2013年6月11日火曜日

花見川流域人であることと「花見川流域を生きる」こと

趣味活動の分析 3

趣味モデル「流域の魅力発見活動」(仮称)と私の花見川流域へのこだわりについて考えてみました。

1 花見川流域人としての自覚
「花見川流域を歩く」というブログ名称の通り、私は花見川流域というものにこだわっています。
客観対象としての花見川流域が存在していて、たまたまそれに興味をもっているのではありません。

突然ですが、私は日本に家族とともに居住していて、日本の自然風土や都市環境のなかで生活しています。日本でささやかな納税もしていて、国民としての権利と義務を行使しています。
海外旅行に出かけ、日本と文明や文化が異なる諸国に身を置くと、否が応でも自分を日本人として自覚します。日本の国土が客観対象として存在していて、たまたまそこに住んでいるという意識にはなれません。日本の国土・文明・文化・言語等と私の意識はアプリオリに結合してしまっています。要するに「私は日本人である」という自覚はとても消せるものではありません。日本と他国を簡単に差し替えできません。日本がどれだけ素晴らしいのか、どれだけ問題があるのか個人によって意見が分かれるところですが、日本を自分事として考える意識は日本人であれば共通すると思います。

同様に、私は花見川流域人としての自覚を持っているのだと思います。私は、花見川流域に住んでいるので花見川流域を自分事として考えています。

花見川流域が戦後、印旛沼水系高津川・勝田川と東京湾水系花見川の合併(流域変更)によって形成されたことを知った時、当初、その素性の悪さ(?)にがっかりもしました。丁度自分の親や家柄が友人のそれと比べてひどく見劣りしていると初めて実感した時の子どもの感情みたいなものです。

しかし、しばらくたつと、花見川流域の素性が悪かろうと良かろうと、自分にとっての花見川流域であるという感情が強くなりました。

自分の親や家柄が悪かろうが良かろうが、その現実をステップにしてよりよい生活を目指すことが、子どもにとって生きるということです。
日本という国が悪かろうが良かろうが、その現実をステップにしてよりよい生活を目指すことが、日本人にとって生きるということです。
花見川流域の素性が悪かろうが良かろうが、その現実をステップにして、その流域でよりよい生活が営めるように流域づくりを進めていくことが、その流域に住んでいる人、つまり花見川流域人の生き方であると自覚するようになりました。

「私は日本人である」という言葉に違和感が生れないように、「私は花見川流域人である」と表現しても違和感がありません。

趣味モデル「流域の魅力発見活動」(仮称)は、私に花見川流域人としての自覚があるので、継続発展できているのだと思います。
花見川流域人であるという自覚は趣味モデル「流域の魅力発見活動」(仮称)継続発展のエンジンの一つです。

2 「花見川流域を生きる」という感覚
自分が花見川流域人であると気がつくことによって、次のような不思議な感覚が生まれてきました。

つまり、私は「花見川流域に生きている」とか「花見川流域で生きている」のではなく、「花見川流域を生きている」という感覚を持つことができたのです。

花見川流域という集水地形、その自然環境と流水、そこに配置された各種都市装置、そこで営まれる人々の生活と私は分離されることなく一つの有機体として生きているという不思議な感覚が生れました。

「花見川流域を生きる」という感覚も趣味モデル「流域の魅力発見活動」(仮称)継続発展のエンジンの一つです。


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参考

花見川流域の構成
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つづく

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