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2011年10月24日月曜日

花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想8

花見川河川争奪を知る22 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想8

oryzasan氏論文「花見川の地学」全4章の最終章である第4章を紹介します。

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oryzasan氏論文「花見川の地学」 第4章引用

Ⅳ.花見川付近でのみ分水界が北にずれるのはなぜか


白鳥さんの論文で引用された図2は僕が描いたものです。あの図は築地書館発行の「日曜の地学 千葉県編」中の「花見川から印旛沼へ」という章の中のものですが、文章の中で僕は、印旛沼と東京湾という地域の差異は木下層堆積期からすでにあり、前者に泥質の潟湖(ラグーン)堆積物が分布するのに対して、後者には砂州の堆積物が分布している。両地域の分化は地殻変動と密接な関係があり、印旛沼西部調整池周辺と東京湾とは別個の沈降域である。花見川開削の行われた横戸の台地は両者を分かつ隆起帯であり、工事の困難さをもたらした遠因になっているのではないかと書いて、常総粘土層の高度分布と泥質の木下層の分布を重ねた図を描いたのでした。図を素直に見ればわかるとおり、花島から横戸間の花見川流域は尾根状の高まり(隆起域)であり、白鳥さんの言われるような沈降域ではありません。したがって地下水が特にここに多く集まる理由はなく、谷津の頭部侵食が花見川だけで進まなければならない理由はありません。


天明・天保の開削工事において、多量の湧水のために花島付近の工事が困難を極めるのは、「ケト土」の部分を深く掘ったからでしょう。「ケト土」は泥炭層ですが、縄文海進の海が及ばなかった低地の奥に分布し、弥生時代から古墳時代の「草本質泥炭層」と縄文時代後期から晩期の「木本質泥炭層」の二つの部分に分けられます。木本質泥炭層は当時低地に成立した、ハンノキやヤチダモなどの湿地林の林床堆積物で、木の枝などの破片が厚く積もった地層です。砂や泥などはあまり含まず、分解が進んでいない、スポンジ状の木くずの集まりといった見かけを呈することもしばしばです。このため隙間が多く、多量の地下水を含むことができますし、固結力はほとんどありません。工事の困難さはこうした木本質泥炭層を深く掘り下げねばならなかったところにあったと考えられ、花見川に限らず、低地の奥であればどこででも起こり得る現象です。

図9


花見川付近でのみ分水界が北にずれる理由(即ち、東西の「柏井川」が30m隆起帯を越えられなかった理由)は実のところ、僕にはよくわかりません。下の図はクーラーさんの作られたものに僕がオレンジの直線を書き加えたものですが、僕はこの図を見て、27.5mの等高線の分布域のずれに目がいきました。地図の東に比べ、西側が500mほど北東側にずれています。地図の西の外れには花見川が見えています。これは花見川流域のみで隆起運動の軸が北にずれていることを意味するのかもしれません。

図10


関東平野における地殻変動は、1000mを越える地下の深所にある岩盤(「基盤」といいます。関東平野はこの岩盤の上に新しい時代の地層が厚く積もっています)の動きと密接な関係があるといわれています。基盤は北東-南西方向と北西-南東方向の直行する2方向の断層でズタズタに切られており、これを「ブロック」と呼びます。このブロックの動きが上に積もっている地層を変形させて、様々な地殻変動を引き起こすと考えられています。いわば畳の上に厚く布団が敷かれていて、一枚々々の畳の上下によって、上に敷かれた布団がゆがむというイメージ(関東平野の海岸線が北東-南西と北西-南東方向の直線の組み合わせからできているのはこのため)です。上図のオレンジの線の方向は、ほぼ基盤中の断層の方向であり、25m等高線のずれは、ここを境に地下のブロックが異なっている可能性(想像を逞しくすれば右の図のようなイメージ)があります。

図11


と言うわけで、花見川の流域が、この地域の一般的な分水界の北に入り込んでいる理由ははっきりしません。しかしそれは、地下深部のブロックの動きに起因するだろうとの漠然としたイメージを、僕は持っています。
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この章の感想は次の記事で述べます。

2011年10月23日日曜日

花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想7

花見川河川争奪を知る21 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想7

oryzasan氏論文「花見川の地学」第3章に対する感想の続きを述べます。

感想(つづき)

oryzasan氏は以下の点からも古柏井川下流の存在に疑念を述べられています。
エ (高地に)行く手を遮られた前谷津と後谷津(*)が、合流後あらためてそこを横切るのはおかしい。

* 谷津の名称は地名として前谷津と後谷津があります。oryzasan氏は前谷津を西谷津と、後谷津を東谷津と仮称していますが、現地地名(河川名)を優先して使用しないと混乱しますので、この記事では前谷津、後谷津の名称を使います。

次の図は標高30m以上を赤で、27.5m以上をピンクで色塗りして、河川の方向を矢印で描いたものです。

花見川付近の地形と流向

この図を見て次のことに気がつきます。

1 前谷津は最初北流し、ついで東流します。最初から高地があり、それに遮られて東流したということならば、oryzasan氏の考えは理解できます。(しかし、その場合隣の芦太川が最初からある高地を浸食して北流する説明ができません。)oryzasan氏はこのようなことをのべているのではないと思います。

2 そもそも印旛沼水系ができた当初はここに高地はなく、その後隆起帯が北に移って、この場所が高地になったというストーリーを大方の人が採用しています。oryzasan氏もそのようなお考えだと思います。そうすると、最初北流していた前谷津が、東流に流路を変更する前の流路が、高地に跡となって残っていなければなりません。地形図からそのような証拠は見られません。

東西方向と南北方向の水系パターンが構造的なものを表現していることは推察されると思います。

3 「前谷津と後谷津が合流した後、あらためて隆起した高地を北流するのはおかしい」とのことです。
高地が隆起する前は北流していたのであるが、隆起した後は流れることができなくなったということを述べているものと理解できます。もしそうならば、流出口を失った河川の水が溜まり、そこには湖沼ができるはずです。(実際に、そのような成因の湖沼として、宇那谷川の長沼池が存在したと、私は考えています。)しかし、この付近に湖沼の堆積地形は見つかりません。湖沼堆積物の観察記録もないと思います。(もしあったとしても、結局は河川争奪を考えることになりますが。)

高地の隆起で北流できなくなったので、湖沼を形成することなく、河川がみずから出口を探し、反対方向として、南流した(南流する谷を削った)ということは、原理的にあり得ません。

以上の検討から、「(高地に)行く手を遮られた前谷津と後谷津が、合流後あらためてそこを横切るのはおかしい。」という理由設定そのものが成立しません。したがって、そのことは、古柏井川下流の存在に疑念を持つ理由になりません。

前記事とこの記事で述べたことから、古柏井川の下流部が存在したという事実は疑う余地はないと思います。

古柏井川下流部は、江戸時代の堀割普請により河床掘削が行われ、同時に盛土により谷形状のほとんどが隠されました。この古柏井川下流の古地理詳細復元は今後大いに行うべき課題であると思います。

