2011.5.22記事「長沼池の成因」と重複しますが、埋立前と水田開発前の長沼池の形状を復元してみました。
1 埋立前の長沼池
次の写真は昭和24年撮影米軍空中写真です。
昭和24年撮影米軍空中写真による長沼池
長沼池が埋め立てられる直前の姿になります。
池の中央に四角に区切られたところがありますが、生簀あるいは養殖施設でしょうか?
ほかにも池を区切る線がいくつかあります。
池の南と西は白い線で表される構造物(堤防)になっています。
南の堤防は池と水田の境であり、西の堤防は池と水路の境であると考えます。
次の地図は大正6年測量旧版1万分の1地形図に長沼池と水田、湿地を色塗りしたものです。
大正6年測量による長沼池
池の形状、堤防の位置などが大正6年から昭和24年にかけてほとんど変化していないことが確認できます。
2 水田開発前の長沼池
次の資料は水田開発前の長沼池形状を示す資料です。
六方野開墾絵図(宇那谷町内会所蔵、「「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」より転載)
この絵図は1672年5月作成、1765年写で、宇那谷村と長沼新田との間で長沼池の争論があった時に作成されたと考えられています。
この絵図に細長い長沼池がその名称とともに記載され、東金街道を横切って分布している様子が描かれています。
「長沼」名称の由来が細長い平面形状にあることがこの資料からわかります。
この絵図情報から当時の長沼池の形状を旧版地形図上に復元したものが次図です。
水田開発前長沼池復元図
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