2016年6月9日木曜日

発想メモ 古代地名「イラ」の意味に関する疑問

2016.05.22記事「古代地名「イラ」の追考」で房総古代地名(イラゴ、イラセ、イラタ)が海人(あま)の活動とダブって理解できるのではないかと考え、自分の学習を深めました。

専門図書の中で述べられている、弥生時代頃以降の海人(アマ)族の全国展開と関連付けて、「イラ」地名を理解しました。

その理解はもっと深めていく価値があると考えています。

さて、「イラ」地名の言葉の意味そのものについて疑問が生まれ、頭の中で成長していますので、その最初段階の疑問をメモとして記録しておきます。

「イラ」地名について鏡味完二は次のように説明しています。

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Ira・Eraの地名

Na・ngaraの地名が近畿に分布の中心があったのに対して,Ira・Eraの地名,とくにIraよりも古い形のEraは,燧灘以西の地域に分布している。

このEraの分布地域は,Na・ngaraの分布が銅鐸圏内にあったのに対して,北九州を中心とする銅鉾圏に相当し,またそれは岬角地名による地域区分のA地域(各論篇,海岸の地名)に一致している。

Iraは大分(オオイタ)方言で「うろこ」,Eraは京都方言で「うつろ」,山ロ方言で「水辺の穴」である。

「うろこ」と「うつろ」・「穴」とは対象物が若干異っているが,国語となったEra(鰓)について考えると,IraとEraの意味上の関係が判明する。

すなわち鰓は「うろこ」形をなし,同時に「うつろ」また「穴」をなしているからである。

はじめはIraが逆立つ意味からの「鱗」から,Eraとなって海岸や河岸などの洞穴の地名となったと考えられる。

EraとIraとは母音相通の関係にあり,分布上Eraが古く,Iraが新らしいと考えられるが,とくに北九州を中心としたEra・Iraの周圏構造は珍らしい型である。

〔地図篇,Fig.125〕(Fig.22No.1)

鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年)から引用
太字は引用者
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この引用の太字部分をよく読むと、残念ながら鏡味完二が論理的に矛盾していることが判りました。

その矛盾の様相を表にまとめました。

鏡味完二(1957)の「イラ地名は洞穴の地名」説明の矛盾

千葉県小字データベースの試用のために、せっかくだからということで鏡味完二の地名型の検討を行っているので、最初は訳も分からず鏡味完二の説をそのまま適用してきました。

しかし、検討を進める中で身に着けた情報も増し、半世紀以上前の鏡味完二説の不備にいろいろと気が付きだしたという次第です。

イラとエラが同じ言葉で音韻変化したものであるという説は、説明が矛盾しているので受け入れられません。

説明の矛盾をあえて表ざたにするのは、イラ地名が洞穴ではなく、崖を意味する言葉であると考えるからです。

イラ地名とエラ地名の違いを次のように考えています。

イラ地名、エラ地名の意味(想定)2016.06.09

イラの関連語としてヒラ(傾斜地、例 京都比良山など)、ピラ・ビラ(アイヌ語 崖)などがあり、洞穴の意味は基本としてないと考えます。

崖に洞穴が存在することは、特に海蝕崖では一般的ですから、鏡味完二は勘違いしたのだと思います。

エラの房総実例として新たにメラ(布良)(館山市の大字)を挙げることにしました。

エラとメラは同根の言葉であると考えます。

布良(メラ)には海蝕洞が存在しますので、次の記事で紹介します

イラ(崖)、メラ(洞穴)ともに原始・古代人がその地名をつけたときは、地形学的観察結果を表現したのではなく、生活との関わり(具体的には漁撈生産活動)を表現した言葉であると考えます。

イラ(崖)はその崖下の海域が漁場として好適であることを、メラ(洞穴)は洞穴を生活拠点に漁撈活動ができることを表現しているのだと思います。


2016年6月8日水曜日

市原条里制遺跡と地名の検討

2016.06.06記事「地名「~条」の検討」で、「~条」地名は直接的に条里制遺跡と関係する地名ではないことを明らかにしました。

その記事で、発掘調査が行われた市原条里制遺跡の例を引用しましたが、その中に詳しい小字分布図がありましたので、条里地割に関する地名例として、検討・学習してみました。

なお、各種資料を詳しく調べましたが、市原条里制遺跡付近の地名(大字・小字等)には「条」という文字が含まれるものが無いことを再確認しました。

1 条里地割と大字との関係

次に市原条里制遺跡付近の地図情報を掲載します。

市原条里制遺跡付近の地図情報

迅速図では条里地割部分に地名の記載がありません。村名が条里地割南東の台地と北西の砂洲上にみえます。

現代の町丁・字等名称の分布をみると、条里地割部分は迅速図の村の地先毎に分割されているように見えます。

つまり、条里地割部分の行政(所領)境界は周辺集落によって分割されているように見えます。

この関係が耕地整理されるまえの、条里地割が現存していたときにも同じことがいえるのか、確認してみました。

次の図は小字分布図に大字を書き込んで、迅速図と対照できるようにした図面です。

市原条里制遺跡付近の大字分布

迅速図では台地縁に、北側から市原村、郡本村、藤井村、加茂村が並んでいますが、その地先低地の条里地割の土地が市原村、郡本村、藤井村、賀茂村の領域になっています。

海に近い砂洲のある五所金杉村、西野谷村、君塚村付近はその通りの領域になっています。

この情報から広域に建設された条里地割に特有の名称(地名)が与えられていないことと、条里地割が周辺の村の地先毎に分割されて使われているということです。

この事実から、条里地割が特定為政者の土地所有・支配・地域限定開発ではなく、農業耕作や徴税等の効率化に関わる技術的仕組み、インフラ建設であるということが浮き彫りになります。

この場所が国府のおひざ元であるということを斟酌すれば、上総国レベルでの古代耕地整理事業であるとイメージします。

水利条件の改善や徴税の効率化を目的に、このような大事業が計画的に実施されたことに強く興味が湧きます。

2 条里地割と地名に関する学習

条里地割に関して「千葉県の歴史 通史編 中世」(千葉県発行)の次の記述を学習しました。

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上総国府と市原条里制遺跡

内房線五井駅の東側の台地上には、市原市郡本周辺の上総国府推定地、上総国分寺跡など、古代上総国の中枢部の痕跡が残されている。

その台地と市原市五井・八幡宿の市街地が立地する海岸砂丘列(海岸部の微高地)との聞の沖積低地には、昭和四十年代に基盤整備事業が行われるまで条里地割の痕跡が広範囲に存在していた。

ここには「一ノ坪」「ニノ坪」「三條町」「一~三ノ町」「柳ノ坪」といった条里の坪地割に関連する地名が確認でき、千葉県内でも最も典型的な条里地割の例として知られている場所でもある。

