2016年11月30日水曜日

地名学習 6年間のふりかえり

6年間の趣味活動(ブログ活動)のふりかえりを行っています。

2016.11.19記事「ブログ花見川流域を歩く 6年間のふりかえり」参照

この記事では地名学習をふりかえります。

6年間の主な学習テーマ(対象)を時間順にならべてみました。

表の上が最近、下が最初です。

地名学習の主なテーマ



●これまでの学習で、花見川付近の個別地名の由来を考える中で古代起源の地名が多いことに気が付きました。

●角川千葉県地名大辞典付録小字リストを電子化してデータベースとして利用できるようになりました。

この結果、自分の地名学習が大いに深まりつつあります。

データを集めることに多大なエネルギーを使うのではなく、思考にエネルギーを使えるので、活動が効率的になりました。

●縄文・アイヌ・蝦夷(俘囚)関連地名に興味を深めています。

地名からみて古代房総には縄文人末裔と俘囚(蝦夷)の集落が存在していたと考えます。

そのような地名情報を遺跡発掘情報の中で確認することが自分の密かな大テーマとなっています。

以下は2016.06.02記事「千葉県のアイヌ語地名「メナ」」で掲載した図面です。

メナの分布

アイヌ語地名 小字「メナ」の分布

東北地方のナイ、ペツ地名の分布
瀬川拓郎(2016):「アイヌと縄文-もうひとつの日本の歴史-」(ちくま新書)から引用
(ナイ、ペツを使った集団とメナを使った集団が同じならば、房総に飛地的にその集団が残された可能性があります。)

このような図面から、縄文人末裔集落が古代房総に存在していたと仮説していて、古代学習に興味がそそられる要因の一つになっています。


2016年11月29日火曜日

仮説 遺物多出竪穴住居跡は神社賽銭箱に通底する

2016.11.28記事「遺構内遺物は祭祀供え物かゴミか?投げ込まれたか置かれたか?」で、遺物多出竪穴住居跡の遺物は祭祀に際して投げ込まれたお供え物であることを思考しました。

これまでの検討で次のようなイメージを持つことができました。

集落内空間位置や鍛冶遺構を伴うことなどから判明する有力家の廃絶跡で、集団の参拝をしめす同一文字集団の打ち欠き土器出土がみれら、それらの遺物は投げ込まれたということです。

有力家当主の死亡後、故人を弔う祭祀が行われ、墨書土器や貴重品等(鉄製品、鞴羽口など)が投げ込まれたと想定しました。

参考 遺構のゾーン

参考 A233竪穴住居の出土物

さて、この投げ込むという行為と神社の賽銭箱にお金を投げ込むという行為が似ていて、心性の根っこが同じであるように直観しました。

祖先や神(社会共通の祖先)を祀るという心性と「お金や有価物を投げる行為」が竪穴住居跡と神社賽銭箱で同じであるということです。

竪穴住居跡に有価物や記念品を投げるという古代の一般的祭祀行為が神社賽銭箱の起源に関係するのではないかと想像します。

一つの仮説誕生です。

参考 香取神宮の正月の賽銭箱
平成22年正月撮影
(賽銭箱に白布を巻いて神と参拝者に敬意を表していますが、お金を投げるという一般にはゾンザイで不敬な行為に、神社サイドも参拝者サイドも疑問を持っていません。)

よくよく考えると、神社賽銭箱は、神(社会共通の祖先)に有価物を献上するという意味ですが、その肉体的動作は投げるというゾンザイな動作、不敬な動作です。素直に考えればこの動作に違和感が生じるはずです。

しかし昔からの風習で、違和感を生じません。

ところが、今も昔も買い物でコインや札を相手にちょっとでも投げたら(反対にちょっとでも投げられたら)強烈な違和感を感じます。失礼な動作です。

竪穴住居で故人(つまり直接の祖先)を祀り、その時墨書土器や貴重品を投げ込んだ風習が起源となり、社会共通の祖先である神の祀りに際して(つまり神社の祀りに際して)、お金を賽銭箱に「投げ込む」風習が続いていると考えると、賽銭箱にお金を投げる意味にガテンがいきます。

賽銭を「投げ込む」という動作が一種の祀り動作になっているのだと思います。

賽銭箱にお金を投げ込むという動作に不敬感を持たない理由は、古代における竪穴住居廃絶後の祭祀の風習がその起源にあるからだと仮説します。



泉や水辺にコインを投げる行為は世界中にあり、その動作も違和感を感じません。

これも原始古代の祭祀における動作がその起源にあり、それが世界共通だからだと仮説します。

2016年11月28日月曜日

遺構内遺物は祭祀供え物かゴミか?投げ込まれたか置かれたか?

