2018年1月22日月曜日

鹿頭骨列の解釈

大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 14

竪穴住居そのものではありませんが、北貝層縁辺部に鹿頭骨列が特殊的に出土していますので観察し解釈します。

1 1号鹿頭骨列

1号鹿頭骨列
鹿頭蓋骨5点(内2点は同一個体と推定)が列状の検出され(南東→北西)ました。骨体表面は摩滅しています。北貝層の堆積直前もしくは貝層堆積の初期段階に配されたものと推定されています。頭骨はいずれも角坐が残っています。分布列の全長は約4mです。

2 解釈
1号鹿頭骨列付近でそれと直交する線分を想定すると、それは集落内部から狩場方面へ出かける通路の方向に一致します。同時に1号鹿頭骨列は集落出入口付近と想定することも可能です。
このような想定から、1号鹿頭骨列は集落出入口に設置されたモニュメントで、その出入口から狩場に向かう通路が存在していたと考えることができます。

仮説 1号鹿頭骨列は狩場方面へ向かう集落出口のモニュメントである。

大膳野南貝塚から狩場へ向かう通路

1号鹿頭骨列は地面に置かれたものでないことは当然であり、例えば次のようなヌササンとして想像することができます。

1号鹿頭骨列復元空想図
頭骨には全て角坐が残っているので、遺物としての角は出土していませんが、モニュメントとして設置された時は角があったのかもしれません。

2018年1月21日日曜日

竪穴住居環状焼土から出土した特殊遺物

大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 13

竪穴住居環状焼土堆積物から出土する特殊遺物について観察します。

1 環状焼土の堆積する竪穴住居
大膳野南貝塚後期集落では4軒の竪穴住居から、住居壁内側に沿って環状に分布する焼土堆積が検出されています。
焼土堆積内には多量の炭化物が含まれていて、さらに焼土堆積下の住居床面の一部は被熱により赤化しています。
4軒の竪穴住居は北貝層の称名寺式期竪穴住居(J34)と堀之内1式期竪穴住居(J63)、南貝層の称名寺式期竪穴住居(J104)と堀之内1式期竪穴住居(J105)であり、空間的(北貝層と南貝層)かつ時期的(集落最初期と集落発展ピーク期)に対応していることが着目されます。
また4軒ともに漆喰貝層有竪穴住居です。

環状焼土堆積のある竪穴住居

2 環状焼土堆積から出土する特殊遺物
発掘調査報告書では特殊遺物としてJ34の大型石棒、J63の鹿骨製垂飾、J105の鯨骨製骨刀をあげていますが、J104の注口土器も重要な特殊遺物であると考えられ、この記事で追加します。
これらの焼土および特殊遺物については、何らかの重要な廃屋儀礼(住居廃絶後の火入れ行為等)にともなうものと考えられ、その住居の主が集落のなかで何らかの枢要な役割を果たしていたことを暗示しています。

竪穴住居環状焼土堆積から出土した特殊遺物 J34 J63 J105

竪穴住居環状焼土堆積から出土した遺物 J104

これらの特殊遺物のうちJ34の大型石棒、J105の鯨骨製骨刀、J104の注口土器は祭祀行為と深くかかわる遺物であると考えられることから環状焼土堆積のある竪穴住居の主は祭祀面においても集落を率いていた可能性が濃厚です。住居の主はシャーマンだった可能性が濃厚です。

3 鯨骨製骨刀の出土遺跡
鯨骨製骨刀の出土は全国的に見ても珍しく、関東では大膳野南貝塚が初例です。
発掘調査報告書では北海道と東北の4例をあげ、いずれも縄文時代後期初頭~前葉であり、時期的には大膳野南貝塚と近いとしています。また「本州北半の太平洋岸域、特に仙台湾沿岸地域からの伝播が考えられるであろう。」と記述しています。

鯨骨製骨刀出土遺跡
大膳野南貝塚出土鯨骨製骨刀が東北から運ばれてきたものであるとするならば、東北縄文人と千葉縄文人の交流が行われていた証拠になります。関東と東北の貝塚を形成する縄文人(漁猟従事縄文人)が鯨を追ってお互いのテリトリーまで到達していたのかもしれません。
また、大膳野南貝塚の縄文人が東京湾だけでなく九十九里(太平洋)に出ていた可能性も検討対象になります。



