2020年6月30日火曜日

国宝土偶「縄文のビーナス」と子どもへの投資

縄文土器学習 417

2020.06.28記事「国宝土偶「縄文のビーナス」の下腹部陰刻」、2020.06.29記事「国宝土偶「縄文のビーナス」女の一生の意味」に引き続いて、「縄文のビーナス」が副葬品であるか、製作者や所有者はだれか、国宝土偶「仮面の女神」との比較などについて考察してみました。

1 「縄文のビーナス」は副葬品か
小形土壙(径79㎝×70㎝、深さ18.5㎝)の壁際に横たわって「縄文のビーナス」が出土しました。

出土状況
鵜飼幸雄著「国宝土偶「縄文ビーナス」の誕生 棚畑遺跡」(2010、新泉社)から引用
子どもを埋葬した土坑墓の副葬品として「縄文のビーナス」を捉えてよいようです。

2 製作者や所有者はだれか
鵜飼幸雄著「国宝土偶「縄文ビーナス」の誕生 棚畑遺跡」(2010、新泉社)では、この土偶は北環状集落の時代つまり中期中葉Ⅰ(貉沢式期)に作られ、その土偶が集落内で長らく伝世し、南環状集落の時代つまり中期中葉Ⅲ(藤内式期)以降に埋納されたと想定しています。

棚畑遺跡の土器編年
鵜飼幸雄著「国宝土偶「縄文ビーナス」の誕生 棚畑遺跡」(2010、新泉社)から引用

棚畑遺跡の集落全体図
鵜飼幸雄著「国宝土偶「縄文ビーナス」の誕生 棚畑遺跡」(2010、新泉社)から引用

この想定に従えば、「縄文のビーナス」は北環状集落のリーダー家であるとき作られ、代々リーダー家を重要祭具として伝世し、南環状集落に移動した後も同じ家族がリーダー家であったことが想定されます。そしてある時母系社会において跡継ぎになるべき女の子が死亡し、その女の子埋葬の副葬品として「縄文のビーナス」が埋納されたと考えることができます。
跡継ぎになるべき女の子が将来担うであろうリーダーシップの大きさに匹敵するだけの価値あるものとして「縄文のビーナス」が存在したのだと思います。
代々伝世してきた集落重要祭具「縄文のビーナス」を女の子亡骸と一緒に埋納することに集落民一同異議は無かったということです。
それだけ死んだ女の子に期待されていたリーダーシップが大きかったということです。
ここに死んだ女の子が属する家族が他の集落家族と異なる特別な人々だった可能性を推測することができるのだと思います。特別な家柄が存在するという、社会階層化の一端が浮かび上がったということです。
棚畑遺跡集落のリーダー家は「縄文のビーナス」を副葬品として死んだ女の子に持たせました。これは「子どもへの投資」として考えることができます。女の子はあの世に行って「縄文のビーナス」を所持していて、良い家柄の人として上位のポジションを得ることができます。「縄文のビーナス」副葬は財力や権力の世襲を暗示しています。

「縄文のビーナス」を実際に製作した技能者は集落リーダー家の人間とは限らないと想像します。近郷集落で土偶作成技術が特段に秀でた技能者(芸術家)を財力で招へいしたかもしれません。

3 国宝土偶「仮面の女神」との比較

国宝土偶「縄文のビーナス」と国宝土偶「仮面の女神」
ともに3Dモデルから作成した正面オルソ投影画像

ア 類似性
・大型土偶(高さ「縄文のビーナス」27㎝、「仮面の女神」34㎝)
・造形物として完成度が高い
・破壊が少ない(「縄文のビーナス」は破壊なし)
・少女埋葬と推定される土壙から出土(副葬品)
・横たわった出土状況を呈する
・八ヶ岳山麓近隣遺跡から出土(棚畑遺跡と中ッ原遺跡の直線距離は3.9㎞)

棚畑遺跡と中ッ原遺跡の位置

イ 差異性
・作成年代(「縄文のビーナス」は中期中葉初頭、「仮面の女神」は後期前半)
・土偶モチーフ(「縄文のビーナス」は女の一生、「仮面の女神」は集団見合い(成女式)※)
・類似土偶の存在(「縄文のビーナス」は類似土偶少ない、「仮面の女神」は類似土偶多い)
※2020.03.20記事「国宝土偶「仮面の女神」注記付き3Dモデルと想像的解釈」参照