上谷遺跡のこれまでの検討では遺構出土遺物の主だったものは祭祀におけるお供えものであると想定してきました。

また竪穴住居では遺物は置かれ(埋められ)、土坑では投げ込まれたと想定してきました。

本当にそうした想定でよいか、立ち止まって考えてみることにします。

1 祭祀での物の投げ込みとゴミの投げ込みの参考例

最初に、祭祀での物の投げ込みとゴミの投げ込みの参考例を示します。

1-1 祭祀での物の投げ込み例

以前検討した西根遺跡では河岸から水面めがけて土器等を投げ込んで祈願した祭祀を想定しましたので、思い出しておきます。

西根遺跡 左岸から右岸めがけて土器を投げ込んだ様子(想定)
2016.03.10記事「西根遺跡 出土物から見る空間特性 その2」参照

祈願として物を投げるときは1~2mという数値が一つの参考になります。

1-2 ゴミの投げ込みの例

ゴミをゴミ捨て場に放り投げる時、どのくらいの距離を投げるかという参考数値が必要です。

そのデータを残念ながら今は持っていません。

しかし、体験的なデータイメージは持っています。

戦後間もないころ、まだ東京都の清掃業務が自動車ではなく大八車でおこなわれていた頃、近くにあったゴミ集積所(ゴミを捨てる直径5mくらいの大きな浅い穴)ではゴミが穴脇近くから捨てられていました。

住民はゴミを足元に落としていきました。場所がない場合のみ投げ込んでいました。

ゴミを穴に廃棄するとき、穴中央めがけて投げるとこれまで考えていたのですが、どうも考え違いだったようです。

ゴミを穴に捨てる時は、わざわざ穴中央にめがけて投げることはしないということは終戦直後の東京のみならず、古代房総でも同じだったと類推します。

もしゴミなら、遺構の縁すぐに捨てられると考えるのが正解のようです。

この参考例を念頭に検討を行います。

2 遺構内遺物分類の想定

遺物の意義と遺物の持ち込まれ方の双方に興味がありますので、その組み合わせを整理しました。

遺構内遺物分類の想定


3 遺構のゾーニング

次の3つの遺構の遺物ヒートマップを参考に、遺物を持ち込んだ空間と遺物集中域との関わりを
ゾーニングしてみました。

3つの遺構

D268土坑ゾーニング

●Aゾーン(遺構外)からCゾーン(遺物集中域)目がけて遺物を投げ込む想定

西根遺跡の例から祭祀の祭に供え物を投げ込んだと考えることできます。

●Bゾーン(遺構内)からCゾーン目がけて遺物を投げ込む想定

ありうるとは思いますが、土坑の中に入り込んで祭祀(祈祷)等を行い遺物を投げるのは、土坑の面積が狭いし、もともと人が入る空間ではないので、可能性は低いと考えます。

●Cゾーンに入り込み、遺物を置いた(埋めた)想定

ありうるとは思いますが、土坑の中に入り込んで祭祀(祈祷)等を行い遺物を置く(埋める)は、土坑の面積が狭いし、もともと人が入る空間ではないので、可能性は低いと考えます。

遺物分布が穴の中央に集中しているので、終戦直後東京都ゴミ集積所の例から、この土坑の遺物はゴミではないと考えます。

A102a竪穴住居ゾーニング

●Aゾーン(遺構外)からCゾーン(遺物集中域)目がけて遺物を投げ込む想定

祭祀遺物を投げこむことは西根遺跡の例からありうると考えます。

ゴミならばAゾーンとCゾーンが離れている場所が多く、不自然です。分布形状から穴の縁にポトリとゴミをおとした様子はが見られない場所が多くなっています。

●Bゾーン(遺構内)からCゾーン目がけて遺物を投げ込む想定

祭祀遺物の場合、ありうると考えます。

ゴミの場合もありうる分布ですが、わざわざ遺構内中央に入り込んで、そこでゴミを捨てるという行為は不自然ですから、結局想定できないと考えます。

●Cゾーンに入り込み、遺物を置いた(埋めた)想定

祭祀遺物の場合ありうると思います。

ゴミの場合は遺構内に入り込むと想定すること自体が無理があります。

A233竪穴住居ゾーニング

●Aゾーン(遺構外)からCゾーン(遺物集中域)目がけて遺物を投げ込む想定

祭祀遺物を投げこむことは西根遺跡の例からありうると考えます。

ゴミならばAゾーンとCゾーンが離れている場所が多く、不自然です。分布形状から穴の縁にポトリとゴミをおとした様子は全くみられません。

●Bゾーン(遺構内)からCゾーン目がけて遺物を投げ込む想定

祭祀遺物の場合、ありうると考えます。

ゴミの場合もありうる分布ですが、わざわざ遺構内中央に入り込んで、そこでゴミを捨てるという行為は不自然ですから、結局想定できないと考えます。

●Cゾーンに入り込み、遺物を置いた(埋めた)想定

祭祀遺物の場合ありうると思います。

ゴミの場合は遺構内に入り込むと想定すること自体が無理があります。

総合判断

西根遺跡と終戦直後東京都ゴミ集積所の例を参考にすると、ゾーニングから3遺構とも遺物はゴミではなく祭祀供え物であると言えそうです。

また3遺跡ともAゾーンから遺物が投げ込まれた可能性があり、竪穴住居はそれに加えて遺構内に入り込んで遺物を投げた、置いた(埋めた)可能性もあるということになります。

竪穴住居では、打ち欠き墨書土器は遺構縁から投げ込み、鉄製品や鞴羽口などは遺構内で埋め込んだなどの組み合わせがあったのかもしれません。

2016年11月27日日曜日

上谷遺跡 竪穴住居と土坑の遺物ヒートマップ比較

2016.11.14記事「上谷遺跡 竪穴住居遺物分布ヒートマップ検討」でA102a竪穴住居の、2016.11.25記事「上谷遺跡 竪穴住居内遺物分布ヒートマップ(A233)」でA233竪穴住居の遺物分布ヒートマップをそれぞれ作成し、検討しました。