また、「番匠給」「梶(鍛冶)給」「時シ(土器師)免」などの地名が残されている。

これらの地名は、一三七二(応安五)年の「市原八幡五月会馬野郡四村配分帳」に上総国衙の技術者として現れる「番匠」「鍛冶」「土器師」に対応しており、この条里地割の水田は、国衙機構と密接な関係にある水田であったことが推定でき、さらに、十三世紀前半頃の上総国国検史料である「隆覚書状」に記された「八幡水田」「国分水田」も、この範囲に存在していてと考えてよいだろう。

「千葉県の歴史 通史編 中世」(千葉県発行)から引用
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3 条里地割と小字との関係

条里地割の小字名を詳細に観察すると、古代耕作環境が判りましたのでメモしておきます。

「市原・郡本地区条里地割りおよび字名」(「千葉県の歴史 通史編 中世」(千葉県発行))をみると、数詞がつく小字が空間的に連続するものが3つ確認できます。

次の3つです。

・「一ノ坪」「二ノ坪」「三條町」「四ノ瀬」
・「一ノ町」「二ノ町」「三ノ町」
・「一ノ堀合」「二ノ堀合」「三ノ堀合」「四ノ堀合」

「市原・郡本地区条里地割りおよび字名」(「千葉県の歴史 通史編 中世」(千葉県発行)から引用)

この数詞のついた地名について「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)では図面を付けて、次のように説明しています。

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条里内の坪の配列

市原市のととのった水田区画と一ノ坪・ニノ坪などの小字名は、古代の条里制と坪並の痕跡と考えて、市原条里制遺跡と名づけられた。

古代の小家族は、この一町=1坪前後の広さの口分田を耕して生計を立てていたのである。

「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)から引用

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さて、平行式か千鳥式かは別にして、このような坪配列番号が上記「一ノ坪」「二ノ坪」「三條町」「四ノ瀬」などであるとはどうしても考えられません。

その理由は、「一ノ坪」「二ノ坪」「三條町」「四ノ瀬」、「一ノ町」「二ノ町」「三ノ町」など3つとか、4つまでしか番号が現れないことです。

1・2・3・・・と続いて、多数の坪の配列番号を表現しているとは、長年月のうちに多くの最初の地名が失われたとしても、考え難く感じます。

また、一方では「坪」と使い、一方では「町」を使っていて、計画的に建設されたインフラの坪の単位名称がすぐ隣で異なるということも強い違和感を感じます。

このような疑問を持って、「一ノ町」「二ノ町」「三ノ町」の南(図面左)を見ると、「柳ノ坪」「柳ヶ坪」が並んでいます。

「一ノ坪」「一ノ町」と「柳ノ坪」「柳ヶ坪」が同じライン上に並んでいます。

そのラインは台地縁の最初の本来坪(余りの区画ではない正式区画)ラインです。

それに気が付くと、「一ノ坪」「一ノ町」「柳ノ坪」「柳ヶ坪」が同じ意味を持っていることに気が付きました。

柳には次のような意味があります。

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やなぎ 【柳】

民俗・象徴
日本

また苗代に稲種をまいた後に,柳を田の神の依代〘よりしろ〙として水口にさして祭る風も広く見られ,古く《万葉集》にも〈青楊の枝伐りおろし斎種〘ゆだね〙蒔き……〉とうたわれている。

『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ から引用

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つまり「柳ノ坪」「柳ヶ坪」とはその場所を苗代として、柳をさして祭った場所という意味です。

「一ノ坪」「一ノ町」も同じ意味です。

「一ノ坪」「二ノ坪」「三條町」「四ノ瀬」、「一ノ町」「二ノ町」「三ノ町」という連番は苗代から順次水が流れていく坪の順番を示していると考えます。

「一ノ坪」「二ノ坪」「三條町」「四ノ瀬」、「一ノ町」「二ノ町」「三ノ町」などは条里地割の配列番号を示しているのではなく、灌漑水のメイン流向を示していると考えます。

その考えを次の図にまとめました。

市原条里制遺跡付近の小字名から推察する古代耕作環境

図面右の「一ノ坪」「二ノ坪」「三條町」「四ノ瀬」は市原村の苗代と灌漑水の流れを示しています。

「一ノ町」「二ノ町」「三ノ町」は郡本村の苗代と灌漑水の流れを示しています。

「柳ノ坪」、「柳ヶ坪」はそれぞれ柳本村・藤井村、加茂村の苗代を示しています。

それぞれの苗代坪は近くの水源谷津にピタリと対応しています。

なお、「高田」「姥田」「開発田」「扇田」の言葉の意味から、その付近は微高地であると考えます。

その微高地の北側に「一ノ堀合」「二ノ堀合」「三ノ堀合」「四ノ堀合」があります。

その付近の地割は乱れていますから砂洲の環境にあり、水を引くのに堀を掘ったのでそのような坪の名称になったと考えます。

同時に水の流れの方向は「一ノ堀合」→「四ノ堀合」ということになります。


2016年6月7日火曜日

房総の屯倉について

2016.05.16記事「古代前期開発地名タドコロとミヤケの千葉県検索結果」でミヤケ地名の検索を行い、検討を行いました。

しかし、その後、古代郷名「三宅」が3つあることに気が付き、かつ、ピックアップした小字「ミヤケ」が日本書紀に出てくる伊甚屯倉と関連することに気が付きました。

その情報をこの記事で追補します。

最初に、古代郷名「三宅」と小字「三宅」の情報の地図を示します。

小字「ミヤケ」と古代郷名「三宅」の分布


次に、学習した「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)の関連部分の記述を引用します。

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屯倉制と房総の屯倉

屯倉(みやけ)制とは、大和王権が直接経営する拠点で、その語源は、「ミ(御)+ヤケ(宅)」で、大王などへの敬意をあらわす接頭語の「御」と建物のあるところを意味する「宅」にもとつく。

大和王権の拠点に、館舎や倉庫、田地が付属した領域を屯倉として設定した。

その田地は、田部(たべ)や国造(くにのみやっこ)に支配された農民に耕作させていた。

ただし、屯倉は農業のみに限定されず、港湾・鉱山・漁撈など大和王権が必要とする物資を、直接収受するための拠点でもあった。

「日本書紀」の安閑天皇元(五三四)年条には、伊甚(いじみ)国造に関する次のような伝承が記載されている。

安閑天皇元年の一月に、都を大和国の勾金橋(まがりのかねはし)に遷した。三月六日に、役人たちが、天皇のために、仁賢天皇の娘の春日山田皇女に結婚のしるしを贈って、皇后として迎えた。

