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2023年3月17日金曜日

花見川の法的名称は印旛放水路(下流部)

 花見川よもやま話し 第13話


The legal name of the Hanami River is the Inba Discharge Channel (Downstream).


The legal name of Hanami River is "Inba Discharge Channel (Downstream)". Feeling uncomfortable with this difference, I once asked a river administrator a question and received an answer. Since the Inba Discharge Channel (Hanami River) is also written, few people seem to take issue with the sense of incongruity.


花見川の法的名称は「印旛放水路(下流部)」となっています。この違いに違和感をおぼえ、河川管理者に質問して、その回答をもらったことがあります。印旛放水路(花見川)などの併記があるので、違和感を問題にする人は少ないようです。

1 はじめに

国土地理院発行地図では花見川は花見川として記載されています。そもそも花見川区という行政単位があり、花見川という河川名称とそれから派生する地域名称は極当たり前の社会事象です。


国土地理地図

ところが、ひとたび河川行政に足を踏み入れると、花見川は印旛放水路(下流部)という名称に替わってしまいます。それは河川法では花見川が印旛放水路(下流部)という名称になっているためです。


河川整備計画における表示

印旛放水路(下流部)と言われて、それが花見川であると理解できる住民はおそらく5%未満、いや1%未満(河川行政関係者だけ)程度であると想像します。

このような状況(一般社会における河川名通称と河川行政における河川名称の齟齬)に違和感をおぼえ、「こともあろうに」というべきか、「怖いもの知らず」というべきか、「おめでたい」というべきかその形容の言葉が見つかりませんが、2013年に千葉土木事務所に河川名称に関する質問状を提出したことがあります。千葉土木事務所からは丁寧な回答を口頭でいただきましたので、その結果を紹介します。

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2 質問(2013年5月)

●花見川の法的河川名称に関する疑問

花見川は法的に「印旛放水路(下流部)」となっています。

この法的名称は、次のような理由により現代社会とマッチしていないという疑問があります。

法的名称「印旛放水路(下流部)」が現代社会とマッチしていない理由

1 事業者独占名称である

花見川は印旛沼の放水路機能を持っているからといって、自然流域から成り立つ河川を「印旛放水路(下流部)」と名付けることは、この川を治水・利水事業者が独占していることになる。

2 河川法の趣旨に反する名称である

平成9年の河川法改正により、河川の目的に環境が加えられ、治水・利水・環境の3つの河川管理により河川の目的を達成することになった。

自然流域から成り立つ花見川を「印旛放水路(下流部)」と呼ぶことは、この河川法の趣旨と齟齬をきたしている。

3 古代からの名称「花見川」が存在し使われている(注1)

ハナミガワのハナは花島、猪鼻、花輪などのハナと同類で、下総台地の崖に付けられた縄文語由来の一般自然地名ハナである。

古代から受け継がれてきている花見川という名称は人々に親しまれ、行政区の名称にもなっている。

このように由緒ある固有名詞としての花見川を敢えて使わないで「印旛放水路(下流部)」と呼ぶことに、強い違和感が生じている。

4 「印旛放水路(下流部)」は住民に使われていない

殆どの住民が「印旛放水路(下流部)」という名称自体を知らない。聞いたことがあっても、それが花見川だとは理解していない。「印旛放水路(下流部)」は、事実上、行政機関の隠語にしかすぎない。

一方、花見川という名称を理解していない住民はいない。

5 人工施設をイメージさせてしまう

「印旛放水路(下流部)」という名称は、人々に人工施設という誤ったイメージを与える。花見川が自然流域からなる河川という実態を人々の目から覆い隠す役割をしている。

6 「印旛放水路(下流部)」では川づくり・地域づくりの発想がうまれない

放水路という名称は放水機能単体を表現しており、治水利水を思考するには好都合である。しかし、放水路という言葉からその川の流域について発想することは困難である。流域の発想が出来なければ、その自然や歴史についての発想はさらに困難である。

一方花見川という名称ならば、その自然、歴史、流域に関わる発想がだれでも浮かぶ。

「印旛放水路(下流部)」という名称は、花見川において人々の川づくり・地域づくりに関する興味を生じさせない役割を果たしている。


質問その1 法的河川名称に関する上記疑問についての河川管理者のお考えをお聞かせください。

質問その2 花見川の法的名称について再検討する機会を設けることは考えられないか?