ウ 考察
「仮面の女神」は陰部をことさら強調して露出していることに示されるように、生殖活動を指向している用途で使われたことが直観できます。男女交合が縄文時代の生命復活再生・恵みの豊穣再生産に不可欠な祭祀モチーフであり、その演出道具の一つが土偶であるという認識とよく適合します。
直截的に言えば、「この土偶を祈願道具にして、わが娘の伴侶を早く見つけて、一家をつくれるようにしよう」という現世のご利益にかかわる土偶です。
一方、「縄文のビーナス」は妊娠出産を軸とする女の一生を表現しています。この土偶の用途は「わが娘が幸福な女の一生を送れますように」という祈願になると考えます。
縄文人が今生きているわが娘に「幸福な女の一生を送れますように」と土偶を使って抽象的に祈願することはあり得ないと思います。やはり土偶に託す祈願はあくまでも具体的だと思います。
そういう意味で、「縄文のビーナス」のモチーフが女の一生であるならば、それは死んだわが子に持たせてあの世で良い女の一生が、そして生まれ変わったこの世でも良い女の一生を送れるようにしたのだと思います。
つまり、この「縄文のビーナス」はそのモチーフが抽象的であるという理由から、わが子が死んでから殯期間(数か月とか1年とか)に作って、わが子のミイラを埋葬するときに一緒に持たせた(埋納した)のだと想像することもできます。「縄文のビーナス」の類似土偶が近隣遺跡から出土していないことが、この土偶が長期間伝世していたものではないことを物語っているのかもしれません。

2020年6月29日月曜日

国宝土偶「縄文のビーナス」女の一生の意味

縄文土器学習 416

2020.06.28記事「国宝土偶「縄文のビーナス」の下腹部陰刻」に引き続き「縄文のビーナス」の女の一生の意味について考えてみました。
ブログ「芋づる式読書のメモ」2020.06.29記事「精神文化の高揚」で学習した「回帰・再生・循環」を参考に、次のようなイメージが頭に浮かびましたので、現時点思考としてメモしておきます。

国宝土偶「縄文のビーナス」における女の一生の意味

メモ
ア 土偶形象は女の一生を「誕生→少女→妊娠→出産まぢか」場面を「顔→乳房→腹→陰部」で表現しています。
イ 妊娠→出産で世代継承が計られていることを表現しています。
ウ 人は死ぬとあの世に行き、そこでの生活があり、その後産道から顔を出してこの世に生まれかわることを表現しています。
エ 若死にした子どもに女の一生を描いた土偶を副葬することによって、あの世から次に生まれ変わり戻って来た時には妊娠出産という女の使命を全うできる幸福な生活が実現できるように祈願したのだと考えます。次にこの世に戻った時は女の一生を送れるように死んだ子に対して親が祈願したのだと思います。
オ 子どもが死んでから、副葬品としてこの土偶を「特注品」でつくったと想定します。親が作ったというより集落女性陣の総力を挙げて作った優品だと想像します。

2020年6月28日日曜日

コハクルートとヒスイルート

縄文社会消長分析学習 31

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)の学習のなかで茅野市棚畑遺跡から銚子産コハク製品と糸魚川産ヒスイ製品が出土していることを知りました。
ブログ「芋づる式読書のメモ」2020.06.27記事「中期の社会構造」参照
コハク製品とヒスイ製品の生産遺跡は限られていますからそれらが棚畑遺跡までやってくる運搬ルートは推定可能であると考えました。さらに、この二つのルートを合わせれば、ヒスイが房総にやってくるルートも浮かび上がることになります。
早速コハクルートとヒスイルートを想定してみました。

1 茅野市棚畑遺跡に至るコハクルートとヒスイルートの想定

茅野市棚畑遺跡に至るコハクルートとヒスイルートの想定
国土地理院3Dモデル(色別標高図+陰影起伏図)
垂直倍率:×9.9
銚子市粟島台遺跡:コハク製品生産遺跡
糸魚川市長者ケ原遺跡:ヒスイ製品生産遺跡
茅野市棚畑遺跡:ヒスイ製品、コハク製品出土遺跡

動画

2 メモ
コハクルートはコハク製品生産遺跡である銚子市粟島台遺跡→加曽利貝塚→堀之内貝塚→東京湾渡海→武蔵野台地の拠点集落→多摩丘陵横断→相模川流域→相模川沿い西進→笹子峠→甲府盆地→釜無川沿い西北進→宮川沿い西北進→茅野市棚畑遺跡(約280㎞)としてイメージできます。
ヒスイルートは糸魚川市長者ケ原遺跡→姫川沿い南進→松本盆地→塩尻峠→諏訪湖→茅野市棚畑遺跡(約130㎞)としてイメージできます。
ヒスイルートとコハクルートを合わせると、ヒスイが房総に運ばれた主要ルート(約410㎞)としてイメージすることができます。
今後、このルート沿いの主要中継集落を調べ、より精細なルートを想定することにします。
なお、コハク製品の移動だけでなく人の移動もあったと考えられます。房総から棚畑遺跡に婿入りが、反対に棚畑遺跡から房総に婿入りがあったかもしれません。房総に満遍なく分布する非在地系土器や長野県から多数出土する加曽利E式土器は間接的文化伝播だけでなく、人の移動(移住)も伴っていたと想像します。
2020.06.21記事「墓制の展開」参照

