2013年9月3日火曜日

「花見川地峡の自然史と交通の記憶」をふりかえる

花見川地峡の自然史と交通の記憶 72(最終回)

2013.05.09記事「花見川地峡と印旛沼筋の「戸(と、ど)」地名」をスタートとして、「花見川地峡の自然史と交通の記憶」シリーズを71回にわたって続けてきましたが、このシリーズをふりかえり、今回を最終回(72回)として一旦区切りたいと思います。

1 はじめに
私の場合、連載記事といってもシナリオ無しで、出たとこ勝負で興味のある情報をつないでいきます。

どのようなストーリーになるのか自分でも予測できなかったのですが、この連載では結果的に、古代交通に関して古代東海道水運支路という新仮説を提示し、それに関する重要な物証を3つ(杵隈駅家、柏井・高津古代官道、高津土塁)提示できました。

この新仮説はこのブログ内だけのおしゃべりで終わることなく、千葉の古代史研究に一石を投じることになるに違いないと自負しています。

この新仮説を含め、このシリーズで検討した主な事柄をふりかえりたいと思います。

2 「船越」仮説の破綻
このシリーズの出発点の仮説は次のようなものでした。

【仮説】「印旛沼堀割普請の前に、花見川地峡が東京湾と香取の海を結ぶ重要な交通路であり、古代において地峡は船越であった。」(2013.05.09記事「花見川地峡と印旛沼筋の「戸(と、ど)」地名」)

仮説後半部分「古代において地峡は船越であった」は早々に破綻しました。

【船越概念破綻の理由】
花見川地峡に船越という地名や、陸部を舟を引いて(かついで)移動したという痕跡はみつかりませんでした。

同時に、そもそも、船越という日本語概念には「船が越える峠」という意味が無かったことにも気がつきました。
ジオパークを学ぶブログ2013.06.18記事「鏡味完二の「船越」≠曳舟説の感想」参照

縄文時代に丸木舟をかついで、花見川から平戸川に運んだということは考えられるかもしれませんが、歴史時代に舟を運んだという考えは少し無謀すぎました。

後から考えると、この「船越」仮説破綻の代わりに得たものが古代東海道水運支路仮説だったのです。代わりに得たものの方がはるかに価値のあるものでした。

花見川地峡に大切な交通があるという見立ては間違っていませんでした。

3 「戸」地名検討の前進
「戸」地名が海の民が植民した場所に付けられた特有の地名であるという仮説の検討を前進させることができました。

【「戸」のイメージ】
「戸」を構成するイメージをイラストにまとめて、表現しました。
2013.05.20記事「「戸」を構成する4つのイメージ」参照

【中世文書「海夫注文」の津の検討】
14世紀文書「海夫注文」の津の使い方から津がテクニカルタームの一種であることを明らかにし、津と戸の関係を明らかにしました。
2013.06.27記事「14世紀文書「海夫注文」における戸と津」参照

【「戸」地名の分類】
「戸」地名の分類に着手し、手始めに、海の民が最初に植民した場所に付けられたものとは考えられない地名(木戸、井戸、出戸、渡戸、橋戸、折戸)をそうでないものと区分けしました。
(副産物として、「木戸」地名が古代拠点示唆性という指標性のある地名であることを明らかにしました。)

【横戸の地名由来仮説の提示】
既往の横戸地名由来説(余部関連説)を現代の歴史研究成果から否定し、新たに、平戸川を遡ってこの地に来た時に接する風景的特徴が地名の由来であるという仮説を提示しました。

GIS上の「戸」地名分布図作成】
千葉市と八千代市を対象として、GIS上に「戸」地名分布図を作成しました。今後この分布図の作成範囲を大幅に広げる予定です。
2013.09.02記事「今後の戸地名検討

【地名検討の活用の仕方】
「戸」地名を検討する中で、これまで得た最大成果は、地名検討して得た情報は自分の仮説つくりに利用することによって活きるのであり、それ自体を目的(最終成果)にすることはよろしくないという、活動姿勢です。

