1 牧に関連する遺物及び推定
最初に牧に関連する遺物をまとめてみました。
牧に関連する遺物及び推定
参考 遺跡位置
以下簡潔に説明します。
2 馬骨の出土
白幡前遺跡の土坑から馬2頭分の骨と人骨が出土しています。また鳴神山遺跡の井戸から馬骨が出土しています。
白幡前遺跡馬骨人骨出土土坑の様子
白幡前遺跡馬骨人骨出土土坑の位置
鳴神山遺跡馬骨出土井戸の位置
これまでの検討でこれら2つの馬骨出土遺構は馬(及び人)を生贄とした祭祀跡であり、牧発展祈願であると考えます。蝦夷戦争に関わる律令国家の牧発展祈願ではないだろうかと想像しています。
白幡前遺跡および鳴神山遺跡ともに牧現場から離れた集落中枢部で生贄を使った牧発展祈願が行われています。白幡前遺跡は高津馬牧(延喜式)に鳴神山遺跡は大結馬牧(延喜式)に対応すると考えられます。
●参考 古墳時代の馬の殉葬
下総では古墳時代から馬を生贄として使ってきました。
馬という貴重品を生贄にする決意の深さが判るとともに、牧における馬生産が盛んだったことも判ります。
古墳時代の馬の殉葬
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用
3 馬具の出土
上谷遺跡からハミ(4点セット)が出土しています。
上谷遺跡馬具出土状況
4 牧関連墨書文字
白幡前遺跡から「牧万、牧方」が出土しています。
鳴神山遺跡から「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」が出土しています。
「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」の出土状況
馬牛蚕の皮・肉・骨の利用活動の発展を祈願していると考えられます。(蚕は繭から取り出した蛹の利用(佃煮やサナギ粉))
つまり斃牛馬処理集団の活動祈願が存在していたのですから、逆にそのような集団が存在できるだけの斃牛馬が存在していたことになり、牧の実在が証明されます。
上谷遺跡から「承和二年十八日進/野立家立馬子/召代進」が出土しています。
「承和二年十八日進/野立家立馬子/召代進」の出土状況
次のように解釈できます。
「承和二年十八日(西暦835年18日)に(この器の中のご馳走を)進上します(献上します)。
野の開発を行い(牧の開発)、家を建設し(掘立柱建物の建設)、馬を増やし、蚕を増産することを祈願します。
(野立と馬、家立と子が対応していて、より簡潔に解釈すれば、「牧開発と養蚕小屋建設により、馬と蚕の増産を祈願します」ということになります。)
(冥界に)身を召される代わりに(この器の中のご馳走を)進上します(献上します)。」
牧の存在が直接文字となっています。
5 これまでの推定
白幡前遺跡は高津馬牧(延喜式)に隣接しています。
高津馬牧(延喜式)の推定場所
鳴神山遺跡は大結馬牧(延喜式)の一部であると仮説しています。
2017.10.22追記
この仮説の改訂新版を作りましたので、大結馬牧仮説は次の記事を参照してください。
2017.10.22記事「大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説」
参考
墨書文字「大」集団が東京湾から香取の海まで道路で牧を結び、蝦夷戦争に備えたシステムが大結馬牧(延喜式)であると仮説しています。
近世の印西牧付近が大結馬牧(延喜式)の本拠地であったと考えることができるかもしれません。
参考 墨書文字「大」出土状況
6 牧実在の確認と牧施設場所の検討必要性
以上の資料から白幡前遺跡、鳴神山遺跡、上谷遺跡に牧が実在したと考えます。
牧を構成する施設のうち牧場(草原)、厩舎、馬具工房などの場所がどこであるのか、それを示す直接証拠が出土していないので、検討(推定)する必要があります。
その検討(推定)を次の記事で行います。
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