2つの竪穴住居の遺物分布ヒートマップ形状から、遺物はゴミ(廃棄物)として竪穴住居跡穴になげこまれたものではないことを述べました。

もしゴミとして投げ込まれたならば竪穴住居跡穴の中央部付近に出土物が集中すると考えたからです。

遺物のほとんどはお供え物として置かれた、埋められた、投げられたのどれかの行為で遺構に持ち込まれたと考えます。

ですから、「投げる」という行為そのものを排除していません。ぽとりと落とすように投げたことを否定できる情報は持っていません。

遺物が「不要物として投げこまれた物」ではないと主張しています。

遺物はほとんど全て祭祀におけえるお供え物と考えています。

A102a竪穴住居遺物分布ヒートマップ

A233竪穴住居遺物分布ヒートマップ

この推定の蓋然性を補強するために、投げ込まれた可能性が濃厚なD268土坑の遺物分布ヒートマップを作成してみました。

D268土坑遺物データ

D268土坑遺物分布ヒートマップ

廃絶した土坑(穴)に遺物を投げ込んだと推定しますが、そのヒートマップは穴中央付近に集中します。

この土坑遺物分布ヒートマップと前出竪穴住居遺物分布ヒートマップの違いは遺物の持ち込み方の違いを示していると考えます。

なお、D268土坑は人が居住した竪穴住居跡と異なり「穴」そのものであり、遺物は投げ込まれたと考えますが、全て祭祀の際のお供え物であると推定しています。

2016.10.23記事「上谷遺跡 鉄滓が出土している燈明皿多出土坑」等参照




2016年11月25日金曜日

上谷遺跡 竪穴住居内遺物分布ヒートマップ(A233)

2016.11.23記事「上谷遺跡 竪穴住居内遺物分布詳細観察」の続きです。

A233竪穴住居出土遺物分布図をヒートマップにしてみました。(カーネル密度推定の半径パラメータは1m)

上谷遺跡 A233竪穴住居 全出土物ヒートマップ

この竪穴住居も遺物出土が遺構中央部にありません。

ゴミ捨て場にゴミを投げ込んで捨てるならば、遺構中央部にゴミ(遺物)が集中するはずです。

しかしそうならないのは、遺物がゴミとして穴になげこまれたものではないことを物語っています。

東側隅に遺物集中域がみられるとともに、遺構中央部を意識的に除いて、遺構周辺部に遺物集中域が分布しています。

覆土層の下部からの出土が多い、「西」墨書土器のヒートマップを示します。

上谷遺跡 A233竪穴住居 「西」墨書土器ヒートマップ

遺構の東側にメインの集中域が存在します。

最後に鉄製品・鞴羽口のヒートマップを示します。

上谷遺跡 A233竪穴住居 鉄製品・鞴羽口ヒートマップ

鉄製品・鞴羽口はほとんどが床面から出土していて、この住居に由来する可能性が高いものです。

この分布の集中域の一つが遺構東隅付近となっています。

この住居の東隅の空間が住居がアクティブであった時から廃絶後覆土層堆積の時代まで特別の意味があったのかもしれません。

住居廃絶に際して東隅に継続してお供え物としての鉄製品、鞴羽口、「西」墨書土器、それ以外の土器を集中して埋めた(置いた、投げた)のだと思います。

住居廃絶後、住居の中央空間は祭壇等を置いたり、人が祈祷のために入ったりして、お供え物を埋める(置く、投げる)空間ではなかったと空想します。

A233竪穴住居の廃絶後に関する空想



2016年11月24日木曜日

考古歴史学習 6年間のふりかえり

6年間の趣味活動(ブログ活動)のふりかえりを行っています。

2016.11.19記事「ブログ花見川流域を歩く 6年間のふりかえり」参照

この記事では考古歴史学習をふりかえります。

6年間の主な学習テーマ(対象)を時間順にならべてみました。

表の上が最近、下が最初です。

考古歴史学習の主なテーマ

花見川流域を実際に歩いて、花見川筋に船着き場跡、官道跡(直線道路)、ミナト跡を想像させるような地物や地名に出会いました。

現場で花見川筋が古代東海道の水運支路であるという仮説を持ちました。

この仮説を検証しようという大それた野望が考古歴史学習の推進力となっています。

従って、学習した遺跡は花見川-平戸川(新川)筋が多く、時代は古代(特に奈良・平安時代)が多くなっています。

学習した遺跡を地図にプロットするとつぎのようになります。

考古歴史学習 主な学習遺跡

学習を進めるに従って利用するデータベースが増加しました。

現在は千葉県遺跡データベース(ふさの国ナビゲーションデータベース)、千葉県墨書土器データベース(明治大学)、千葉県小字データベース(個人で角川地名大辞典付録を電子化)を利用しています。

また空間分析技術も向上し、現在では遺跡分布レベル、遺跡内遺構分布レベル、遺構内遺物分布レベルでGIS分析を適用しています。

学習内容(分析内容)も多岐にわたってきていますが、現時点では次のような項目に特に興味をもっています。

●花見川筋の古代交通幹線の存在の検証
・古代東海道水運支路仮説の検証
・関連して、房総古代交通路変遷の学習

●花見川筋-印旛浦の古代開発集落の発展衰退の様子
・生業は?
・発展の要因は?
・衰退の要因は?
・墨書土器風習と開発との関係
・開発集落ネットワークの姿(開発集落と開発集落の関係)

●蝦夷戦争俘囚と関わる遺物・遺構はあるか?
・検見、玄蕃所の意味は?
・俘囚が生活した遺跡、遺構はあるか?
・俘囚反乱の跡がみつかるか?(白幡前遺跡寺院破壊は?)