2018年1月19日金曜日

竪穴住居からの装身具出土の検討

大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 12

竪穴住居から出土する装身具について観察します。

1 竪穴住居からの装身具出土状況

竪穴住居からの装身具出土状況 大膳野南貝塚発掘調査報告書から竪穴住居分だけ抜粋引用
発掘調査報告書では貝製垂飾のうちイモガイ・ツノガイは房総半島南端産、テングニシは九十九里産であると想定しています。

主な装身具 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用 竪穴住居以外からの出土分を含む

2 時期別にみた竪穴住居からの装身具出土状況
2018.01.18記事「石器多出竪穴住居の検討」で石器出土が多い竪穴住居について検討し、それらの竪穴住居が集落始祖や集落リーダーに関連していることを推察しました。
この検討で作成した時期別石器多出竪穴住居分布図に装身具出土状況を追記してみました。

称名寺式期前後期石器多出竪穴住居
(貝塚形成集落)

堀之内1式期石器多出竪穴住居
(貝塚形成集落)

堀之内2式期石器多出竪穴住居
(貝塚形成集落)

堀之内2式期~加曽利B1式期石器多出竪穴住居
(貝塚は形成していない)

3 考察
全ての時期で石器多出竪穴住居から装身具の出土があるだけでなく、その出土量が多いことが判明しました。
これは石器多出竪穴住居が廃絶した時、その家族(故人)を偲んで供えられたものの中に貴重な装身具が含まれていたということであり、その家族(故人)が着装していたものの可能性もあり、その家族(故人)が集落のなかで重きをなしていたことを表現していると考えることができます。
2018.01.18記事「石器多出竪穴住居の検討」で検討した事柄、つまりそれらの竪穴住居が集落始祖や集落リーダーに関連しているということの確からしさが強まりました。

2018年1月18日木曜日

石器多出竪穴住居の検討

大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 11

竪穴住居から石器が多出する竪穴住居の特性について観察します。

1 石器多出竪穴住居
出土石器数順位グラフを漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居別に作成して並べてみました。

出土石器数順位グラフ
この順位グラフで出土石器数18以上の竪穴住居8軒について検討することにします。

なお、中テン箱数、獣骨数に関する同様の順位グラフを再掲します。

参考 中テン箱数順位グラフ

参考 獣骨数順位グラフ

石器数と中テン箱数と獣骨数の間には強い相関関係があり、それらの直上位の竪穴住居はある程度絞られてきています。

2 石器多出竪穴住居の検討
石器多出竪穴住居について中テン箱数、獣骨数、廃屋墓、人骨出土(発掘調査報告書で廃屋墓としてカウントされていないもの)、時期を一覧表でまとめ、これらの情報から当該竪穴住居に関連する人物を推測して記入してみました。

石器出土が多い竪穴住居の検討

大膳野南貝塚後期集落が貝塚形成集落であった3時期の集落リーダーに関わる竪穴住居を石器出土数から突き止めたことになります。
また貝塚形成集落が終焉したあとの時期の集落リーダーに関わる竪穴住居も突き止めたと考えます。

これらの石器多出竪穴住居の所在を時期別地図にプロットすると次のようになります。

称名寺式期前後期石器多出竪穴住居
(貝塚形成集落)

堀之内1式期石器多出竪穴住居
(貝塚形成集落)

堀之内2式期石器多出竪穴住居
(貝塚形成集落)

堀之内2式期~加曽利B1式期石器多出竪穴住居
(貝塚は形成していない)

3 感想
想像を重ねているとはいえ、データから時期別に集落リーダー格人物の竪穴住居を推察することができました。
有力家族(リーダー格家族)という点でみると南貝層に2家族が、北貝層に1家族がそれぞれ集落の最初期と急成長期(堀之内1式期)にテリトリーを有していたことが読み取れます。
貝塚形成集落の終焉期(堀之内2式期)には南貝層に1家族だけとなります。
東京湾漁撈と関わらなくなった時期(堀之内2式期~加曽利B1式期)には有力家族が南貝層と北貝層の間の非貝層空間にテリトリーを有していました。

