月28日火曜日

小崖3の設定

宇那谷川谷津における古長沼の成因に関わる重大事象は2つあると思っています。
1つ目は小崖1です。
小崖1を伴う地殻変動によって地盤の沈下と傾動があり、古長沼が生まれました。
2つ目はこれまで「新たに発見した小崖」として説明してきたものです。

いつまでも「新たに発見した小崖」と言い続けるわけにもいきませんので、このブログでは今から「小崖3」という名称(仮称)をつけて記述することにします。(*)

* 事象に固有名詞をつければ、必ずやその認識が深まります。 なお、私(クーラー)がその存在を認識(意識)した順番に小崖1→小崖2→小崖3という名称(仮称)を付けてきました。そのため1、2、3という数値は場所や生起年代等の順番を表すものではありません。

小崖3を形成した地殻変動もまた宇那谷川流域の拡大と古長沼形成に関わるものです。

小崖3の関連記事
2012.2.4記事「横戸4谷津の延伸思考実験と副産物(?)
2012.2.6記事「犢橋川北岸台地上の小崖
2012.2.7記事「横戸1谷津~横戸4谷津の上流延伸部捜索

小崖3の私が考える想定分布を、同じく小崖1、2の想定分布とともに示します。

小崖1~3の想定分布図

小崖1~3想定分布図の3D表現その1

小崖1~3想定分布図の3D表現その2

小崖3は小崖2と共通性があり、古長沼形成とも関わると考えるので、引き続き検討します。

(つづく)

2012年2月27日月曜日

長沼付近の火山灰の厚さ

千葉県地質環境インフォメーションバンクのWEBページから、長沼付近の地質柱状図を入手しました。
千葉県立千葉北高校敷地内に8本のボーリングデータがあます。その詳しい検討は後日行うことにし、ここではその1つを例として示します。
このボーリング地点の位置は標高25mであり、谷津ではない台地一般面の部分です。谷津に位置しないことは、旧版1万分の1地形図でも確認できます。

長沼付近台地一般面の地質柱状図(例)

地質柱状図(例)の位置

このデータでは砂層の上に凝灰質粘土層が3m、その上にローム層が4.7m堆積していることが判ります。

芦太川の検討をした時には次のような結果を得ています。(2012.1.8記事「浅い谷の正体」参照)

芦太川におけるボーリングデータ(平均値)


ローム層厚(m
粘土層厚(m
台地一般面
4.7
3.8
浅い谷(谷津谷底)
2.3
2.5

これらのデータから、長沼付近でも陸域には(風成)火山灰が5m弱程度積もったと考えることが合理的であると考えます。

小崖1の形成前と形成後(湖沼が形成される前と後)の火山灰堆積深の割合については、不明ですので、今後検討することにします。

参考
芦太川の例では次のようになります。
(芦太川では小崖1の形成に伴う谷津截頭で谷津のアクティブさが失われ、つまり谷津の浸食運搬能力が失われ、その時点からローム層の堆積が始まったと考えました。)

小崖1形成前ローム層厚=台地一般面ローム層厚-浅い谷ローム層厚=4.7m-2.3m=2.4m
小崖1形成後ローム層厚=浅い谷ローム層厚=2.3m

つまり、小崖1形成後ローム層厚はローム層厚全体の49%となります。ざっくりとらえれば半分です。
この結果をそのまま使えば、小崖1形成後、長沼付近の陸域で約2.5m程火山灰降灰による地盤上昇があったことになります。
しかし、このように芦太川の結果を長沼に敷衍すると、長沼付近で抱いている私のイメージと少し食い違うような気もします。

この芦太川の例が長沼でどの程度参考になるのか、今後評価していきたいと思います。


いずれにせよ、小崖1形成後(古長沼形成後)火山灰降灰による地形発達があったことがボーリング資料からも確認できるので、2011.2.26記事「宇那谷川谷津の拡大プロセス仮説」の確からしさを補強することができました。

2012年2月26日日曜日

宇那谷川谷津の拡大プロセス仮説

宇那谷川谷津の幅が特段に広い理由

1 小崖1形成に伴う湖沼の成立
宇那谷川谷津はこれまで検討してきた西の諸谷津(横戸1谷津~横戸6谷津、宇那谷1谷津~宇那谷3谷津)と同じように小崖1を形成した地殻変動の影響を受けたと考えます。
その結果、小崖1の位置より南の縦断勾配が変化し(北に下る本来の勾配が水平あるいは南に下る勾配に変化し)、谷津の水が印旛沼方向へ流れにくくなり、湖沼が形成されたと考えます。
小崖1を形成した地殻変動が起こった当初の宇那谷川谷津の形状は通常の谷津と同じで、特段幅広ではなかったと考えます。

