2017年11月10日金曜日

大結馬牧船橋説の根拠薄弱性

鳴神山遺跡のGIS学習を深めているなかで、鳴神山遺跡が典型古代牧でありかつ国家的戦略的重要性のある牧・道路セット遺跡であることが浮かび上がりました。
同時に大結馬牧の根拠薄弱性に気が付き、その瞬間に大結馬牧印西説が生まれました。

仮説 大結道路と大結馬牧

この仮説が生まれる前に行っていた学習はあくまでも鳴神山遺跡の学習であり、大結馬牧に興味の焦点はありませんでした。従って次の「千葉県の歴史 通史編 古代 2」(千葉県発行)の情報に基づき考察をしていました。

「千葉県の歴史 通史編 古代 2」(千葉県発行)における大結馬牧の記述

学習過程では、この大結馬牧船橋説に従って、それと鳴神山遺跡との関係を次のように仮説しました。

参考 大結馬牧船橋説を信じていたころの仮説

しかし鳴神山遺跡と大結馬牧の関係を考えたので、大結馬牧について考えざるを得なくなり、その根拠薄弱性の認識に至ってしまったということです。
学習を深めれば深めるほど大結馬牧船橋説の根拠薄弱性が感じられるようになり、最後は船橋説(水海道市付近説も)を到底首肯できることはできないと結論付けるにまで至りました。

この記事では大結馬牧船橋説、水海道市付近説の根拠薄弱性についてメモします。

1 大結馬牧船橋説
1-1 概要
●大結馬牧を意富比(オオヒ)神社と関連づける。音「オオ」が同じ。
●意富比(オオヒ)神社付近に中世の荘園夏見御厨が建設され、その前身が牧であった可能性が濃い。
●延喜式に下総国から伊勢神宮に馬を献上する記載があり、それが大結馬牧からと類推すると、夏見御厨が伊勢神宮内宮領になった説明ができる。(梅田義彦)
●船橋付近から馬骨が出土する。

1-2 大結馬牧船橋説の根拠薄弱性
●大結をオオヒと読む根拠はなく、大結(オオユイ)と意富比(オオヒ)神社の関連は語呂合わせに過ぎない。
●根拠となる馬骨は夏見付近ではなく離れた本郷町方面であり、それ以外の牧を示す情報がないことから、船橋付近が大結馬牧であるとの特定はできない。
●延喜式記載順番に合わない。

2 大結馬牧水海道市付近説
2-1 概要
●大結馬牧を地名大生郷(オオウゴウ)と関連付ける。音「オオ」が同じ。
●牧を示す地名がある。古間木など。

2-2 大結馬牧水海道市付近説の根拠薄弱性
●大結を地名大生郷(オオウゴウ)と関連づけるのは語呂合わせに過ぎない。
●牧の存在を示す地名で大結馬牧の特定はできない。

3 感想
船橋説、水海道市付近説に関して、次のような感想を持っています。
大結馬牧船橋説は船橋に大結馬牧が存在したと仮定すると中世の歴史(夏見御厨)の説明がしやすくなるという観点から生まれたように感じます。
大結馬牧水海道市付近説は水海道市付近に大結馬牧が存在したと仮定すると中世の歴史(平将門の乱など)の説明がしやすくなるという観点から生まれたように感じます。
ともに奈良時代の牧特性そのものに関する情報・推定からおのずと生まれた説ではないように感じます。

奈良時代牧そのものに興味の焦点を当て、その専門的情報に基づいて大結馬牧について検討した専門家は過去現在誰もいないので、中世歴史に興味のある人々が大結馬牧を自分好みに「配置」して中世歴史を説明補強した思考が定式化してしまったのだと考えます。

下総国古代牧そのものを学術的見地から検討した専門家が過去現在存在していないことは、延喜式諸国牧記載順番についての言及がどこにもないことからうかがうことができます。
下総国古代道路については学術的検討が多く、駅家の延喜式記載順番が詳しく検討され、その検討を一つの重要要件として駅路の分析が行われています。

牧に関する地名、馬骨の出土は極端に言えば下総には無数にあります。それらは恐らくすべて牧実在の跡を示します。奈良時代の下総台地は牧だらけであったと(つたない私の遺跡学習体験でも)考えることができます。
古代牧を示す情報を持って、それだけで大結馬牧を特定したことにはなりません。
大結馬牧の特定のためにはそれなりの根拠が必要であり、大結馬牧印西説は特定根拠要件を満たす可能性が極めて濃厚であると考えます。
 

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