2018年1月17日水曜日

漆喰貝層有無竪穴住居別の石器種類詳細検討

大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 10

竪穴住居から出土した石器の種類を漆喰貝層有無別に詳細に観察します。

1 漆喰貝層有無竪穴住居別 器種別石器出土数
時期別に作成した漆喰貝層有無竪穴住居別 器種別石器出土数グラフを並べてみました。

時期別に作成した漆喰貝層有無竪穴住居別 器種別石器出土数グラフ
このグラフで時期別に石器種類の出土状況が漆喰貝層有無竪穴住居別にイメージできますが、多少見にくいので、次に、石器種類を利用系統別にまとめて、かつ%グラフで並べてみました。

2 時期・漆喰貝層有無別 利用系統別石器出土割合(%)

時期・漆喰貝層有無別 利用系統別石器出土割合(%)
●石器種類の大ざっぱなグループ分け(利用系統)
・狩猟系…尖頭器、石鏃、石錐、石匙、クサビ、スクレイパー
・植物食系…磨製石斧、打製石斧、礫器、敲石、磨石、凹石、スタンプ、石皿、砥石
・漁労系…石錘、軽石製品
・祭祀・装身系…石棒、装身具
・素材系…剥片類、石核、黒曜石

漆喰貝層有無別という視点でこのグラフをみると、集落が貝塚集落であった最初の3期(称名寺式期前後期、堀之内1式期、堀之内2式期)では全ての期で漆喰貝層有竪穴住居で狩猟系統の割合が漆喰貝層無竪穴住居より大きく、植物食系統では小さくなっています。
これは漆喰貝層有竪穴住居グループと漆喰貝層無竪穴住居グループをくらべると、漆喰貝層有竪穴住居グループは狩猟と植物食の双方が大事な生業であることが表現され、漆喰貝層無竪穴住居グループでは生業における狩猟の割合が低く、結果として植物食の割合が大きくなっていることを示しています。
漁業(海の漁撈)では石器は使っていなかったようです。
漆喰貝層無竪穴住居グループで漁労系の割合が高いのは、谷津の小川での小魚とりが行われていた様子が表現されたと考えます。

2018年1月16日火曜日

竪穴住居からの石器出土数時期変化

大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 9

竪穴住居から出土した石器数を漆喰貝層有無別に観察します。

1 竪穴住居からの石器出土数

竪穴住居からの石器出土数
最初期の漆喰貝層有竪穴住居は5軒だけですが石器出土数が異様に大きく不自然です。
時期別に竪穴住居数は大幅に変動しますから、竪穴住居1軒あたり平均出土数で比較して観察してみました。

時期別竪穴住居1軒あたり平均石器出土数
観察ア
最初期(漆喰貝層有は称名寺式期~堀之内1古式期、漆喰貝層無は加曽利E4式期~称名寺式期)の漆喰貝層有が飛びぬけた直となっています。
観察イ
集落が貝塚集落であった時期(漁業がおこなわれていた時期)漆喰貝層無竪穴住居からの石器出土数は極めて乏しく、有と比べて多くて13%程度ですが、貝塚集落終焉以後の期(堀之内2式期~加曽利B1式期、加曽利B1式期)になると急増して堀之内1式期・堀之内2式期の有竪穴住居と同等程度の直になります。

2 考察
2-1 最初期漆喰貝層有竪穴住居の石器多量出土の理由(観察ア)
最初期漆喰貝層有竪穴住居からの石器出土数を後期集落全体の順位グラフで確かめると次のようになります。

石器数出土順位グラフ
5軒の竪穴住居のうち3軒からの石器出土数が特に多く平均値を大幅に押し上げている状況が確認できます。

この5軒の分布は次の通りです。

称名寺式期~堀之内1古式期竪穴住居(すべて漆喰貝層有竪穴住居)

この5軒は大膳野南貝塚後期集落の最初の漁民家族です。貝塚集落の始祖家族の住居です。
この始祖家族が苦労して東京湾の漁業権を獲得して、以後集落が東京湾で漁業ができるようになったのです。
これら始祖家族に対する祭祀は長い間繰り返し行われ、その時のお供え物が累積的に蓄積したと考えられます。通常の竪穴住居廃絶祭祀とはことなり、後々まで集落の人々に語りつがれ、始祖を敬う祭礼が行われたと考えます。
そのお供え物のうち土器や石器が残り多量に出土していると考えます。
中テン箱数(大ざっぱには土器の量に比例するようです)も同じ傾向を示しています。

