2012年10月8日月曜日

「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の地図構成 下

天保期印旛沼堀割普請の土木遺構の詳細検討 その15

18 「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の地図構成 下
ウ 地理情報部分④~⑦の説明

それぞれの抽出図を作成して説明します。

④ 「ゾーン(筋)の表示と注記」の抽出図

この略図の主題である堀割ゾーン(堀割筋)と土置場ゾーン(土置場筋)を線で囲むとともに、その名称を書き込んでいます。
堀割ゾーン(堀割筋)の巾は両側それぞれの土置場ゾーン(土置場筋)の片方より広く描かれていますが、その距離等を示す情報はありません。
また、単純な形状で描かれています。

堀割ゾーンの意味するものは、天明期に工事の行われた堀(堀割)であり、その実体は花見川の谷底平野を多少掘り下げた地形であると考えます。
谷底平野を多少掘り下げた地形であり、しっかりした形状をしているため、この略図では単純な形状で描かれているのだと思います。

土置場ゾーンの外側の線が入り組んでいます。この入り組んだ線がこの略図で一番大切な情報です。
土置場になる場所とならない場所を示しています。

⑤ 「ゾーン(筋)の位置データ」の抽出

東岸の一番上の文字は次の通りです。

当時有形之
掘ゟ
横三十五間

この文は次のように読みました。
現在ある堀の形より横35間(=35×1.8182m=約64m)

その下に次の3つ情報が書いてあります。

右同断

横三十間

右同断

横五間

右同断

横八間

それぞれ次のように読みます。
右と同じで(=現在ある堀の形より)おおよそ横30間(=約55m)
右と同じで(=現在ある堀の形より)おおよそ横5間(=約9m)
右と同じで(=現在ある堀の形より)おおよそ横8間(=約16m)

西岸の土置場ゾーンにも同じ情報が4つ書いてあり、上から次の文字が書かれています。

当時有形之
掘ゟ
横四十間

当時有形之
掘ゟ

横三十間

右同断

横八間

右同断

横三十間

それぞれ次のように読めます。

現在ある堀の形より横40間(=約73m)
現在ある堀の形よりおおよそ横30間(=約55m)
右と同じで(=現在ある堀の形より)おおよそ横5間(=約9m)
右と同じで(=現在ある堀の形より)おおよそ横30間(=約55m)

⑥ 「ゾーン(筋)の特徴ある分布を説明する注記」 は土置場を避ける部分の注記が書かれています。

東岸は上から
私領屋敷
私領屋敷
私領泉蔵寺

西岸は上から
私領屋敷
私領屋敷
が書かれています。

⑤の8つの情報(データ)と⑥の注記を抜き出すと次図のようになります。

土置場の幅

この図により土置場の形状変化の理由とその幅がわかります。

次の記事でこの土置場の範囲を現代の地図上にプロットしてみたいと思います。
私領屋敷は戦前地図で比定できそうです。また泉蔵寺も旧版1万分の1地形図にその名称が掲載されています。

なお、東岸の上から2番目の私領屋敷の「右同断凡横三十間」(右と同じで(=現在ある堀の形より)おおよそ横30間(=約55m))の30間は誤記であると考えられます。3間が正しいと直感しています。
1晩で作成した書類であり、急な仕事の中でミスが生じてもなんら不思議ではありません。なお、このミスはこの下書きだけのものであるかもしれません。

⑦ 「ゾーン(筋)外の特別注記」の抽出図

ゾーン外に書かれた特別注記です。
次の同じ文字が横戸村境付近のゾーン外東岸と西岸に書かれています。

私領地此所土置場有之

この文の意味は(北柏井村の土置場ゾーンとして設定した場所の外側で、横戸村境付近の)私領地に土置場が(既に)有る。ということです。

この略図が書かれた8日前からこの略図と接する横戸村で試掘(ココロミホリ)が行われていますので、その土置場がここに書かれた可能性も検討しておかなくてはなりません。
しかし土置場ゾーンから離れた場所で、なおかつ避けるべき私領地で、さらに両岸に存在することから、この既存の土置場は天明期普請の土置場であると考えられます。

天明期普請の遺構の存在を示す基調な情報である可能性が濃厚です。今後精査していきたいと思います。

次の記事で、この略図を現代地図上にプロットし、現在観察できる土木遺構(土捨場)との関係を考えてみたいと思います。

つづく

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