●縄文時代の縄文人が奈良時代頃まで大和人に同化しないで残った集落があるのではないか?
・漁業者
・縄文時代起源、あるいはいわゆる「アイヌ」地名と想定される地名の存在

●弥生時代から古墳時代にかけての入植の様子

●旧石器時代の様子
・旧石器時代、縄文時代に台地上に多数の湖沼が存在していて狩や生活に利用されていた。
・旧石器時代の急峻な地形を利用した狩の様子。
・旧石器時代房総の陸域全体における、現在観察できる旧石器時代遺跡の位置づけ。(旧石器時代人は貝を食っていなかった?)
・旧石器時代人の石器ギャザリングフィールド学習。


これまでの学習でわかったことや生まれた仮説、あるいは浮かんだ疑問などをまとめたサイト(仮称 花見川学習ミュージアム)構築を構想しています。

2016年11月23日水曜日

上谷遺跡 竪穴住居内遺物分布詳細観察

上谷遺跡A233竪穴住居は墨書土器「西」が多出するとともに鞴羽口や鉄製品が出土して、集落内小集団の有力家の廃絶跡と推定されます。

A233竪穴住居の場所と遺物等は次の通りです。

上谷遺跡 A233竪穴住居の位置と出土物等

遺物・所見についての発掘調査報告書記述は次の通りです。

「遺物の出土は極めて多く、特に土師器片を主体としており須恵器は少なかった。

平面的には遺構全体からの出土であるが、垂直分布としては覆土中層~上層が多くなっている。

墨書土器片などの出土も多く、墨書18点、線刻3点となっており、文字としては「西」が13点を数えている。

住居跡廃絶後の埋没過程の凹みを利用した、不用となった土器片の廃棄場所として使用された様な遺構である。

拡張住居跡と捉えたが、竈火床の遺存や周溝の巡り形からKBに伴う住居跡が最終形態ではないかと捉えた」

発掘調査報告書に掲載されている遺物分布図について、番号とリストを対照させて色塗りしてみました。

A233竪穴住居 遺物分布図


この図から番号と指示線を除くとつぎのようになります。


A233竪穴住居 遺物分布図(番号、指示線なし)


この図から鉄製品と鞴羽口だけを抽出してみました。

A233竪穴住居 遺物分布図 鉄製品と鞴羽口

平面分布が限られた範囲にとなっています。

また垂直分布はほとんど床面上といえるような場所のものばかりです。

鉄製品のこのような垂直分布はA102a竪穴住居と酷似しています。

鉄製品はA233竪穴住居がアクティブであった時に由来する可能性が濃厚です。

A233竪穴住居の住人が使っていた、あるいは廃絶するときに床面に鉄器をお供えしたしたことが考えられます。

廃品としての鉄器を捨てたということはありえないこととして捉えたいと考えます。

A233竪穴住居の床面付近から鉄器及び鞴羽口が出土することは、この住居に居住していて家族が鉄器の配布流通・リサイクルなどに関わる指導層であったことを示していると考えます。

鉄器と鞴羽口の平面分布はこの住居が廃絶する時の行われた祭祀の場所を示していると想定します。

次に「西」墨書土器だけをピックアップしてみました。

A233竪穴住居 遺物分布図 「西」墨書土器

「西」墨書土器の垂直分布は床面上から覆土下層に集中しています。

「西」墨書土器はこの竪穴住居が廃絶した直後に持ち込まれた(置かれた、投げられた、埋められた)ものと考えられます。

平面分布は竪穴住居全体に分布するものではなく、特定の分布形状となっています。

このような分布特性から、「西」墨書土器はA233竪穴住居廃絶に関連した祭祀でこの場所に持ち込まれたものと考えます。

鉄器・鞴羽口と「西」墨書土器は同じ祭祀で持ち込まれたものである可能も考えられます。

鉄器・鞴羽口平面分布と「西」墨書土器平面分布は似ていると捉えることも可能であると考えます。

最後に「西」墨書土器以外の全ての土器の分布をピックアップしてみました。

A233竪穴住居 遺物分布図 「西」墨書土器以外の土器

垂直分布は覆土層全体に及びます。

また平面分布も遺構全体に広がります。

A233竪穴住居廃絶直後の祭祀では鉄器や「西」墨書土器が持ち込まれたのですが、その後の祭祀ではもっぱら土器のみが持ち込まれ、それを供えた場所は遺構全体に広がったと捉えます。