地名検討してどんなに確からしい地名由来にたどりついたとしても、それを100%証明することは一般に困難です。必ず異論があり得ます。

100%証明することや異論批判にエネルギーを使うのではなく、得られた確からしい地名由来に基づいて地域と歴史に関する仮説を設定し、その仮説を地名以外の情報で証明しようとする方が、活動が生産的であるということです。

4 古代東海道水運支路仮説の提示
古代において浮嶋駅、杵隈駅家(仮説)、柏井・高津古代官道(仮説)、高津土塁(仮説)、志津(仮説)、公津を結ぶ水運路(一部陸路)が存在し、東海道の水運支路であったという仮説を提示しました。

【杵隈駅家仮説】
地名「柏井」を杵隈(かしわい)=船着場と解釈する仮説を提示しました。
同時に、柏井付近まで縄文海進の海が迫っていることをボーリング資料から明らかにすることにより、古代においてこの付近が舟運可能な環境であったことを示しました。

柏井にある旧家敷地の築地塀を水運から陸運に乗り換える駅家(うまや)築地塀の名残(遺物)であるとする仮説を提示しました。
駅家と官道の間に土橋がかかっていたことを暗示する遺構(土塁)を見つけました。
駅家と下総台地の上を結ぶ坂道の想定コースの位置を示しました。

【柏井・高津古代官道仮説】
双子塚古墳と高台南古墳を結ぶ直線上に古代官道があったという仮説を提示しました。
古代官道であったという理由として次の諸点をあげました。
・双子塚古墳と高台南古墳を結ぶ直線上に柏井村と横戸村の境界があり、近世には馬防土手として利用されてきているが、村境および馬防土手を2つの古墳を基点にして直線でつくる必然性は考えられない。
・双子塚古墳と高台南古墳を結ぶ直線は真直線であり、それは地形を完全に無視して引かれている。このような直線施設は古代官道以外にあり得ない。
・地籍図を詳細に見ると、古代官道が廃絶した際に柏井村と横戸村の双方が道路敷を取り合ったことから生まれたと考えられるクランク状の界線が見られる。

【高津土塁(砦)仮説】
地名の分析から高津(港湾)が高台南古墳の近くにあることが仮説されました。
また、ボーリング柱状図の解析から、高津川と平戸川(新川)の合流点付近まで縄文海進の海が侵入してきており、高津川の下流部は古代にあって舟運が可能な環境にあったことが判りました。
米軍空中写真の判読から現在の柏井小学校敷地付近あった土手が人工地形であることが判りました。
これらの情報から、千葉市立柏井小学校敷地を含む周辺の場所が人工盛土による高津土塁であり、その近くの沖積地に高津(直轄港湾)があったという仮説を提示しました。
柏井小学校敷地のボーリング資料には、土手を開削した場所の地質が盛土であった可能性が記述されています。
2013.07.26記事「高津に土塁(砦跡)新発見」など多数

【古代東海道水運支路の時代】
花島観音の置かれている天福寺の開基情報から、古代東海道水運支路は8世紀頃つくられ、そのルートのうち、花見川から平戸川(新川)に抜ける部分は少なくとも13世紀頃までの500年間は交通路として機能していたと考えました。

【志津仮説、公津仮説】
志津、公津は高津と同じく律令制国家がつくった直轄軍事港湾であるという仮説を立て、それに基づいて、高津から志津、公津へとつながる水運ルートをイメージしました。

5 感想
古代東海道水運支路という仮説を持つことになった背景として、かつて双子塚古墳と高台南古墳を結ぶ二つの村の直線状境界線に着目していたことがあります。

情報の蓄積効果が現れ出したということかもしれません。石の上にも3年です。

古代東海道水運支路という仮説を持ったおかげで、それ以前の時代(縄文・弥生・古墳)の交通、古代東海道水運支路の時代の交通、それ以降の時代(中世・近世・近代)の交通という時代の3区分を実感をもって検討できるようになったことは、自分にとって情報をシンプルに整理できるようになるので、良かったことだと思います。

6 このシリーズ記事のとりまとめ公表
古代東海道水運支路仮説を報告書風にとりまとめ、pdf文書として公表する予定です。

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お知らせ

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おわり


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