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2018年2月8日木曜日

急成長ピーク期に観察できる破たん現象

大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 19

2018.02.07記事「大膳野南貝塚後期集落の漁場とそこへ通じる2つのルート」で西側谷津に張出部を向けた竪穴住居、つまり西側谷津を利用して漁場に向かう竪穴住居家族は近隣集落とのいさかい覚悟の上で生業を行おうとする、集落運営上の末期症状であると考えました。
漁場全体が陸化消滅するなかでトラブル覚悟の生業活動をするのですから集落崩壊の予兆現象であると考えました。
そうした考えが妥当かどうか、この記事では西側谷津方向に張出部を向けた竪穴住居群と南側谷津方向の張出部を向けた竪穴住居群の特性を比較することによって検討してみました。

1 1群と2群の区分
堀之内1式期の竪穴住居について、南側谷津に張出部を向けた竪穴住居を1群、西側谷津に張出部を向けた竪穴住居2群として区別しました。

1群と2群の区分

2 竪穴住居面積の比較

1群と2群の竪穴住居面積の比較
1群より2群の方が面積が狭く、2群の方が用意できる木材の量や太さが劣ることになり、また維持管理の手間もかける余裕がないことを示していて、2群は経済的に貧しかったといえます。

3 中テン箱数の比較

1群と2群の中テン箱数の比較
中テン箱数は出土物総量を比例しますが、主に土器量と直接相関すると考えられます。
2群の中テン箱数は1群と比べて1/3と大きく見劣りし、2群の貧しさが浮き彫りになります。

4 石器数の比較

1群と2群の石器数の比較
2群の漆喰貝層有竪穴住居の石器数が1群漆喰貝層無竪穴住居より少なくなっていることから、1群と2群は単純に貧富の差があるというよりも、2群の極端な(絶対的な)貧しさが観察できます。人口急増期に外部から流れ込んできた貧しい集団が2群かもしれません。
近隣貝塚集落が先行して崩壊し住民が各地に逃げ出し、その一群が大膳野南貝塚の北側にたどり着いて居住を請い、許されたけれども南側谷津の利用は拒否され様子が一つの可能性として想像できます。

5 獣骨出土数の比較

1群と2群の獣骨出土数の比較
獣骨出土数は竪穴住居廃絶後の祭祀で行われた獣食の様子を示していると考えられ、その面からも2群の貧しさが浮かび上がります。

6 考察
想定した通り、1群と比べ2群は極端に貧しい集団であり、集落急成長ピーク期にそれが崩壊する前兆(あるいは崩壊の最初場面)を表現していると捉えることができました。
2群は空間的に集落の北にまとまっているので、近隣貝塚集落で先行して崩壊した集落から逃げてきた人々かもしれません。
大膳野南貝塚後期集落の崩壊要因の一つに先行崩壊集落からの流入民による人口急増押上現象があるのかもしれません。


2018年2月5日月曜日

集落変遷と竪穴住居張出部方向 大膳野南貝塚後期集落

大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 16

大膳野南貝塚後期集落変遷のなかで竪穴住居張出部方向を詳しく観察してみました。
張出部方向図形をQGISにプロットする操作ははじめてでしたので、それができるまでに時間がかかりましたが、出来上がったデータから自分にとって貴重な情報を得ることが出来ました。

1 称名寺式期前後期(集落創始期)の竪穴住居張出部方向

称名寺式期前後期竪穴住居張出部方向
この貝塚集落の創始家族の住居と考えられる漆喰貝層有竪穴住居のうち北貝層、南貝層の各1軒の張出部方向が北方向を向いていて大変特異なデータとなっています。
海に出る方向(南の方向)とは反対の方向を集落創始家族が向いていた理由は、狩猟場の方向を向いていたのであると考えます。
集落創始期にはメイン生業として陸獣の狩と海岸の漁撈の両方を射程に収めていたのだと思います。
北貝層北側にある漆喰貝層無竪穴住居の張出部の方向が北北東を向いていますが、この方向は近くから出土した鹿頭骨列から想定した狩場方面へ向かう集落出口通路方向と一致していて、集落創始期には狩猟という生業を念頭においた張出部方向決定がなされていたことが判ります。2018.01.22記事「鹿頭骨列の解釈」参照

2 堀之内1式期(急成長ピーク期)の竪穴住居張出部方向

堀之内1式期竪穴住居張出部方向
漆喰貝層有竪穴住居の張出部方向で北方向、つまり狩場の方向を意識したものは無くなりました。この時期の集落メイン生業は完全に海岸付近の漁撈になったことがわかります。
また集落から南に降りるメインルートだけでなく、集落西の谷から海岸に降りるルートを意識した西あるいは北西を示す張出部も北貝層の漆喰貝層有竪穴住居、南貝層近くの漆喰貝層無竪穴住居にみられます。
おそらく集落南の谷から向かう村田川河口付近漁場と集落西の谷から向かう漁場は多少異なっていて、集落南の谷から向かう漁場が収穫物が最も多いメイン漁場であったと想定します。

3 堀之内2式期(急減退期)の竪穴住居張出部方向

堀之内2式期竪穴住居張出部方向
漁場の陸化(海退による漁業権のある漁場の自然消滅)が1つの要因となり集落発展が破たんし、急増人口のほとんどが死滅あるいは移動したあとの姿です。
張出部方向は南に限定されていて、村田川河口付近に残った漁場の残片にすがり付いている様子が表現されていると考えます。

4 堀之内2式~加曽利B1式期(衰退期)の竪穴住居張出部方向

堀之内2式~加曽利B1式期竪穴住居張出部方向
この時期は漁撈はおこなっていないのですが、おそらくその前期からの風習で張出部は南方向を向いたのだと思います。

5 加曽利B1式期(衰退期)の竪穴住居張出部方向

加曽利B1式期竪穴住居張出部方向
集落衰滅時の姿であり、張出部方向から意味のある情報は引き出せません。

6 参考

後期(詳細時期不明)竪穴住居張出部方向

後期(全期)竪穴住居張出部方向

7 考察
・竪穴住居張出部方向が生業フィールドへの道の方向を示すものであるとイメージすることができました。
・称名寺式期前後期に狩場に向いた(北を向いた)竪穴住居と漁場を向いた(南を向いた)竪穴住居に関して出土物等の違いが見られるか、検討することにします。
・堀之内1式期に集落南の谷からおりた漁場と集落西の谷から降りた漁場がどこであるか、検討することにします。
・集落南の谷を向いている竪穴住居と集落西の谷を向いている竪穴住居で出土物等で違いが見られるか検討することにします。