発掘調査報告書ではこの遺構を不用土器片の廃棄場所と捉えていますが、遺構の意義を取り違えていると考えます。

集落内有力家(いわゆる本家)を忍ぶ祭祀が継続して行われた遺構であると捉えます。





2016年11月22日火曜日

上谷遺跡 墨書集団中心竪穴住居の遺物出土状況詳細観察

2016.11.16記事「上谷遺跡 竪穴住居敷地内における墨書文字「得」「万」のヒートマップ 」で鍛冶遺構の検討を切り上げることにします。

鍛冶遺構の検討では次のような事柄を学習することができました。

●鍛冶遺物(鞴羽口、鉄滓)出土遺構が必ずしも鍛冶遺構ではない。

●被熱ピット出土遺構が鍛冶遺構として推定できる。

●鍛冶の規模は小さく、それ自体が専業的職業であったと考えるより、支配層有力家が鉄製品修繕技術や鉄製品流通を独占し、鉄の供給を通じて集落支配を行っていた仕組みであるように感じる。

具体的事例としてA102a竪穴住居の出土物を詳細検討して鉄製品のほとんどが床面あるいは壁から直接出土している様子を知りました。

さて、このA102a竪穴住居は上谷遺跡の代表的墨書文字「得」が最も多数出土する遺構であり、「得」集団が祭祀を行った場所であると考えました。

そこで、この記事から視点を変えて、別の上谷遺跡代表的墨書文字「西」「竹」「万」が多数出土する竪穴住居、つまり墨書文字小集団の中心的竪穴住居の遺物出土状況を詳細検討することとします。

参考 上谷遺跡の代表的墨書土器が多出する竪穴住居

なお、代表的墨書文字が他出する竪穴住居はA209を除いて鍛冶遺構・遺物と関連しています。

参考 上谷遺跡 代表的墨書土器多出竪穴住居と鍛冶鍛冶遺構・遺物との対応

「西」「竹」「万」が多出する竪穴住居の生データは次のようになります。

「西」「竹」「万」が多出する竪穴住居の生データ

この生データを使って、「得」が出する竪穴住居で行ったような検討をすることにします。

参考 A102a竪穴住居で行った検討 遺物ヒートマップ

参考 A102a竪穴住居で行った検討 鉄製品出土状況


2016年11月20日日曜日

1927年軽便鉄道架橋写真中の逓信機器

2013.05.02記事「1927年頃の軽便鉄道の花見川架橋写真紹介」に伊謄様からコメントをいただき、架橋写真中の逓信マークの入っている機械は通信機器である可能性を教えていただきました。

その写真をよくみるとこれまで気が付かなったことに気が付き、確かに電信機器である可能性が大いに高まりましたので、報告します。

2013.05.02記事「1927年頃の軽便鉄道の花見川架橋写真紹介」掲載 架橋作業
出典:「写真に見る鉄道連隊」(髙木宏之著、光人社発行) 写真掲載は著者及び発行元の承諾済み

これまでこの写真の逓信マークのあるボックスはその全景がほぼ見えていると感じていました。

しかし、コメントのご指摘を確認するために写真を拡大して子細に観察すると次のような構成であることが判明しました。

逓信マークのあるボックスと車軸で連結した車輪

逓信マークのあるボックスはその下部が車軸で結ばれた車輪(対)の影でほとんど隠れていることが判りました。

車輪の外側にカバーがあり、そのカバーをボックスの一部と錯覚してきていたのです。

さて、車軸で結ばれた車輪1対には外側にカバーがあるので、それ自体が利用されている製品であることが判ります。

同時に車軸中央部にホイール状あるいはコイル状の物体が付いています。

車輪の大きさと車軸の長さから現在建設している軽便鉄道軌道の規格であることが推察できます。

写真に写っている工事現場用トロッコの規格でないことは確実です。

このような情報から車軸で結ばれた1対の車輪は軽便鉄道規格で作られた道具で、鉄道軌道沿いに電信線を敷設するための配線道具であると推定しました。

旧版地形図(1/1万)をみると鉄道連隊軌道はどこでも電信線が軌道沿いに描画されていますから、このような道具があって当然だと思います。

この推定を伊謄様コメントに加えるとつぎのような状況が写真に写っていると考えます。

●鉄道第1連隊の花見川柏井における架橋演習現場に現場用電信装置(電話及びモールス通信機)を持ち込み、現場と連隊本部との連絡に使った。

●架橋演習現場までの電信線配線は、本線分岐部から支線部分を「車軸で結ばれた1対の車輪による道具」をつかって線路沿いに応急仮設的に架設してきた。

●現場用電信装置の近くに「車軸で結ばれた1対の車輪による道具」も置いた。

なお、軌道沿いの電信線配線も重要な演習であったと考えます。

この写真の中央に現場用電信装置と「車軸で結ばれた1対の車輪による道具」が写っているのは、偶然そうなったのではなく、意図的に置いて写真に良く写るようにしたものであると考えます。