模式図1 小崖1形成前の宇那谷川谷津(概念)

模式図2 小崖1形成による宇那谷川谷津縦断形の変化(概念)

小崖1を形成した地殻変動により、谷津に水が溜まり、湖沼が出来た時、その形状は樹枝状の形状であったと考えます。

模式図3 小崖1形成後の初期の古長沼(概念)

2 火山灰降灰の陸部と水部の差別的影響による湖沼拡大プロセス
湖沼(古長沼)ができてから、この地域に火山灰降灰があり陸域は火山灰堆積深分だけ標高を増していきました。
(長沼付近のローム層高は台地一般面で約5mあります。)
湖沼(古長沼)域ではどうだったでしょうか。 ただ単に窪地に水が溜まっただけでは早期に火山灰降灰圧に負けて陸地化し、湖沼の継続は無かったと思います。
横戸4谷津などはそのような経緯をたどったと想像します。

現代まで、おそらく10万年以上長沼が継続してきたのは、湖沼が継続するだけの浸食・運搬・堆積のバランスがある程度取れていたからだと思います。万年単位でみて、湖沼は最終的に堆積が進み陸域に向かうのですが、ここでは、万年単位でみて、火山灰降灰圧に負けずに湖沼が継続するシステムがあったことに着眼することが大切です。
具体的には、湖面に降る火山灰や周辺陸地から流れ込む火山灰やシルト・細砂を湖沼から吐き出すシステムが備わっていたから湖沼が継続し、それだけでなく湖沼の面積が拡大したのだと思います。
次のような地形形成が行われたと考えます。

模式図4 宇那谷川谷底幅拡大のシステム(概念)

火山灰降灰により陸域では標高が増します。
一方水域でも湖底における堆積により湖底標高が上昇しそのため湖面標高も上昇します。
これにより標高の低い尾根は水没したものと考えます。
そのため湖沼の面積が拡大したと考えます。
つまり宇那谷川谷津の谷底幅が拡大しました。
しかし、湖沼から堆積物が掃流により流出するため、湖沼がすぐに陸化することはないというバランスが保たれていたものと考えます。なぜこのようなバランスが生じたのか、今後の検討としたいと思います。なお、そのバランスの検討要因には、地殻変動のスピードと火山灰降灰のスピードの関係が大きなものとして含まれることになります。

一旦湖沼が安定して成立すれば、風による波の影響で浸食作用が生じ、火山灰で構成される軟弱な陸域を浸食して、湖沼が拡大したことも考えられます。

3 湖沼の終焉
小崖1形成を伴う地殻変動で古長沼が成立し、湖沼範囲を拡大した(谷津を拡大した)プロセスの後、万年単位の湖沼陸化プロセスがあったと考えます。
その最終段階において人の長沼池利用がありました。
そして、自らの地史的背景を誰に知られることもなく、長沼池は戦後すぐに全て干拓されてしまいました。

2012年2月25日土曜日

宇那谷川谷津が特段に幅広い事実の確認

疑問は考え続ければ、どこからともなく回答が出てくるものです。

2012.2.25記事で報告した後、これまで私が意識してこなかった宇那谷川谷津の幅広さの理由について、考え続けてみました。
その結果、自分の見立てを立てることができそうだという感覚をもつことができるようになりました。

歴史時代の長沼池よりもっと広い湖沼がここに存在していたことを物語る証拠に関わる見立てになりそうです。

最初に、宇那谷川谷津が特段に幅広い事実を確認しておきます。
まず3D表現で直感的に見てみます。

宇那谷川筋の0.5m間隔標高区分図の3D表現
地図太郎PLUS+カシミール3D+5mメッシュ

宇那谷川筋が浅い皿のような形状になっていることが確認できます。

上記3D図に用いた0.5m間隔標高区分図にA-B線を引き、横断面図を作成しました。

横断面位置図
地図太郎PLUS+5mメッシュ

横断面図
カシミール3D+5mメッシュ

宇那谷川谷津の谷底幅は、例えば横戸1谷津~横戸3谷津の谷底と尾根を全部合わせた幅になります。
宇那谷川が自らの浸食力で幅広い谷津を作ったとは到底考えられませんから(*)、断面図にみられる宇那谷川の谷津谷底に、本来幾つかの谷津があった(原初宇那谷川とその支谷津があった)と考えるのが妥当です。

