2017年11月29日水曜日

大膳野南貝塚学習の再開

2016.12.23記事「縄文時代遺跡 大膳野南貝塚の学習を開始」で縄文時代学習をはじめて本格的にスタートし、当初は「千葉県の歴史 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の貝塚の項の学習、その後大膳野南貝塚の学習を進めました。
大膳野南貝塚学習の方法に自分として初めて縄文時代遺跡にGIS学習を適用しました。
ところが、2017.08頃から西根遺跡出土物閲覧機会が生まれたり、西根遺跡に関する講演準備等の必要が生れ西根遺跡縄文時代の学習が大膳野南貝塚学習に割り込みました。
さらにその後奈良・平安時代学習(講演準備)や別の事情が割込み、大膳野南貝塚の学習再開が延び延びになってきてしまっています。
しかしようやく諸般の区切りがついたので、大膳野南貝塚学習再開をスタートすることにします。

都合よく2017.11.19記事「加曽利貝塚国特別史跡指定記念シンポジウム」のシンポジウムを聴講して縄文時代学習の意欲を高めることができています。

学習再開では自分レベルでは「かつてなく本格的系統的に」学習に取り組むつもりです。日々の連続記事作成アップを漫然と行うより、長大学習作業完遂を優先させて学習結果を出すこととします。
恐らく学術研究では行われないであろうような細密情報のGIS投入を行い、縄文時代情報新知見が得られるかどうか、学習作業を楽しむことにします。

学習作業は次のステップを踏むことにします。

1 過去1年間の縄文時代学習のおさらい
2 大膳野南貝塚後期集落柱穴分析再開(以降発掘調査報告書記載順学習)

なお、割り込んだ西根遺跡学習やシンポジウム学習から刺激を受けて、次のような学習用作業仮説を立案できるか、並行して検討することにしています。

学習用作業仮説として立案できるかどうか検討している項目
1 集積しているモノの意味
●貝塚…漁業に関わる縄文集落単位の収穫祭&送り場 大膳野南貝塚後期集落など
●土器塚…農業(堅果類採集、漆等)に関わる縄文集落単位の収穫祭&送り場 印旛沼南岸後期集落など
●土器集積…農業(堅果類採集、漆等)に関わる縄文広域集落群共通の収穫祭&送り場 西根遺跡(縄文時代後期)
●骨塚…狩猟に関わる縄文人集団の収穫祭&送り場 ?
2 モノ集積のきっかけとなるポイント
●貝塚…集落始祖の竪穴住居跡 大膳野南貝塚後期集落
●土器塚…?(土坑の廃絶跡) 印旛沼南岸後期集落など
●土器集積…廃絶ミナト 西根遺跡(縄文時代後期)
●骨塚…?(何かの廃絶跡) ?

縄文時代について(考古歴史すべてについて)知識があまりに不足していますので、図書や論文等からの情報収集にも貪欲になることにします。
またGIS操作にもより習熟して学習のためのパソコン操作抵抗感を限りなくゼロにしていきたいと思います。

花見川風景 2017.11.29

2017年11月28日火曜日

古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)

11 古代開発集落が滅びた理由

年表を見ると9世紀後半頃から末にかけて下総国の治安が悪化し、徴税体制も崩壊します。権力が空白化していく状況の中での体制側アクションとして検非違使設置、陰陽師設置などがあり、反抗勢力のアクションとして俘囚の反乱、僦馬の党などがあります。
このような状況のなかで下総台地上の開発集落はことごとく崩壊しました。

一般論としての社会崩壊の原因をジャレド・ダイヤモンド「文明崩壊」で学習しました。
9世紀末~10世紀初頭の下総国台地上開発集落崩壊の主な要因は「社会の対応」にありそうだと目星がおぼろげながら生まれました。

9世紀末から10世紀にかけての下総国の状況は律令国家の統治が弱まるとともに、台地上開発集落がほとんど全て衰滅し、一方低地集落は逆に発展しました。

このような状況をたとえ思考してみました。
組織内部門の特性により崩壊と発展があるように、台地開発集落はその特性により崩壊し、低地集落は生き残り発展したと考えました。組織対応力の差が崩壊と発展の違いに結びついたと考えました。

台地開発集落の現場労働層は浮浪人や俘囚などが主体であり、強制力で隷属的、半奴隷的労働の従事していたのですが、社会統制が弱まると強制力で労働させることができなくなったというのが開発集落崩壊のイメージです。

これまで、群盗の蜂起、俘囚の反乱、僦馬の党は開発集落崩壊を考える際の外部社会環境(社会情勢)として考えてきたのですが、それは誤りであり、それらの事象そのものが開発集落崩壊の実体そのものであることに気が付きました。