実用としての現場用電信装置を置くとしたら、現場事務所ということになり、設置中の丸太部材のそばに置くはずがありません。

いわんや重量があり軌道上で利用する「車軸で結ばれた1対の車輪による道具」を花見川谷底に持ってくる必然はまったくありません。

演習でこのような最新機械や道具を使ったことを絵ハガキ写真に表現するための演出であると考えます。

普段その場にはない最新機材を置き、兵卒が汚れていない服でもっともらしい作業姿をし、将校が背筋の通った良い姿勢でそれを監督する様子を写真に撮ったということです。

写真は全部演出ですが、このような電信装置と軌道用電信線配線道具の存在を知りえたのですから素晴らしいことです。

伊謄様コメントにより鉄道連隊写真を再び楽しむことができました。

2016年11月19日土曜日

ブログ花見川流域を歩く 6年間のふりかえり

上谷遺跡学習をふりかえり、上谷遺跡学習の収束とりまとめを展望しつつ残りの学習を進めていくことにしました。

2016.11.18記事「上谷遺跡学習のふりかえり」参照

上谷遺跡学習結果は特設サイトを設定してとりまとめたいと構想しています。

同時に上谷遺跡学習のみならずこれまで6年間の学習結果もとりまとめたいと構想しています。

そこで、上谷遺跡学習ふりかえりのついでにこれまでの全学習についていもふりかえってみました。

具体的には「花見川流域を歩く」ブログ記事1856を並べて大ざっぱに分類し、特別大きなテーマを記入した資料をつくってみました。

ブログ 花見川流域を歩く 記事の分類と主なテーマ

特別大きなテーマを時間順に抜き出して並べると次のようになります。

ブログ花見川流域を歩く 2011~2016の主なテーマ

実は、地形、考古歴史、地名は私にとっては独立した興味対象ではなく、相互に密接に結びついた不可分の大きな一つの興味となっています。

なお、これらのテーマ毎学習結果をとりまとめたサイト((仮称)花見川学習ミュージアム)を構想しています。

上谷遺跡学習結果とりまとめ特設サイト構想は、(仮称)花見川学習ミュージアムのプロトタイプとして構想しています。


2016年11月18日金曜日

上谷遺跡学習のふりかえり

上谷遺跡学習を7月29日にスタートして一昨日までに71記事を書いてきました。

最初は手探りで、少しずつ遺跡の概要が判ってきたのですが、その検討経緯全てを覚えていることは不可能です。

そこで、途中ですが、一度全部の記事を読み返し、ふりかえり、今後の学習方向を確認してみました。

1 当初の学習方針

2016年7月29日の学習方針は次の通りです。

この学習方針は今でもその通りだと思っています。

特段の変更は行いません。

……………………………………………………………………
●花見川-平戸川筋遺跡に関して深めている興味

ア 奈良・平安時代新規開発地が印旛浦に立地した理由(蝦夷戦争との関連、交通との関連)

イ 奈良・平安時代新規開発地の生業

ウ 奈良・平安時代の新規開発地が9世紀末頃に一斉に衰退、廃滅した理由

エ 墨書土器活動の新規開発地での意義(生業や「祭祀」からみた文字の意味等)

上谷遺跡学習ではこのような興味をさらに深める方向で学習したいと思います。

具体的な学習方針は次のように設定します。

●学習方針

ア 分析対象を奈良・平安時代の墨書土器及び土器以外の遺物等に絞って検討する

イ 遺構・遺物の具体情報を徹底してGISデータベース化してGIS空間上で分析検討する

ウ 既学習近隣遺跡との比較を検討の各段階で行い、奈良・平安時代新規開発地の特徴を考察する。
……………………………………………………………………

2 学習経緯

学習経緯は次の通りです。

上谷遺跡 ブログ記事一覧

ブログ記事の概要をとりまとめて確認検討しましたが、そのメモは省略します。

3 今後の課題

これまでの学習で残された主な課題、生まれた主な興味(検討課題)を次にまとめました。

上谷遺跡 ブログ記事のテーマと検討課題

今後これらの課題に順次取り組みたいと思います。

課題が有限になりましたので、また右も左もわからないことがらは課題にはなっていません。

ある程度成算の見込める課題ばかりですので、取り組みを楽しみたいと思います。

4 今後の活動

これらの課題学習が一通り終わった段階で、上谷遺跡検討(学習)の区切りをつけます。

その後、総とりまとめを行い、上谷遺跡学習をまとまったコンテンツに仕上げるつもりです。

学習方針にある近隣遺跡との比較はさらにその後、改めて行うつもりです。

萱田遺跡群、鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡について上谷遺跡と同程度のGIS適用を伴う再検討(学習)を行い、できるだけレベルを合わせて上谷遺跡と比較検討を行う予定です。