四月一日に、内膳卿の膳臣大麻呂は、天皇の命令を承り、使者を伊甚国に派遣し、真珠を求めさせた。

ところが、伊甚国造らは、郡に参上するのがおそく、期限を過ぎても真珠を進上しなかった。

膳臣大麻呂は、大変怒って、国造らを捕らえてしばり、尋問しようとした。

国造の伊甚直稚子は、恐れおののいて、官殿のなかの皇后の寝殿に逃げかくれた。

春日皇后は、それとは知らずに寝殿に入ったため、驚いて失神してしまった。

稚子は、寝殿への乱入の罪も加わって重い罪を負わされることになった。

そこで稚子は、謹んで皇后のために、伊甚屯倉を献上して、乱入の罪を免れたいと申しでた。

こうして、伊甚屯倉が定められた。

今は分割して郡とし、上総国に属する。

この話は、伊甚屯倉の由来を脱明するためにつくられた単なる伝承にすぎないと考えられていた。

ところが、「日本三代実録」の貞観九(八六七)年四月条に、「節婦人、上総国夷灊郡春部直黒主売を表彰すべし」と書かれている。

この記事によれば、平安時代初期の上総国夷灊郡に、春部(春日部)直という氏姓をもった氏族が住んでいたことが確認できる。

春日部は、安閑天皇の皇后の春日山田皇后の名にちなんでつけられた名代の民であり、春日部直は、在地の春日部を統括した伊甚国造で朝廷に奉仕する現地の伴造と考えられる。

この史料からは明らかではないが、もし、春日部直が都へ上番していたとすれば、現地の春日部の人々が、春日部直の都での生活費を仕送りしていたことになる。

いっぽう、夷灊郡に春日部直という氏族が存在した事実は、伊甚国の一部が贖罪のために伊甚屯倉になったとき、伊甚国造の伊甚直稚子の一族が春日部直という氏姓を与えられ、伊甚屯倉で働く人々は春日部という集団に編成されたことを物語っている。

また、真珠は「鮑珠(あわびたま)」ともいわれたように、アワビの採集にともなって発見されることがある。

律令制下では、安房国・上総国は大量の鮑を平城京に貢納していたことからして、伊甚国造の時代にも鮑が貢納されており、ときには鮑珠を貢納していた可能性も考えられる。

そして、伊甚国造は、伊甚屯倉に献上した後も伊甚国の支配を認められ、引き続き伊甚の物産を朝廷に貢納するなどの地方豪族(国造)としての義務を果たしていたが、新たに屯倉を管理し、春日部を統括する管理者(伴造)としての義務も負うことになったのである。

(中略)

房総では、上総国天羽郡に三宅郷(富津市)があり、下総国海上郡にも三宅郷(銚子市)、印播郡にも三宅郷(印西市)がある。この事実は、須恵国造、下海上国造、印波国造の領域内にも大和王権の屯倉が設置された可能性を示している。

「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)から引用
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この記述に基づくと、地名と屯倉について、次のような対応可能性を導くことができます。

地名と屯倉の対応可能性

この対応可能性を地図に表現すると次のようになります。

大和王権の屯倉設置の可能性

6世紀頃の房総には4つの屯倉が設置されていたと考えます。

2016年6月6日月曜日

地名「~条」の検討

鏡味完二の地名型の7番目の「~条」を検討します。

1 鏡味完二による「~条」の検討

次に、鏡味完二の「~条」の検討結果を引用します。

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条里の地名

大化の条里制に由来する地名には,条・里・坪などがある。"~里(ザト)"という地名が多く広く分布し,坪にしても条里制と無関係のものも予想される。

これらに比してただ"~条"の地名の分布は,殆んど条里制の遺物とみられる現在の地割の分布と一致するので,これのみをとることにした。

大化元年は645年であるから,多くの条里地名の発生の時期は700年頃とみられる。

これに対して和銅4年(711年),「遣桃文師干諸国,始教修織錦綾」,またその翌年「令二十一国,始織綾錦」とあるのは,条里地名の発生時期と大体一致するから,ここに21ケ国に綾錦をおらしめた当時の文化地域を,条里地名の分布図と対照してみると,越前を除く北陸地方と信濃,甲斐だけが前者にない以外は,Fig.22No.7の開拓地域と合致していることが解る。



すなわちこの21ケ国というのは,西は安芸,石見,伊予,阿波まで,東は越前~伊豆を結ぶ線までの地域である。

以上の対比により700年頃の大和朝廷の支配圏が広島~伊豆の間に強く及んだことと,多くの"~条"の地名がその範囲内に分布するようになったことを推定す
ることができる。

〔地図篇.Fig.326〕

鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年) から引用


鏡味完二(1958)「日本地名学 地図編」(日本地名学研究所)から引用

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条里制に関する知識は発掘等により増大し、鏡味完二が想定したような大化の条里制で全国に一斉に条里が建設されたことはないようです。

参考に千葉県内で最も典型的な条里地割の例として知られている市原市の発掘情報を次に掲載します。

2 市原条里地割の成立時期

市原条里地割の成立時期に関する「千葉県の歴史 通史編 中世」の記述を引用します。

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市原条里地割の成立時期

市原条里制遺跡の畦畔(けいはん)・地割の方向(以下、地割方位)は、東側の台地の方向に合わせるように、N~四五度~E(北から四五度、東へ振れる)の方位をとっている。



市原・郡本地区の発掘調査では、古代から近世にかけての水田の痕跡がⅠ~Ⅲ層までの間で五面確認されており、その耕作土層中に含まれる土器・陶磁器の型式から各水田面の年代は、Ⅰ層(十八世紀以降)、Ⅱ1層(十七世紀~十五世紀)、Ⅱ2層(十四世紀~十二世紀)、Ⅱ3層(十一世紀~九世紀後半)、Ⅲ層(九世紀以前)と推定されている。

昭和四十年代まで地表面に残されていたN~四五度~Eの地割方位は、Ⅰ層からⅡ3層の水田区画と基本的に一致し、十一世紀以降、市原条里制遺跡では同じ地割方位が踏襲され続けてきたことが判明した。

ところが、Ⅱ3層の下層、郡本地区のⅢ3層で確認された畦畔と水路の方位は、N~六五度~Eの方位をとっており、市原条里制遺跡の基本的な水田区画の方位とは大きく異なっている。

この水路周辺からは、八世紀後半から九世紀にかけての須恵器・土師器が出土しており、Ⅲ層の畦畔と水路は、この時代に近い時期に機能していた考えられる。

つまり、八世紀後半から九世紀(奈良時代から平安時代前半)にかけて市原条里制遺跡には、十一世紀以降の方位とは異なった水田区画が存在していたことになり、広大な範囲の水田を統一した方位で区画する条里地割は成立していなかったと考えざるを得ない。

そして、市原地区と郡本地区の水田が、統一された方位で区画されるのは、Ⅱ3層の十一世紀の水田で確認できることから、市原条里制遺跡のN~四五度~Eの地割方位は、十一世紀頃までに大規模な水田区画の再編成が行われ、条里地割の面的な施工が行われた結果成立したと推定できる。

「千葉県の歴史 通史編 中世」(千葉県発行)から引用
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最初の条里地割が出来たのが8世紀後半頃から9世紀頃であり、その条里地割が全面的に改変されて、11世紀以降から20世紀までは同じ姿であったことを読み取ることができます。