おわり
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しました。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)

2017年11月26日日曜日

大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)

10 大結馬牧(仮説)の領域

大結馬牧(仮説)に関わると考えられる遺跡として鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡、南西ヶ作遺跡、大塚前遺跡をあげることができます。

南西ヶ作遺跡(奈良・平安時代)から墨書文字「大加」が出土します。また「大国玉□」も出土します。鳴神山遺跡で「大加」は牧集団であり、また千葉県で「大加」は鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡だけからの出土となることから、南西ヶ作遺跡は鳴神山遺跡の出先的要素が強かったと考えることができます。南西ヶ作遺跡は牧管理の出先集落であったと考えることができます。この情報は牧場域推定の有力な根拠情報になります。
なお、細かい話になりますが鳴神山遺跡の「大加」も南西ヶ作遺跡の「大加」もよく見ると大と加が組文字のようになっています。鳴神山遺跡で多出する刻書「大加」は完全に一体化して書かれているロゴマーク(組文字)になっています。このこだわりはそれを共有する集団の結束力の強さを示すと考えますが、この集団が何であるか検討を深めたいとおもいます。

鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡の情報、及び牧場域に馬の水飲み場となる谷津が必須であるという地形条件などから大結馬牧(仮説)の牧場地区をイメージしました。
なお牧場地区東南隅に多々羅田という鉄滓出土遺跡があり、年代不明ですが、大結馬牧(仮説)の馬具工房であった可能性もあります。

大結馬牧(仮説)僕所地区イメージを現代地図にプロットしたものです。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)

2017年11月24日金曜日

「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)

9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説

鳴神山遺跡牧の学習を進めるなかで予期せぬかたちで「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説が生まれました。
鳴神山遺跡牧だけをいくら詳しく調べても、そこに大結馬牧に関する思考が入り込む余地はありません。
しかし、鳴神山遺跡牧と定説の船橋大結馬牧との関係考察を深めるなかで大結馬牧船橋説の根拠が薄弱であることに気が付きました。
また延喜式の馬牧記載順番も船橋説を否定します。
このような情報と鳴神山遺跡牧特性理解の深まりのなかで、ある日突然「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説が生まれました。
自分の感情からいうと、「向こうからやってきた仮説」です。

長い間大結馬牧は船橋にあり、鳴神山遺跡牧は船橋大結馬牧の出張所みたいに考えていました。

鳴神山遺跡牧が軍事道路とセットで開発された国家戦略的な軍事牧ですから8世紀における下総国の馬牧のなかで最重要牧であると考えて間違いありません。この時代の情報を後にまとめた延喜式諸国牧に記載されて当然の牧です。そして大結馬牧船橋説に根拠がないのですから鳴神山遺跡牧が大結馬牧であると考えることが合理的な思考です。
鳴神山遺跡直線道路は下総国府(東京湾)と香取の海を大きく結ぶと想定されますから、その道路を大結(オオユイ)と呼んでいたとすれば、鳴神山遺跡牧の名称が大結馬牧となることは高津馬牧の例から当然のこととなります。

延喜式諸国牧の記載順番です。

下総国の記載順番をよく見ると大結馬牧は高津馬牧と木嶋馬牧の間にあります。この記載順番から大結馬牧は船橋ではなく、高津馬牧の北にあるはずです。
延喜式記載順番により東海道駅路網の検討が進んだように、延喜式記載順番は大結馬牧の空間位置を考える上で無視することのできない重要検討ファクターです。

大結馬牧のこれまでの定説(船橋説)

大結馬牧船橋説の概要です。

大結馬牧船橋説の難点です。

大結馬牧水海道市付近説の難点です。

大結馬牧船橋説、水海道市付近説の感想です。
共に中世歴史説明補強の観点から大結馬牧を利用している説であり、牧そのものの情報からおのずと生まれてきた説ではありません。

鳴神山遺跡牧の特性と大結馬牧船橋説の根拠薄弱性、延喜式記載順番から鳴神山遺跡牧が大結馬牧であると考えます。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)



2017年11月22日水曜日

鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)

8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡

古代牧は6つのゾーンから構成されるという研究があります。

この6つのゾーンを鳴神山遺跡に投影してみると良く適合して、鳴神山遺跡牧特性の理解を深めることができます。
牧場地区は「大」集団居住地域の北側で小字「大野」の付近になります。
繋飼地区は総柱掘立柱建物付近で厩舎の存在を想定できます。
管理地区は氏族名が書いてある多文字土器や羽口破片が出土した付近であると考えることができます。
居住地区は「大」集団居住地域です。
牧田地区は養蚕痕跡の濃い地域を想定できます。
祭祀地区は馬骨出土祭祀跡井戸付近が対応します。