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3 回答(2013年5月)

この質問にたいして次の趣旨の回答(情報)をいただきました。

「質問その1 法的河川名称に関する上記疑問についての河川管理者のお考えをお聞かせください。」について

回答(情報)(口頭でいただいた話を当方でまとめたものです)

①県が住民とコミュニケーションする際には花見川という言葉を使うこともある。県が関係する団体の出版物には「印旛放水路(下流部)」とともに「花見川」という言葉を追記している場合もある。

②法的河川名称について住民からの意見はこれまでない。

「質問その2 花見川の法的名称について再検討する機会を設けることは考えられないか?」

回答(情報)(口頭でいただいた話を当方でまとめたものです)

①再検討する機会は考えていない。

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4 感想と再質問(2013年5月)

私は次のような感想を持ち、同時に千葉土木事務所に再質問させていただきました。

① 「印旛放水路(下流部)」という河川名称がこれからの川づくりや地域づくりにふさわしくないという意見に県が接したのは、どうも今回が初めてのようです。

住民から意見がないから、名称再検討などの機会を設けることもあり得ないということです。

河川管理者としては、これまで誰も口から発することのなかった疑問に少々驚いた(面食らった)ようです。

私も、そのような河川管理者の様子を感じて、そういう無風環境が存在していることに驚き、面食らいました。

河川管理者というよりも、住民とか自治体(千葉市には「花見川区」まである)が花見川についてどれだけ愛着をもっているのだろうか、どれだけ「自分事」として花見川について考えているのだろうかということが心配になりました。

千葉市が花見川の名称についてどのように考えているのか、いつか聞いてみたいと思います。

また、何かの機会があれば、花見川の河川名称問題について地域で情報発信していきたいと思います。

② 土木事務所の回答は私の疑問に対する回答(情報)ではないので、次のような再質問をさせていただき、後日回答をいただけることになりました。

再質問

「仮に「印旛放水路(下流部)」という名称を止めて、「花見川」とか「○○川」に名称変更すると、河川行政上何かの不都合が発生するか?」

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5 再質問に対する回答と感想(2013年9月)

回答

「印旛放水路(下流部)という名称を別の名称に変更しても河川行政上の支障はない。」

「印旛放水路(下流部)」という名称を止めて、花見川と公式に呼ぶことにやぶさかでないという回答です。

ありがたい有額回答と言ってもいいものです。

沿川住民や千葉市の気持ちの持ち方と活動しだいによっては、花見川という名称が公式に使われる可能性があるということです。

この回答が活きて、実際に「印旛放水路(下流部)」が花見川に正式にチェンジするかどうかは、今後の活動次第だと思います。

私も住民自治組織や千葉市に対して、「印旛放水路(下流部)」から花見川に名称変更する意義、必要性について情報提供したいと思っています。

千葉県が「印旛放水路(下流部)」から花見川に名称変更すれば、右へならえで千葉市も名称変更することになります。そうすれば、行政がつくる計画・諸文書、地図類やパンフレット、現場の看板・各種表示が全て花見川で統一されることになります。

名称変更を機に、花見川に対する関心と愛着が増し、花見川がよい川になっていくきっかけになるとおもいます。

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6 感想(2023年3月)

まず、団体組織・グループとなんらかかわらない純粋1市民(個人)の質問状に丁寧に答えていただいた千葉県千葉土木事務所にあらためて感謝申し上げます。

次の写真は本日(2023.03.17)撮影した柏井橋架替工事関連河川工事(千葉市発注工事)の看板ですが、ここでは花見川が使われています。


工事写真

弁天橋の河川名は花見川になっています。


弁天橋

また千葉県の河川海岸図では花見川が追記されています。


千葉県の河川海岸図(一部)

このように、社会生活の現場では「印旛放水路(下流部)」という名称が使われることは少ないので、使われても花見川が追記されるので、河川名称に関する社会的軋轢や損失の実体は顕在化していないように感じます。

しかし、将来、花見川と周辺住民のかかわりを濃密にした社会がつくられる過程で、「印旛放水路(下流部)」から「花見川」に法的名称を変更することが必要になる時が必ず来ると考えます。