2011年10月22日土曜日

花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想6

花見川河川争奪を知る20 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想6

oryzasan氏論文「花見川の地学」第3章に対する感想を述べます。

感想
①河川争奪の時期はいつか

oryzasan氏のおっしゃる通り、河川争奪の時期は1.7万年前の海進開始期以前だと思います。ここらへんの地史時間概念はこの論文で学習させていただきました。

②「古柏井川」の下流は存在するか
oryzasan氏は以下の点から古柏井川下流の存在に疑念を述べられています。
ア 明瞭な谷地形が確認されない
イ 下流部ほど広いはずの谷幅が狭い。(人工的に広げたなら、なおさら)
ウ 川幅に比べて台地との高度差が大きすぎる
エ (高地に)行く手を遮られた前谷津と後谷津が、合流後あらためてそこを横切るのはおかしい。

以上のoryzasan氏の論点を検討します。

1949年撮影米軍空中写真をディスプレイ上で裸眼実体視して、次の地形分類図を作成しました。

地形分類図

この作業で、これまでの私の地形理解で重大な誤りを犯していたことに気がつきました。

次の図はこれまでこのブログで何度も掲載してきたものです。古柏井川の無能谷になった部分の水系を赤線で示してあります。2支流を考えています。

旧版1万分の1地形図の等高線分布から想定したものです。

これまでの古柏井川の無能谷部分の水系理解

余談になりますが、地団研専報45論文のリストで発見し、最近読んだ戦前の地形学者論文(基礎資料は同じ旧版1万分の1地形図を使っている)でも、同じ2支流が水系に図化されています。この論文を見た時、自分の水系理解も間違っていないと思い、まんざらでもない気分でした。

戦前地形論文の花見川水系認識
花井重次、千葉徳爾(1939):関東平野の凹地地形に就いて 特に下総台地上の凹地地形、地理、VOL2.、NO2

この水系理解が空中写真の実体視をした途端に、疑念なく、間違いであることが判りました。

A-B付近の3D画像は次の断面のようにきわめて明瞭に見ることができます。


断面A-B付近の地形分類図


断面A-Bのイメージ


このデータ、特に台地(下総下位面)を削る斜面(緩斜面、急斜面・小崖)と平坦面の連続性から、次のような地形解釈をすることができると考えました。

古柏井川の復元にかかわる地形解釈

当初考えていた支流は、支流ではなく、堀割普請の盛土で埋め尽くされなかった古柏井川の河道(の河岸段丘部分)と盛土に挟まれた空間であることが判りました。

この区間の下流の右岸(西側)の支流も同じように古柏井川の谷壁と盛土に挟まれた空間であることが判りました。

空中写真実体視恐るべしです。実体視した途端に地形の解釈ができました。

この地形解釈の精緻化による変更は大いにありうると思いますが、根本は変わらないと思います。

次の地図は1960年(昭和35年)測量の千葉市都市図ですが、堀割普請背後の平坦面が千葉第1段丘に連続している有様をよく表現している等高線が描かれています。


千葉市都市図
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」440ページ掲載図を引用

oryzasan氏の古柏井川下流存在に対する次の疑念

ア 明瞭な谷地形が確認されない
イ 下流部ほど広いはずの谷幅が狭い。(人工的に広げたなら、なおさら)
ウ 川幅に比べて台地との高度差が大きすぎる

には、以上のデータで答えることができたと思います。

(つづく)

2011年10月21日金曜日

花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想5

花見川河川争奪を知る19 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想5

oryzasan氏論文全4章の第3章を紹介します。

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oryzasan氏論文「花見川の地学」 第3章引用

Ⅲ.「古柏井川」は存在したか
①河川争奪の時期はいつか
最初に述べたように、この地域の川が侵食力を持っていたのは、海水面の低下期であるV字谷の時代、つまり最終氷期最寒冷期以前でなければなりません。1.7万年前(八千代市平戸における新川低地沖積層の下限の年代です)以降は海進期になり、谷は沖積層堆積の場となります。約4000年前の縄文の海の海退後もこの状況に変わりはなく、関東平野で新たに谷を刻み始めた川はありません。ですから河川の争奪があったとすれば、それはV字谷の時代以前ということになります。
②「古柏井川」の下流域は存在するか
古柏井川の上流域を花見川が奪ったとすれば、古柏井川の下流域が地形的に確認されねばなりません。とくにその時期が、最も河川の侵食力の強かった(つまり海水面の最も低下した)最終氷期最寒冷期の出来事であったとすれば、明瞭な谷地形が残されているはずです。クーラーさんはそれが横戸-柏井間の花見川開削部にあったとしていますが、はたしてそうでしょうか。
航空写真は1949年にアメリカ軍が撮影したものです。柏井の谷津と花見川の開削部が写っていますが、他の低地に比べて、花見川の開削部分は明らかに直線的です。人工的に作られたものという印象を強く受けます。花見川開削部が「古柏井川」の下流部を人為的に広げて作られたとすれば、このことは説明がつきます。しかし、その幅は柏井の谷津よりも明らかに狭く、ここが柏井の谷津の下流部であったとは考えられません。なぜなら谷津の幅は下流部ほど広いのが原則だからです。まして、「古柏井川」の下流部を人工的に広げて作られたのが花見川の開削部であるとするならば、なおのことです。

図8

また花見川の開削部の地形は、幅に比べて台地との高度差が大きいのが特徴です。このことは、例えば勝田川低地の地形と比べてみれば明瞭で、大きすぎるといって良いでしょう。もしこれが、古柏井川の谷津の底を掘り下げた結果であるとするならば、人為的改変以前、勝田川低地との合流点において、古柏井川は急流をなして勝田川に合流したことになり、不自然です。
さらに、北東に向かう柏井の谷津が突然直角に曲がるのは、30m地域の出現によって、行く手を遮られたためでしょう。それなのに、東西の谷津の合流後、改めてそこを横切ってゆくのもおかしなことです。
以上の理由から花見川の開削部が、かつての古柏井川の下流域であったとする、クーラーさんの考えには賛成できません。そして他には古柏井川の下流域の候補にあたるような地形は見あたりませんから、古柏井川はなかったというのが僕の結論です。
ただし、それは現在のように谷筋が明瞭になって以降(つまり5万年前以降)のことです。常総粘土層の堆積期、あるいはその直後であれば話は別です。この頃、この地域はほとんど平坦で、わずかな高低の差に従って水が流れ、それが現在の低地の元となる谷を刻んでゆくのですが、そんな、谷筋がまだはっきりと形成される以前であれば、「古柏井川」の存在は充分に考えられます。この頃、東西の柏井の谷津の元を作った川(「東柏井川」と「西柏井川」とでも呼びましょうか)は、芦太川や宇那谷川などと一緒に(もしかすると花見川も)、南西方向から北東方向へと並行して流れていたでしょう。30m地域の出現によって、東西の「柏井川」だけが直角に流路を変えて花見川に合流し、東京湾へと流れることになるのですが、これは河川の争奪というよりは単なる流路変更と見た方が妥当ではないかと思います。
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第3章の感想は次の記事で述べます。