鳴神山遺跡牧は下総における典型的古代牧遺跡であり、軍事道路機能と一体的に整備された国家戦略軍事牧遺跡であると考えます。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)

参考 印西船穂郷の謎講演レジメ(pdf) 12M

2017年11月21日火曜日

鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)

7 鳴神山遺跡直線道路

鳴神山遺跡の中央部を西南西から東北東にかけて直線道路が通っています。
直線道路は谷津地形を完全に無視して台地から谷底の降りていることが確認されていて、8世紀初頭頃律令国家計画道路の特徴を具えています。
この図で直線道路以外の曲線遺構は中世及び近世の馬堀跡です。

発掘調査報告書における直線道路の平面図及び断面図の例です。

直線道路の道路幅は上端で2.0m~2.4m、下端で0.9m~1.1m、深さ0.5m~0.7mです。
巾約1mの道路であり、馬に騎乗した人が馬にいちいち歩く方向を合図する必要のない機能を具えていたと考えます。構造からみて騎馬のすれ違いができない一方通行道路であると考えます。
道路は9世紀初めごろには埋め立てられています。

直線道路の発掘状況写真です。

直線道路の発掘状況写真です。

直線道路に面して長辺が道路と並行する総柱掘立柱建物(2間×3間)が存在します。総柱掘立柱建物は鳴神山遺跡ではこの1棟だけです。
道路機能と関わりのある建物であり、通常の掘立柱建物ではなく床が存在する総柱掘立柱建物ですから補給機能や関所機能を具えた行政機関の建物であることが推察できます。

道路断面を見ると複線区間と単線区間があり、かつ道路深さが総柱掘立柱建物付近だけ浅くなっていることから、上図のような道路区分が可能です。

この直線道路の意義について上図のような想定ができます。
地形を無視した直線性は中央政府の計画思考を反映しています。地元集落の生活機能とは全く無関係な道路であることがわかります。
8世紀だけ存在して、蝦夷戦争が終わるとともに埋め立てられたのですから、軍事専用道路であったことがわかります。
有効幅員1mの堀込構造から一方向道路であることが判ります。
西南西-東北東の方向から下総国府(東京湾)と香取の海を結ぶ道路であることが想定できます。
鳴神山遺跡牧域を貫通するのですから、この道路と牧が有機的セットで開発されたと考えることが合理的です。
道路直近に存在する総柱掘立柱建物は道路通行者のための補給機能やチェック機能の存在を物語っています。
このような情報から直線道路は律令国家の東北進出行軍専用道路であると考えざるをえません。国家的戦略的軍事道路であったと考えます。
道路と牧がセットで開発されたのですから、鳴神山遺跡牧は騎馬用軍馬、駄用軍牛の支給牧ということになります。鳴神山遺跡牧を国家的戦略的な軍事牧であると意義づけることができます。

道路構造から直線道路の機能を想像すると上図のようになります。
複線区間は下総国府方面からはるばる行軍してきた軍勢の集合・順番整序空間、そこから東の単線区間は補給チェック施設への行進区間であり、総柱掘立柱建物が補給チェック施設であると考えます。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)



2017年11月20日月曜日

船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)

6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族

竪穴住居100軒あたり紡錘車出土数のグラフを見ると船尾白幡遺跡の数値が大きく、近隣遺跡と比べて養蚕が盛んであることが判ります。

この絵は出土鉄鎌を整理したものですが、桑枝切りなどの使われたと考えます。

養蚕を示す墨書土器「子」(コ=蚕)が掘立柱建物の柱穴から出土し、養蚕用掘立柱建物を建設する際の祭祀(地鎮祭)で埋められたものと考えられます。「小」(コ=蚕)とかかれた墨書土器も数多く出土しています。

「小」(コ=蚕)の書体をみると他遺跡の文字「小」とくらべて静かで、まるで蚕の幼虫が3頭ならんでいるようです。「小」は女性が書いた書体であると推察します。

船尾白幡遺跡が利用した戸神川から(西根遺跡から)人形・馬形が出土していて、馬と娘の婚姻譚を背景とした養蚕祈願をこれらの人形・馬形で行ったと考えます。

人形・馬形は戸神川流路跡から重なって出土していて、同じ小舟に乗せて流した祭祀の存在を知ることができます。

船尾白幡遺跡から漆に関わる墨書文字が多数出土しています。「息」(ソク=乾漆)が多くなっています。

船尾白幡遺跡からは「麻」の文字も出土します。
「息」(ソク=乾漆)と「麻」の出土から麻を材料とした乾漆が船尾白幡遺跡の特産であったことが忍ばれます。

「息」の文字
鳴神山遺跡では馬皮を材料にした漆皮(シッピ)が作られ、船尾白幡遺跡では麻を材料にした乾漆が作られ、同じ漆器生産でもそれぞれ特徴が対照できるので面白いことです。