また、宇那谷川の谷津谷底は標高が23mで、西側の幾つかの谷津より標高が高くなっています。(横戸4谷津~横戸6谷津、宇那谷1谷津の谷底標高は22m)

こうした事実を手がかりに、現在の地形ではなぜ宇那谷川谷底が幅広くなったのか、私の最初の見立てを記録しておきます。

*花見川流域では、元来、北に向かって下がる地形傾斜によって谷津が形成された。地殻変動により小崖1より南の地域では、小崖1により谷津の出口がふさがれた。同時に、北に向かって下がる地形傾斜が緩やかになったり、逆転して南に向かって下がるようになった。そのため、小崖1より南の谷津は浸食力を失った。

(つづく)

2012年2月24日金曜日

宇那谷川谷津に関する新たな疑問

長沼池について、これまで気がつかなかった幾つかの事象がわかり、現地でも確認し、興味が深まっています。これらは追って報告します。

一方、新たな大いなる疑問が生じ、思考が進まない状況になっています。

長沼池の水面であった部分の現在の地形を微細に検討するために、0.2m間隔の地形段彩図を作ってあれやこれや検討している時、何気なくこの段彩図で広域を見てみました。
同じ地形パターンは何十回となく見てきているのですが、この時初めて、宇那谷川の谷津が異様に広いことに気がつきました。
これまでは、無意識的に「湖沼が出来たから、そうでない谷津と比べると谷津が広く表現される」というようにでも考えていたようです。

0.2m間隔地形段彩図(標高21.2m~24.8m間)
5mメッシュ+地図太郎
長沼池跡の現在の標高が23m前後であることから、長沼池のある谷津(宇那谷川)についてより詳細に検討するため、0.2m間隔で標高21.2m~標高24.8mの間を18区分し、それより上と下を含めて全部で20区分して、作成した地形段彩図

これまで検討してきた横戸1谷津~横戸6谷津、宇那谷1谷津~宇那谷3谷津と比べて、宇那谷川の谷津はその幅が5~6倍の約600mもあります。

長沼池跡のある宇那谷川の谷津の幅がなぜ異様に広いのか、自分の見立てを立てないことには何も手がつかない心理状況です。

2012年2月23日木曜日

宇那谷川の検討ポイントと縦断

ア 宇那谷川の検討ポイント

これまでに花見川東岸の横戸1谷津~横戸6谷津、宇那谷1谷津~宇那谷3谷津の縦断形を詳細に検討してきて、地殻変動による谷津地形の変形について詳しい事情が判ってきました。
こうした情報の総とりまとめを宇那谷川の検討で行うことになると思います。
宇那谷川について検討を深めることにより、花見川流域の地殻変動に関わる地形特性が浮き彫りになります。
そうすることにより、昨年来の懸案事項である花見川河川争奪成因分析について、その一角に深く食い込める見通しが少しずつ立ってきています。

宇那谷川の検討は次の事項について行う予定です。(順不同)

宇那谷川の検討事項
●宇那谷川の縦断
●宇那谷川と小崖2(東西性河川・河川争奪)
●宇那谷川と小崖1(長沼の発生、宇那谷川以東の小崖1)
●宇那谷川と小崖3(仮称「小崖3」命名、長沼の拡大)
●宇那谷川の南方延伸捜索
●歴史時代の長沼の盛衰(古文書、古地図情報吟味)
●長沼の利用

イ 宇那谷川の縦断

1 宇那谷川の谷筋確認
次の図は旧版1万分の1地形図で宇那谷川の谷筋を示しています。

宇那谷川筋の位置(旧版1万分の1地形図谷筋線図)
旧版1万分の1地形図は大正6年測量

宇那谷川は下流で小深川と合流し勝田川となります。(*)
宇那谷川には小崖2、小崖1、新たに見つけた小崖(小崖3の仮称付与予定)が関わり、谷津地形の変形や湖沼形成という特異な歴史を持っています。
そしてそれらが東京湾側水系の浸食作用をあまり受けないで、大半が残ったため、地域の地形の変遷を考えるうえで貴重な情報を提供しています。

図でA地点は宇那谷川の上流部かもしれないと考える地点です。
A地点とC地点の中間部までは宇那谷川の谷津を確認できます。
B地点は地殻変動によって形成された古長沼を東京湾側水系が谷頭浸食しているところです。
図には古文書から復元した長沼池の姿を参考に記入しました。(2011.5.22記事「長沼池の成因」、2011.5.23記事「長沼池と縄文遺跡」参照)

