しかし、その後、古代郷名「三宅」が3つあることに気が付き、かつ、ピックアップした小字「ミヤケ」が日本書紀に出てくる伊甚屯倉と関連することに気が付きました。
その情報をこの記事で追補します。
最初に、古代郷名「三宅」と小字「三宅」の情報の地図を示します。
小字「ミヤケ」と古代郷名「三宅」の分布
次に、学習した「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)の関連部分の記述を引用します。
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屯倉制と房総の屯倉
屯倉(みやけ)制とは、大和王権が直接経営する拠点で、その語源は、「ミ(御)+ヤケ(宅)」で、大王などへの敬意をあらわす接頭語の「御」と建物のあるところを意味する「宅」にもとつく。
大和王権の拠点に、館舎や倉庫、田地が付属した領域を屯倉として設定した。
その田地は、田部(たべ)や国造(くにのみやっこ)に支配された農民に耕作させていた。
ただし、屯倉は農業のみに限定されず、港湾・鉱山・漁撈など大和王権が必要とする物資を、直接収受するための拠点でもあった。
「日本書紀」の安閑天皇元(五三四)年条には、伊甚(いじみ)国造に関する次のような伝承が記載されている。
安閑天皇元年の一月に、都を大和国の勾金橋(まがりのかねはし)に遷した。三月六日に、役人たちが、天皇のために、仁賢天皇の娘の春日山田皇女に結婚のしるしを贈って、皇后として迎えた。
四月一日に、内膳卿の膳臣大麻呂は、天皇の命令を承り、使者を伊甚国に派遣し、真珠を求めさせた。
ところが、伊甚国造らは、郡に参上するのがおそく、期限を過ぎても真珠を進上しなかった。
膳臣大麻呂は、大変怒って、国造らを捕らえてしばり、尋問しようとした。
国造の伊甚直稚子は、恐れおののいて、官殿のなかの皇后の寝殿に逃げかくれた。
春日皇后は、それとは知らずに寝殿に入ったため、驚いて失神してしまった。
稚子は、寝殿への乱入の罪も加わって重い罪を負わされることになった。
そこで稚子は、謹んで皇后のために、伊甚屯倉を献上して、乱入の罪を免れたいと申しでた。
こうして、伊甚屯倉が定められた。
今は分割して郡とし、上総国に属する。
この話は、伊甚屯倉の由来を脱明するためにつくられた単なる伝承にすぎないと考えられていた。
ところが、「日本三代実録」の貞観九(八六七)年四月条に、「節婦人、上総国夷灊郡春部直黒主売を表彰すべし」と書かれている。
この記事によれば、平安時代初期の上総国夷灊郡に、春部(春日部)直という氏姓をもった氏族が住んでいたことが確認できる。
春日部は、安閑天皇の皇后の春日山田皇后の名にちなんでつけられた名代の民であり、春日部直は、在地の春日部を統括した伊甚国造で朝廷に奉仕する現地の伴造と考えられる。
この史料からは明らかではないが、もし、春日部直が都へ上番していたとすれば、現地の春日部の人々が、春日部直の都での生活費を仕送りしていたことになる。
いっぽう、夷灊郡に春日部直という氏族が存在した事実は、伊甚国の一部が贖罪のために伊甚屯倉になったとき、伊甚国造の伊甚直稚子の一族が春日部直という氏姓を与えられ、伊甚屯倉で働く人々は春日部という集団に編成されたことを物語っている。
また、真珠は「鮑珠(あわびたま)」ともいわれたように、アワビの採集にともなって発見されることがある。
律令制下では、安房国・上総国は大量の鮑を平城京に貢納していたことからして、伊甚国造の時代にも鮑が貢納されており、ときには鮑珠を貢納していた可能性も考えられる。
そして、伊甚国造は、伊甚屯倉に献上した後も伊甚国の支配を認められ、引き続き伊甚の物産を朝廷に貢納するなどの地方豪族(国造)としての義務を果たしていたが、新たに屯倉を管理し、春日部を統括する管理者(伴造)としての義務も負うことになったのである。
(中略)
房総では、上総国天羽郡に三宅郷(富津市)があり、下総国海上郡にも三宅郷(銚子市)、印播郡にも三宅郷(印西市)がある。この事実は、須恵国造、下海上国造、印波国造の領域内にも大和王権の屯倉が設置された可能性を示している。
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)から引用
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この記述に基づくと、地名と屯倉について、次のような対応可能性を導くことができます。
地名と屯倉の対応可能性
この対応可能性を地図に表現すると次のようになります。
大和王権の屯倉設置の可能性
6世紀頃の房総には4つの屯倉が設置されていたと考えます。
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