3 参考

地理院地図画面

地理院地図3Dモデル画面

国宝土偶「縄文のビーナス」の下腹部陰刻

縄文土器学習 415

国宝土偶「縄文のビーナス」が「子どもへの投資」として理解できるとして、世襲的地位の継承が存在した可能性があり、縄文中期に社会的成層化が存在した可能性を無下には否定できないとする山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)の記述には大いに刺激を受けます。
ブログ「芋づる式読書のメモ」2020.06.27記事「中期の社会構造」参照
この強い知的刺激により「縄文のビーナス」について次のような疑問・興味が生まれましたので、順次検討することにします。
1 下腹部陰刻は何を表象するのか
2 女の一生を表現する意味は何か
3 土偶は副葬品か
4 土偶作成者、土偶所有者はだれか
5 国宝土偶「仮面の女神」との差異性と類似性

この記事では「縄文のビーナス」で今一つそれが表象するものの意味が判らなかった下腹部陰刻の意味について検討します。

1 「縄文のビーナス」下腹部陰刻

「縄文のビーナス」下腹部陰刻
3Dモデルから正面オルソ投影画像に下腹部陰刻を彩色し、3Dモデルで観察できる脚部付け根線を点線で示してあります。
この土偶では下腹部陰刻が脚部に及んでいることが特徴です。

2 下腹部陰刻と妊娠線との対応

下腹部陰刻と妊娠線との対応
下腹部陰刻の範囲と妊娠線の濃い部分が略一致します。妊娠9カ月、10カ月頃顕著になる妊娠線の様子とその中央付近に位置する陰部(陰毛)を合わせた形状が下腹部陰刻の形状であると考えます。この形状が現れると出産間近であるので、出産サインとして土偶に使われたと考えることができます。

3 女の一生

縄文のビーナスにみる女の一生
縄文のビーナスは女の一生を表現しているといわれていますが、下腹部陰刻が出産間近を暗示していることが妊娠線との対応で確かめることができました。
なぜ女の一生が表現されるのかは別に検討します。

4 対称弧刻文
対称弧刻文といわれる陰刻がありますが、これもへそ下付近の妊娠線を表現していると考えることが妥当です。

「子宝の女神ラヴィ」の対称弧刻文と逆三角形
「土偶展」長野県立歴史館から引用加筆
対称弧刻文は妊娠線発達により生まれた下腹の模様を、逆三角形は陰部を表現していると考えます。


2020年6月26日金曜日

3Dモデルを作成した主な土偶・人面土版

縄文土器学習 414

この1年間に私が作成した主な土偶・人面土版3Dモデルの出土遺跡を立体地図にプロットしました。そして、アノテーションから3Dモデル掲載ブログ記事に飛べるようにリンクを貼りました。

3Dモデルを作成した主な土偶・人面土版
地理院地図3Dモデル(色別標高図+陰影起伏図)
垂直倍率:×9.9
アノテーションからブログ記事にリンク

動画

立体地図をいじって遺跡位置を直観し、そこからリンクで土偶・人面土版の3Dモデルに飛べます。その一連の操作を繰り返しながら、地理上の位置と3Dモデルそのものを一体総合的かつ直観的に考察することができます。
土偶に限らず、特定視点、切り口で集めた遺物・遺構等の3Dモデルに応用可能なテクニックです。3Dモデルに限らず全ての情報(web記事掲載情報)に適用することも可能なテクニックです。
ブログ「世界の風景を楽しむ」2020.06.26記事「世界歴史考古3Dモデル80の地球型3D配置モデル」で紹介した3DモデルAround the World in 80 Models Posts by Abby Crawfordを早速自分の手持ち資料に適用してみた試作です。

2020年6月25日木曜日

昭和39年調査出土安行3b式土器のGigaMesh Software Framework展開図作成

縄文土器学習 413

2020.06.24記事「昭和39年調査出土 安行3b式土器」で観察した安行3b式土器について3DモデルからGigaMesh Software Frameworkにより展開図を作成して、その模様を観察してみました。

1 展開図作成に使った3Dモデル

縄文晩期安行3b式土器(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル
旧Ⅴトレンチ昭和39年調査出土
撮影場所:加曽利貝塚博物館 企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」
撮影月日:2020.06.17
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 74 images
口径8.0㎝、胴部径10.7㎝、高さ7.3㎝(3Dモデルから計測)

2 GigaMesh Software Frameworkによる展開図と観察


展開図(全体)