2 宇那谷川筋の現代地図投影
次の図は現代地図(DMデータ)に上記谷筋線を投影したものです。

宇那谷川筋の位置(DMデータ)
DMデータは千葉市・四街道市提供

現在長沼池は存在しません。
長沼池跡より下流の宇那谷川筋は四街道市と千葉市の行政界となっています。

3 宇那谷川筋の3D表現
次の図は宇那谷川筋を0.5m間隔標高区分図に投影し3D表現したものです。

宇那谷川筋の0.5m間隔標高区分図の3D表現
地図太郎PLUS+カシミール3D+5mメッシュ

この3D図から、地史的にみて、古文書より復元した長沼池より、より広い湖沼が存在したことの示唆を受けます。

4 宇那谷川筋の縦断面図作成
上記3のデータから、川筋の現代地形における縦断面図を作成しました。 縦断面図には1で得た旧版1万分の1地形図の等高線交点情報による大正6年地形の縦断線も記入しました。

宇那谷川筋の縦断面図
現代地形はカシミール3D+5mメッシュによる

宇那谷川筋縦断面図から、横戸1谷津~横戸6谷津、宇那谷1谷津~宇那谷3谷津と異なり、地殻変動に伴う小崖1の成立に際してその南の地形面が相対沈下したり、南に傾斜したことを確認できません。
湖沼が形成されて、湖沼堆積物により本来の地形が覆われたため、同じ地殻変動の影響を受けたにも関わらず、確認できないと考えます。

AとCの中間からCまでの縦断は、小崖1や新たに見つけた小崖のよる地殻変動の影響をあまり受けない、原初の宇那谷川の勾配を表現しているかもしれません。

BとCの縦断から、復元長沼池よりもっと広い古長沼が存在していたことの示唆を受けます。


*現在の河川行政では小深川筋を勝田川と呼び本流視していますが、自然地理的に見ると宇那谷川筋が勝田川流域における本流筋です。地名的には、宇那谷川に合流する河川は小深川と呼ばれていました。(旧版1万分の1地形図「三角原」図幅)

2012年2月22日水曜日

宇那谷3谷津の強引な思考実験

宇那谷3谷津の縦断形を強引な思考実験を伴い検討しました。

 1 宇那谷3谷津の谷筋確認
 次の図は旧版1万分の1地形図の谷筋線図で宇那谷3谷津を示しています。

宇那谷3谷津と思考実験ルートの位置(旧版1万分の1地形図谷筋線図)
旧版1万分の1地形図は大正6年測量

宇那谷1谷津、宇那谷2谷津と同じように宇那谷3谷津も小崖1で截頭されていますが、谷底の縦断形からは小崖1の段差は明瞭ではありません。
小崖1南の26.25m等高線凹地までは宇那谷3谷津として認識できます。
それより南は、強引に思考実験をすることにし、思考実験ルートとして、宇那谷3谷津はA地点まで上流にさかのぼることができる谷津と仮定し、断面を作成してみました。

A地点まで谷津が連続していると考え、思考実験ルートを設定した理由はA地点北に南北性の細長い25m等高線凹地が存在しているからです。

 2 宇那谷3谷津谷筋の現代地図投影
 次の図は現代地図(DMデータ)に上記谷筋線と思考実験ルートを投影したものです。

宇那谷2谷津と思考実験ルートの位置(DMデータ)
DMデータは千葉市・四街道市提供

 この図から、宇那谷3谷津と思考実験ルートの位置は、上流は千葉県スポーツセンター付近から国道16号に平行して走り東関東自動車道を横断し、千葉特別支援学校付近で宇那谷2谷津に合流する筋にあることがわかります。

 3 宇那谷3谷津筋の3D表現
 次の図は宇那谷3谷津筋と思考実験ルートを0.5m間隔標高区分図に投影し3D表現したものです。

宇那谷3谷津筋と思考実験ルートの3D表現
地図太郎PLUS+カシミール3D+5mメッシュ

 この3D表現図からは、思考実験ルートが谷津として必ずしも合理的に認識できるとは限らないことがわかります。
最終的にこのルートの谷津があったかどうかの結論は別にして、現在のところ、少し強引すぎる谷津の仮想です。
しかし、旧版地形図におけるA地点北の南北性の細長い25m等高線凹地が、現在も谷津地形として残存していることが確認でき、それがどの谷津に連続しているかが検討課題であることがわかっただけでも一つの思考実験成果であると思います。