2011年10月20日木曜日

「花島村近傍地質図」掲載

花見川河川争奪を知る18 「花島村傍地質図」掲載

河川争奪成因の一つの検討対象として、断層説を考えています。

ページ「断層論文」に巨智部忠承の論文を掲載してあります。

この論文内容を図で説明した「花島村近傍地質図」(「千葉図幅地質説明書、明治21年、農商務省地質調査所発行、巨智部忠承 述」に掲載)を入手しましたので、ページ「断層論文」に掲載しました。

この図の丙-丁断面に断層(f)位置が描いてあります。偶然(?)ですが、この場所が私が考える河川争奪発生ポイントです。

花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想4

花見川河川争奪を知る17 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想4

oryzasan氏論文「花見川の地学」第2章引用に対する感想を述べます。

感想
ア 5万年前には、ほぼ現在の川筋に固定されていた
この論文を学習させていただき、沖積層を切る河川争奪という勘違いを排することができました。感謝します。

既報の通り、空中写真による地形面対比の作業を始めました。
その作業の中で、堀割普請で、掘削土捨土で埋め尽くされないで残った古柏井川の谷底面らしき地形面断片を見つけています。その地形面が勝田川の千葉第1段丘(武蔵野面相当)(房の駅より北に分布する河川段丘)に連続する感触をもっています。
もしそうだとすると、千葉第2段丘(立川面相当)を形成した河川の下刻時期に河川争奪が起こったのかもしれません。その場合5万年前より新しい時代(約2万年前)になります。
こうした想像が正確であるかどうかまだわかりませんが、作業の手がかりを得たので作業を進めて、順次報告します。

杉原(1970)による地形・地質概念図
杉原重夫(1970):下総台地西部における地形の発達、地理学評論43-12

イ 掲載図を見ながら、一つのヒントが浮かぶ
図5の花見川流域模式地質断面図とその説明から花見川流域の地層と地形発達の特徴がよくわかりました。花見川流域を含めてこのような素晴らしい研究が行われていることを知り、感動しました。

この図の上岩橋層上面が谷の形をしています。この谷の形はこの図では実際の谷ではなく、地殻変動を表現しているものだと思います。

この図の掲載趣旨と全く離れますが、この埋没谷イメージを引き金にして、「三谷豊・下総台地研究グループ(1996):下総台地北西部における後期更新世の地殻変動、地団研専報45」で次のような記述があることを思い出しました。
「木下層は、下末吉海進期の堆積物(菊池、1974)であり、上岩橋層を不整合におおって本地域のほぼ全域に分布する。基底面は一般に平坦であるが、しばしば深さ10mを越す埋積谷を基底に伴う」

もし、上岩橋層を削る深さ10m以上の埋没谷があり、その谷を埋める木下層の層相が泥層であれば、そのような場所が水蝕にさらされたとき、埋没谷が無い場所と比べて浸食が激しいという現象がおこるのではないかと想像しました。

自分としては花見川河川争奪の成因検討対象の一つになるのではないかと思いました。

2011年10月19日水曜日

花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想3

花見川河川争奪を知る16 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想3

oryzasan氏論文全4章の第2章を紹介します。

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oryzasan氏論文「花見川の地学」 第2章引用

Ⅱ.現在の川筋が決まったのはいつか
ですから、現在の台地と低地の分布が決まるのは湿地の時代からV字谷の時代にかけてのことであり、V字谷の時代以降、川筋の変更は起きていないと考えて良いでしょう。おそらくは乾陸化の完成する東京軽石層降灰期の5万年前には、ほぼ現在の川筋に固定されていたのではないでしょうか。
古東京湾の海退直後にはまだ川はありません。海退直後の地表面の微妙な高低の分布に従って流れ出した小さな流れが、現在の川筋、つまり低地の元になったと考えられます。つまり現在の川筋が決まったのは、湿地の時代のことです。

図3

常総粘土層最下部には「三色アイス軽石層(SIP)」と呼ばれる、約13万年前の箱根山の噴出物が挟まれています。右の図は花見川流域におけるその分布図ですが、SIPが層状で挟まれているのが観察される地域と、軽石の粒として砂の間に散っているか、全く見られない地域があり、後者は前者に比べて、離水が遅れた地域と考えられます。なぜなら後者は河原など水の動きの激しい環境と考えられるからです。層状のSIPの分布域は現在の分水界地域よりも東京湾よりの、やや低い地域にあります。

図4

また、常総粘土層の最上部は、やや緑がかった、白~灰色の石けん状の粘土層よりなることが多いのですが、この粘土層は、水成の火山灰層で、水との化学反応の結果粘土化したものと言われています。しかし花見川下流域の千葉市天戸~長作付近にはこの粘土層は見られず、かわりに赤土状のローム層が分布します。この地層は「下末吉ローム層」と呼ばれる、常総粘土層と同時期に降下した陸成火山灰層です。このことは、古東京湾の海退後、まだ湿地環境が残っていた他の地域に対して、天戸~長作周辺地域の乾陸化が先行したことを示しています。離水は最も高い場所から進むはずなので、天戸~長作地域は現在の分水界地域である、横戸~柏井周辺よりも高かった(下の図)ことになります。

図5

図6

この地域に最初に流れ出した川はおそらく、この地域から北東の印旛沼方向と南西の東京湾方向に向かって流れ出しますが、間もなく分水界地域に隆起帯の軸が移って、現在の分水界が形成されたのでしょう。
次の図は八千代市周辺の台地と低地の分布に、印旛沼水系と東京湾水系との分水界を入れたものですが、最も高い、海抜高度が30mを越える地域が、分水界よりも印旛沼水系側にあることに注目してください。このことは隆起軸の印旛沼側への移動が、分水界確定後も続いていることを示しています。しかし現在の川筋はこの頃、既にある程度できあがっており、周りの隆起にもかかわらず、谷底の下刻作用を続けて、現在(正確には海水面の最降下期、つまり最終氷期最寒冷期)に至ったのでしょう。隆起軸の長作-天戸地域から30m地域への移動は、陸成下末吉ローム層に挟まれる御岳起源の軽石層、Pm-Iの年代の約7万年前から、この地域全域の陸化の完了する5万年前(東京軽石層の降灰年代です)までの間に行われたと考えられます。

図7

そうした中で花見川だけが、その流域を北に「食い込ませて」おり、やや異質な印象を受けます。それは東西の柏井の谷津の合流によります。柏井の谷津はどちらも、他の谷津と同様、北東方向に向かって流れ出しますが、30m地域に遮られるようにして流路を直角に曲げ、花見川に合流して、当初とは逆方向の東京湾へと向かいます。クーラーさんはその理由を、かつてあった「古柏井川」の上流域を花見川が奪ったためとしていますが、僕は柏井の谷津は5万年前には既に花見川の流域であったと考えています。理由は次の通りです。
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2011年10月17日月曜日

