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2018年12月30日日曜日

千葉県遺跡分布地図帳 牧、陣屋、城館、窯、条里

私家版千葉県遺跡DB地図帳 19 牧、陣屋、城館、窯、条里

私家版千葉県遺跡DBの全レコード(20130)を分布図を通じて概観する活動を行っています。この記事では種別遺跡分布図例の最後として牧、陣屋、城館、窯、条里の分布図を作成してみました。
次の記事からは遺構・遺物分布図を作成します。

1 牧、陣屋、城館、窯、条里の分布

私家版千葉県遺跡DB地図帳 牧関連遺跡分布 096
種別「生産遺跡」「牧」「野馬堀」「野馬土手」「込跡」は遺跡における同じ対象物を指していると考えられますので、一括して表示しました。

参考 江戸時代に県内におかれた「小金牧」「佐倉牧」「嶺岡牧」の分布図(酒々井町提供)
WEBサイト「千葉日報」記事「「房総の牧」日本遺産申請へ 酒々井主導で6市町合意 馬をテーマに観光振興図る」から引用

私家版千葉県遺跡DB地図帳 陣屋・屋敷分布 097

私家版千葉県遺跡DB地図帳 城館分布 098

私家版千葉県遺跡DB地図帳 窯分布 099

私家版千葉県遺跡DB地図帳 条里分布 100

参考 大字・小字「~条」の分布
2016.06.06記事「地名「~条」の検討」から引用

2 メモ
・牧関連遺跡として一括して示した分布図が江戸幕府直轄牧の分布に対応する様子が観察できます。遺跡データベース情報が牧検討基礎資料の一つとして活用できることが判ります。
・陣屋・屋敷分布図や城館分布図は自分としては始めてみることができ、興味が深まります。
・窯分布図は古代以降の焼き物検討の基礎資料の一つになると考えます。
・条里遺跡は以前別資料で学習した条里の場所とほぼ対応します。

2017年11月17日金曜日

鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)

4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団

鳴神山遺跡の牧関連遺物の出土状況を示しています。
馬骨出土祭祀跡井戸と牧関連墨書土器があります。
参考に船尾白幡遺跡をみると、船尾白幡遺跡がかかわる西根遺跡領域から馬歯などが出土していて、希薄ですが船尾白幡遺跡も牧に関連していることがわかります。

鳴神山遺跡の馬骨出土祭祀跡井戸の平面図・断面図を八千代市白幡前遺跡の類似土坑資料と同縮尺にして並べてみました。
下総では古墳時代から大切な馬を祭祀の生贄としてきましたが、鳴神山遺跡井戸、白幡前遺跡土坑ともに馬を生贄とした牧建設祈願祭祀の跡であると考えることができます。
白幡前遺跡では馬2頭と人1人が犠牲となり、高津馬牧建設祈願に関わる祭祀が行われたと考えます。鳴神山遺跡では馬を犠牲にした8世紀後半の牧建設祈願が行われたと考えます。鳴神山遺跡井戸、白幡前遺跡土坑の双方から東京湾産貝が出土し、祭祀に際して貝食が振舞われたことがわかります。

鳴神山遺跡の同じ竪穴住居から斃牛馬処理集団や漆を示す墨書土器が出土して、牧集団の存在と牧集団が皮を材料にした漆製品を作っていたことが判りました。
この墨書土器は「馬牛子皮身軆」と書いてあり「馬牛蚕皮肉骨」の意味であり、斃馬牛処理集団の祈願墨書土器であることが判明します。斃馬牛処理集団が存在するのですから、その場が牧であったことが証明されます。

この墨書土器は「馬牛子皮身軆」墨書土器と同じ竪穴住居から共伴出土しています。「七」=漆(シツ)、「知益」=汁液(シルエキ)と読めますから、斃馬牛処理集団が馬皮をつかって漆製品(漆皮)をつくっていたことが判ります。

「馬牛子皮身軆」墨書土器、「七 知益」墨書土器が出土した竪穴住居から多量の「大」「大加」墨書土器が共伴出土しています。この状況から「大」「大加」を共有する集団こそが牧集団であることがわかります。
この絵は「大」と書かれた墨書土器です。「大」と書かれた文字の部分が残るように土器を意図的に割っていることが判る例が多くあります。「大」は「大加」とくらべて墨書が多く、刻書が少なくなっています。
「大」をマイ土器に祈願文字として書いた集団がこの竪穴住居の穴の前でマイ土器を割り、投げ込んだと考えます。そのような祭祀が牧活動の組織性を強めるために行われたと感が増す。