参考 中テン箱数

2-2  貝塚集落終焉後に漆喰貝層無竪穴住居の石器出土が増える理由(観察イ)
漆喰貝層有竪穴住居は堀之内2式期までで、この期で貝塚集落は終わります。漁民家族は狩猟も植物採集も全て自前でおこなっていて繁栄した時期もあるので、生業上の理由から移動したということは考えづらいと思います。恐らく何らかの理由で集落崩壊して衰滅したと想像します。その衰滅理由にもよりますが、例えば清潔な飲料水の枯渇(疾病を伴う水質の汚染)が原因ならば漁民家族だけでなく漆喰貝層無竪穴住居の家族も衰滅したに違いありません。
想像を重ねると、堀之内2式期に集落は一旦全滅し、その後に漁業権を持っていない別の家族が外部から入り、この場所に竪穴住居を構えたと考えます。

2018年1月15日月曜日

ブログ開設7周年通過にあたって

本日(2018.01.15)がこのブログ開設7周年通過日となります。

7周年の通過が出来たのは、ひとえに多くの方々にこのブログを閲覧していただき、コメントをいただき、いろいろなご協力をいただいたおかげです。

皆様方に心から感謝申し上げます。

これまでの過去7年間の1月15日に次のようなブログ開設記念記事を書いてきています。
今年も前例にならい、今年のささやかな夢をメモすることにします。

●過去のブログ開設記念記事
2012.01.15記事「ブログ開設1周年
2015.01.15記事「2015年ささやかな夢リスト 趣味生活における埋土種子群落
2016.01.15記事「ブログ開設5周年通過
2017.01.15記事「ブログ開設6周年通過

1 大膳野南貝塚学習
一昨年12月にスタートした、はじめての縄文時代本格学習です。
またQGISを使った本格GIS学習でもあります。
大膳野南貝塚の情報分析だけでは思考が限定されてしまうので、少しでも思考の幅を広げるためにブログ「花見川流域を歩く番外編」でジャレド・ダイヤモンドの「文明崩壊」の学習を、ブログ「芋づる式読書のメモ」で縄文関連図書の学習を同時並行的に行っています。
2018年中に大膳野南貝塚発掘調査報告書の全体を何とかGIS分析しつくして、縄文時代学習の自分流スタイルを確立したいと思っています。また、縄文時代とはこんな時代であったという自分なりの時代や社会イメージを構築したいと思っています。

2 下総台地をフィールドとした学習
大膳野南貝塚の一通りの学習が済めば、次は下総台地全体を対象とした縄文時代遺跡(社会)変遷の学習にチャレンジしたいと夢見ています。この夢に本格チャレンジするのは2019年以降になると思いますが、2018年中にその学習計画だけでも作りたいと考えます。

3 空間分析手法の習熟と応用力増強
趣味活動を始める前はGoogle earthやGISは触れたことのないソフトでしたが、いつの間にかそれらの利用になれてきました。操作技術的な意味で高嶺の花であり憧れのソフトであったQGISも、最近では通常レベルで使えるようになりました。
Google earth proやQGISを連携して行う空間分析手法により習熟し、問題解決に役立つような応用力増強に2018年もはげみたいと思います。

4 考古事象と自然環境史との関連学習
縄文時代集落変遷や奈良平安時代開発集落変遷などと自然環境史(気候変動、海面変動、植生変化など)の対応関係の情報に敏感になり、基本的情報(文献図書)を学習したいと思います。
考古専門図書において縄文時代遺跡消長の理由について判らないことは全て気候変動のせいにしている記述が大半であるように見受けられます。専門家の記述といえども視野の狭い説には惑わされないように正確な知識で思考の陥し穴に落ちないようにしたいと思います。

5 世界各地の考古遺跡の学習
参考情報として世界各地の考古遺跡の学習(といっても解説書の翻訳本の読書)を意識的に行い、縄文時代遺跡変遷や奈良平安時代開発集落変遷の理由(なぜ成長できたかその要因、なぜ衰退したかその理由)について広い視野から考察できるようになりたいと思います。比較研究のまねごとができるようになりたいと考えます。

昨年末から現在までの間にブログ「芋づる式読書のメモ」とサイト「考古と風景の楽しむ」を立ち上げ、学習のためのWEBインフラ構築が進みましたので、後は学習を進めるのみです。