船尾白幡遺跡は鳴神山遺跡より穂摘具の出土数が多く、水田耕作がある程度行われていたようです。

船尾白幡遺跡のメイン墨書文字は「帀」(アマ=天の則天文字)です。この文字はアマと読み天の大神、天神を意味すると考えます。天津神を表現していると考えます。
恐らく鳴神山遺跡の文字「大」「大加」を意識して「帀」(アマ=天の則天文字)を使ったのではないかと考えます。
リーダー氏族は「帀」も書いてある多文字墨書土器に出てくる壬生部(ミブベ)であると考えることができます。

鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡のメイン墨書文字と解釈、リーダー氏族をまとめてみました。
戸神川を挟んだ台地で対峙する両集落がどのように協力・競争していたか興味が深まります。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)



2017年11月19日日曜日

加曽利貝塚国特別史跡指定記念シンポジウム

2017年11月18日に若葉文化ホールで加曽利貝塚国特別史跡指定記念シンポジウムが開催され参加してきました。
最近はこの手のイベントには全くといっていいほど参加したことが無かったので新鮮な印象を受けることができました。

イベント会場前

文化庁主任文化財調査官佐藤正知さんから「特別史跡とは」と題する講演がありました。
一言でいうと、加曽利貝塚は土地に関わる国宝であるとのこととして理解しました。

佐藤正知さん

京都大学大学院総合生存学館特定教授の泉拓良さんから「縄文時代について」と題する講演がありました。縄文時代と貝塚について世界を視野に、かつ後氷期の気候変動等との関連のなかでの詳しい説明がありました。

泉拓良さん

千葉市埋蔵文化財調査センター所長西野雅人さんから「加曽利貝塚の価値と魅力」と題する講演がありました。
加曽利貝塚の学術的価値として次の3点の詳しい説明がありました。
1 日本列島の貝塚は、日本の歴史、人類の歴史を語る上で欠くことができない
2 東京湾東岸の貝塚群は日本の貝塚のなかでも、とくに重要な価値を有している
3 加曽利貝塚は東京湾東岸の貝塚群を代表する存在
また、付加された価値として次の2点の詳しい説明がありました。
1 研究史的な価値
2 文化財の保護活用に関わる価値
さらに縄文人の生活や文化にかかわる発掘情報が現代社会ともつながっていることなど興味深い話がありました。
また講演途中に発掘現場とのテレビ実況中継によるやりとりがあり、市民参加や市民に対する説明の意義が浮き彫りになりました。

西野雅人さん

シンポジウム会場のおける発掘現場実況中継の様子

3人の講演のあと5人の出席者による討論があり加曽利加塚国特別史跡指定の意義や今後の市民参加による史跡活用方策について熱心な話となりました。
市長によるゆるキャラ「かそりーぬ」誕生秘話なども裏話としてだけではなく、加曽利貝塚特性理解として興味が湧きました。

討論の様子

このシンポジウムは千葉市としても力を入れて開催した様子が配布物から感じました。
配布物を入れる袋が特製であり、立派なパンフレット3冊、コースター、ボールペンなどが入っていました。

特製袋

パンフレット1

パンフレット2

パンフレット3

コースター、ボールペン

昭和時代で終わった加曽利貝塚の輝きが、国特別史跡指定をきっかけに再び輝きだし、まちづくりの目玉に育っていくことを行政や考古関係者が願っている様子が伝わってきました。

感想
自分の縄文時代学習にいろいろと好ましい刺激を受けました。
途中まで学習が進みましたが事情で中断している大膳野南貝塚の学習の再開をはやくしたくなりました。大膳野南貝塚の全貌を通しで理解すればそれを手ずるにして加曽利貝塚の意義などもより深く理解できるようになると思います。
西根遺跡出土「イナウ」についての記事をまとめ、その原資料提供者である千葉県に対する報告を急ぎたいと思います。シンポジウムで「アイヌ」「送り」「祭祀」などの言葉が飛び交う様子を聞いていて、西根遺跡「イナウ」出土の意義の大きさを密かに感じました。
講演説明情報のなかの出典のいくつかに興味が湧き、早速入手したと思います。