展開図主部のつる植物様模様

3 メモ
・展開図の胴部中央の模様をよく見ると曲線沈線がそれぞれ単独で存在していてつながっていません。つまり沈線が特定の面形状構成要素ではなく、それ自身が模様構成要素となっています。
・曲線沈線は各所から円を描きながら湧き上がってくるつる植物を図案化したように観察できます。つる植物が生い茂り重なり合っている様子が表現されているように観察できます。
・つる植物が何であるかはわかりませんが、この土器が祭器でありお墓の前にお供え物食べ物を入れたものであるとの想定を前提にすると、意味のあるつる植物であることは確実です。漠然とした図案として書かれたのではなく、つる植物を描くことがこの土器にふさわしかったと考えます。
・このように想像を重ねると、このつる植物は食糧を得るために栽培していたマメ科植物かもしれません。

神津島黒曜石陸揚地の見高段間遺跡

縄文社会消長分析学習 30

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)で交換・交易について学習し、その中で神津島黒曜石の陸揚地が見高段間遺跡であることを知りました。
ブログ「芋づる式読書のメモ」2020.06.16記事「広域交換・交易
早速見高段間遺跡概説書(池谷信之著「黒潮を渡った黒曜石 見高段間遺跡」(2005、新泉社))を読んで、自分なりの思考を楽しみましたので、その結果をメモします。

1 神津島黒曜石陸揚地としての見高段間遺跡
・神津島からの丸木舟による帰路航海での海流影響や目標地形等から見高段間遺跡地点が黒曜石陸揚地として選定されたと考えられる。
・見高段間遺跡では、中期後半には伊豆半島で類例のない環状集落がつくられ、神津島黒曜石採鉱の本土拠点・陸揚地・出荷地という交易機能特化型生活が営まれました。
・環状集落を営んだ人々は土器胎土分析から神奈川県西部地域と交易して土器を入手していたようです。したがって黒曜石は神津島→見高段間遺跡→神奈川県西部地域→関東平野という交易ルートが考えられます。

見高段間遺跡の盛衰
池谷信之著「黒潮を渡った黒曜石 見高段間遺跡」(2005、新泉社)から引用
加賀利は加曽利の誤字
加曽利E3式は加曽利EⅡ式に対応すると想定します。

見高段間遺跡の盛衰は関東地方西南部の盛衰と軌を一にしていたと想定します。

関東地方西南部における竪穴住居跡数の推移
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」から引用

2 黒曜石原産地組成における神津島黒曜石の割合

黒曜石原産地組成における神津島黒曜石の割合 縄文中期前半
池谷信之著「黒潮を渡った黒曜石 見高段間遺跡」(2005、新泉社)から引用
縄文中期前半は見高段間遺跡の遺構・遺物の量が虚弱であることから、この遺跡を経由しないで神津島黒曜石が採掘され流通していたと考えられています。
まだ人口急増前ですから神津島黒曜石だけで関東平野縄文社会の黒曜石需要を賄っていたと考えられます。

黒曜石原産地組成における神津島黒曜石の割合 縄文中期後半
池谷信之著「黒潮を渡った黒曜石 見高段間遺跡」(2005、新泉社)から引用
この時期が見高段間遺跡の最盛期です。見高段間遺跡を拠点に多量の黒曜石が出荷されたと考えられますが、需要に追いつかず信州系の黒曜石が多量に流入しています。この時期に信州では黒曜石採掘の再開発が盛んにおこなわれたと考えられています。

3 石器組成と黒曜石重量の時期変化
この図書に石器組成と黒曜石重量の時期変化グラフが掲載されています。

石器組成と黒曜石重量の時期変化
池谷信之著「黒潮を渡った黒曜石 見高段間遺跡」(2005、新泉社)から引用
前期中葉から中期後半古までの期間に狩猟系石器の割合が減り、採取系石器の割合が増えます。住居1件あたりの黒曜石重量も減少します。

これは、植物質食糧をより一層効率的に入手して人口を増やすことができるシステムが生まれたことを表現しています。
逆にいえば、人口増により植物質食糧の割合を増やさなければ人口を養っていけない様子が反映されていると考えます。

狩猟により得た獣肉が「ときどき腹を満たす食べ物」から、「貴重なおかず」になり、最後は年間何回も食べられない「珍味」になっていった様子を表現していると考えます。中期後半新は人口急減後の狩猟復活期の様子を表現しています。

なお、前期中葉から中期後半古までの期間に狩猟系石器(特に黒曜石)の需要が急増したことはこのグラフには表現されていません。
多くの人々が黒曜石を渇望し、手にいれた黒曜石により石鏃をつくり狩猟をしてもみんなが獣にありつけないという状況(狩猟民としてみれば環境危機状況)が存在していたと考えます。