 4 宇那谷3谷津の縦断面図作成
 上記3のデータから、谷筋と思考実験ルートの現代地形における縦断面図を作成しました。縦断面図には1で得た旧版1万分の1地形図の等高線交点情報による大正6年地形の縦断線も記入しました。

宇那谷3谷津と思考実験ルートの縦断面図
現代地形はカシミール3D+5mメッシュによる

 宇那谷3谷津縦断面図でも、横戸1谷津~横戸6谷津、宇那谷1谷津、宇那谷2谷津と同様の小崖1との関係をみることができますが、あまり明瞭ではありません。
 宇那谷3谷津と新たに見つけた小崖・宇那谷川の延伸谷津との関係については、追って検討します。

現在想定していることは、ここで設定した思考実験ルートのような「原初宇那谷3谷津」があり、その後新たに見つけた小崖を伴う地殻変動で東西方向の宇那谷川の延伸谷津ができ、それによって「原初宇那谷3谷津」が分断されたという想定です。
この想定の適否について追って検討します。

2012年2月21日火曜日

宇那谷2谷津の縦断形

宇那谷2谷津の縦断形を検討しました。

1 宇那谷2谷津の谷筋確認
次の図は旧版1万分の1地形図の谷筋線図で宇那谷2谷津を示しています。

宇那谷2谷津の位置(旧版1万分の1地形図谷筋線図)
旧版1万分の1地形図は大正6年測量

宇那谷1谷津と同じように宇那谷2谷津も小崖1で截頭されていますが、谷中分水界は宇那谷1谷津のように北に大きく離れてはいません。
これまで検討してきた横戸1谷津~横戸6谷津、宇那谷1谷津とことなり、宇那谷2谷津は東京湾側水系の谷によってではなく、新たに発見した小崖によって切られ、そこは宇那谷川の延長谷津になっています。
宇那谷2谷津の上流はとても変則的な地形になっています。(2012.2.7記事「横戸1谷津~横戸4谷津の上流延伸部捜索」参照)

2 宇那谷2谷津谷筋の現代地図投影
次の図は現代地図(DMデータ)に上記谷筋線を投影したものです。

宇那谷2谷津の位置(DMデータ)
DMデータは千葉市・四街道市提供

この図から、宇那谷2谷津の位置は、上流は国道16号の長沼交差点付近から千葉北インター付近を通り、千葉北警察署付近で宇那谷1谷津を合わせ、四街道市との境付近で宇那谷川に合流する川筋であることがわかります。

3 宇那谷2谷津筋の3D表現
次の図は宇那谷2谷津筋を0.5m間隔標高区分図に投影し3D表現したものです。

宇那谷2谷津筋の0.5m間隔標高区分図の3D表現
地図太郎PLUS+カシミール3D+5mメッシュ

この3D表現図は広域を表現しているので、東関東自動車道と千葉北インターなどの強い人工改変の存在にも関わらず、本来の地形の様子をマクロに観察することができます。

4 宇那谷2谷津の縦断面図作成
上記3のデータから、谷筋の現代地形における縦断面図を作成しました。
縦断面図には1で得た旧版1万分の1地形図の等高線交点情報による大正6年地形の縦断線も記入しました。

宇那谷2谷津の縦断面図
現代地形はカシミール3D+5mメッシュによる

宇那谷2谷津縦断面図は、横戸1谷津~横戸6谷津・宇那谷1谷津と同様に、地殻変動に伴う小崖1の成立に際してその南の地形面が相対沈下しただけでなく、南に傾斜したことをここでも確認できます。(本来北に向かって下がるべき縦断形がほぼ水平になっているため、土地全体が南に傾斜したと判断できる。)


宇那谷2谷津と新たに見つけた小崖・宇那谷川の延伸谷津との関係については、追って検討します。
3D表現図を見ると宇那谷川の上流延伸谷津(浅い谷)と東京湾側水系(犢橋川の深い谷)が東西正面からわざわざ「ご対面」しているように見えます。その理由も含めて検討します。

2012年2月20日月曜日

強(コワ)い理由

2011.7.28記事「子和清水」で、子和(コワ)清水のコワは強(コワ)い清水の意味で、どんな干天でもこの清水だけは水が枯れないという意味だと述べました。
その強(コワ)い理由が宇那谷1谷津縦断形の検討の中で浮かび上がってきました。
理由を箇条書きしてみます。

