勝田川(=新川あるいは平戸川)の沖積地平野に関わる3遺跡と花見川の沖積平野に関わる8遺跡の2群として認識することができます。
花見川流域の弥生時代遺跡の分布
基図は地形段彩図(5mメッシュを地図太郎PLUSで加工)
2点について予察します。
1 水田耕作が始まっているのに、遺跡発見場所はほとんど台地上である理由
弥生時代遺跡の分布を地形との関係でみると、ほとんど台地上であり、水田耕作が始まったにも関わらず、低地や河岸段丘上の遺跡がほとんどないことは極めて不自然です。
2012.7.2記事「弥生時代遺跡が極端に少ない理由」では、「弥生時代の居住地の大半は現在の集落と重なる」ため遺跡が消滅し発見されることがないという推測をしました。
こうした問題意識で「千葉市史 通史 原始古代中世編」(昭和49年、千葉市発行)をめくっていると、次のような記述を見つけました。
(沖積低地に立地する弥生遺跡が昭和49年ごろほとんど見つかっていなかった理由として)「それは、当時にあって沖積低地内での集落立地の条件を満たす微高地が、それ以後の時代、特に近・現代においても早くから市街地として発達したために姻滅してしまったためとも考えられる。」
だいたい自分の考えと同じであり、情報の少ない約40年前の記述とはいえ、なんとなく自分の思考がむちゃくちゃ間違っていることはないと感じました。
台地上に発見された弥生時代遺跡は、地域の高度な社会機能(祭祀等)に関わる遺跡(別表現すれば、支配者層に関わる遺跡)であり、一般民衆の居住遺跡は沖積地微高地等にあり、その多くは現在も集落となっているため、遺跡としては「発見」されていないと感じています。
2 発見遺跡数が少ない理由
頭の体操で、遺跡の時代区分別の「1遺跡の代表年数(A/B)」を計算してみました。この指標は「時代の長さを考慮して、どれだけ遺跡が発見されているか」を知るために考えたものです。
結果は次の通りとなりました。
花見川流域の1遺跡が代表する年数(その1)
時代
|
時代の年数
(単位:年)
A
|
花見川流域の遺跡数
(単位:箇所)
B
|
1遺跡の代表年数
(単位:年/箇所)
A÷B
|
(参考)Aの想定
|
旧石器時代
|
14000
|
10
|
1400
|
3万年前(※)から1万6千年前まで
|
縄文時代
|
13600
|
105
|
130
|
1万6千年前(紀元前140世紀)から紀元前4世紀ごろまで
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弥生時代
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650
|
11
|
59
|
紀元前4世紀ごろから紀元後3世紀中ごろまで
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古墳時代
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450
|
68
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7
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3世紀半ば過ぎから7世紀末ごろまで
|
時代の時間を考慮すると、弥生時代の遺跡数が特別少ないとはいえないかもしれないと感じるようになりました。
弥生時代と古墳時代は同じ水田耕作が行われた時期ですから、合わせてみると次のようになります。
花見川流域の1遺跡が代表する年数(その2)
時代
|
時代の年数
(単位:年)
A
|
花見川流域の遺跡数
(単位:箇所)
B
|
1遺跡の代表年数
(単位:年/箇所)
A÷B
|
(参考)Aの想定
|
旧石器時代
|
14000
|
10
|
1400
|
3万年前(※)から1万6千年前まで
|
縄文時代
|
13600
|
105
|
130
|
1万6千年前(紀元前140世紀)から紀元前4世紀ごろまで
|
弥生時代+古墳時代
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1100
|
79
|
14
|
紀元前4世紀ごろから紀元後7世紀末ごろまで
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丁度一桁ずつ変化し、なにか理由は言葉ですぐ表現できませんが、「やっぱりそうか」と納得できるような感情になりました。
結論から言えば、弥生時代遺跡数が「極端に少ない」と思ったのは、縄文:弥生=1:1という言葉の重さの先入観念を時間にも誤って適用していた自分に気がついたことです。
時代の時間を考慮すれば、花見川流域の縄文時代遺跡105に対して弥生時代遺跡11は「極端に」少ないとは必ずしも言えないと思うようになりました。 発見遺跡数に着目するのではなく、1で述べた地形との関係からみた分布特性に着目していきたいと思います。 つづく
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