ブログ「花見川流域を歩く」と関連ブログ・サイトの活動を今後もよろしくお願い申し上げます。

夜明け

2018年1月14日日曜日

漆喰貝層有無竪穴住居別石器種類

大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 8

竪穴住居から出土した石器種類の割合を漆喰貝層有無別に観察します。

1 漆喰貝層有無竪穴住居別石器出土状況

漆喰貝層有無竪穴住居別 石器種類別出土割合(%)
比較を用意にするため、実数ではなく%で観察してみました。
狩猟系の石器(石鏃など)、植物採集や調理系の石器(石斧、敲石、磨石…)ともに漆喰貝層有無別に思っていたような大きな違いがありません。
自分の事前の想定(漆喰貝層有竪穴住居より無竪穴住居のほうが植物採集や調理系の石器の割合がはるかに大きい)がはずれたようです。
そこで石器種類を大ざっぱなものになりますが次の5グループに分別して出土割合(実数)を見てみました。

●石器種類の大ざっぱなグループ分け(利用系統)
・狩猟系…尖頭器、石鏃、石錐、石匙、クサビ、スクレイパー
・植物食系…磨製石斧、打製石斧、礫器、敲石、磨石、凹石、スタンプ、石皿、砥石
・漁労系…石錘、軽石製品
・祭祀・装身系…石棒、装身具
・素材系…剥片類、石核、黒曜石

漆喰貝層有無竪穴住居別利用系統別石器出土数
漆喰貝層有竪穴住居も無竪穴住居も狩猟系と植物食系のグラフパターンが同じで自分の事前の想定が外れたことが確定しました。
自分の事前の想定(漆喰貝層無竪穴住居グループが植物採集の点で漆喰貝層有竪穴住居グループをサポートするという集落内分業があり、それが石器組成に表現される)は覆りました。

2 考察
漆喰貝層有竪穴住居グループ(漁民)は石器組成から漆喰無竪穴住居グループ(非漁民)と同じように植物採集をしてその調理を行っていたことが判ります。
集落内分業は石器組成から否定されました。

漆喰貝層有無竪穴住居分布
漆喰貝層無竪穴住居の分布をみると有竪穴住居グループの円環の内側に円環をつくり、また外側に円環を描いて分布します。
この分布形状から漆喰貝層無竪穴住居グループが一つの集落内サブコミュニティであった可能性を感じます。
つまり、漆喰貝層有竪穴住居グループは東京湾に漁業権を有する裕福な家族グループであり、集落内独立メインサブコミュニティを構成していて、一方漆喰貝層無竪穴住居グループは漁業権を有せず貧しい家族グループであり、集落内サブコミュニティを構成していたと考えられます。
2つのサブコミュニティの間には生業面での分業はなかったようです。
豊かな漁民と貧しい非漁民が一つの集落に暮らしていたことになります。
恐らく豊かな漁民は狩猟権(狩場の入会権)も有していたと考えます。
貧しい非漁民は漁業権も狩猟権もなく、それらの権利を必要としない住居直近の身近な小川や林野で細々と小魚や小動物を採っていたと想像します。

2018年1月13日土曜日

漆喰貝層有無竪穴住居別石器出土数

大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 7

竪穴住居からの石器出土状況を漆喰貝層有無別に観察します。

1 漆喰貝層有無竪穴住居別石器出土状況

漆喰貝層有無竪穴住居別石器出土割合
漆喰貝層有竪穴住居の50%から、無竪穴住居の30.9%から石器が出土します。


漆喰貝層有無竪穴住居別石器出土数
竪穴住居出土石器数は漆喰貝層有竪穴住居は無竪穴住居の5倍近くになります。


参考 漆喰貝層有無別竪穴住居数


2 漆喰貝層有無別竪穴住居からの石器出土数

漆喰貝層有無別竪穴住居からの石器出土数
(グラフ表現の理由から黒曜石を表示していません。黒曜石の出土数は漆喰貝層有竪穴住居115、無竪穴住居17です。)
石器種類別にみると、全ての種類で漆喰貝層有竪穴住居の出土数が無竪穴住居の出土数より大幅に上回ります。