花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想2

花見川河川争奪を知る13 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想2

oryzasan氏論文「花見川の地学」 第1章引用に対する感想を述べます。

感想
ア 自分の思考に時間観念が無いことに気がつく

最新地学の基礎をわかりやすく噛み砕いて教えていただき、ありがとうございます。
図1と図2で花見川付近の地形発達の模式がとてもよくわかりました。
この模式図をみて、私の花見川河川争奪のイメージには地史的な時間観念がないことに気がつきました。
この教えていただいた地形発達モデルを思考の基盤として、それに自分の考えていた花見川河川争奪の概念をあてはめたところ、次のようなことが、まず、わかりました。

イ 沖積層を切るような形での河川争奪ではないこと
oryzasan氏の次の文章から、花見川河川争奪は沖積層を切るような形での河川争奪ではないことに気がつきました。

「浸食作用の卓越は、海水面低下期に伴う、海と陸との相対的な高度差の増加によってもたらされたと考えられ、その条件の失われた入り江の時代以降、低地の川が新たに川底を削り込むようなことは起きていません。」

時間観念なしに考えてきたので、思考の中に河川争奪により、沖積層を切ることがあったかのような一種の勘違いが混在していたことを意識することができました。

ウ 花見川河川争奪の谷地形変化モデル
oryzasan氏の図2のモデルに従って、自分のイメージしている花見川河川争奪プロセスを想像たくましく整理して時間軸に投影してみました。

花見川河川争奪による谷地形変化モデル

2011年10月16日日曜日

花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想1

花見川河川争奪を知る12 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想1

oryzasan氏から河川争奪に関連して再度コメントをしていただきました。「図を使わずに文章だけで意見を述べるのは困難なので、掲示板での場ではなく、メールに添付する形でコメントする」ということで、立派な論文をメール添付で送っていただきました。専門家の立場から詳しい情報を懇切丁寧に教えていただき、大感激、大感謝です。

論文は次のような4章構成になっており、11画像付きA4版8ページに及ぶものです。(論文題名はクーラーが付けました)

花見川の地学
Ⅰ. 台地と低地の形成史
Ⅱ. 現在の川筋が決まったのはいつか
Ⅲ. 「古柏井川」は存在したか
Ⅳ. 花見川付近でのみ分水界が北にずれたのはなぜか

ブログという性格上記事を区切る必要がありますので、1章1章別記事として順次紹介させていただき、その都度私の感想等も述べさせていただきます。後日論文全体を別のページに掲載させていただきます。

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oryzasan氏論文「花見川の地学」 第1章引用

Ⅰ. 台地と低地の形成史
房総半島北西部を含む関東平野の地形は、大きく見ると、高さの異なる二枚の平坦面と境界の急斜面とから出来ています。高い方の平坦面が「台地」、低い方の平坦面が「低地」、境界の斜面を「段丘崖」と言います。

図1

台地では古東京湾と呼ばれる海に積もった、上岩橋層や木下層の上に、常総粘土層や武蔵野ローム層、立川ローム層などの火山灰層が堆積しています。なお、これらの火山灰層のうち、常総粘土層は湿地堆積ですが、他は乾いた陸上に降灰したものです。またこれらの火山灰層中には、三色アイス軽石層(SIP:約13万年前の箱根山の噴出物)、東京軽石層(Tp:約5万年前、箱根山)、姶良-Tn火山灰(約2.4万年前、鹿児島湾の姶良カルデラ)などの年代、分布、噴出源の明確な「鍵層」が挟まれています。

一方低地では、これらの地層をV字状に削り込んだ谷を、沖積層が半分ほど埋めています。沖積層はこの地域では、約1.7万年前以降に堆積した地層で、海または海へと続く湿地堆積の地層です。この海はいわゆる縄文の海で、この地域では、印旛沼方向から入り込んだ「古鬼怒湾」と、東京湾側から、海老川、菊田川、浜田川-花見川低地などに入り込んだ小さな入り江がありました。古鬼怒湾は新川低地の宮内付近まで入り込んでいたことが、沖積層中のケイソウ化石の分析からわかっています。また花見川低地では、天戸付近にまで海が入り込んでいたことを、もう20年も前のことですが、河川敷に散布されていた工事残土中の貝化石から確認しています。

従って台地と低地とは、新川低地を例にすれば、次のようにしてできたと考えられます。
台地と低地の形成には、海水面の上下が密接に関係しており、古東京湾の時代以降V字谷の時代に至る海水面低下期にかけての、浸食作用卓越期に低地の基本形となるV字谷が形成され、海進期の入り江の時代に底が埋められて低地が完成します。浸食作用の卓越は、海水面低下期に伴う、海と陸との相対的な高度差の増加によってもたらされたと考えられ、その条件の失われた入り江の時代以降、低地の川が新たに川底を削り込むようなことは起きていません。

図2
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2011年10月15日土曜日

絵図から読み取れる興味深い情報

花見川河川争奪を知る11 絵図から読み取れる興味深い情報

1 堀割普請前の地形記述
論文「木原善和(1995):江戸期の印旛沼掘割工事で描かれた絵図、印旛沼自然と文化第2号」は、下総国印旛沼御普請堀割絵図(八千代市指定文化財)について説明したものですが、堀割普請前地形に関する次のような興味深い情報が掲載されています。
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この工事で最も重要で、かつ難工事の箇所である勝田村と花島村の間で新川と花見川を繋げる箇所に、「□□ 拾四丁芝地 高七丈壱尺」と書かれ、二つの川を繋げるところが約1.4㎞の芝地で、台地と川の水面までの高さ(深さ)が約21mであることが判明した。

写真3 新川と花見川を繋ぐ掘割箇所
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この写真を拡大して読むと、私には「ここより 拾四丁芝地 高○○○尺」と読めました。○○○は画像が不鮮明で確認できないのですが、この論文通りとすると、「ここより 拾四丁芝地 高七丈壱尺」となります。
2度目の普請である天明の普請前の地形の記述が残っていたことを指摘したという点でこの論文は画期的であると思います。

この部分の意味として次の「ア」あるいは「イ」が考えられるように感じました。

ア 地形的凹部の存在を意味に含んでいない解釈
新川から花見川方向を向いて、「(この台地は)ここから拾四丁が芝地であり、その高さは(新川の低地からみて)七丈壱尺である。」

イ 地形的凹部の存在を言外に意味しているかもしれない解釈
新川から花見川方向を向いて、「(この眼前にある堀割は)ここから拾四丁が芝地であり、(眼前の堀割の底面から、先に広がる台地の最高点までの)高さは七丈壱尺である。」

私は、この絵図が堀割の普請のために作られたので、この説明記述を書いた人の視点が(空間位置に台地ではなく)堀割にあるということと、河川争奪後の無能谷がそこに在ったことを想定しているので、「イ」のように解釈することができるのではないかと考えています。

