2012年7月3日火曜日

縄文時代遺跡と古墳時代遺跡が併存する理由

この記事は2012.6.30記事「花見川流域の時代別埋蔵文化財数」のつづきで、下記メモの目次3を記述しています。

メモ 表「花見川流域の時代別遺跡数」を作成して感じ、考えたこと
目次
1 旧石器時代遺跡は他の時代の遺跡と併存している
2 弥生時代遺跡が極端にすくない
3 縄文時代遺跡と古墳時代遺跡が併存している場合が多い

3 縄文時代遺跡と古墳時代遺跡が併存している場合が多い
資料を整理していると、弥生時代遺跡が欠落している遺跡で、縄文時代遺跡と古墳時代遺跡が併存している遺跡が多いことに気がつきました。
このような遺跡は全部で29あり、縄文時代遺跡数105の約3割にあたります。29の中には塚、古墳が各1、貝塚2が含まれますが、それ以外の遺跡種別は全て集落跡か包蔵地です。
私は、縄文時代遺跡と弥生時代遺跡が併存する遺跡は、地域の中枢機能を担っていた空間に違いないとの予感を前記事で述べましたが、縄文時代遺跡と古墳時代遺跡が併存する遺跡も類似の仮説で説明すると、発想を豊かにできると考えました。

縄文時代遺跡と古墳時代遺跡が併存する遺跡(※)の種別

遺跡種別
塚・古墳
2
貝塚
2
集落跡
8
包蔵地
17
合計
29
※縄文時代遺跡と古墳時代遺跡が併存し、かつ弥生時代遺跡が欠落するもの。ただし他の時代遺跡(旧石器時代、奈良時代以降)の併存する遺跡も含む。

次のような作業仮説を考えています。

ア 古墳時代においても地域統治場所として縄文時代の地域拠点が使われた
縄文時代には人々は水場近くの台地縁(高燥で日当たり、眺望がよい、狩猟や採取にも好都合)に居住していました。弥生時代になると人々は水田耕作のために沖積地微高地や低い河岸段丘上に居住の場を一斉に移しました。しかし、縄文時代の居住場所のうち、地域拠点であった場所は弥生時代になっても地域全体を統合するための祭祀の場として使われていました。(前記事参照)
古墳時代においても弥生時代から継続して、同じ場所が祭祀の場(地域統治の場)として活用されたところがあったと考えます。

イ 古墳時代には多数の集落単位の祭祀場がつくられた
古墳時代においても、人々の主な居住地は弥生時代と同じ沖積地微高地や低い河岸段丘上であったと考えます。しかし弥生時代とくらべ人口も増加し、農業生産技術の進歩もあり、社会の組織化が進みました。そうした背景の中で、個々の集落単位ごとに生産活動の安定を祈念する祭祀が盛んとなり、人々は集落単位に沖積地(水田)を眺めることができる場所に祭祀の場を造ったと考えます。
その祭祀の場は結果として縄文時代人の居住場所と一致することになりました。
縄文人は水や衛生、狩猟採取条件だけではなく、よい眺望も重要な条件として居住場所を選んでいたことが知られています。縄文人はよい眺望の場で健康な精神生活(狩猟採取の安定した豊穣を祈念する祭祀)を送ろうとしました。一方、古墳時代農民は水田を見渡せる場所でその安定した豊穣を願う祭祀ができる生活を送ろうとしました。結果として縄文時代居住跡と古墳時代集落単位祭祀の場が一致したのだと思います。

ウ 古墳時代集落単位祭祀の場は神社の起源となった
古墳時代の集落単位祭祀の場は後の時代に神社となり、現代にまで伝わっていったものも多いと考えます。


台地上の原野開発(牧や野の開発)は近世になって初めて行われました。それ以前の技術では台地上の土地や産物を組織的に有効活用することは不可能でした。主として水を得ることができないので台地を使えなかったのです。こうした事実を考えると、いくら水の近くであるといっても台地上の土地を古墳時代に各所で使うようになった(古墳時代遺跡が増えた)理由は生産活動ではなく非生産活動にもとめることがふさわしいと考えます。そうした観点から上記作業仮説を考えました。

個々の遺跡の調査報告書を読み、出土物を閲覧し、分布図等により解析することにより、この作業仮説を検証したいと思います。そうすることにより、この作業仮説の当否はともあれ、結果として豊かな知的情報を入手できるのではないかと期待しています。

おわり

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