「大加」はロゴマークになっています。また刻書が多くなっています。墨書が少なく刻書が多いことから「大加」集団は「大」集団より貧しい(墨にありつけない)集団で劣位な集団であったと考えます。
刻書「大加」に墨書「弓」が上書きされているものがかなりの数出土しています。相撲の弓取式は勝者に武器としての弓を与える儀式ですが、同じことが文字レベルで行われていたと推察します。つまりマイ土器「大加」を持っていたものが牧活動で功績を上げ、支配層から墨書「弓」を与えられたものと考えます。あるいは弓現物をもらい、その記念として墨書「弓」を書いてもらったのかもしれません。

牧集団「大」「大加」は武装していて刀子や鉄鏃が多数出土します。
この絵は刀子の例です。刀子は成人男性が1人1本持っていたのではないかと想像しています。

この絵は鉄鏃の例です。T字形、三角、Y字形など破壊力の大きな殺人専用の槍です。腕や足、首も一刺しで飛んだと思います。
鉄鏃は「大加」の出土する竪穴住居からの出土がほとんどないので上位集団である「大」集団だけが独占していたようだと推察します。鉄鏃は牧内支配のための威圧的武器だったように感じます。

鉄鏃と「大」の相関の高さは時代毎に分布面から確かめることができます。
逆に「大」「大加」出土竪穴住居から紡錘車などの道具類の出土は少なくなっています。

つづく
……………………………………………………………………
パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)



2017年10月18日水曜日

鳴神山遺跡 牧と武士集団、輸送集団との強い関係

白幡前遺跡では牧と武士集団、輸送集団との関係が密接であることが判りました。
2017.10.16記事「白幡前遺跡における牧と武士集団、輸送集団の関係」参照
鳴神山遺跡でも同じことが言えますので記述します。

1 墨書文字「大」集団、「大加」集団について
墨書文字「大」(オオ)集団と「大加」(オオカ)集団は集落の北側に竪穴住居をかまえ、牧の現業に関わる集団であると考えています。
「大」は下総各地に同族を持つ氏族的集団であると考えています。「大加」は「大」に加勢するという意味であり、新たに「大」一族に従った寄せ集め外人部隊であると想像しています。
なお、例えば墨書「依」(キヌ…養蚕)集団は集落の南側に竪穴住居をかまえ、牧現業集団の生活を支えるサポート集団であり、養蚕、漆、食料生産などに関わっていたと考えています。たとえば養蚕に使う掘立柱建物や製糸に使う紡錘車の出土は集落南側に集中しています。

墨書文字「大」の分布

墨書文字「大加」の分布

参考 墨書文字「依」の分布

2 墨書文字「大」「大加」出土と武器出土の関係
集落が最盛期を迎えた9世紀第2四半期でみると「大」出土と鉄鏃出土が強く相関するとともに、「大加」と「弓」が同じ土器に書かれます。「弓」は武装勢力であることを直接示します。
なお「大加」出土竪穴住居から刀子は出土しますが、鉄鏃の出土はなく、外人部隊である「大加」集団(武装集団)が外敵と戦うための武器(鉄鏃)は日常的には所持していないことがわかり、親集団の「大」と雇われ集団の「大加」の関係が見えて興味が増します。

9世紀第2四半期の「大」「大加」

9世紀第2四半期の「大」「大加」 説明

鉄鏃の集中出土と「大」出土が強く相関し、「大」集団の武装化が進んだ様子が次の図でわかります。

9世紀第2四半期の鉄鏃と「大」出土

9世紀第2四半期の鉄鏃と「大」出土 説明

牧の現業を担う集団の武装化がすすみ、武士集団となっていく様子がよくわかるデータとなっています。

牧集団が武士集団になっていく理由の最大のものは、牧集団が単純に馬生産に特化してたわけではなく、9世紀になると生産した馬を使って運送業を行い、街道での盗賊から身を守ることが必要であったからであると考えます。
なお、墨書文字「久弥良」(クビラ…金毘羅)集団は関西から鳴神山遺跡に来た輸送専門集団であると想像しています。
武装化は牧や集落を盗賊から守るための自衛でもあったと考えます。