子和清水が強(コワ)い理由
1 背後の流域が広いこと
子和清水の地形的流域を旧版1万分の1地形図から抽出しました。

子和清水の地形上の集水流域
旧版1万分の1地形図(大正6年測量)

子和清水の地形上の集水流域は面積が12.5haあり、近隣の東京湾水系谷頭浸食部の中では広い面積を有しています。
広い集水流域を有する理由の一つは、小崖1より北側200m程度の土地が東京湾側水系になっているからです。
小崖1より北側が東京湾側水系になっているところは、横戸1谷津~横戸6谷津では見られませんでした。

2 流域に凹地があること
旧版1万分の1地形図には閉じた23.75m等高線で凹地が表現されています。
台地上の浅い谷の凹地は地下に対して漏斗のような役割を果たしている地下水涵養装置であると考えられます。

3 子和清水が流域狭窄部の直下にあること
子和清水流域の最下流が地形的な狭窄部になっています。このため、流域に集まった水がおのずと一か所に集まり、子和清水に流れ出すようになっています。
地形からみると、子和清水流域が地下ダムのような役割を果たしている印象を受けます。

子和清水北の地形的狭窄部
旧版1万分の1地形図(大正6年測量)

4 東側台地に広大な凹地があること
子和清水東側には宇那谷2谷津の広大な凹地があります。この凹地から涵養された地下水の逃げ場の一つが子和清水である可能性が濃厚です。


旧版1万分の1地形図では、子和清水は池と流路筋によって、オタマジャクシのような姿で描かれています。
流路筋は標高22.5m等高線から下に描かれていて、台地(正確には宇那谷1谷津の谷底)の標高は23.75m~25mです。このことから流路筋を流れる水は地下水といっても降雨の影響を受けやすい宙水であると考えられます。
池は17.5m付近に描かれていてここには降雨の影響を受けにくい地下水が湧いていたものと考えます。

子和清水の姿と等高線
旧版1万分の1地形図(大正6年測量)

2012年2月19日日曜日

宇那谷1谷津の縦断形

宇那谷1谷津の縦断形を検討しました。

1 宇那谷1谷津の谷筋確認
次の図は旧版1万分の1地形図の谷筋線図で宇那谷1谷津を示しています。

宇那谷1谷津の位置(旧版1万分の1地形図谷筋線図)
旧版1万分の1地形図は大正6年測量

等高線の分布から宇那谷1谷津も小崖1で截頭されていることがわかりますが、特徴的なことは小崖1より北約200m離れたところに谷中分水界があることです。
小崖1より北側で谷津縦断形状が南に傾くという現象は横戸1谷津~横戸6谷津では見られませんでした。
また小崖1のすぐ南では23.7m等高線の凹地があります。
そのさらに南で宇那谷1谷津は東京湾側水系の谷によって切られています。

その浸食谷壁に流水が流れ下に池があります。民話の伝わっている子和清水です。(2011.7.28記事「子和清水」参照)

2 宇那谷1谷津谷筋の現代地図投影
次の図は現代地図(DMデータ)に上記谷筋線を投影したものです。

宇那谷1谷津の位置(DMデータ)
DMデータは千葉市提供

この図から、宇那谷1谷津の位置は、上流は千葉北インター敷地内で、千葉北警察署のある交差点の北で国道16号を横断していることがわかります。

なお、子和清水は千葉北インター敷地内に位置し現在は存在しません。

3 宇那谷1谷津谷筋の3D表現
次の図は宇那谷1谷津谷筋を0.5m間隔標高区分図に投影し3D表現したものです。

宇那谷1谷津谷筋の0.5m間隔標高区分図3D表現
地図太郎PLUS+カシミール3D+5mメッシュ
DMデータも投影表示している

東関東自動車道と千葉北インター、国道16号とその沿線開発などにより自然地形の面影の大半は失われています。

4 宇那谷1谷津の縦断面図作成
上記3のデータから、谷筋の現代地形における縦断面図を作成しました。 縦断面図には1で得た旧版1万分の1地形図の等高線交点情報による大正6年地形の縦断線も記入しました。