3 考察
・漆喰貝層無竪穴住居の石器出土状況が大変貧弱であり、漆喰貝層有竪穴住居グループとは対等とはとても言えない貧しい生活をしていた様子が推察できます。
・石鏃出土数が漆喰貝層有竪穴住居で38と他の種類を抜いて多く、石鏃が狩猟活動で使っていたと考えると、漆喰貝層有竪穴住居家族は漁撈活動だけでなく狩猟活動もおこなっていたことが想定できます。同時に磨製石斧、打製石斧や敲石、磨石、凹石なども出土するのですから植物採集やその調理も行っていたことになります。
・石器出土状況から漆喰貝層有竪穴住居グループが漁労、狩猟、植物採集活動をすべて行っていたと考えると、漆喰貝層有竪穴住居グループと無竪穴住居グループの間に職種によるような分業が行われていた可能性が小さくなります。
・職種によるような分業ではなく、無竪穴住居グループによる一方的な労働力提供が行われていた可能性も検討の俎上にあげる必要があるかもしれまえせん。
・ひょっとすると奴隷的な意味での優位-劣位関係も検討する必要があるような気がします。
さらに検討を深めます。

2018年1月12日金曜日

獣骨多量出土竪穴住居は廃屋墓

大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 6

獣骨が多量出土した竪穴住居の様子を観察します。

1 獣骨多量出土竪穴住居

獣骨多量出土竪穴住居

獣骨多量出土竪穴住居の分布

2 獣骨多量出土竪穴住居の様子

J81 J78 J77 J85 J80
J77は床下墓坑があります。J81、J78、J80の3軒からヒト骨が出土しています。これらの竪穴住居は発掘調査報告書では廃屋墓としてはカウントされていません。

J74 J40
J74、J40ともに廃屋墓です。

J63 J36
J63からヒト骨が出土しています。発掘調査報告書では廃屋墓としてはカウントされていません。

3 考察
獣骨多量出土9軒のうち廃屋墓とヒト骨出土が7軒となり特筆すべき情報であると考えます。
獣骨が多量に出土したということは竪穴住居廃絶の際に獣肉食を含む祭祀が繰り返し行われたと考えられます。
獣骨多量出土竪穴住居のうち78%から人骨が出土していることから、これらの竪穴住居では単なる住居空間廃絶の祭祀(住居空間の送り祭祀)ではなく、その空間で営まれたヒト葬送の祭祀(廃屋墓祭祀)がメインであったと推察します。
獣骨多量出土竪穴住居は人骨が出土していないくても、その竪穴住居が廃屋墓であったことを示す指標になると考えます。
発掘調査報告書で廃屋墓とカウントされた竪穴住居からはすべて獣骨が出土しています。ただし獣骨の量は少ないものもあります。この現象はおそらく埋葬する人物の格(リーダー家族か否かなど)によって執り行われた祭祀の質レベルや回数が異なっていたからだと考えます。
リーダー家族の葬送祭祀では沢山の人を集め沢山のシカやイノシシを何回にもわたって食い、劣位家族の葬送祭祀では少人数が少量のシカやイノシシを少数回食ったのだと思います。
この考えが正しければ、人骨と一緒に出土する獣骨量でその人物の集落内社会的地位を推察することができるかもしれません。

……………………………………………………………………
この記事を訂正しました。2018.02.14
当初記事の竪穴住居別獣骨数に一部誤りがありましたので画像全部と文章の数値を訂正しました。記事大要に変更はありません。

2018年1月11日木曜日

獣骨出土数の時期変遷

大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 5

獣骨出土数の時期変遷を観察します。

1 漆喰貝層有無別時期別平均獣骨数

漆喰貝層有無別時期別平均獣骨数
漆喰貝層非出土竪穴住居からの獣骨出土数の値は小さいのでグラフに表現されません。
漆喰貝層出土竪穴住居の状況をみると、最初期から堀之内1式期、堀之内2式期と時間が経つに従って平均獣骨数が急増します。
大変特徴的なグラフとなっていますので、この理由をどのように説明できることができるのか、今後石器情報検討の際に検討を深めることにします。
石器情報未検討の現状では、最初期→堀之内1式期→堀之内2式期と時間が経つに従って狩猟活動が盛んになったとととりあえず仮説しておきます。