5 感想

当初は8月一杯くらいで形を付けるつもりだった学習も、すでに5ヵ月となりました。

GIS適用により多大の知見が得られるようになり、学習が面白くなったためです。

残された課題を効率的に学習し、再びできるだけ早く萱田遺跡群に戻って、GIS適用による学習をしたいと思っています。

GIS適用学習により、過去の萱田遺跡群学習における不十分さを是正するとともに、これまでとは比較にならない深いレベルの情報が得られると考えています。


2016年11月16日水曜日

上谷遺跡 竪穴住居敷地内における墨書文字「得」「万」のヒートマップ

被熱ピットが存在していることから小鍛冶遺構であると推定しているA102a竪穴住居について、ミクロな検討を続けています。

この記事では墨書土器文字「得」と「万」の出土分布ヒートマップを作成して、この遺構と集落内集団との関係を考察します。

1 墨書土器文字「得」「万」の集落内における出土領域

上谷遺跡では代表的な墨書文字として「得」「万」「竹」「西」の4つがあげられます。

これまでの検討で、これら4つの代表的墨書文字は居住地を異にする別々の生業集団と対応していると考えてきています。

「得」「万」「竹」「西」を代々伝える4つの集団が上谷遺跡付近集落を構成していたと考えています。

その4つの文字概略分布は次のように図化することができます。

上谷遺跡 代表的墨書文字の出土領域と存被熱ピット竪穴住居

A102a竪穴住居は「得」出土領域と「万」出土領域の中間に位置しています。

またこの付近の存被熱ピット竪穴住居(小鍛冶遺構想定)はほとんどが「得」領域に分布しています。

墨書文字「得」と「万」の出土領域は空間的に棲み分けしていますが、小鍛冶遺構は「得」と「万」二つの集団が合同で運営していたような印象を持つことができる分布になっています。


2 A102a竪穴住居内の「得」「万」分布

A102a竪穴住居 墨書土器「得、万」分布図

この遺構から「得」と「万」の双方が出土していることが一つの特徴です。

同時に「万」は覆土層の上層から出土していて、「得」は「万」より上層に位置していることが読み取れます。

「万」の遺構内持ち込みの後に「得」の持ち込みがあったように観察できます。

3 「得」と「万」のヒートマップ

墨書土器文字「得」と「万」の出土平面位置分布ヒートマップを示します。

上谷遺跡 A102a竪穴住居 墨書土器「得」分布ヒートマップ

上谷遺跡 A102a竪穴住居 墨書土器「万」分布ヒートマップ

得、万ともにその分布は出入り口ピット(西側)付近から竪穴住居に降りて、穴の壁沿いに半周した範囲に多いように観察できます。

竪穴住居中央部に祭壇とか祈祷を行う機能が存在していて、その場所を避けて墨書土器を埋めたと仮想します。

4 A102a竪穴住居から墨書土器文字「得」と「万」が共伴出土する理由

1、2、3から、A102a竪穴住居で墨書土器文字「得」と「万」が共伴出土する理由を次のように空想します。

・小鍛冶機能(鉄器修繕、鉄器流通)は得集団と万集団が共有して所有(運営)していた。その主導権はA102aがその機能を有していた頃は得集団であった。

・小鍛冶機能を有する有力家であるA102a竪穴住居が廃絶したので、その有力家が属する得集団が廃絶跡地の祭祀を行っていた。


・【ケース1】しかし集落全体が衰退する中で「得」集団が衰退して祭祀を行うエネルギーが無くなり、最後の祭祀は「万」集団が代わって挙行した。

・【ケース2】しかし、「得」集団と「万」集団の力関係が変化して、A102a竪穴住居付近が全て「万」集団の支配域となり、最後の祭祀開催権を「万」集団が「得」集団から奪った。


2016年11月15日火曜日

上谷遺跡 小鍛冶遺構出土鉄製品の解釈変更

上谷遺跡A102a竪穴住居の中央には被熱ピットがあり、小鍛冶遺構であると考えています。

この竪穴住居から12点もの鉄製品が出土しています。

その出土状況を平面図でみると住居の縁辺部に多いのですが、断面図を見ると床面から出土している物は少なく、住居廃絶後の祭祀で持ち込まれ覆土層に埋まったものと考えていました。

ところが、発掘調査報告書掲載の平面図・断面図を子細に対照してみると、この認識が間違っていることが判りました

次の図は鉄製品と石・土製品(土器を除く)の平面図と断面図を対照させたものです。

上谷遺跡 A102a竪穴住居 (存被熱ピット住居)
鉄製品の殆どが床面・ピット・壁から出土

平面図と断面図を対照して線で結ぶとA-A’断面近くの出土物は床面及び出入り口ピットの底から出土している物が確認できます。

それ以外の遺物はA-A’断面に「投影」して表現されています。

A-A’断面に「投影」していますので、見かけ上は覆土の中にあるようにこれまで誤解していたのですが、実際に確実に覆土層中にあるものは35、36の刀子と31の鞴(羽口)の3点だけです。

それ以外は床面・壁・壁に掘り込んだピット(物入れか?)などから出土していて、全て「非覆土層」であることが判明しました。

鉄製品のほとんどが、この住居がアクティブであった時に由来するものであることが判明しました。

住居中央の被熱ピットで小鍛冶が行われ、紡錘車、刀子、鏃、斧などが修繕されていたと考えます。

溝状でえぐりを有する軽石が出入り口ピットから出土していますが、刀子や鏃を研ぐ道具だったと考えられ、この住居が小鍛冶遺構であることを重ねて示しています。

12点の鉄製品には略完形の紡錘車2、鏃2が含まれていますので、この住居が廃絶するときこれらの鉄製品等が意識的に残されたものと考えます。

この場所は墓ではありませんが、墓に副葬品を納めるように、廃絶した小鍛冶機能を有する有力家の住居跡に鉄製品を意識的に残し、弔ったあるいは思い出の場所にしたと考えます。