宇那谷1谷津の縦断面図
現代地形はカシミール3D+5mメッシュによる

宇那谷1谷津縦断面図は、横戸1谷津から横戸6谷津と同様に、地殻変動に伴う小崖1の成立に際してその南の地形面が相対沈下しただけでなく、南に傾斜したことを確認できます。(本来北に向かって下がるべき縦断形がほぼ水平になっているため、土地全体が南に傾斜したと判断できる。)
さらに、小崖1より約200m北の範囲も南に傾斜しています。
小崖1より北側が南に傾斜することは横戸1谷津~横戸6谷津ではなかったことです。

宇那谷1谷津のこのような縦断形が南側に対する集水効果を持つことになり、子和清水の存在理由の一つになったと考えます。

2012年2月16日木曜日

等高線の間隔は0.625m

横戸1谷津~横戸6谷津の地形縦断図作成をしましたが、改めて旧版1万分の1地形図の等高線間隔を確認しました。
旧版1万分の1地形図の等高線間隔の基本(主曲線)は2.5m間隔です。
地形が平坦になっている土地では、2.5mを等高線3本(補助曲線)で4分割します。つまり等高線(補助曲線)の間隔は62.5㎝です。

 旧版1万分の1地形図の等高線間隔
補助曲線の間隔は62.5㎝

 旧版1万分の1地形図の等高線体系を体験的に整理すると次のようになります。

計曲線(実線) 25m
 主曲線(破線) 2.5m
 第一次補助曲線(点線) 1.25m
第二次補助曲線(点線) 0.625m

 参考 現在の1万分の1地形図の等高線体系
計曲線 10m
 主曲線 2m
補助曲線 1m

 旧版1万分の1地形図では、主曲線が実線ではなく破線であり、第一次補助曲線と第二次補助曲線が同じ間隔の点線であり、印刷不鮮明も手伝って、直感的解読ができないことがしばしばです。
しかし、今となっては大変貴重な情報源、文化財産です。

 なお、旧版1万分の1地形図の図式で入手できるものは、地図左に印刷されている「符号」のみです。この中に等高線の解説はありません。
この「符号」の中に「符号ノ詳細ハ明治四十二年式地形図々式ニアリ」という注記があります。
この図式について国土地理院に問い合わせたところ、明治42年式地形図図式は終戦時の混乱で紛失し、現在情報が失われている状況にあるとの説明でした。

 国土地理院には無いにしても、世の中のどこかには存在しているに違いないという希望を捨てずに、明治42年式地形図図式を気長に探してみたいと思います。

2012年2月15日水曜日

三角町の地名由来

千葉市花見川区に、変則的平面形状をしている三角町(さんかくちょう)があります。

三角町の区域

「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)には、1954年に三角町が設定され、1971年にこてはし台1・3・4丁目が分離し、現在の二分する姿になったことが記述されています。

同時に、三角町の地名由来として「直接には旧陸軍軍用地時代の『三角原射場』の名前に由来すると思われる。」とあります。
肝心の「三角原射場」の「三角」(さんかく)の由来説明はありません。

 三角の由来をかねてから知りたいと思っていました。
「三角測量」、「三角射撃?」、…など陸軍の演習活動に関係した由来かもしれないと想像したこともありました。

 旧版1万分の1地形図には「三角台」「三角原」の地名がありますから、この地図をよく見てみました。

 三角があります。正三角に近いきれいな三角です。

地図に表れた三角
旧版1万分の1地形図(大正6年測量)

 迅速図にもこの三角は出てきます。

迅速図
千葉県下総国千葉郡長沼新田印旛郡宇那谷村図幅(部分)
明治15年測量

 地図の中の「三角形」と「地名三角の由来は?」という思考が結びついた途端、この三角形が地名三角の由来だと直感しました。

このような地名のでき方は普通はありえませんが…。

 この三角形が地名三角の由来であると考える理由は次の通りです。
1 旧版1万分の1地形図には三角形のすぐそばに地名「三角台」が書かれており、三角形と地名三角との関係の強さが示唆されます。
小崖1の上(北側)つまり「台の上」に三角形があり、三角台の地名命名のもっともらしさをさらに感じます。
 2 明治以前の古文書には地名三角が確認できないことから、明治以降この土地が演習場になってから地名三角が生まれたものと考えます。
その場合、地名を付けたのは陸軍関係者以外には考えられません。
陸軍関係者は一般住民とことなり、地図を常時活用して土地を利用します。演習活動に地図は不可欠です。
したがって、地図に表れるこの特徴的形状をもって地名を付けるという、一般の地名のつけ方と全く異なる地名命名法が実在した可能性を支持します。
なお、大正初期には下志津飛行場を使った航空機偵察隊の活動がこの地域で行われていた可能性があり、偵察や爆撃訓練で、この三角が茫漠とした土地における格好の目印になり、地名形成につながった可能性も考えられます。(※)