神津島と見高段間遺跡の位置 地理院地図3Dモデル
写真、垂直倍率×9.9



2020年6月24日水曜日

ちば市政だより 2020Chiba 7

全戸配布された「ちば市政だより 2020 Chiba 7」の2ページ~3ページ見開きで加曽利貝塚発掘調査レポートが掲載されています。

「ちば市政だより 2020 Chiba 7」の2ページ~3ページ見開き
もっこふんどし着装土偶や石剣3本は最近ブログ記事に書きましたので否が応でも目に飛び込みます。
行事案内ではなく発掘調査レポートそのものがコンテンツとなっていて興味が湧きます。また見開き2ページの情報量ですから迫力があります。写真が大きいのでわかりやすく出土物に親しみが湧いてきます。千葉市民に対する特別史跡加曽利貝塚の面白さを伝える効果的広報になっています。同時に千葉市行政が加曽利貝塚を一つの文化的柱にしようとしていることが市民に伝わると思います。

ちば市政だよりの2月号表紙には実物大土版写真が出ていて早速千葉市埋蔵文化財調査センターにおもむき撮影して観察したことを思い出しました。

「ちば市政だより 2020 Chiba 2」表紙

これまではちば市政だよりはあまり見たことがありませんでしたが、これからは目を通すことにします。

昭和39年調査出土 安行3b式土器

縄文土器学習 412

加曽利貝塚博物館企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」で展示されている縄文晩期安行3b式土器(昭和39年調査出土)の観察記録3Dモデルをつくりました。

1 縄文晩期安行3b式土器(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル

縄文晩期安行3b式土器(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル
旧Ⅴトレンチ昭和39年調査出土
撮影場所:加曽利貝塚博物館 企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」
撮影月日:2020.06.17
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 74 images
口径8.0㎝、胴部径10.7㎝、高さ7.3㎝(3Dモデルから計測)

展示の様子

展示の様子 加工グラフィック

動画

2 メモ
この土器に関する詳しい情報は知らないのですが、完形で出土しているようです。
大きさや形状から祭祀におけるお供えの食べ物を入れる祭具としての容器であると想像します。例えばお墓の前に置かれていたものであり、壊したり持ち出すことは許されなかったものと想像します。

2020年6月23日火曜日

縄文晩期安行3b式土器外1点(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル

縄文土器学習 411

加曽利貝塚博物館企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」で展示されている縄文晩期安行3b式土器外1点の観察記録3Dモデルをつくりました。

1 縄文晩期安行3b式土器外1点(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル

縄文晩期安行3b式土器外1点(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル
右:縄文晩期安行3b式土器、85号竪穴住居跡出土
左:縄文後期安行2式土器
撮影場所:加曽利貝塚博物館 企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」
撮影月日:2020.06.17
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 98 images

展示の様子

展示の様子 加工グラフィック

動画

2 メモ
・縄文後期安行2式土器は黒色土層出土(平成29年度調査)で2019.06.12記事「安行1式・2式土器の観察」で写真を紹介しました。
・縄文晩期安行3b式土器(85号竪穴住居跡出土)は5単位波状把手が王冠のように見える深鉢で、この個体も前の企画展でも展示されていて、2019.06.14記事「安行3a式・3b式土器の観察」で写真掲載しています。

3 安行式土器出土千葉県遺跡数について
安行式土器出土千葉県遺跡数の統計を取ると次のようになります。

千葉県安行式土器細分情報別出土遺跡数

千葉県安行3式土器細分情報別出土遺跡数
安行式土器は安行1式→2式→3式と遺跡数が減少しますが、細分情報でも3a式→3b式→3c式→3d式と減少します。このことから安行式期の社会の縮小が継続的かつ定常的に進行したことが判ります。
安行3b式期は社会崩壊の過程のなかでもまだ踏ん張っていた最後の時期です。

この遺跡数減少=社会崩壊の理由について遺構の状況とか出土遺物の種類・量等から推定できることはないか、じっくり検討したいと考えています。
この社会崩壊(人口減少)が「気温低下による食糧不足」であるのか、それとも別の理由によるものであるのか明らかにできるよう学習を進めることにします。
安行3b式頃の加曽利貝塚出土物をみると食糧生産にかかわらない品が多く、食料不足に悩む集落の様子は伝わってきません。逆に豊かな様子が伝わってきます。

……………………………………………………………………
追記(2020.06.26)

右:縄文晩期安行3b式土器、85号竪穴住居跡出土の展開図
上記3DモデルからGigaMesh Software Frameworkで作成

左:縄文後期安行2式土器の展開図
上記3DモデルからGigaMesh Software Frameworkで作成

2020年6月22日月曜日

もっこふんどし着装縄文後・晩期土偶

縄文土器学習 410

加曽利貝塚博物館企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」で展示されている黒色土から出土した縄文後・晩期土偶を観察記録3Dモデルをつくって子細に観察しました。