千葉に限らず、条里地割は班田収授制に伴い施行されたものとは見られていないようです。

条里地割は鏡味完二の時代とは異なり、班田収授制に伴ってキャンペーン的に全国一斉に行われた地域開発プロジェクトとはみられていないようです。

条里地割はキャンペーン的地域開発プロジェクトではなく、生産や徴税等の効率化に関わる仕組み・技術です。

3 千葉県における条里地割と地名「~条」の関係

千葉県小字データベースから、大字と小字を対象にして「~条」の地名を検索して、条里地割の位置を示した情報図にオーバーレイしてみました。

千葉県の「~条」地名

大字・小字「~条」の分布

条里地割がある館山市北条平野で大字・小字が対応、また鴨川市で小字が対応します。

しかし、それ以外で条里地割と「~条」地名は全く対応しません。

全体として捉えると、「~条」地名と条里地割は無関係のように観察できます。

館山市北条平野の大字「北条」について角川千葉県地名大辞典を調べると、次のような結果になりました。

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ほうじょう 北条 館山市

館山湾岸に沿った砂丘列台地上に位置する。

北条は平安後期,律令郡制の解体に伴い安房郡が分割され,それに伴い成立した国衙領の所領単位の1つと推定され、当地に対応する南条の地名も残る。

角川千葉県地名大辞典から引用
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北条、南条は条里地割が出来た時の地名ではなく、その後の土地所有・支配に関わる単位であることが判りました。

参考 館山市北条と南条の位置

北条・南条は条という言葉は条里制の条と同じですが、別の意味(所領単位)であることが確認できました。

また、大字・小字の実際の「~条」地名をよくみると、その多くが「方位又は数詞」+「条」という構造になっています。

「固有名詞」+「条」という条里地割成立と同時に命名された、その地域一帯の固有地名の姿をとどめるような構造のものがほとんどありません。


これら、「~条」地名と条里地割の相関がほとんどないことと、北条・南条の条が条里地割を表現していないこと、「固有名詞」+「条」という構造のものが少ないことから、結論として、千葉県では「~条」地名と条里地割が無関係であると結論づけることができます。

鏡味完二は全国レベルで関係づけて、地名型にしているのですが、おそらく全国レベルでも鏡味完二の「~条」地名検討は間違っていると考えます。

全国レベルでも間違っていると私が直観する理由は、条里地割が土地所有とか、支配とか、特定開発地域(の限定)とか、産物産地とかに関わるものではなく、農業や徴税等の効率化の仕組みに過ぎないからです。

土地所有とか、支配とか、特定開発地域(の限定)とか、産物産地とかに関わる全国共通事象ならば、その名称が地名になる可能性が強いと考えます。鏡味完二もそれに着目して地名型をつくったのだと思います。

ところが、農業や徴税等の効率化の技術的仕組みである地割という方法は、それを条里とよんでも、地名にはなりづらいのではないかと考えます。

千葉県でピックアップした大字・小字の「~条」はほとんどすべて館山市北条と同じような所領(所有・支配)単位、土地の分割単位であると考えます。



条里地割が社会効率化の先端的技術であった時代に、所領単位や土地分割単位を「~条」で表現する言葉遣いが流行したのだと思います。

そのために、見かけ上、全国規模でみればあたかも「~条」と条里地割が相関するように錯覚するのだと思います。

現場レベルで詳しく見れば、条里地割建設に起因してそのサイトに「~条」地名が発生するということはないのだと考えます。

2016年6月5日日曜日

地名カンベ(神戸)の千葉県検索結果

このブログでは4月末から、鏡味完二の地名層序年表の地名型について、千葉県を対象にして、千葉県小字検索を行うことによって学習しています。

千葉県小字検索結果をアドレスマッチングによりGISにプロットできますから、地名に関連する考古歴史情報を空間的に整理できます。

この学習は1年がかりで完成させた千葉県小字データベース(94000件、角川千葉県地名大辞典付録小字一覧のFile Maker版)の試用を兼ねています。

鏡味完二の地名型21のうち、これまで最初の5つの学習を済ませました。

この記事では6つめのカンベ(神戸)について学習します。

最初に参考として鏡味完二の地名層序年表と地名型解説を再掲します。

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参考

地名の層序年表
「地名の語源」(鏡味完二・鏡味明克、昭和52年、角川書店)より引用


地名型(「地名の層序年表」の中の)解説
「地名の語源」(鏡味完二・鏡味明克、昭和52年、角川書店)より引用

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1 鏡味完二によるカンベ(神戸)の検討等

次に鏡味完二のカンベ(神戸)の検討結果を引用します。

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Kambeの地名

前頂の"~部"の地名は近畿文化の所産ではあったが,分布の重心が尚近畿より西方に偏在していたのに対して,Kambeの地名および次の条里地名では,完全な近畿中心の分布Patternとなり,国土経営のいよいよ大和朝中心の進展の時期に到ったことを物語っている。(Fig.3,Fig.4)

Kambeは品部の類の"~部"地名とは異り,松岡氏によるとカムト〔カム(神)卜(物)で,出雲の郡名にこれがある〕とカムトモ〔神部,神人部:カム(神)トモ(伴)〕が古い称呼であった。

この地名が8世紀のはじめ,大宝令に「神戸の制」が設けられる以前のものであったのではないかという推定は倭名鈔の頃にはKambeとのみ称えられていたとされていることからなし得られる。

またこの地名の分布が著るしく狭いことは,Kambeが社務に従う特定の職にあったので,大きい神社の分布密度に比例すべき筈であったからで,それは10世紀はじめにおける,延喜式内社の分布と同時代の倭名鈔のKambe郷の分布とが,大体一致していることから推定されるのである。

すなわち「神戸」をおく程の神杜は,余程開拓が進んで,人口も増殖した地方であったと考えられるから,開拓して殆んどそれと同時に形成された一般の関墾地名よりも,発生的には遅れるという事情を考えねばならぬからである。

なお"神戸"と"~部"の分布は,現在の地名によらずに倭名鈔の郷名によって求めた。

それは古代の事情を知るには,現在の地名よりも過去のものの方が,正確なデータとなりうる筈だからである。


鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年) から引用

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部民制は大化改新でなくなりましたが、カンベ(神戸)はそれ以降も実体があったということです。

次に、カンベ(神戸)に関する百科事典の情報を引用して、自分自身の学習とします。

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参考

かんべ【神戸】 

日本古代において,神社に世襲的に所属して,貢納と奉仕を任とした民戸。

《日本書紀》崇神7年条に神戸の起源説話がみえるが,大化前代の神戸は部民的性格を持っていたと考えられている。

令制では,国司によって作成された神戸の戸籍・計帳が神祇官に掌握され,封戸の一種として,調庸,田租,雑徭を負担した。

その調庸,田租は国司の管理のもとに神社の造営,供神の料にあてられ,田租の残りは神税として義倉に準じて貯蔵され,出挙〘すいこ〙されなかった。

また神戸の中から祝部〘はふりべ〙を選ぶのが原則とされた。

神戸の数は806年(大同1)の《新抄格勅符抄》神封部には4876戸とみえる。

また一郡全体の戸を神戸としたものを▶神郡〘しんぐん〙と称した。

平安中期以降,神戸の実質的機能は失われたが,神戸の名を負う荘園が設置されていった。

編集部

『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ から引用

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参考

しんぐん 【神郡】

社領の一種で,貢納と奉仕の任をもつ▶神戸〘かんべ〙が一郡にわたって存在し,郡全体が神領となったもの。

伊勢神宮では古くから伊勢国多気,度会郡を神領として寄せられ,その後飯野郡を加えて特にこれを神三郡〘しんさんぐん〙と称した(のち神八郡)。

このほか,安房神社の安房国安房郡,鹿島神宮の常陸国鹿島郡,香取神宮の下総国香取郡,出雲大社の出雲国意宇〘おう〙郡,宗像神社の筑前国宗像郡,日前国懸〘ひのくまくにかかす〙神宮の紀伊国名草郡などがある。

