2018年7月5日木曜日

縄文時代の煮炊き調理場所はどこか

小林達雄の「炉=象徴性・聖性」説に興味を持ち、大膳野南貝塚後期集落の漆喰炉もまた一種の「火が燃え続ける祭壇」として漆喰貼床ともからめて捉えてみました。2018.07.04記事「竪穴住居祭壇の様相」参照
しかし炉に象徴性・聖性以外の各種機能が備わっていたことは論を待ちません。炉の機能のうち煮炊き調理機能がどの程度のものであったのか、そして野外における煮炊き調理機能がどこで行われていたのか考えてみました。

1 後期集落の炉と調理
大膳野南貝塚発掘調査報告書では出土物について炉覆土層と竪穴住居覆土層を区別して記載されていないので、例えば土器、貝製品、獣骨が多量に出土したとしても「出土位置は炉址および貝層である。」と表現されていて、炉祉から獣骨が出土しているのかどうか確認できません。
しかしJ16竪穴住居では「また、炉址の1・9層などをサンプリングし、炭化種子の同定・分析を行った結果、オニグルミ核、クリ果実、イチイガシ子葉が確認され、補正年代で3,740±30BPの年代が示された。」という記述があり、炉祉覆土層からオニグルミ核、クリ果実、イチイガシ子葉が出土していることが確認できます。炉を調理に使っていた確実な証拠になります。
また大型(A-1)漆喰炉解説の中で「炉底部の被熱(赤変・硬化)層厚は上端に比べ薄く、炉底から炉上端に向け徐々に層厚が増加していた。この炉壁に見られる被熱硬化層の層厚増加現象からは、炉底部よりも炉上部の炉壁ほど被熱時間が長かった状況が想定でき、このような漆喰の積層堆積からは炉の連続・継続的使用により、炉底(床)が徐々に上昇していった過程を推定することができる。」と記述しています。この記述から次のポンチ絵のような状況を想像でき、小型の土器による煮物などが行われていた可能性を推察できます。

想像 土器を使うことによる壁に近い場所の被熱
炉でつかっていた調理具は小型土器だけでなく土器片をマイフライパンのように使っていたのかもしれません。次の発掘状況写真では炉の縁辺部から数枚の土器片が出土し(層位は竪穴住居覆土層4枚、炉覆土層1枚と分かれる)、いずれも「被熱しており内外面の剝落が著しい」ので、個人別フライパンとして炉の上に置き、木の実などを炒って食べていたのかもしれません。この土器片が炉構造材でないことははっきりしています。

J82竪穴住居炉縁辺から出土した土器片 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用
フライパン替わりの土器片や小型土器を調理具として使っていたことは押さえることができました。それより大きな土器はこの屋内炉で使えるか検討してみました。
発掘調査報告書写真をみると出土した大型土器は全て底から20㎝より上が煤で黒ずんでいます。つまり少なくとも20㎝は土に埋めてその周りで火を焚いていたことが判ります。この状況を屋内炉ではつくることができません。
全ての竪穴住居内炉は大型土器を煮沸できる構造を有していません。

想像 竪穴住居の炉では大型土器による調理は困難
これで大型土器を使った調理は全て屋外で行われていたことが確定しました。
大切な大型土器を設置して調理するのですから、毎回適当に穴を掘ってその場しのぎで調理することはあり得ず、ある程度シッカリした専用炉をつくっていたことは確実であると考えます。また屋外漆喰炉はその構造から大型土器専用野外炉とはことなるようです。
その大型土器専用野外炉を発掘調査報告書の中で探していると、それらしい遺構群を見つけることができました
大形土器専用野外炉の検討は次の記事で行います。

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