1 縄文後・晩期土偶(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル

縄文後・晩期土偶(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル
黒色土出土
撮影場所:加曽利貝塚博物館 企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」
撮影月日:2020.06.17
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 46 images
足-頂部6.3㎝、両手間4.3㎝(3Dモデルから計測)

展示の様子

説明パネル
企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」説明パネル引用

動画

2 観察と感想
ア 下半身縦線の既往学習事例
土偶の陰部付近縦線状表現が気になりました。
以前上黒岩岩陰遺跡の学習をしたとき、次の石偶について学習しました。
2020.04.23記事「産小屋としての上黒岩岩陰遺跡

上黒岩岩陰遺跡出土石偶の学習
国立歴史民俗博物館研究報告第154集(2009)から引用・メモ追記

石偶下半身縦線についてそれが腰ミノではなく陰毛であり、女性性(端的に言えば女性器)の象徴であることを旧石器時代最終期ユーラシア大陸全体のビーナス像比較検討で知りました。
縦線が陰毛であるかどうか、この土偶を一瞥して気になったのです。

イ 観察結果
縦線が体部前だけでなく体部後ろにもあることと縦線上部が横線で区切られ、その横線が腰に連続していることが観察できます。この観察から説明パネルにあるように、「パンツや腰ミノのようなものをはいている」と観察できました。
より具体的には1枚のヒモ付布状織物を股間に当てて、ヒモを腰に回して縛っているようです。
「もっこふんどし」あるいは「前垂れのない越中ふんどし」と同じような構造の衣類のようです。
縦線と見た線はよく見ると織物構成ヒモ成分を表現しているのではなく、布状織物がよれてできるシワを表現しているようです。
この土偶はもっこふんどし着装土偶と呼ぶことができます。

ウ もっこふんどし着装の意義
土偶は多用な女性祈願で使われた道具であると考えますが、原義が女性使命(妊娠・出産・育児)全うの祈願具であることは間違いないと考えます。従って妊娠に必要な交合器官であり、出産産道となる女性器表現、妊娠の進行と出産を暗示する膨らんだ腹、乳児が餓死しないで育つことができる母乳の源となる大きな乳房の表現が必須であると考えます。
しかし、縄文文化が発展し、衛生面等からの要請により陰部被覆布状織物の高性能製品が発明され、常時陰部を布状織物で覆う習慣が定着したのだと想像します。
その製品例がもっこふんどしであり、もっこふんどし(のような製品)普及により土偶から女性器表現が消えたのだと思います。

……………………………………………………………………

土偶に対する興味から離れますが、女性がもっこふんどし等で陰部(生殖器)を常時覆う習慣が生まれると、男を含めて性意識が変化したと想像します。女性陰部(生殖器)の意味が変わったと想像します。女性陰部(生殖器)に対する隠し事的興味、タブーを伴う興味が生まれ、強化されたと空想します。

2020年6月19日金曜日

加曽利貝塚令和元年度発掘調査地点の位置

縄文社会消長分析学習 29

加曽利貝塚博物館で現在開催されている企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」で展示されている磨製石斧3点など多数の遺物が出土している令和元年度発掘調査地点の位置を3Dモデル上で確認しました。

加曽利貝塚周辺の地形2 5mDEM3Dモデル
垂直倍率×10.0
Google Map Satellite+加曽利貝塚地図
QGISにより作成

3Dモデル画面

令和元年度発掘調査地点は坂月川と貝塚を結ぶ段丘崖通路の南貝塚出入口に位置しています。またその段丘崖通路の途中には112号竪穴住居(加曽利B式期大型住居…ペア石棒、ペア異形台付土器等出土)が存在しています。
令和元年度発掘調査地点は晩期加曽利貝塚集落の出入口機能を有する場所であり、近隣住民と加曽利貝塚住民が集合して祭祀等を行う空間であったと想定します。最初は大型竪穴住居が祭祀の場であり、その後は大型竪穴住居跡の凹地が野外祭祀場だったと空想します。

円錐形土偶の乳房間縦沈線の意義

縄文土器学習 409

加曽利貝塚博物館の新ショーケースに展示されている円錐形土偶について観察記録3Dモデルを作成観察し、めずらしい乳房間縦沈線の意義について思考しました。

1 縄文後期初頭?円錐形土偶(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル

縄文後期初頭?円錐形土偶(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル
加曽利貝塚北貝塚1-1区Dトレンチ出土
撮影場所:加曽利貝塚博物館
撮影月日:2020.06.17
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 38 images