中世以降神領としての実質的な機能はなくなっていったが,名目上は明治維新まで続いた。

茂木 貞純

『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ から引用

太字は引用者
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安房国安房郡と下総国香取郡は郡全体がカンベ(神戸)であり、シングン(神郡)であることを知りました。

参考 安房国安房郡と下総国香取郡の位置
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)から「房総三国分郡図」引用塗色

2 和名抄にみるカンベ(神戸)郷

和名抄にみえる房総三国の郡・郷名のなかに神戸(カンベ)郷が1つ存在します。

安房国安房郡神戸郷です。

安房郡全体が神郡になっているのですが、安房神社のおひざ元の土地の郷名がカンベ(神戸)となっています。

安房国安房郡神戸郷の位置イメージ

神戸郷の比定地情報:館山市大神宮を中心とした周辺一帯(巴川中~下流域)(「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)

3 カンベ(神戸)の千葉県小字データベース検索結果

小字「カンベ(神戸)」関連のものは全部で5件ヒットしました。

その5件を地図にプロットすると次のようになります。

なお、大字ではヒットするものがありませんでした。

小字「神戸(カンベ)」の分布

「南房総市牧田 神戸」(旧千倉町)は古代では安房国安房郡の隣の安房国朝夷郡に位置しています。このカンベは空間が近いので、安房神社に関わるものであると想像します。

いすみし市と御宿町は上総国の領域ですが、そのカンベ地名がどの神社にかかわるのか手がかりがすくないです。

在地の小神社に関わるカンベかもしれません。

しかし、上総国が安房国を併合していた時期があり、上総国と安房国の文化的つながりが意外と強い可能性も想像しますので、これらも安房神社に関わるものと仮に想像しておきます。

安房神社は海人との関わりが強いと考えます。

いすみし市域も御宿町域も歴史的に海人との関わりが強い可能性があります。したがって、海人というキーワードで安房神社といすみ市・御宿町のカンベが結びつくかもしれません。


将来知識が増えた段階で、これらのカンベがどの神社とかかわるのか再検討したいとおもいます。

2016年6月4日土曜日

千葉県の地名 ウタリ・コタン等

千葉県のアイヌ語地名の検討をしてきましたが、関連して、縄文人(の末裔)の集落を伝えると考えられる地名を千葉県小字データベースから抽出してみました。

その結果を次に一覧表にしました。

千葉県の小字 ウタリ・コタン・エゾ・エビス

ウタリ・コタン地名の言葉としての出発点は縄文人(の末裔)自らの縄文語によると考えます。

ウタリはアイヌ語で人民、同胞、仲間などの意です。(『精選版 日本国語大辞典』 小学館による)

コタンはアイヌ語 kotanで 「村・集落」の意で、つまり アイヌの集落です。(『精選版 日本国語大辞典』 小学館による)

一方、エゾ、エビスは縄文人を取り囲む大和政権サイドの人々の言葉であると考えます。

ウタリ・コタン・エゾ・エビスを合わせて23の小字が千葉県小字データベースからピックアップでき、それは13自治体におよびます。

13自治体の面積合計は千葉県面積の約35%をカバーします。

縄文人(の末裔)の集落が弥生文化時代人、古墳文化時代人の頃までは房総のあちこちに確実に存在していたことを証明しているように感じます。

地名の具体的分布をみると、縄文人(の末裔)の集落はもっと後の時代まで、場合によっては近世・近代まで、存在していたという想像も成り立つような気がします。

ウタリ・コタン・エゾ・エビスの千葉県における分布情報から、私は縄文時代をとても身近な存在として感得できるようになりました。

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なお、アイヌ、エミシという読みに関連する小字は見つかりませんでした。

アイノに関連する小字は多数抽出されますがこの中にアイヌに関する意味が含まれているものがあるかどうか未検討です。

ウタリ、コタンが音韻変化したものや日本語化した可能性があるものが、上記表とは別に抽出されています。

例 ウタレ、コタニ(小谷)など。

2016年6月3日金曜日

「ナイ」地名、半濁音地名、「ホロ・ポロ」地名

鏡味完二の著作物に「メナ」地名以外に、アイヌ語地名として「ナイ」地名、半濁音地名、「ホロ・ポロ」地名が記述されていますので、それを紹介しながら、千葉県における存在について検討します。

1 「ナイ」の地名

1-1 鏡味完二の記述

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「Nai」の地名

バチラーの辞書には,『北海道では「小川」に,樺太では「大きい川」にNaiを用いる。Na=Water,i=loative particleとしている。

日本の古語に川や水を意味するNaiはないし,朝鮮にもMalay語にもないらしい。ただ慶州に"閼川"(Arunai)という川の名があるが,これはSira・ngi語の"Nare"(=川)が今日"Nai"となっている特例である。

このようにNaiはAinu語以外では解けないようである。

またNaiの地名は川を意味しているということは,読図からすぐ解ることで,その実例は非常に多い。

次にこの地名の分布〔地図篇,Fig.204〕を見ると,北海道と東北地方に多い。

即ちNaiの地名の分布相は,Ezo的性格をもっている。

そしてその分布の重心は北海道にある。

これ丈けのことが確かめられたならば,この地名はも早や,大和文化や朝鮮文化の遺産でないことが極めて明確である。

Naiの地名の分布上の不連続線は,仙台の北方にあり,動物地理学上の分界線である津軽海峡にないことは,金田一博士の指摘された通りである。

この秋田,岩手両県の南境の1線は,地理学的な線,即ち米作と養蚕の長い歴史を通じての北限線であったに違いない。

これは日本読史地図などを繙いてみればよく解ることで,平安~鎌倉時代(約800年前)以前は,この線の以北は殆んど集落や地名がなく空白になっている。

これに比して津軽海峡は,室町時代から明治の初め北海道の開発までの,割合に短い年数に限られていた間のEzoの分界(但し松前は織豊頃から知られた名らしい)であったためと思われる。

鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957)から引用


-nai

鏡味完二(1958)「日本地名学 地図編」(日本地名学研究所)から引用

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1-2 「ナイ」地名の千葉県小字データベース検索結果

語尾に「ナイ」がつく小字を検索すると、44件がヒットしました。

語尾にナイがつく小字

ヒットした小字のほとんどが、漢字(当て字)を見ながら読むとそれがアイヌ語であるかどうか判断できません。

当て字を無視すれば、アイヌ語起源であるという想定を否定する根拠がある物は少数です。

検索結果からアイヌ語起源の地名を抽出することはできませんでした。



2 半濁音の地名

2-1 鏡味完二の記述

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「半濁音」の地名

Ainu語には朝鮮語などよりも著るしく半濁音が混っている。

日本語では周知のようにP音はF音に,更にH音にと転化したことは音韻史上,有名な現象である。

そこでこの半濁音即ちPa,Pi,Pu,Pe,PoのP音を含む地名を,地図上に拾い出してみると,〔地図篇,Fig.91〕のような分布図ができる。

すると北海道に非常に分布が濃やかであって,これはAinu語のものであるということを卒直に認めうる。

しかも亦津軽海峡以南の分布をみても,明らかに東北日本に多く,西南日本に少い。

つまりAinu語の本場である北海道から,南方に尾をひく彗星のような分布型をなしている。

しかし大体,津軽海峡を以て急に南方に疎な分布に変化。

即ち津軽海峡に第1の不連続線があり,琵琶湖地峡に第2のそれがある。

津軽海峡にみるこの鮮かな不連続線の存在は,日本の地名がP>F>Hの日本上代語内にあっての転化が,奈良朝頃から行われていたこと,地名の変化はその語幹にみられることは稀であるが,音韻的に転化することは容易であることなどから頷かれる。

また北海道の地名は,奥州の地名よりもAinu語の地名をうけついでから日尚浅く,その上北海道の人口密度は極めて低いから,未だ充分に日本語化されていないからでもある。

但しこの分布図に入れた地名には,"六本松"とか"日本平"とか"別府"とかの,日本語で当然半濁音を取らなくては発音上工合の悪いもの,そしてそれが明らかに日本語であってAinu語でないことの確かなものは除いてある。

鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957)から引用

半濁音の地名

鏡味完二(1958)「日本地名学 地図編」(日本地名学研究所)から引用

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2-2 半濁音の地名の千葉県小字データベース検索結果

半濁音の小字を検索すると、9件がヒットしました。

半濁音の小字

半濁音が含まれ、一本松(イッポンマツ)のように通常の日本語で普通に使うものを除くと、確かに9件がヒットします。

しかし、このうちの多くが、地元特有のなまりであると感じてしまいます。

見つけ出そうとしているアイヌ語(=縄文語)起源であると確認(直観)できるものがありません。

この9件のなかにアイヌ語地名が含まれているかもしれません。

しかし、残念ながら、現在の私にはそれを特定する知識を持ち合わせていません。


3 ホロ・ポロの地名

3-1 鏡味完二の記述

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Horo・Poroの地名

Horoの語原はAinu語では「大きい」で,北海道はじめ北奥には,幌地や保呂羽などの地名がある。

日本上代語にもHoroがあって,松岡氏の辞書には,『ホロ(保呂),ホ(帆)ロ(接尾)空気を利用した戎衣』とあるし,日本の方言にはHoroは種々の意味で用いられている。

しかし日本語のこれらの言葉は凡て地名になりそうもないものばかりである。

これに対して満州語にはHoloがあり,「山谷」の意で,朝鮮語の洞(Kor)もこれと同根らしい。

洞は元来,新羅語では「谷」で,それが谷地にある集落名となり,高麗や李朝に降っては,やや広い意味に使われ,町村の義に転じて,平地に散在する集落の名ともなり,洞はTongまたはKorとなっている。

このように満州語のHoloは,朝鮮に来て発音が変ってしまい,従って日本の地名Horoとは縁がないとしてもよいであろう。

さてこのHoroの地名の分布をみると,〔地図篇,Fig.107〕のように,北海道には全面的に多く分布して,それが北奥に延びて仙台以北まで達している。

仙台以南は非常に分布が疎である。

仙台の北にある不連続線は,上記のNaiの分布と全く一致している。

この分布の形態,その分布の重心の位置は,このHoroの地名がEzo型であることを示し,満州語のHoloとは無関係であることを同時に物語っている。

ここで語原の詮索と分布の形態とが合致したわけである。

この地名の地形への適用は区々であるが,矢張り広いとか大きいとかの性質によっている。

北海道では河谷が一番多く段丘,沼地,鈍頂・平頂の山,山腹,台地,デルタ,海岸平野,カルデラなどに命名され,北海道以外内地には,同様に河谷が多いが,円頂丘,平頂峯,丘陵平坦面,洪積台地などにみられる。

鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957)から引用

Horo・Poroの地名

鏡味完二(1958)「日本地名学 地図編」(日本地名学研究所)から引用

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3-2 ホロ・ポロの地名の千葉県小字データベース検索結果

ホロ・ポロの小字を検索すると、次の1件がヒットしました。

●ホロ・ポロ地名の検索結果
・山武市椎崎 コッホロ

アイヌ語でコツは窪地や谷を、ホロは大きいという意味で、大きな谷ということになります。

そもそも当て字が無い小字ですからアイヌ語(つまり縄文語)地名と言って間違いないと思います。

その位置を次に示します。

アイヌ語地名 小字「コッホロ」の位置

コッホロの位置は九十九里浜の平野部近くの太平洋岸水系の台地です。

2016.06.02記事「千葉県のアイヌ語地名「メナ」」で検討した「メナ」地名と合わせて考えると、九十九里浜という平野部に限定することなく、周辺台地を含めて、太平洋水系流域に弥生時代や古墳時代頃まで縄文語を話す集団が存在していた可能性を考えることができそうです。

2016年6月2日木曜日

千葉県のアイヌ語地名「メナ」

鏡味完二の諸作の中に千葉県に飛地的に分布するアイヌ語地名が記述されています。サクやヤツ地名との関連で気になりますので、学習します。

1 鏡味完二のメナに関する記述

鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957)ではメナについて次のように記述しています。

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Menaの地名

Menaは金田一博士によるとAinu語で「支流」を意味する。

バチラーの辞書には"池"とある。

Ainu語以外の他の民族語では解けないが,ただ内地の方言に,「牝牛」(熊本・鹿児島),「女の罵称」(鹿児島),「雌鮭」(茨城)などがある。

その分布はFig.16のように,津軽海峡を挾んだ南北の地域に限られ,ただ一つ九十九里浜の砂丘の間に"目那"の集落がある。

これらの地名は地形的に「池沼」に関係しているものは少く(2例あり)大部分が"支流"を意味している。

上記の内地方言は,その意味上地名になり難いものであり,また分布上からも関係がなさそうである。

これらの事情は,MenaがEzo語であることを立証している。

Menaの地名の1つの不連続線も大体仙台の北方にある。

以上の外にAinu語の地名には,Bet,Usi,Takko,Tai,Saruなどがあるが,その多くは同時に解釈される日本語との区別が困難であるから,今後の問題としておく。