なお、○○○が七丈壱とすると、七丈壱尺=約21mで、新川低地標高約10m、台地最高地点標高約30mですから、値そのものは、その差分とほぼ一致する値です。

2 溜池存在の表現
上記写真の地形説明文章の上に「溜井」という表現で溜池の存在がわざわざ表現されています。村名と同じ字の大きさになっていることから、絵図作成者は溜池の存在を堀割普請の開始地点として捉えていたことがうかがえます。

溜池の存在はそこが谷津の出口であることを想起させます。そのくくり線も北に向かって開いた凹みの開口部を堤防で塞いでいる様子が表現されています。

同時に水田ではなく、溜池になっているということは、その谷津が空谷であることを示しています。

また、溜池の形が谷津の奥深くに伸びた細長いものになっていないことから、その空谷の勾配が、その場所では、急であることを物語っているように感じます。

さらに、表現が溜「池」ではなく、溜「井」になっているところにも注目します。「井」とは「泉や流水から、水をくみとる所」(国語大辞典、小学館)です。溜池表現より溜井表現の方がより流水流入、湧泉の存在を念頭に置いた言葉だと思います。そこが谷津(と言っても無能谷ですが)の出口であることを強く示唆します。



* 印旛沼開削工事は享保、天明、天保の3回行われています。上記記述は最初の享保における印旛沼開削工事で、台地部の堀割普請がほとんど行われていないという前提で思考しています。


余談

なお、溜池は3度目の普請である天保の堀割普請前の絵図にも出ています。

印旛沼干拓工事関係図(部分)
幕張町中須賀武文家所蔵 「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)掲載

この絵図の溜池は天明普請で出来た堀割の出口を塞いでつくられています。


天明堀割普請地形の表現
同時に天明普請でできた堀割跡(古堀)の地形が絵図では下記のように表現されています。絵図の表現一つ一つに現場の事実が反映されていることを確認できます。

印旛沼干拓工事関係図(部分)の地形対比
幕張町中須賀武文家所蔵 「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)掲載及び旧版1万分の1地形図に加筆

(2011.10.15 記事アップ後一部訂正しました。)

2011年10月14日金曜日

ようやくベールがとれた花見川河川争奪(追記)

花見川河川争奪を知る10 ようやくベールがとれた花見川河川争奪(追記)

白鳥孝治氏の論文「印旛沼落堀難工事現場の地理地質的特徴」(印旛沼自然と文化№5、1998)の引用文献リストに掲載されていた論文「木原善和(1995):江戸期の印旛沼掘割工事で描かれた絵図、印旛沼自然と文化第2号」を読み、白鳥孝治氏が八千代市有形文化財「下総国印旛沼御普請堀割絵図」をヒントに花見川河川争奪を考えていることを知りました。

2011年10月3日記事「ようやくベールがとれた花見川河川争奪」には、千葉市のことしか書かれていないので不十分ですから、次のように文章を追記し、記事の一部を修正しました。

……………………………………………………………………
「下総国印旛沼御普請堀割絵図」が昭和53年に八千代市有形文化財として指定されました。この時合わせて安永9(1780)年「下総国印旛沼新開大積り帳」と天明3(1783)年「印旛沼新堀割御普請目論見帳」の2冊の古文書も附指定されています。この絵図は印旛沼堀割工事に係った時に描かれたものとして貴重な歴史資料です。

下総国印旛沼御普請堀割絵図(部分)
「八千代市の歴史資料編近世Ⅲ」カバー

この絵図は掘り割る以前の花見川の姿を伝えていて、花見川は柏井を谷頭とし、花島を南流する東京湾水系になっていることが確認できます。

八千代市教育委員会や千葉市教育委員会の活動により印旛沼堀割普請前の花見川水系の姿が一般に知られるようになり、その中で地学関係者等にもその情報が伝わり、花見川河川争奪を覆っていたベールがようやく、はがされた。ということがこの数十年程度の間に生起したと考えます。
……………………………………………………………………

追記 この記事を書いた後に八千代市ホームページでの名称「下総国印旛沼御普請掘割絵図」の「掘割」は誤で、「堀割」が正であることを八千代市に申し入れ、訂正していただきました。
専門家の間でも誤った用語「掘割」が使われています。(2014.06.01)

2011年10月13日木曜日

花見川河川争奪の成因検討1 白鳥孝治氏の説

花見川河川争奪を知る9 花見川河川争奪の成因検討1 白鳥孝治氏の説

白鳥孝治氏が考える花見川河川争奪の2つの原因(地殻変動、花見川の浸食力)は素因として捉えるなば、その通りだと思います。

なぜ花見川だけが河川争奪したかという肝心の成因については、「常総粘土層の高度分布は,柏井,花島を通る花見川付近が低い鞍部になっているので, ここは下末吉ロームの堆積後に沈降していると考えられるから」としています。

白鳥孝治氏が示した図に私が印をつけました。この部分が鞍部だということだと思います。花見川は鞍部Aのはずれです。鞍部Aの中央には長作川の「元気のよい」谷頭浸食部がありますが、河川争奪に至っていません。また鞍部Bにも河川争奪はありません。

このような事情から、常総粘土層の高度分布からみた沈降を、花見川河川争奪の成因として特定することは、大きな無理を伴っていると感じました。

鞍部を加えた図


白鳥孝治氏の論文「印旛沼落堀難工事現場の地理地質的特徴」(印旛沼自然と文化№5、1998)の本文から沢山の有用な情報を得ることができました。またこの論文の引用文献リストを活用して、こえまで接触できなかった情報に到達することができました。白鳥孝治氏の花見川河川争奪記載に敬服するとともに、感謝します。

2011年10月12日水曜日

花見川河川争奪の成因の3説

花見川河川争奪を知る8 花見川河川争奪の成因の3説

これまで、この花見川河川争奪シリーズ記事では、
ア 白鳥孝治氏によって初めて花見川河川争奪現象が記載され、証明されたこと
イ 河川争奪による東京湾水系と印旛沼水系の分水界の変化について把握したこと
などについて述べてきました。

こうしたことを踏まえて、いよいよ花見川河川争奪の成因について検討します。

検討は次の手順で行います。

ア 最初に白鳥孝治氏、oryzasan氏と私クーラーの3説を並べて比較します。
イ 3説のそれぞれについて、検討します。
ウ 成因を特定するために必要な今後の検討方法について検討します。

*    *    *

1 花見川河川争奪の成因に関する白鳥孝治氏の説
この河川の争奪を起こす原因に,次の二つが考えられる。一つは,先に述べたように,印旛沼沼水系と東京湾水系の分水界の北側で地盤の隆起が起こったと考えることである。今一つは東京湾方向に流れる谷津が延びて, 印旛沼水系の谷津を取り込んだと考えることである。東京湾水系の谷津は,いずれも谷頭付近まで深谷津的地形をなしているので,台地を崩壊させながら谷頭を延ばしていると思われるからである。
隣接する数本の谷津のうち,花島を通る花見川だけが分水界を越えて北上した理由は, ここが弱い沈降帯であったためではなかろうか。即ち,図2にみるように(千葉の自然をたずねて, P49),常総粘土層の高度分布は,柏井,花島を通る花見川付近が低い鞍部になっているので, ここは下末吉ロームの堆積後に沈降していると考えられるからである。