2 考察

参考 漆喰貝層有無別時期別竪穴住居数
大膳野南貝塚後期集落は堀之内1式期にピークを迎え、この時期が漁撈活動の最盛期であったと考えることができます。
その後何らかの理由で漁撈活動が不振となり集落が衰退した時期が堀之内2式期です。この堀之内2式期に平均獣骨数が急増する理由も今後石器情報等を踏まえて検討する必要がありますが、現状では次の2つの理由のどちらかだと考え仮説候補をリストアップしておきます。

ア 漁業資源の劣化などで漁撈活動が不振となり、それに代わる動物性たんぱく質獲得のため(ご馳走獲得のため)漁撈活動より難易度の高い狩猟活動の比重を高めた。(魚介類がとれなくなったため、狩猟にはしる。)

イ 人口減少により、1人あたりに行き渡る動物肉量が増えた。その結果、海産物より美味しい動物肉獲得に社会の方向が少しずつ転換した。漁業活動より狩猟活動の価値が高まった。(魚介類はとれるが、それを採るより狩猟を選択した。)[人口減少の理由…a漁場の劣化、b漁場劣化以外]

2018年1月9日火曜日

獣骨出土数と漆喰貝層有無別竪穴住居との関係

大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 4

獣骨出土数と漆喰貝層有無別竪穴住居との関係を観察します。
大膳野南貝塚から出土する獣骨はイノシシが最も多く、次いでシカであり、その2種でほとんどを占めます。その他の哺乳類や鳥類・爬虫類等は極限られた出土となっています。

1 立体グラフによる関係把握

大膳野南貝塚後期集落 竪穴住居からの獣骨出土数 1

大膳野南貝塚後期集落 竪穴住居からの獣骨出土数 2

・獣骨出土はほぼ漆喰貝層出土竪穴住居からに限られている様子が観察できます。
・漆喰貝層出土竪穴住居でも獣骨出土数が多いのは数軒程度に限られていて南貝層が多く、北貝層にもあります。

2 統計による把握

大膳野南貝塚後期集落 獣骨出土竪穴住居の割合
獣骨が出土する竪穴住居を調べると漆喰貝層出土竪穴住居では65.8%(25軒/38軒)、漆喰貝層非出土竪穴住居では12.7%(7軒/55軒)となります。

大膳野南貝塚後期集落 竪穴住居からの平均獣骨出土数
漆喰貝層出土竪穴住居のほうが圧倒的に獣骨数が出土しています。漆喰貝層出土竪穴住居は土質の理化学的条件により獣骨が保存されやすいので、このような結果になった可能性もあり、漆喰貝層非出土竪穴住居にもともと獣骨がすくなかったかどうかは不明であると考えおきます。

大膳野南貝塚後期集落 漆喰貝層出土竪穴住居からの獣骨出土数
同じ漆喰貝層出土竪穴住居でも獣骨数が100を超えるものは8軒だけであり、獣骨が沢山出土する竪穴住居とあまり出土しないあるいは全く出土しない竪穴住居との差異の理由について今後検討していくことにします。

3 考察
他の条件(石器種類など)から検討することによって漆喰貝層非出土竪穴住居ではもともと獣骨がすくなかったらしいとの推測が可能かどうか今後検討します。

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注 2018.02.25
この記事で使った獣骨出土統計は一部間違っていますので後日訂正します。なお検討の大要はこの記事の通りです。
 

2018年1月8日月曜日

パワーポイントファイル公開の不具合修正

サイト「考古と風景を楽しむ」で次の資料を公開しています。
このうち〇印の資料について手違いで閲覧できない状態でしたがその不具合を修正して閲覧できるようにしましたので報告します。

サイト「考古と風景を楽しむ」で公開している資料
資料 印西船穂郷の謎
〇パワポ 印西船穂郷の謎
資料 戸神川谷津の秘密
〇パワポ 戸神川谷津の秘密
パワポ 古代交通施設
〇資料 戦争遺跡予備調査

サイト「考古と風景を楽しむ」画面の右上の「ホーム」にカーソルを当てると資料リストが出ますから必要なものをクリックしてください。
パワーポイントファイルは利用パソコンにパワーポイントがインストールされていなくても閲覧できます。(無料のGoogleスライドを利用しているようです。)
資料あるいはパワポの画面の右上の「ポップアップ」をクリックすると印刷やダウンロード可能の画面になります。

ぜひ一度ご笑覧ください。

サイト「考古と風景を楽しむ」画面

サイト「考古と風景を楽しむ」画面

サイト「考古と風景を楽しむ」画面