メナの分布
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2 メナの千葉県小字データベース検索結果

小字メナは関連小字を含めて6件抽出されました。

アイヌ語地名 小字「メナ」の分布

小字「メナ」は全て九十九里浜の低地帯に分布します。

このアイヌ語地名がここに存在する理由を、次の瀬川拓郎(2016):「アイヌと縄文-もうひとつの日本の歴史-」(ちくま新書)の記述を参考に検討します。

3 参考 瀬川拓郎(2016):「アイヌと縄文-もうひとつの日本の歴史-」(ちくま新書)のアイヌ語地名に関する記述

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ところで、東北北部にアイヌ語地名がみられる事実はよく知られています。

その多くはアイヌ語で「川」を意味する「ナイ」「ペツ」に由来するものです。岩手県遠野市の佐比内(サヒナイ)、同花巻市の似内(ニタナイ)、山形県尾花沢市の紅内(クレナイ)、青森県南部町の苫米地(トマベチ)などがその例です。

このアイヌ語地名の残存にも、南下した続縄文人がかかわっていました。

東北北部にアイヌ語地名が分布している事実は、アイヌ語を話す人びとが東北北部にいたことを示しています。

さらに、東北北部は最終的に日本語集団によって占められたのですから、アイヌ語地名は、ある時期に生じた両者の入れかわりのなかで残されてきたことになります。

北海道には多くのアイヌ語地名が残されていますが、これは明治時代になって、アイヌ人口をはるかに上回る圧倒的多数の和人が一気に入植するなかで残されてきたものです。

つまり東北北部のアイヌ語地名についても、日本語集団とアイヌ語集団の急速な入れかわりのなかで残されたと考えられます。

東北北部においてそのような事態が想定できるのは、続縄文人と古墳社会の人びとの入れかわりのとき以外ありえません。

実際、東北北部のアイヌ語地名の分布は、続縄文人が南下していた範囲とほぼ一致しているのです。

東北北部には、弥生時代後期に狩猟採集に逆戻りしてしまった人びとの末裔も少数いました。

その動向はよくわかっていませんが、最北の水田を残した青森県砂沢遺跡の住人が縄文語=アイヌ語を話していたとみられることからすれば、かれらの言葉も縄文語=アイヌ語だった可能性があります。

古墳社会の人びとにアイヌ語地名を伝えたのは、続縄文人だけでなく、東北北部の在地の人びともかかわっていたかもしれません。

東北地方のナイ、ペツ地名の分布

瀬川拓郎(2016):「アイヌと縄文-もうひとつの日本の歴史-」(ちくま新書)から引用
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4 千葉県のアイヌ語地名「メナ」の検討

瀬川拓郎の図書では東北地方のアイヌ語地名について、4世紀頃北海道から東北地方に南下した続縄文人と5世紀後半頃から北上した古墳社会の人々の入れ替わりの時に残された可能性を一つとしています。

もう一つの可能性として、北海道から南下してきた続縄文人とは別に、もともと東北で弥生文化の生活をしていた在地の住民が狩猟採取の生活に逆戻りして生活していて、その人々がアイヌ語地名を古墳社会の人々に伝えたことをあげています。

この二つの可能性を含めて、千葉県のアイヌ語地名「メナ」が残された可能性を列挙してみます。

●「メナ」地名が残された可能性列挙

1 縄文時代・弥生時代の文化を伝える在地集団が居住していたことにより、「メナ」地名が残存した

縄文時代にメナ地名が使われていて、その社会に弥生文化が伝わり、文化は変化したが、メナ地名はそのまま使われて残ったと考えます。

西方から多数の入植者が房総に入り込んだが、九十九里浜の平野は開発対象外の僻地であり、古墳社会の人々が地名を付けて開発することはなかったと考えます。

そのため、結果として縄文時代・弥生時代の文化を伝える在地集団が使う地名が新たな文化の地名に置き換わることなく、残存したと考えます。

(瀬川拓郎の在地逆戻り集団から伝わったとする説と類似の説)

古墳社会の地域開発対象地、大和政権の直轄開発地などでは生の縄文語=アイヌ語地名の残存は困難であったと想定します。

2 弥生時代中頃に海人集団が「メナ」地名をもたらした

弥生時代中頃に九州北部の海人集団が全国に展開しました。

海人集団は縄文人的特徴をもっていたと考えられ、縄文語の「メナ」地名を九十九里浜にもたらしたと考えます。

(メナの分布が西方にはほとんどないので、苦しい説ですが、海人集団との関係は検討しておく価値があると考えます。)

3 4世紀ごろ北海道から東北地方に南下した続縄文人集団が房総にも飛地的に到達し、「メナ」地名をもたらした

4世紀頃の東北地方に交易拠点をもとめて南下した続縄文人の一派が、さらに房総まで飛地的に到達して、「メナ」地名を残したと考えます。

(九十九里浜の平野は、古代では地域開発の価値のない場所で、人の寄り付かない場所であったため、北海道の続縄文人が到達して居住できる条件はあったかもしれないと考えます。)


●検討
2の海人集団が地名をもたらしたとする説は、海人集団と平野利用が結びつかないので、また地名が西方に分布しないので、説得力がありません。

3の続縄文人説は、南下飛地が離れすぎていて、また関連する他の情報もないので、説得力がありません。

1の説が最ももっともらしいと考えます。

縄文語=アイヌ語の地名が残るということは、その地名が縄文人(あるいは続縄文人)から古墳時代人まで途切れることなく、継続して使われたということを意味します。

従って、縄文時代から弥生時代、古墳時代にかけて、その付近に継続して人の生活があり、縄文人が使った「メナ」地名が残ったと考えます。


なお、房総で多数残っている「サク」地名も縄文語起源だと考えています。

その「サク」と希少地名である「メナ」と残り方が同じであるとは考えにくく感じます。

「サク」は強く日本語化しています。

「サク」の検討では、「サ」がサチ(幸)の語源まで思考がつながりました。

「メナ」は外来語そのままのように感じます。

同じ縄文語起源の地名でも、日本語社会に対する溶け込み方が全く違うように感じます。

日本語社会が縄文語起源地名を生のまま残したか(たまたま生のまま残ってしまったか)、それとも咀嚼して自分の言語体系に取り込んだか、その程度が問題になると考えます。

そのあたりを今後意識して学習することにします。
 



2016.06.02 今朝の花見川

日の出前、いつもより早く自宅を出て、晴れ・冷涼で体が引き締まるような散歩となりました。

花見川風景

花見川風景

弁天橋から下流

弁天橋から上流

東の空の遠方に雲がかかり、日の出の光が遮られ、幻想的な写真となりました。(写真は全て絵画モード)