 ※ 下志津陸軍飛行学校の設立は大正8年。三角原射場は「爆撃基本目標」が設定され、一般の砲撃ではなく、下志津陸軍飛行学校の演習活動(と毒ガス演習)に利用されていた。(近衛師団管轄演習場規程、昭和17年)三角原射場関連記事参照(2011.01.21記事「下志津射場図 6 演習場の区分」)

 現在の三角町には三角を名称つけた企業等が多数ありますが、中には三角を「さんかく」ではなく、「みすみ」とわざと読ませる企業もあります。
「さんかく」では八木節の三角野郎のようなイメージになり、望む格調が保てないが、地名は尊重したいという苦肉の策かも知れません。

2012年2月14日火曜日

小崖1の存在を意識した地名

横戸1谷津~横戸6谷津の地形について検討する中で、旧版1万分の1地形図をじっくり見ることができました。
この中で、地形を示す次の地名を見つけました。

旧版1万分の1地形図における地形を示す地名

 この地図を3D表現してみると次のようになります。

旧版1万分の1地形図の3d表現
ただし、3d表現の地形は現代の地形です。

 花島台、三角台、長沼台ともに小崖1によって区切られる北側の台地を指しています。
このことから、花島台、三角台、長沼台の命名は、低地と台地を区分したときの台地を意味するのではないことは明らかです。
花島台、三角台、長沼台の命名は小崖1の存在を意識して、それにより区切られた台地の中でも一段高い部分を指して行われています。
小崖1と並行して走る道路があります。この道路は迅速図にも出てくる道路です。この道路を通ると小崖1の存在を強く意識させられたに違いありません

花島台、三角台、長沼台という地名は旧版1万分の1地形図以前の古文書には出てこないので、明治以降命名されたものと考えられます。
私の推測では、広大な土地に地名が不足して演習場活動に不自由していたため、陸軍関係者の間で活動に必要な地名が明治年間には生まれ使われており、大正6年の旧版1万分の1地形図作成時に、採録された地名だと思います。

なお、長沼台より東には六方岡、塚見岡、宇那谷岡、大作岡などの「岡」地名が付けられています。

陸軍演習場に関わる軍事的観点からの地名形成の歴史が花見川流域にあります。

2012年2月13日月曜日

横戸6谷津の縦断形

横戸6谷津の縦断形を検討しました。

 1 横戸6谷津の谷筋確認
次の図は旧版1万分の1地形図の谷筋線図で横戸6谷津を示しています。

横戸6谷津の位置(旧版1万分の1地形図谷筋線図)
旧版1万分の1地形図は大正6年測量

 等高線の分布から小崖1より南で、横戸5谷津は南に向かって下っている様と、それが東京湾側水系の谷によって切られていることが判ります。

 2 横戸6谷津谷筋の現代地図投影
次の図は現代地図(DMデータ)に上記谷筋線を投影したものです。

横戸6谷津の位置(DMデータ)
 DMデータは千葉市提供

 この図から、横戸6谷津の位置は、県立犢橋高校付近で横戸5谷津に合流する谷津で、千葉市北清掃工場付近がその上流部にあたることがわかります。

 3 横戸6谷津谷筋の3D表現
次の図は横戸6谷津谷筋を0.5m間隔標高区分図に投影し3D表現したものです。

横戸6谷津谷筋の0.5m間隔標高区分図の3D表現
地図太郎PLUS+カシミール3D+5mメッシュ
 DMデータも投影表示している

 4 横戸6谷津の縦断面図作成
上記3のデータから、谷筋の現代地形における縦断面図を作成しました。縦断面図には1で得た旧版1万分の1地形図の等高線交点情報による大正6年地形の縦断線も記入しました。

横戸6谷津の縦断面図
現代地形はカシミール3D+5mメッシュによる

 横戸6谷津縦断面図から、横戸1谷津から横戸5谷津と同様に、横戸6谷津も地殻変動に伴う小崖1の成立に際してその南が相対沈下しただけでなく、南に傾斜したことを確認できます。

2012年2月12日日曜日

花見川と月

早朝散歩で弁天橋から南方向に花見川を見た時、月がとても印象的でした。
なぜか、いつもよりこの日(2012.02.12)は透明な感じが強い朝でした。

早朝花見川上空の月(宵月)