2012年7月22日日曜日

双子塚古墳の過去・現在・未来 その2

双子塚古墳出土物を閲覧して

この記事シリーズでは発掘調査報告書(「千葉市双子塚-横戸団地建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」1983、千葉県住宅供給公社・財団法人千葉県文化財センター)を報告書と略記します。

3 縄文時代
双子塚古墳そのものの検討に入る前に、双子塚古墳本体の土の中から出てきた縄文土器について検討します。

次の写真は閲覧した出土縄文土器です。

双子塚古墳出土縄文土器片 A
(千葉県立房総のむら所蔵)

双子塚古墳出土縄文土器片 B
(千葉県立房総のむら所蔵)

報告書では写真Aの資料から土器の復元想像をしています。

双子塚古墳出土縄文土器片 Aの復元図
報告書掲載図

報告書によれば「墳丘の調査時に、墳丘盛土の主として北西部分から53点の縄文土器片が得られた。個体数としては2個体にすぎない。」と記述されています。
墳丘は周溝を掘った土や周辺の土を盛土して作られたと考えられますから、縄文土器はこの古墳北西部付近の土中にあったものが、古墳築造工事の際に盛土に混入したものであることは間違いないと思います。
この付近は花見川河川争奪の結果できた谷中分水界があり、丁度、東京湾水系花見川の源頭部です。
源頭部に存在していた湧泉の水を飲料水にして縄文人がキャンプしていたと考えられます。

この様子を想像して絵にしてみました。

縄文土器片の出土ポイントと縄文人居住場所の推定

縄文時代遺跡という切り口で双子塚古墳の位置を見てみると、次の図に示すように東京湾水系が印旛沼水系の奥深くに入り込んだところにあります。

双子塚古墳の場所にある縄文時代遺跡の位置

双子塚古墳の場所にあった縄文時代遺跡は千葉市域の縄文時代遺跡の最北端に位置します。
千葉市域の最北端だからと言ってそれだけで価値があるわけではありません。
しかし、東京湾水系の縄文時代遺跡が密集する場所から、花見川の谷津を遡ってここまで北に位置する場所に縄文時代遺跡があることは、縄文時代人が花見川の特異な地形(河川争奪)を活用して居住場所を拡大していたということであり、興味が湧きます。
その興味は、印旛沼水系勝田川の縄文時代居住地(遺跡)まで1400mの地点(歩いて15分?)まで迫っていて、この場所が印旛沼水系を活用する縄文人との交流の橋頭保であったに違いないということの感得に通じ、古代交流ルートの幹線がここに存在していたという仮説(検討テーマ)に通じます。

なお、ここに縄文時代遺跡がある最大の理由は、ここで飲料水が得られるからだと考えて間違いありません。
次の記事で検討する、古墳時代の古墳がある理由はそれとは異なります。
同じ場所にある時代の違う遺跡が共に花見川源流部の泉(水あるいは谷津)と深い関係にあり、その関係の中身が全く異なる点に着眼し、検討を深めて行きたいと思います。

つづく

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