住居跡が人々の心の中で意味のある空間であったと考えます。

住居跡が人々の心の中で意味のある空間であった時間は世代を超えることは考えづらいので、長くて30年くらいと想像します。

その程度の時間の間に墨書土器をこの空間に持ち込んで行う祭祀が何回かあったものと想像します。




2016年11月14日月曜日

上谷遺跡 竪穴住居遺物分布ヒートマップ検討

このブログにおける上谷遺跡検討は花見川筋、平戸川(新川)筋の古代遺跡検討の一環です。

その古代遺跡検討は花見川-平戸川筋が古代東海道の水運路であったという「東海道水運支路仮説」の検証という大目的の元におこなっています。

そのような大目的との関わりとの直接的結びつきは一見弱くなりましたが、GISを使った古代遺跡検討方法(学習方法)の開発が進んでいて、結局は「東海道水運支路」の検証に役立つと考えられますので、現状ではかなり精細な技術的検討(技術的開発を伴いながら行う学習)を行っています。

この記事では竪穴住居の遺物分布ヒートマップについて検討します。

次の図は竪穴住居から出土した遺物の平面位置図(平面ドット図)を基に作成したヒートマップです。

上谷遺跡 A102a竪穴住居 遺物分布ヒートマップ

半径パラメータを0.5mで作成したものです。

この図では分布の具体性があまりに強いので、ヒートマップを半径パラメータ1mで作成してみました。

上谷遺跡 A102a竪穴住居 遺物分布ヒートマップ
半径パラメータ1m

この図の分布状況の抽象性が自分の思考レベルに合うと直観できますので、この図を使って検討してみます。

このヒートマップにピット等の分布図をオーバーレイしてみました。

その結果、次のような遺物出土に関する仮説を想像することができました。

上谷遺跡 A102a竪穴住居 遺物分布ヒートマップによる仮説
半径パラメータ1m

赤くなっている領域つまり遺物出土密度が高い部分が廃絶時出入り口ピットを中心とする西側に集中しています。

また廃絶時に竈があった近くにも2番目の赤い領域があります。

このことから、遺物(墨書土器や鉄製品など)を置いた人々は廃絶時出入り口と竈の双方を目印に集まってきていることが推察できます。

廃絶した住居の機能を確認して遺物を置いています。

このことから、遺物がそれ自体意味を有しない穴に投げ込んこまれたのではないことが判ります。

もし、廃棄物投棄用の穴であった場合、廃棄された遺物は穴に投げ込まれ、恐らく四方から投げ込まれ、穴中央部の遺物密度が最大になると考えます。

廃絶した住居機能を踏まえて(念頭において)遺物を置いているのですから、その住居空間ひいてはその住居に住んでいた人に対して尊重の念の存在がうかがわれます。

廃絶した竪穴住居空間とそこに住んでいた人を尊重、尊敬、尊崇していた可能性を感じとることができます。

もしその想像の的確性が高かったならば、竪穴住居中央部に簡易な祭壇が設けられたり、祭壇は無いにしても、祈祷の場になったりした可能性を想像できるかもしれません。

なお、この竪穴住居が廃絶して、その場所で祭祀が行われたとすると、周辺のどのようなところから人が集まってきたのか、知りたくて、A102a竪穴住居周辺の遺構分布図を見てみました。

A102a竪穴住居付近の遺構分布図

A102aの西側も東側にも竪穴住居が分布しています。

A102a遺構の西側に遺物が多いということと、周辺竪穴住居の分布との対応はないのかもしれません。

上谷遺跡では奈良・平安時代というくくり以上に詳しい年代検討は行われていないので、残念ながらそれ以上の検討は今後の課題となります。

直観的には、周辺の竪穴住居の分布ではなく、A102a竪穴住居の出入り口跡が大きな意味をなし、廃絶後の穴にも出入り口跡の場所から入っていったのだと考えます。

2016年11月13日日曜日

上谷遺跡 竪穴住居跡遺物出土ヒートマップ作成

2016.11.12記事「上谷遺跡 竪穴住居覆土層出土遺物は廃棄物か?」でA102a竪穴住居の遺物分布図を示し、「確実に言えることは竪穴住居の中央部に密であるという分布でないこと」と述べました。

A102a竪穴住居 遺物分布図 2

この分布図からヒートマップを作成しより直観的に「竪穴住居の中央部に密であるという分布でないこと」を示すことができましたので、作業図を紹介します。

A102a竪穴住居 遺物分布図 のヒートマップ
GIS(地図太郎PLUS)作業画面 (ヒートマップそのものはQGISで作成)
(ちなみに、上記画面が地図太郎PLUSの画面拡大限界(1/45))

遺物出土地点の密集域は赤、密集域から離れると色が順次オレンジ、黄色、緑、青と変化し、50㎝以内に遺物出土地点がない空間は色がつきません。

カーネル密度推定における半径パラメータが50㎝(!)ということになります。

この図から、単に遺構中央部の遺物密度が密ではないという情報以外に、遺物出土域がクラスター状になっている理由など、もっといろいろな情報を引き出し、同時に各種問題意識をこの図に投影して考察したいと思います。

また、遺物種類別にヒートマップを作成することも行いたいと思います。

この竪穴住居は約5.6m×約5.6mの大きさですが、この空間を地理空間としてGISで扱うことによってヒートマップができること自体に、技術的に感動しました。