しかし、9世紀末頃の制度的混乱で無政府状態が生まれ、俘囚の反乱や群盗の蜂起が相次ぎ、牧が盗賊に襲われる機会が増し、逆に武装した牧集団が盗賊にもなり、下総の牧は一気に凋落したと考えます。
武装した牧集団がその後の専業武士集団誕生の母体の一つになったと考えます。

2017年10月16日月曜日

白幡前遺跡における牧と武士集団、輸送集団の関係

白幡前遺跡、鳴神山遺跡、上谷遺跡などの生業が牧であり、特に白幡前遺跡と鳴神山遺跡は官牧(延喜式における諸国牧)従事集団の居住地区としての集落であることが判ってきました。
同時に、これらの集落の遺物(特に墨書文字)からは武士集団や輸送集団の存在が浮かび上がっています。
牧という生業は単純な家畜生産業務だけではなく、騎馬に関連する戦闘員の駆り集め養成や専門従事者による荷物馬輸送も行っていたようです。

その様子を遺跡毎に考察することにします。
この記事では萱田遺跡群(白幡前遺跡)について考察します。

1 萱田遺跡群のメイン墨書文字「生」について
萱田遺跡群のメイン墨書文字「生」は次のように変化してきています。

萱田遺跡群における墨書文字「生」の変化
この変化から「生」の原義は人や生命を表現すると考えます。

2 萱田遺跡群における刀子・鉄鏃と「生」分布の強い相関
萱田遺跡群では出土金属製品の種類をみると刀子が1位、鉄鏃が2位となり武器出土が特に目立っています。鉄器は生産生活用具ではなく武器がメインとなっています。

萱田遺跡群金属製品出土数

萱田遺跡群内部における刀子・鉄鏃の分布と墨書文字「生」の分布をみるとその間に強い相関がみられます。つまり武器の多いゾーンには墨書文字「生」も多いということです。

竪穴住居10軒あたり刀子出土数

竪穴住居10軒あたり鉄鏃出土数

ゾーン別墨書土器の代表文字(白幡前遺跡、井戸向遺跡)

3 墨書文字「生」の解釈
武器と墨書文字「生」の相関が強いことから「生」の意味を一例として「白兵戦で生き残る」と解釈しました。「生」は「武士が戦いの中で勝って自分の命を守る」という祈願であると考えました。
同様に墨書文字の解釈を行い、次に示します。

ゾーン別墨書土器代表文字の意味イメージ(想定)

参考
〇…則天文字「星」→白星(相撲の星取表と同じ)であり、戦勝祈願を意味します。
継…都と戦地を繋ぐと解釈します。輜重部隊、輸送部隊の仕事完遂祈願です。

4 土坑から人骨が出土した意味
武器出土が多く、また墨書文字「生」出土が多い白幡前遺跡1Aゾーン土坑(P-168)から馬2頭と人1体が出土しています。

馬2頭と人1体出土位置

馬骨出土は律令国家の蝦夷戦争に関わる牧発展祈願であると想像しました。
人骨出土はこの祈願が単純な家畜増産祈願ではなく、1人の人間の命を身代わりで神にささげることによって、戦地に赴く武士集団の命確保を同時に祈願したことを物語っていると考えます。
武士集団が集まった中で1人の人間(*)を殺す瞬間を見せ、白兵戦で勝ち抜く覚悟を植え付けたのだと思います。
*犯罪者とか俘囚(蝦夷)だったと考えます。

つまり牧発展という概念の中に馬増産と同時に覚悟のある武士集団育成・派遣が一体のものとして含まれていたと考えます。

5 牧と武士集団、輸送集団の関係
蝦夷戦争が終結する前は、牧業務の中で東北地方に騎馬と武士を派遣するために馬の増産、武士の育成、輸送部隊の結成が行われ、それらを戦地に送ったと考えます。

蝦夷戦争終結後は、牧活動が律令国家のコントロールから離れて発展し馬の増産、耕地開拓、馬を使った輸送業務等が行われ、それらの活動(荘園的活動)を守る武士集団を搔き集め育成したと考えます。