図2

2 花見川河川争奪の成因に関するoryzasan氏の説
この地域には関東ローム層の下部に「常総粘土層」という火山灰層が分布しますが、この地層は「古東京湾」と呼ばれる海が退いた後に生じた湿地に堆積したものです。花見川流域でのこの地層の層相分布を見ると、下流の天戸-長作地域には同時期の陸成の火山灰層(下末吉ローム層)が分布しますが、上流の花島-横戸では湿地堆積の層相を示し、天戸-長作地域の陸化・離水の時期が早かったことを示しています。もちろん現在では花島-横戸地域の方が高いのですが、古東京湾の海退直後は逆だったことになり、その後花島-横戸地域の隆起が始まって現在の分水嶺が形成されたのではないかと思います。柏井の谷津を作った川は、この海退直後の地面の傾きに従って、印旛沼に向かう流路を形成した後、分水嶺地域の隆起の開始によって行く手を阻まれて東へ曲がり、更に南へと流れて、現在の花見川の流路を作ったのではないでしょうか。

風成下末吉ローム層の分布
この図は「三谷豊・下総台地研究グループ(1996):下総台地北西部における後期更新世の地殻変動、地団研専報45」より引用しました。

3 花見川河川争奪の成因に関するクーラーの説
ア 台地形成後の地殻変動により河川争奪の素因がつくられた
花見川の周辺には、印旛沼水系河川として台地に刻まれた浅い谷がその後の地殻の沈下により東京湾水系に組み込まれたり、台地上で谷形状を残しながら凹地となり流域帰属が不明となった地形が数多くみられます。印旛沼水系には踏みとどまっていますが谷津が湖沼化した例(長沼池)もあります。
このように、台地形成後の地殻変動により河川争奪の素因がつくられたと考えます。しかし、それだけでは本格的河川争奪は起こらなかったと考えます。
イ 断層破砕帯等の差別浸食という固有の要因により河川争奪が生じた
花見川の花島付近では安政2年の大地震で大地開裂があり、他の事象も含めて印旛沼堀割線路中断層の存在を推測するに足るものであると報告されています。(巨智部忠承「印旛沼堀割線路中断層の存在」[地学雑誌4巻3号 明治25年])
また、花見川は、平面的にみて、古柏井川(花見川に争奪された印旛沼水系河川)の河道に沿って差別的に浸食を進めています。
地下水湧水量が多く、激しい谷頭浸食地形を示す近傍の谷津(例 子和清水など)と比べて、花見川の浸食力は段違いです。
そして最も特徴的で決定的なことは、花見川は一貫して古柏井川の下流に向かって浸食を進めていることです。上流に向かって浸食を進めているのではありません。
このことから、花見川河川争奪の主要な要因は、存在が推測される断層の破砕帯等地質的脆弱部の差別浸食という固有の要因によるものと考えます。

未知の断層あるいはそれ以外の未知の理由による地質的脆弱部を理由にしているので、説とは言えないかもしれませんが、思考を発展させる踏み台として述べました。

花見川河川争奪説明図
この図では、河川争奪に至らない地形(谷中分水界、台地上凹地)分布と古柏井川の下流に向かって突き進む花見川を示しています。

2011年10月8日土曜日

河川争奪による分水界の変化

花見川河川争奪を知る7 河川争奪による分水界の変化

花見川河川争奪による分水界変化図
ベースマップは旧版1万分の1地形図

堀割普請前の復元水系図にもとづいて、大正6年測量の地形図により東京湾水系と印旛沼水系の分水界図を作成し、その中に花見川河川争奪前の復元想定分水界を点線で図示しました。
この図により、花見川河川争奪により、印旛沼水系から東京湾水系に移行した流域を面的に把握することができます。

この図のベースマップを現代の地図に置き換えて、次に示します。

花見川河川争奪による分水界変化図
ベースマップは2万5千分の1地形図

なお、既報(2011年7月27日記事「河川争奪の胚」)でも述べましたが、東京湾水系と印旛沼水系の分水界付近のコンター分布は極めて特徴的な様相を呈しています。分水界線を引くことが困難です。

こうした、私にとって「いわくつき」の地形について、分水界線を引くために、旧版1万分の1地形図のコンターを改めて詳細に見たところ、分水界線を引くためには次のようなイメージを持つと合理的に引けることが判りましたので、河川争奪の成因にもかかわることなので、記録しておきます。

分水界線を引くための地形解釈イメージ

分水界線を引くことが困難な表面的な理由は大きな凹地等を含むどちらの流域に含めてよいのかわからない地域が広がっていることです。

この「困難」を「困難」として捉えるのではなく、そうした流域未確定領域が存在すると考えたらどうだろうかと気がつきました。つまり、人世界でたとえれば、国境紛争地帯があり、国境未確定になっている領域があると考えれば、よいのではないかと気がついたことです。

これまで、力づくで流域界線を引こうとしていたのですが、自然地形にも流域未確定領域という概念を導入すれば、地形(とその成因)の理解がより合理的にできそうだと気がつきました。

今回の作業では、流域未確定領域を東京湾側の水系に「一時帰属」させて分水界線を引きました。

2011年10月6日木曜日

花見川河川争奪の証明

花見川河川争奪を知る6 花見川河川争奪の証明

花見川河川争奪による水系の変化

白鳥孝治氏の論文では、古絵図から判る堀割普請前の水系分布から、2つの理由により河川争奪を説明(証明)しています。
その2つの理由を私の言葉で表現すると次のようなります。

1 谷津地形の違い
花見川周辺の谷津地形は次の明瞭な特徴を持っている。
印旛沼水系…浅谷津
東京湾水系…深谷
ところが、花見川の花島の谷津、柏井で合流する2つの谷津は浅谷津であり、平仄が合わない。

2 河川の方向の違い
花見川周辺の河川方向は次の明瞭な特徴を持っている。
印旛沼水系…印旛沼方向(北北東)に流下する。
東京湾水系…東京湾方向(南南西)に流下する。
ところが、花見川の花島の谷津、柏井で合流する2つの谷津は印旛沼方向(北北東)に流下する傾向を有しており、平仄があわない。

白鳥孝治氏は以上2つの理由から、
「このことから,少なくとも花島,柏井の枝谷津が形成された時代の初期の河川は,印旛沼方向に流れていたと考えられる。したがって,花島付近の花見川は,ある時代に流れの方向を北流する印旛沼方向から南流する東京湾方向へ逆転させたことになる。」と説明しています。

