2017年11月24日金曜日

「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)

9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説

鳴神山遺跡牧の学習を進めるなかで予期せぬかたちで「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説が生まれました。
鳴神山遺跡牧だけをいくら詳しく調べても、そこに大結馬牧に関する思考が入り込む余地はありません。
しかし、鳴神山遺跡牧と定説の船橋大結馬牧との関係考察を深めるなかで大結馬牧船橋説の根拠が薄弱であることに気が付きました。
また延喜式の馬牧記載順番も船橋説を否定します。
このような情報と鳴神山遺跡牧特性理解の深まりのなかで、ある日突然「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説が生まれました。
自分の感情からいうと、「向こうからやってきた仮説」です。

長い間大結馬牧は船橋にあり、鳴神山遺跡牧は船橋大結馬牧の出張所みたいに考えていました。

鳴神山遺跡牧が軍事道路とセットで開発された国家戦略的な軍事牧ですから8世紀における下総国の馬牧のなかで最重要牧であると考えて間違いありません。この時代の情報を後にまとめた延喜式諸国牧に記載されて当然の牧です。そして大結馬牧船橋説に根拠がないのですから鳴神山遺跡牧が大結馬牧であると考えることが合理的な思考です。
鳴神山遺跡直線道路は下総国府(東京湾)と香取の海を大きく結ぶと想定されますから、その道路を大結(オオユイ)と呼んでいたとすれば、鳴神山遺跡牧の名称が大結馬牧となることは高津馬牧の例から当然のこととなります。

延喜式諸国牧の記載順番です。

下総国の記載順番をよく見ると大結馬牧は高津馬牧と木嶋馬牧の間にあります。この記載順番から大結馬牧は船橋ではなく、高津馬牧の北にあるはずです。
延喜式記載順番により東海道駅路網の検討が進んだように、延喜式記載順番は大結馬牧の空間位置を考える上で無視することのできない重要検討ファクターです。

大結馬牧のこれまでの定説(船橋説)

大結馬牧船橋説の概要です。

大結馬牧船橋説の難点です。

大結馬牧水海道市付近説の難点です。

大結馬牧船橋説、水海道市付近説の感想です。
共に中世歴史説明補強の観点から大結馬牧を利用している説であり、牧そのものの情報からおのずと生まれてきた説ではありません。

鳴神山遺跡牧の特性と大結馬牧船橋説の根拠薄弱性、延喜式記載順番から鳴神山遺跡牧が大結馬牧であると考えます。

つづく
……………………………………………………………………
パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)



0 件のコメント:

コメントを投稿