展示の様子

パネル説明

動画

2 乳房間縦沈線の意義
乳房間縦沈線の意義について次の項目を思いつきましたのでメモします。
・乳房強調のための造形状の措置
・左右から構成される人体構造の強調

ア 乳房強調のための造形状の措置
胸の谷間を深く削ることによって乳房の豊さを強調したと考えることができます。
次の写真上の中・右2事例は乳房強調のための縦沈線であるように見えます。

土偶(中川村 上ノ原遺跡)
「伊那谷の土偶」(平成16年、飯田市上郷考古博物館)から引用

イ 左右から構成される人体構造の強調
次の円錐形土偶はへそから首まで縦強調線が通ります。

大型円錐形土偶「子宝のラヴィ」
「特別企画 土偶展」(2019、長野県立歴史館)から引用
へそから乳房までの縦線は妊娠正中線と考えることができますが、乳房から首まで続く全部を妊娠正中線ととらえることはできません。

次の円錐形土偶もへそあるいは下腹から首まで縦沈線あるいは縦隆起線が貫きます。

円錐形土偶
「特別企画 土偶展」(2019、長野県立歴史館)から引用

これらの縦線を妊娠正中線と単純にとらえることはできません。

次の土偶はなんと腹から首を通り越して頭まで縦沈線が貫きます。

西の土偶
「縄文土偶ガイドブック」(2014、三上哲也)から引用

これらの事例から妊娠正中線を基本としつつも人体というものが左右から構成されているという基本構造認識が縄文人に存在していたと考えます。その人体認識のもとに、円錐形という人体とはかけ離れた造形に人体認識を投影するためにわざと縦線を首から下に入れたのだと考えます。
円錐形という形状が妊娠を前提とする形状であるため、展示土偶はそれが人体であるという表現に主眼を置き、妊娠正中線部分は省略したのだと考えます。そのため乳房から首の部分までに沈線が刻まれたと考えます。

ウ 結論
乳房間縦沈線は次の2つの効果を狙ったものと考えます。
・乳房の強調を狙った造形。
・円錐形に人体構造を投影する縦線造形。(ただし、下腹から乳房までの妊娠正中線部分は省略)

2020年6月18日木曜日

前田耕地遺跡資料にありつく

縄文社会消長分析学習 28

4月に縄文草創期遺跡の事例として前田耕地遺跡を学習しましたが、まともな資料にありつくことができませんでした。そのため学習が深まりませんでした。このたび資料にありけましたので、遺跡のイメージが徐々に湧いてきた様子をメモします。

1 これまでの前田耕地遺跡に関する学習と資料
これまで前田耕地遺跡について次の学習をしてきました。

2020.04.05記事「縄文草創期サケ骨出土遺跡(前田耕地遺跡)の地形
2020.04.16記事「前田耕地遺跡付近の地形3Dモデル
2020.04.18記事「前田耕地遺跡付近地形3Dモデルの動画作成

前田耕地遺跡について強い興味をもったのですが、その様子をある程度詳しくわかるような説明図書を見つけることができませんでした。webで検索すると年次別発掘調査報告書以外に、全体を俯瞰すると考えられる資料「前田耕地遺跡-縄文時代草創期資料集-」(2002年、東京都教育委員会)が存在することがわかりました。しかしこの資料集は古書店にもなく、千葉県立図書館や千葉市立図書館にもありません。

そこでこの資料集を千葉市立図書館経由であきる野市立図書館から取り寄せることにしました。コロナ禍で中断し、2か月を経てようやく地元花見川図書館まで到着しました。あきる野市立図書館及び千葉市立図書館に感謝します。

花見川図書館に到着した「前田耕地遺跡-縄文時代草創期資料集-」(2002年、東京都教育委員会)
コロナ禍のため、利用は図書館館内で1日30分間だけという制約があります。
そうした制約があっても、この資料集を取り寄せてみたことにより前田耕地遺跡の様子と発掘調査の状況がよくわかり、自分にとっては学習上の大成果となりつつあります。
なお、多数の槍先形尖頭器やサケ顎骨が出土した場所は第6遺跡集中地点ですが、この第6遺跡集中地点の発掘調査報告書が刊行されないまま発掘調査が終了してしまったため、東京都教育委員会がこの資料集を刊行したという説明がありました。

2 前田耕地遺跡の様子

第17号竪穴住居跡
「前田耕地遺跡-縄文時代草創期資料集-」(2002年、東京都教育委員会)から引用
この住居跡覆土層から槍先形尖頭器188点、無紋土器片、サケ顎骨7200点、クマ骨等が出土しています。

