2021年1月29日金曜日

中峠式期前後の貝塚文化開拓最前線の空間移動(作業仮説)

縄文社会消長分析学習 81

1 はじめに

2021.01.29記事「有吉北貝塚出土中峠式土器の観察」で中峠遺跡出土中峠式土器と有吉北貝塚出土中峠式土器がその細分タイプでも対応していることに気が付きました。


中峠式遺跡出土中峠式土器各種タイプが30㎞離れた有吉北貝塚でも出土する

同時に、有吉北貝塚は中峠遺跡(と近隣遺跡群)から飛び地的に30㎞離れていることから、2つの遺跡の関係は単に交流があった程度のものではなく、集団の移動があったと想定しました。より具体的には中峠遺跡付近の中峠式土器をつくる集団が有吉北貝塚に開拓者として入植定住したのではないだろうかと想像しました。

この記事ではこの情報とこれまで学習してきた時期別遺跡分布図から中峠式期前後の貝塚文化開拓前線の移動について作業仮説を立てました。この作業仮説が最終的に生きるか死ぬかはまだ判りませんが、これを踏み台にすれば学習を加速させることができると期待します。

2 五領ヶ台式期・阿玉台式期の貝塚分布


五領ヶ台式期・阿玉台式期の貝塚分布


参考 縄文時代の時期区分

阿玉台Ⅰ・Ⅱ式期に古鬼怒湾(千葉県北東部)に大規模貝塚が成立します。阿玉台Ⅲ式期から始まる東京湾岸大規模貝塚形成の先駆けと見ることができると考えます。

3 中峠式土器出土遺跡の分布


中峠式土器出土遺跡分布

千葉県北西部に分布の最大集中域が見られます。千葉県北東部にも集中域が見られます。

4 中期中葉の貝塚分布


中期中葉貝塚分布

加曽利EⅡ式をピークとする中期中葉の大型貝塚群は古鬼怒湾岸の千葉県北東部(古鬼怒湾中央・湾口部貝塚群)、東京湾岸の千葉県北西部(東京湾口部貝塚群)と中央部(都川・村田川貝塚群)の3ヶ所に分布します。

5 阿玉台式期頃から加曽利E式期にかけての貝塚文化開拓最前線の移動(作業仮説)

2~4の地図を並べてみると、貝塚及び中峠式土器出土遺跡の密集域の変化から次の想像が確からしく感じることができますので、作業仮説として設定します。


想像 阿玉台式期頃かあ加曽利E式期頃にかけての貝塚文化開拓最前線の移動

【作業仮説】

ア 中期中葉貝塚文化は阿玉台Ⅰ・Ⅱ式期に古鬼怒湾岸(千葉県北東部)に発生し、その開拓最前線が阿玉台Ⅲ式期・中峠式期に東京湾岸(千葉県北西部)に移動し、さらに東京湾岸(千葉県中央部)に移動したと想定します。

イ 東京湾岸(千葉県北西部)から東京湾岸(千葉県中央部)への開拓最前線移動は開拓集団の移動定着を伴ったと想定します。

【関連メモ】

ア 縄文海進ピークが海退に転じる中で、古鬼怒湾岸(千葉県北東部)→東京湾岸(千葉県北西部)→東京湾岸(千葉県中央部)の順に漁労に好適な海岸地形(海岸環境)が生まれ、順次その場所が漁労に使われ、定住が進み、大規模貝塚が形成されたと想定します。

イ 漁労活動の盛行により貝塚社会が格段に豊かになったと想定します。豊かな貝塚社会が生まれ、未開発海岸が存在する時期(例えば阿玉台Ⅲ式期→中峠式期→加曽利EⅠ式期頃)には、貝塚社会は近隣地方から多量の人口を吸い寄せたと想定します。

ウ 貝塚開拓最前線が移動する間に、流入する多様な人々が構成する社会のるつぼの中で、阿玉台式土器文化と勝坂式土器文化・大木式土器文化が融合したと想定します。その結果、新たな貝塚社会土器文化である加曽利E式土器文化が生まれたと想定します。その文化融合途中経過を指標し短期間存在した土器文化が中峠式土器文化であると考えます。中峠式土器文化は阿玉台式土器文化と勝坂式土器文化・大木式土器文化の融合様相を具体的に伝えている点で重要であると考えます。

エ 土器文様に対応して物語(神話)があるとすれば、貝塚社会で新たな物語(神話)が生まれ、それが加曽利E式土器文様として表現されていると考えます。阿玉台式土器文様・勝坂式土器文様・大木式土器文様に対応して存在していた物語(神話)が中峠式土器文様に対応する物語(神話)に変化し、さらに加曽利E式土器文様に対応する物語(神話)に変化したと考えます。

 

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