以上の白鳥孝治氏の説明で、花見川河川争奪の存在が証明されていると思います。
おそらく、はじめて花見川河川争奪が記載されたものと思います。

なお、付け加えれば、より決定的証拠になりますが、次の第3の理由を挙げることができます。


3 谷底縦断面上の段差(地形面の非整合)
花見川谷底面と花島の谷津、柏井で合流する2つの谷津の谷底面との間に地形上の段差があり、花見川が花島の谷津、柏井で合流する2つの谷津を切った関係にあることが認められること。


この段差は、現在の地形で見られ、その段差の規模(花見川と前谷津の谷底面の段差は約10m)からして、堀割普請の影響(河床最大掘削深5m程度)を除去しても、自然の段差として認められるものと考えます。


第1、第2の理由は定性的理由ですから、これ以上の検討はさして必要ないと思います。しかし、第3の理由は堀割普請の影響を除去するという定量的な検討を内在することから、その精査を行い、堀割普請前の河川縦断形を定量的に復元することが、今後必要であると考えます。(現在分析作業中です。)


第3の理由は、河川争奪の直接証拠になりますが、それだけでなく、この河川争奪の成因検討のキーになるのではないかと考えています。

(2011.10.18 否定線部分を削除します。)

2011年10月5日水曜日

堀割普請前の河川地形の復元

花見川河川争奪を知る5 堀割普請前の河川地形の復元

古絵図情報の地図対比

上図は、「小金牧周辺野絵図」(「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」456ページ掲載、「17世紀中ごろか」の注釈付、)を大正6年測量の旧版1万分の1地形図と対比した資料です。

絵図から、堀割普請前の花見川源流は、柏井付近で前谷津、後谷津、西谷津に分岐します。西谷津は、大和田方面から南南東に直線状に伸びる旧柏井村の境界(現在の柏井町の境界として引き継がれてきている)が現在の花見川を横断する付近まで進出しています。(前谷津、後谷津、西谷津の名称は小字名によりました。)

前谷津、後谷津、西谷津はそれぞれ現在の谷津、堀割と確実に対比できますから、堀割普請前の地形を確実に復元することができます。

西谷津の源頭(河川争奪の最前線であるウインドギャップ[風隙])の位置も正確に把握できます。

堀割普請前の水系復元図

2011年10月4日火曜日

花見川河川争奪に言及した既存資料

花見川河川争奪を知る4 花見川河川争奪に言及した既存資料


花見川河川争奪の地形復元や成因について検討する前に、花見川河川争奪に言及した既存資料について確認しておきます。

私がこれまで得た情報の範囲内では、次の論文でのみ花見川河川争奪に言及しています。

白鳥孝治(1998):印旛沼落掘難工事現場の地理地質的特徴、印旛沼自然と文化第5号、pp43~48

この論文の花見川河川争奪に関連する部分を引用します。
……………………………………………………………………
掘り割る以前の花見川について、天明期の掘割絵図をみると、花見川は柏井を谷頭として花島を南流する東京湾水系の河川になっている。したがって、掘り割る以前から花見川は周辺の谷津とは異なり、図1の分水界よりさらに北上していたと思われる。


花見川と隣接するその他の谷津の形をみると,東京湾水系の谷津と,印旛沼水系の谷津とは,明らかに異なった形をしている。前者は谷頭に至るまで深く刻み込まれた深谷津の形をしているのに対して,後者は浅谷津の形をとって,谷頭はほとんど台地面近くまで上っている。花見川は掘り割られているので,原地形の谷頭が深谷津タイプか,浅谷津タイプか不明であるが,花島から西に派生する花見川の枝谷津と,柏井から東西両方向に派生する枝谷津は,いずれも浅谷津タイプであり,しかも両枝谷津の流れの方向は印旛沼の方向をとっている。このことから,少なくとも花島,柏井の枝谷津が形成された時代の初期の河川は,印旛沼方向に流れていたと考えられる。したがって,花島付近の花見川は,ある時代に流れの方向を北流する印旛沼方向から南流する東京湾方向へ逆転させたことになる。


この河川の争奪を起こす原因に,次の二つが考えられる。一つは,先に述べたように,印旛沼沼水系と東京湾水系の分水界の北側で地盤の隆起が起こったと考えることである。今一つは東京湾方向に流れる谷津が延びて, 印旛沼水系の谷津を取り込んだと考えることである。東京湾水系の谷津は,いずれも谷頭付近まで深谷津的地形をなしているので,台地を崩壊させながら谷頭を延ばしていると思われるからである。


隣接する数本の谷津のうち,花島を通る花見川だけが分水界を越えて北上した理由は, ここが弱い沈降帯であったためではなかろうか。即ち,図2にみるように(千葉の自然をたずねて, P49),常総粘土層の高度分布は,柏井,花島を通る花見川付近が低い鞍部になっているので, ここは下末吉ロームの堆積後に沈降していると考えられるからである。天保期の工事の際に,花島付近は多量の湧水のために難工事を極めたことは,沈降帯であるために台地の地下水がここに集中するためであり,また,花見川が,分水界を越えて北に延びた理由のひとつも,多量の湧水による侵食にあったと考えられる。
(図1、図2略)
……………………………………………………………………

私が白鳥孝治氏の論文に気がついた経緯等は次の記事に書きました。
2011年3月7日記事「花見川中流紀行17河川争奪に関する先行記述」

この論文による花見川河川争奪の成因については、追って検討したいと思います。

なお、この白鳥孝治氏の論文以外にも、花見川河川争奪に言及した資料・論文があるかもしれませんので、機会を見つけて調べたいと思います。

2011年10月3日月曜日

ようやくベールがとれた花見川河川争奪

花見川河川争奪を知る3 ようやくベールがとれた花見川河川争奪

地形図を見ているだけでは、あるいは現場を歩いても、それだけの情報では、花見川に河川争奪があることをズバリ直感できた人は少なかったと思います。たとえ直感できても証明できません。

その理由は江戸時代の堀割普請により、地形改変(堀割が掘り割られた)があったのだから、それにより、印旛沼方向に流れていた河川が東京湾方向に流れを変えるという、「流域変更」が行われたと考えることが自然の思考だからです。

河川争奪がもともと存在していて、それを活用して堀割普請が行われたと思考することは、決めてとなる情報が与えられていなければ、通常困難です。

このような理由から花見川河川争奪の存在は戦後にいたるまでベールに包まれてきたのではないかと思います。

次の資料は、花見川河川争奪の存在がベールに包まれていた時代に作成された地形分類図です。決めてとなる情報がなければ、地形の専門家といえども河川争奪の存在を識別することができなかったという証拠の一つです。

「土地分類基本調査 佐倉 5万分の1 国土調査」(千葉県、1980)

*   *   *

「下総国印旛沼御普請堀割絵図」が昭和53年に八千代市有形文化財として指定されました。この時合わせて安永9(1780)年「下総国印旛沼新開大積り帳」と天明3(1783)年「印旛沼新堀割御普請目論見帳」の2冊の古文書も附指定されています。この絵図は印旛沼堀割工事に係った時に描かれたものとして貴重な歴史資料です。

