2011年10月4日火曜日

花見川河川争奪に言及した既存資料

花見川河川争奪を知る4 花見川河川争奪に言及した既存資料


花見川河川争奪の地形復元や成因について検討する前に、花見川河川争奪に言及した既存資料について確認しておきます。

私がこれまで得た情報の範囲内では、次の論文でのみ花見川河川争奪に言及しています。

白鳥孝治(1998):印旛沼落掘難工事現場の地理地質的特徴、印旛沼自然と文化第5号、pp43~48

この論文の花見川河川争奪に関連する部分を引用します。
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掘り割る以前の花見川について、天明期の掘割絵図をみると、花見川は柏井を谷頭として花島を南流する東京湾水系の河川になっている。したがって、掘り割る以前から花見川は周辺の谷津とは異なり、図1の分水界よりさらに北上していたと思われる。


花見川と隣接するその他の谷津の形をみると,東京湾水系の谷津と,印旛沼水系の谷津とは,明らかに異なった形をしている。前者は谷頭に至るまで深く刻み込まれた深谷津の形をしているのに対して,後者は浅谷津の形をとって,谷頭はほとんど台地面近くまで上っている。花見川は掘り割られているので,原地形の谷頭が深谷津タイプか,浅谷津タイプか不明であるが,花島から西に派生する花見川の枝谷津と,柏井から東西両方向に派生する枝谷津は,いずれも浅谷津タイプであり,しかも両枝谷津の流れの方向は印旛沼の方向をとっている。このことから,少なくとも花島,柏井の枝谷津が形成された時代の初期の河川は,印旛沼方向に流れていたと考えられる。したがって,花島付近の花見川は,ある時代に流れの方向を北流する印旛沼方向から南流する東京湾方向へ逆転させたことになる。


この河川の争奪を起こす原因に,次の二つが考えられる。一つは,先に述べたように,印旛沼沼水系と東京湾水系の分水界の北側で地盤の隆起が起こったと考えることである。今一つは東京湾方向に流れる谷津が延びて, 印旛沼水系の谷津を取り込んだと考えることである。東京湾水系の谷津は,いずれも谷頭付近まで深谷津的地形をなしているので,台地を崩壊させながら谷頭を延ばしていると思われるからである。


隣接する数本の谷津のうち,花島を通る花見川だけが分水界を越えて北上した理由は, ここが弱い沈降帯であったためではなかろうか。即ち,図2にみるように(千葉の自然をたずねて, P49),常総粘土層の高度分布は,柏井,花島を通る花見川付近が低い鞍部になっているので, ここは下末吉ロームの堆積後に沈降していると考えられるからである。天保期の工事の際に,花島付近は多量の湧水のために難工事を極めたことは,沈降帯であるために台地の地下水がここに集中するためであり,また,花見川が,分水界を越えて北に延びた理由のひとつも,多量の湧水による侵食にあったと考えられる。
(図1、図2略)
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私が白鳥孝治氏の論文に気がついた経緯等は次の記事に書きました。
2011年3月7日記事「花見川中流紀行17河川争奪に関する先行記述

この論文による花見川河川争奪の成因については、追って検討したいと思います。

なお、この白鳥孝治氏の論文以外にも、花見川河川争奪に言及した資料・論文があるかもしれませんので、機会を見つけて調べたいと思います。

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