これまでこのブログでは墨書土器の検討では主に千葉県墨書土器・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)を使ってきています。
このデータベースには墨書土器、刻書土器、ヘラ書き土器が含まれていて、その区別に今までの私は無頓着でした。
しかし、「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書 XIV -印西市鳴神山遺跡Ⅲ・白井谷奥遺跡-」(平成12年3月、都市基盤整備公団千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)を読むとヘラ書き土器について興味深い記述があります。
その中で、鳴神山遺跡Ⅲ225竪穴住居出土須恵器甕底部の「弓」字形と全く同一の記号が千葉市緑区南河原坂窯跡群30号・35号住居出土坏に見られること及び、鳴神山遺跡Ⅰ・Ⅱでは「弓」字形が墨書と線刻の史料が見られることを指摘しています。
同時に、鳴神山遺跡Ⅲ251竪穴住居検出の皿型土器の同一個体表裏面に見られるヘラ書き「工万」がやはり千葉市緑区南河原坂窯跡群63号土壙出土坏底部に同様のヘラ書きが見えることを指摘し、文字を見る限りでは同筆である可能性も否定できないとしています。
参考 鳴神山遺跡と南河原坂窯跡群の位置
この2つの指摘を論拠として、ヘラ書きは生産地において記されるものであり、製品の発注者を表示するものである可能性と製作工人を表示する可能性の双方を検討しています。
そして、「弓」字形のヘラ書きは墨書・線刻土器が鳴神山遺跡で出土していることから発注者を示している可能性が高いと結論付けています。
また、「工万」は発注者を表示している可能性を全面に出すことは難しいが、生産地と消費地を直接結ぶ資料として注目すべきであると結論付けています。
私はこの検討から、ヘラ書きが発注者を示すものならば特注品であることを直接示すものであり、生産者サイドの符合であっても生産者がわざわざ符合を付けて出荷したということはそれなりに意味のあることであると考えます。
生産者サイドの符合であっても、それは生産者が自信を持って出荷する製品であるからこそ「サイン」入り、「銘」入りであり、はやり言葉でいえば「エンブレム」入りです。一種のブランド品であると考えます。
ヘラ書き土器が発注者の銘をいれた特注品であるならば、生産者銘入りより一層高級感のあるブランド品であったと考えます。
そうしたブランド感は古代も現代もあまり変わらないと思います。
つまり、ヘラ書き土器というものが全体として高級品・ブランド品であると見てよいのではないかと考えます。
このような考えを踏まえて、早速鳴神山遺跡及び萱田遺跡群などのヘラ書き土器数を調べてみました。
ヘラ書き土器数
銙帯出土や掘立柱建物が多く、周溝を巡らした寺院がある白幡前遺跡より鳴神山遺跡の方がヘラ書き土器が3倍近く多くなっています。
実数ではなく、墨書土器数に対する比率を求めると次のようになります。
ヘラ書き土器の割合
率でみてもヘラ書き土器(つまりブランド品・高級品)の割合は鳴神山遺跡は白幡前遺跡の倍になります。
なお、参考として村神込の内遺跡のヘラ書き土器の割合は白幡前遺跡の5倍になります。
この情報から白幡前遺跡と鳴神山遺跡の違いが少しわかってきたような気がします。
白幡前遺跡は新興開発地であり、軍事・兵站基地であり、兵や軍需物資を動員したり備蓄したりする機能がメインであったと考えます。
多数の官僚が各種具体的プロジェクトを動かしていたと思います。寺院もありますがあくまでも鎮護国家の観点から戦争勝利のための祈祷施設だったと思います。古墳時代からそこにいた支配層はゼロです。
白幡前遺跡は実務(事業)の空間だったのです。
一方、鳴神山遺跡は古墳時代から支配層が居住していて、その支配層は房総各地の勢力と人間関係があり、利用する物品も支配層はブランド品(特注品)を使っていたということです。その集落には官人は少ないけれど、活動アクティビティは大変強かったということです。
鳴神山遺跡は実務(事業)では割り切れない伝統とか文化とかが根付いている空間だったのです。
参考として挙げた村神込の内遺跡は村神郷の中心集落と考えられます。この遺跡のへら書き土器率が高いということは、古墳時代以来の村神郷の政治的中心として、房総各地勢力との関係が深く、また財力も大きいことを示していると考えます。
今後折に触れて、ヘラ書き土器の指標性について検討を深めていきたいと思います。
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