下総国印旛沼御普請堀割絵図(部分)
「八千代市の歴史資料編近世Ⅲ」カバー

この絵図は掘り割る以前の花見川の姿を伝えていて、花見川は柏井を谷頭とし、花島を南流する東京湾水系になっていることが確認できます。

*   *   *

千葉市教育委員会は近年、地域誌、地域史の調査研究活動を積極的に展開し、その成果の一部は「絵にみる図でよむ千葉市図誌」(千葉市発行)、「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)として結実しています。この千葉市教育委員会の活動で、「小金牧周辺野絵図」の存在が一般に広く知られるようになりました。

小金牧周辺野絵図
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」456ページ

この絵図により、その説明に書かれているように、「当時はまだ印旛沼掘割り工事が行われておらず、図では川が完全に分断している。」状況がわかります。この絵図は、柏井で花見川に流入する河川が、江戸時代の印旛沼堀割普請前に既に花見川水系であり、河川争奪を確認できる資料です。

八千代市教育委員会や千葉市教育委員会の活動により印旛沼堀割普請前の花見川水系の姿が一般に知られるようになり、その中で地学関係者等にもその情報が伝わり、花見川河川争奪を覆っていたベールがようやく、はがされた。ということがこの数十年程度の間に生起したと考えます。

(2011.10.14 一部追記しました)

2011年10月2日日曜日

河川争奪とは

花見川河川争奪を知る2 河川争奪とは

河川争奪という地学用語について、事典により簡単に復習しておきます。

河川争奪 piracy、capture 河川が流域を越えて隣の河川の水流を奪う現象。流域境界の位置は、河川の浸食力の違いを反映し、一方の河川の浸食が激しく、河床高度が低い場合には、他方の河川流域に食い込み、ついにはその水流を奪う。水流を争奪した河川では、流量の増加で下刻が進む。争奪された河川では、争奪地点から上流流域がなくなり、谷の大きさに対して流量が少ない川となる。そのような河川を無能河川、谷が切断された争奪地点をウィンドギャップ(風隙)という。(新版地学事典、平凡社)

河川争奪の説明イメージとして、デービス原画の次の絵をよく見かけます。

「geomorphology」(c.a.cotton 1958)より

2011年10月1日土曜日

花見川河川争奪に関するoryzasanさんからのコメント

花見川河川争奪を知る1 oryzasanさんからのコメント

「お知らせ」で書いたようにoryzasanさんから2011年1月28日記事「花見川流域紀行10河川争奪の見立て」にコメントをいただきました。
この記事がブログの奥深いところにあり、目立ちにくいので、改めてこのコメントを記事として掲載させていただき、紹介いたします。

そして、oryzasanさんにコメントしていただいたことをきっかけにして、改めて花見川河川争奪について考えてみて、シリーズ記事として情報発信したいと思います。

1 2011年1月28日記事「花見川流域紀行10河川争奪の見立て」(再掲)
河川争奪前の水系想像
河川争奪後の水系
もともと花見川団地付近を源流とする水系(柏井の谷津)、花島公園の谷津を源流とする水系、柏井浄水場付近を源流とする水系の3つが柏井橋付近で合流して印旛沼方向に流れる水系があったと考えます。この河川を仮に古柏井川と呼ぶことにします。一方、東京湾方向に流れていた古花見川の最上流部の頭部侵食力が旺盛になり(おそらく海面低下や低温化に起因)、花島公園の谷津はおろか、二つの支流をも争奪し、さらに横戸台南端(「高台」と呼ばれる場所)付近まで古柏井川谷底を奪ったのだと思います。結果として、古柏井川は流域面積のほとんどを取られ、そこに流れる水の量と較べると著しく大きな空堀みたいな広い谷が下流の一部に残ったのだと思います。
後世になり、人々が印旛沼干拓を課題とした時、願ってもいない大きな空堀みたいな谷があり、それは「高台」で突然花見川によって下からちょん切られている光景をみて、堀割普請の意欲が大いに湧いたのだと思います。
堀割普請で難渋した化灯土も、こうした地形発達を想定すると、その成因や分布が合理的に説明できそうです。
河川争奪箇所だったから堀割普請が行われたという仮説については、現場をくまなく散歩してみたり、情報を集めて分析し、今後検証していきたいと思います。

2 oryzasanさんからのコメント
花見川上流部の河川争奪に関する文章を読ませていただきました。「古柏井川」の流域を「古花見川」の頭部侵食で奪った結果が現在の花見川の水系であるとのことですが、僕は違う見方をしています。
この地域には関東ローム層の下部に「常総粘土層」という火山灰層が分布しますが、この地層は「古東京湾」と呼ばれる海が退いた後に生じた湿地に堆積したものです。花見川流域でのこの地層の層相分布を見ると、下流の天戸-長作地域には同時期の陸成の火山灰層(下末吉ローム層)が分布しますが、上流の花島-横戸では湿地堆積の層相を示し、天戸-長作地域の陸化・離水の時期が早かったことを示しています。もちろん現在では花島-横戸地域の方が高いのですが、古東京湾の海退直後は逆だったことになり、その後花島-横戸地域の隆起が始まって現在の分水嶺が形成されたのではないかと思います。柏井の谷津を作った川は、この海退直後の地面の傾きに従って、印旛沼に向かう流路を形成した後、分水嶺地域の隆起の開始によって行く手を阻まれて東へ曲がり、更に南へと流れて、現在の花見川の流路を作ったのではないでしょうか。このような最初の離水域を示す、陸成の下末吉ローム層の分布域は、分水嶺地域の東京湾側に平行に、松戸付近まで追跡することが出来、隆起軸の内陸側への移動を示しています。
詳細は下記
http://homepage3.nifty.com/sayamanaturalhistory/geology/shicchinojidai/shimosueyoshi/page-rikukatochikakuhendou.html

3 花見川河川争奪に関する興味
oryzasanさんのコメントをきっかけにして、次のインタレストについてシリーズ記事を作成して情報発信したいと思います。

ア 花見川河川争奪地形の復元
・江戸時代の印旛沼堀割普請の影響を除去して、自然地形としての花見川河川争奪地形を復元する方法とその結果について考える。

イ 花見川河川争奪の成因
・oryzasanさんの調査結果や他の既存文献、私の見立て・調査を並べてみて、花見川河川争奪の地学的成因を考える。

ウ 縄文人以来の花見川河川争奪地形の利用
・縄文時代以降の人による花見川河川争奪地形利用の歴史をまとめてみる。(印旛沼と東京湾の古代における交流、霊的空間の立地、印旛沼堀割普請、印旛沼開発事業等)

エ 花見川河川争奪地形の価値
・花見川河川争奪地形そのものと、それを利用した土木遺構等の文化財的価値について検討する。

オ 花見川河川争奪を知る意義
・河川争奪が、花見川の自然地理的出自(成り立ち)の理解や、これからの花見川流域の保全と開発の思考の基礎知識として必須であることについて考える。