9世紀末頃から強雇(ごうこ)(荷物を運んでいる馬から荷物を離し、馬だけ手に入れて自分の荷物を運ぶ行為)や「僦馬(しゅうば)の党」をはじめとする群盗の蜂起が相次ぎ、俘囚の反乱もあり牧が一気に凋落します。「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)では「群盗のなかに牧で働く人々がいた可能性が考えられる。」と記述しています。




2017年10月13日金曜日

古代開発集落の生業 牧

短期集中学習「奈良平安7開発集落の生業と消長」の最初の検討は生業のうち牧です。

1 牧に関連する遺物及び推定
最初に牧に関連する遺物をまとめてみました。

牧に関連する遺物及び推定

参考 遺跡位置

以下簡潔に説明します。

2 馬骨の出土
白幡前遺跡の土坑から馬2頭分の骨と人骨が出土しています。また鳴神山遺跡の井戸から馬骨が出土しています。

白幡前遺跡馬骨人骨出土土坑の様子

白幡前遺跡馬骨人骨出土土坑の位置

鳴神山遺跡馬骨出土井戸の様子

鳴神山遺跡馬骨出土井戸の位置

これまでの検討でこれら2つの馬骨出土遺構は馬(及び人)を生贄とした祭祀跡であり、牧発展祈願であると考えます。蝦夷戦争に関わる律令国家の牧発展祈願ではないだろうかと想像しています。

白幡前遺跡および鳴神山遺跡ともに牧現場から離れた集落中枢部で生贄を使った牧発展祈願が行われています。白幡前遺跡は高津馬牧(延喜式)に鳴神山遺跡は大結馬牧(延喜式)に対応すると考えられます。

●参考 古墳時代の馬の殉葬
下総では古墳時代から馬を生贄として使ってきました。
馬という貴重品を生贄にする決意の深さが判るとともに、牧における馬生産が盛んだったことも判ります。
古墳時代の馬の殉葬
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用

3 馬具の出土
上谷遺跡からハミ(4点セット)が出土しています。

上谷遺跡馬具出土状況

4 牧関連墨書文字
白幡前遺跡から「牧万、牧方」が出土しています。
鳴神山遺跡から「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」が出土しています。

「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」の出土状況

馬牛蚕の皮・肉・骨の利用活動の発展を祈願していると考えられます。(蚕は繭から取り出した蛹の利用(佃煮やサナギ粉))
つまり斃牛馬処理集団の活動祈願が存在していたのですから、逆にそのような集団が存在できるだけの斃牛馬が存在していたことになり、牧の実在が証明されます。

上谷遺跡から「承和二年十八日進/野立家立馬子/召代進」が出土しています。

「承和二年十八日進/野立家立馬子/召代進」の出土状況

次のように解釈できます。
「承和二年十八日(西暦835年18日)に(この器の中のご馳走を)進上します(献上します)。
野の開発を行い(牧の開発)、家を建設し(掘立柱建物の建設)、馬を増やし、蚕を増産することを祈願します。
(野立と馬、家立と子が対応していて、より簡潔に解釈すれば、「牧開発と養蚕小屋建設により、馬と蚕の増産を祈願します」ということになります。)
(冥界に)身を召される代わりに(この器の中のご馳走を)進上します(献上します)。」
牧の存在が直接文字となっています。

5 これまでの推定
白幡前遺跡は高津馬牧(延喜式)に隣接しています。

高津馬牧(延喜式)の推定場所

鳴神山遺跡は大結馬牧(延喜式)の一部であると仮説しています。

大結馬牧仮説
2017.10.22追記
この仮説の改訂新版を作りましたので、大結馬牧仮説は次の記事を参照してください。
2017.10.22記事「大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説」

参考

墨書文字「大」集団が東京湾から香取の海まで道路で牧を結び、蝦夷戦争に備えたシステムが大結馬牧(延喜式)であると仮説しています。
近世の印西牧付近が大結馬牧(延喜式)の本拠地であったと考えることができるかもしれません。

参考 墨書文字「大」出土状況

6 牧実在の確認と牧施設場所の検討必要性
以上の資料から白幡前遺跡、鳴神山遺跡、上谷遺跡に牧が実在したと考えます。
牧を構成する施設のうち牧場(草原)、厩舎、馬具工房などの場所がどこであるのか、それを示す直接証拠が出土していないので、検討(推定)する必要があります。
その検討(推定)を次の記事で行います。