弁天橋から上流

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参考 遊んでみました。

弁天橋から上流

普通モード写真

弁天橋から上流

画像ソフトで絵画モードを強調

弁天橋から上流

画像ソフトで絵画モードを加工


弁天橋から上流

昔写真風

2016年6月1日水曜日

学習メモ 古代房総部民「車持部(クルマモチベ)」と交通

古代房総部民に「車持部(クルマモチベ)」(職業部)が存在し、上総国長柄郡車持郷という郷名(和名抄)でその存在を現代に伝えています。

車持郷の場所が東京湾水系と太平洋水系の分水界付近に位置していて、古代交通の面から、私の興味を強くそそります。

車持郷に関して検討(想像)した事柄をメモしておきます。

1 車持部(クルマモチベ)の一般的説明

車持部の一般的説明を次に引用します。

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くるまもちべ 【車持部】

大和朝廷の職業部の一つ。

天皇の乗輿〘じようよ〙の管理にあたった伴造〘とものみやつこ〙車持公(君)の管掌下にあって,その職務に要する費用を貢納した。

《日本書紀》履中5年条によると車持君が筑紫国の車持部をほしいままに検校し,さらに宗像神社に割き充てた車持部も奪った罪で筑紫の車持部を没収されたとあり,《新撰姓氏録》には雄略天皇のとき,乗輿を供進し車持公の姓を賜ったという話を伝える。

これらは事実とは言えないにしてもその職務と部のあり方を反映した伝承とみてよい。

車持氏は684年(天武13)君姓から朝臣〘あそん〙姓に改姓された。

部民は河内,伊賀,上総,近江,越前,越中,播磨,豊前など全国に分布。大化改新以降は解放された。

令制下で供御の輿輦〘よれん〙を管掌したのは主殿寮で,車持氏は負名氏〘なおいのうじ〙として,▶主殿寮殿部〘とのもり〙に代々任じられている。

この時期にも天皇の輿輦に関与していたことが知られる。

▶▶▶駕輿丁(かよちょう)

新井 喜久夫

『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ から引用
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車持部(クルマモチベ)は天皇や皇族等の移動・交通を管掌し、部民名に含まれる文字「車」は文字通り車輪を意味しています。

車持部(クルマモチベ)が関わった車輪のイメージは次のようなものだったと考えます。
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て‐ぐるま【手車・輦・輦車】

 〖名〗
① 輦(れん)に車をつけ、肩でかつがずに車で運行する乗り物。特に手車の宣旨を受けた皇太子または親王・内親王・女御・大臣などが乗用するもの。れんしゃ。〔十巻本和名抄(934頃)〕

手車①〈石山寺縁起絵巻〉

※貞享版沙石集(1283)八「白く清げなる法師を手輿(テグルマ)にかきて」

『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から画像を含めて引用
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2 大和朝廷の職業部である車持部(クルマモチベ)が房総半島中央部に存在した理由

車持部(クルマモチベ)が房総に立地した理由を2つ列挙し、検討します。

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■車持部(クルマモチベ)が房総に立地した主な理由 その1 農産物の産出

車持部(クルマモチベ)の房総立地の主要理由を一般的地域開発であると捉えます。

部民による土地開拓で、そこから米や雑穀等の農産物を産出し、それを大和朝廷や部民を直接支配する車持氏に献上するという役割を果たしたと考えます。
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■車持部(クルマモチベ)が房総に立地した主な理由 その2 車輪技術を使った難所における輸送活動

考古遺物としての車輪の最初のものは、日本では7世紀頃のようです。したがって部民制度が存在した5~6世紀頃の車輪技術は希少なものであり、当時のハイテク技術であったと考えます。

房総の車持部(クルマモチベ)は単に農産物の生産のために設定組織された部民ではなく、大和政権中央に存在していたハイテク技術である車輪技術を使った輸送活動であると考えます。

5~6世紀頃の房総開発の主要部隊は太平洋岸地域です。

太平洋岸地域の開発のためには東京湾側から養老川等を使って水運で多量の物資を運び、船越(分水嶺付近の陸路)で物資を中継輸送して、その後太平洋岸の河川を使った水運で運搬することになります。

車持部(クルマモチベ)は、その船越における、車輪技術を使った戦略的輸送部隊であったと考えます。
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車持部(クルマモチベ)以外の他の職業部について、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)では次のように記述されています。

●磯部(イソベ)は「香取の海」の水上交通と関係すると推定される。

●船木部(フナキベ)は造船と関係すると推定される。「香取の海」との関係が注目される。

●玉作部(タマツクリベ)、曲玉・管玉などの玉製品を加工した部民。

●海人部(アマベ)、海産物の採集や海上交通に携わったと推定される。

房総に存在した職業部の部民は、その専門性を生かした機能を発揮していたと考えられています。

職業部は名代・子代や部曲のような単なる農産物産出ではなく、大和政権の戦略性に基づいて設置されたと考える方が妥当だと思います。

従って、車持部(クルマモチベ)もその専門性(車輪技術)との関係で房総立地を考えることが大切であると思います。

車持部(クルマモチベ)が房総に立地する理由を2つ列挙しましたが、車持部(クルマモチベ)が大和政権の職業部であると考えると、理由1農産物の産出はその根拠が薄弱であり、理由2の車輪技術を使った輸送活動であると考えることが的確であると考えます。

なお、車持部(クルマモチベ)の部民が自ら食べるための農業を行っていたことは当然であると考えますから、農業面での地域開発地でもあったことは当然だと思います。

3 交通戦略上の要衝である船越に位置する車持部(クルマモチベ)

次の地図に示すように、車持部(クルマモチベ)は東京湾水系と太平洋水系の船越地帯に位置します。

上総国長柄郡車持郷付近の交通(想定)

船越とは古代水運交通で使われた短区間陸送路です。

車持部(クルマモチベ)は東京湾水系養老川を遡って運搬されてきた物資を船越において車輪技術を使って太平洋水系水運路まで輸送した(あるいはその反対方向に産物輸送をした)と推定します。

車輪技術は都で天皇や皇族等の移動に使われただけではなく、房総で物資運搬という戦略的実務に使われたと想定します。

なお、養老川にある海部(アマベ)は元来東京湾水系と太平洋水系のネットワークを睨んで設置されていると考えます。

2016.05.24記事「古代房総の海人(あま)の活動」参照

5~6世紀頃、中央直轄型で房総の開発が進む中で、海人(アマ)にはないハイテク技術である車輪技術を大和政権が房総に投入したのだと考えます。

それだけ、養老川と太平洋水系を結ぶ船越の役割が重要だったのだと思います。

この船越の移動輸送をスムーズにできれば、房総の太平洋岸開発が大いに進むと大和政権が判断したのだと考えます。



参考 古代内陸水運路が遠距離(広域)をつなぐことができたシステム原理


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4 超空想 車輪技術が船本体の輸送に使われた可能性

太平洋岸の地域開発が大和政権の重要課題であるとき、太平洋岸では水運のための船が不足していたことは想像に難くありません。

地域開発が進んでいないのですから、造船だけが進むということはありません。

しかし、地域開発のためには物資の輸送が必須であり、そのためには多数の船が必要です。

このような矛盾を解決するために、小型船を車輪技術で東京湾水系から太平洋水系に運んだことも考えられます。

古代ギリシャではコリントス地峡(イオニア海とエーゲ海の地峡)で船を台車に乗せ運搬していて、そのレールの遺跡が出土しています。

古代ギリシャ船越における船の輸送想像図