槍先形尖頭器出土の様子
「前田耕地遺跡-縄文時代草創期資料集-」(2002年、東京都教育委員会)から引用

出土した槍先形尖頭器
「前田耕地遺跡-縄文時代草創期資料集-」(2002年、東京都教育委員会)から引用

3 第6遺物集中地区の様子
資料集掲載のコンターマップ、石材別平面分布図チャートA(透明度の高いもの)、竪穴住居跡分布イメージを強引にオーバーレイして、遺跡イメージ地図を試しに作ってみました。

コンターマップ、石材(チャートA)分布図、竪穴住居跡分布イメージのオーバーレイ図
「前田耕地遺跡-縄文時代草創期資料集-」(2002年、東京都教育委員会)の情報を加工

・第6遺物集中地区は地形学的には拝島面にあるのですが、コンターマップから拝島面をさらに区分する小段が存在し、その小段上の縁に第6遺物集中地区が位置します。小段の下の面は竪穴住居が使われていた時は秋川河床面だった可能性があります。
・石材の分布が竪穴住居の回りに色濃く分布していることが特徴的です。つまり尖頭器を作る主な作業は竪穴住居の内部ではなく、その周りの野外で行われていたことがわかります。おそらく石器づくりにかかわらず、縄文人の生活は食事を含めてその多くの時間を野外で過ごしていたと想像します。

……………………………………………………………………

・この資料集における第6遺物集中地区の地形面表記は次のように拝島面より古い時代の青柳面となっています。この資料集における地形学的検討がどのようになされているのか、その検討が既存地形学資料とどのような関係になるのか詳しく知りたいところです。第6遺物集中地区の地形面を青柳面とするのは広域地形(広域の青柳面と拝島面の分布)をみると少し苦しいかもしれません。

青柳段丘と拝島段丘の境点線
「前田耕地遺跡-縄文時代草創期資料集-」(2002年、東京都教育委員会)から引用

前田耕地遺跡付近土地条件図 地理院地図3Dモデル
土地条件図(数値地図25000)と陰影起伏図の合成
赤丸:前田耕地遺跡(縄文草創期遺跡、サケ骨多数、無紋土器、尖頭器等出土)
垂直倍率:×9.9

2020年6月17日水曜日

縄文後晩期磨製石斧3点(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル

縄文石器学習 21

加曽利貝塚博物館で現在開催されている企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」で展示されている磨製石斧3点の観察記録3Dモデルを作成しました。3Dモデルを見ながらなぜこのような大きな磨製石斧が3点も同じ場所から出土したのか、出土場所や出土意義について興味が生まれました。

1 縄文後晩期磨製石斧3点(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル

縄文後晩期磨製石斧3点(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル
黒色土出土
企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」大型竪穴住居跡の調査コーナー展示
撮影場所:加曽利貝塚博物館
撮影月日:2020.06.02
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 46 images

展示の様子

展示の様子 加工グラフィック

展示の様子

展示の様子 加工グラフィック

動画

2 感想
ア 黒色土について
次の模式図にあるとおり黒色土は縄文後・晩期の堆積土であると考えられています。
この黒色堆積土から磨製石斧が出土しました。

模式図
展示パネルから引用

イ 磨製石斧の出土場所
磨製石斧の正確な出土場所は展示パネルに表示はありません。しかし令和元年度発掘調査域という極限された範囲から出土しています。その調査範囲には大型住居と85号竪穴住居があり、それらの竪穴住居を覆う黒色土から磨製石斧は出土しています。
次の写真の黒色部分が黒色土であるならば、黒色土が地表面であった頃の微地形は大型竪穴住居の形をなぞるような浅い窪地であった可能性があります。

大型住居の発掘の様子

85号竪穴住居や大型竪穴住居が浅い窪地で存在していて、その場所が以前の竪穴住居・大型竪穴住居であることが意識されていた場所であると想定することができます。

ウ 磨製石斧出土の意義
磨製石斧3点の他に多数の遺物が出土していて、それらの出土意義は基本的に同じで、この場所が晩期集落の野外祭祀の場所であったためであると考えます。
樹木を伐採したり木材を加工するための道具としての磨製石斧が出土したと考えるよりも、野外祭祀で祭具として使われた磨製石斧がその場所にいわば展示され、その場に残存したと考えることの方が合理的であると考えます。
たとえば、動物送りが野外祭祀として行われ、最後に動物を殺して送るときに磨製石斧が使われ、その磨製石斧が動物の頭部とともにイナウに展示されるというような状況を考えることができるかもしれません。
血を吸った磨製石斧を本来の実用道具として使うことはなかったのかもしれません。
(さらに、その思考は発展させたくない種類のものですが、縄文晩期社会自壊の一端として磨製石斧が対人制裁武具として使われた可能性もあり得ると思います。増える罪人の公開処刑でつかった磨製石斧を遺体とともに展示するということも思考から排除できません。)