なお、2013年当時はその意義について深く理解できていませんでしたが、「印旛放水路」という名称は江戸時代の印旛沼堀割普請や明治期印旛沼開発(印旛沼開鑿)などの系譜を引き継ぐ用語であり、歴史的、土木的意義のある語法です。「印旛放水路(下流部)」が唐突に生まれた用語でないことの意義も理解しておく必要があります。

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注1 花見川の語源

私は、2013年には花見川の語源を縄文語由来の一般自然地名ハナ由来であると考えていました。現在では花見川の語源は「検見川(ケミガワ)」の吉祥表現「花見川(読みはケミガワ)」が転じて「花見川(読みはハナミガワ)」になったと考え、その時期は幕末から明治はじめ頃と推定しています。

2023.02.21記事「花見川(ハナミガワ)は検見川(ケミガワ)



2023年2月21日火曜日

花見川(ハナミガワ)は検見川(ケミガワ)

 花見川よもやま話 第12話

この記事は2022.12.27記事「河川名「花見川」(はなみがわ)が明治以前資料で確認できないことに気が付く」の全面改訂記事です。


Hanami River is Kemi River


Based on the materials, I hypothesized that the name Hanami River was a lucky name for Kemi River.


花見川(ハナミガワ)という名称が検見川(ケミガワ)の吉祥名称であることを資料から仮説しました。

1 河川名称「花見川」に関する資料の時系列整理

自分の手持ち資料で河川名称「花見川」が出ている資料を時系列的に整理してみました。

1-1 「花見川」の初出

「「千葉実録」に治承4年頼朝通過の折り、東六郎大夫が在名にちなんだ「花見川」の和歌をよみ、川上の桜は吉野の勝るとし、「花見川村」とも書いている。」(「角川日本地名大辞典 12千葉県」(昭和59年発行)から引用)

→千葉実録は鎌倉期書籍「千葉盛衰記」を元に江戸時代中期頃編集された書籍とされています。従って鎌倉期頃には「花見川」という言葉が書かれてた事実を把握できます。ただし、この「花見川」は在名にちなんでいますから、ケミガワと読み、その表現したいところは桜のきれいな土地であるという趣旨で理解すべきものと考えます。

検見川(ケミガワ)を漢字では「花見川」と書き、読みはあくまでケミガワであるのですが、その場所が風流な場所であることを知的遊戯として表現したのだと考えます。

→漢字「花」は「け」とも読みます。

→この「千葉実録」の「花見川」という言葉以外に、江戸時代までの古文書、古地図で「花見川」という言葉を見つけることはできませんでした。

●「花見川」を検索した資料

・絵にみる図でよむ千葉市図誌(千葉市発行)

・千葉市史

・千葉市史資料編1、2、8、9

・千葉県地名変遷総覧(千葉県立中央図書館)

・天保期の印旛沼堀割普請(千葉市)

1-2 江戸時代後期に使われる河川名

江戸期古文書、古地図では現花見川に関する河川名は次のような名称で表記されています。

「利根川分水路印旛沼堀割筋」

「利根川分水路」

「印旛沼堀割」

「印旛沼堀割筋」

「印旛沼古堀筋」

「堀割筋」

「検見川古川筋」

「検見川堀割」

「検見川筋」

●現「花見川」の河川名称を検索した資料

・絵にみる図でよむ千葉市図誌(千葉市発行)

・千葉市史

・千葉市史資料編1、2、8、9 など

・天保期の印旛沼堀割普請(千葉市発行)


「印旛沼堀割筋」が使われている古地図

絵にみる図でよむ千葉市図誌(千葉市発行)から引用


「検見川筋」が使われている古文書

天保期の印旛沼堀割普請(千葉市発行)から引用

1-3 明治期に初出となる地図記載「花見川」

地図に「花見川」が記載される初出資料は「明治前期測量2万分の1フランス式彩色地図」であると考えられます。


「明治前期測量2万分の1フランス式彩色地図 千葉県下総国千葉郡馬加村」に登場する花見川

ただし、地図記載「花見川」の読みは「ハナミガワ」である可能性が高いと考えますが、その確認はとれません。地図作成兵士が「花見川」と書いて「ケミガワ」と読んでいた可能性は残されていると考えます。

この地図以降に発行される国の地図には全て「花見川」が記載されます。


大正6年測図地図「1/1万三角原」


大正10年測図地図「1/2.5万千葉西部」

1-4 花見(ハナミ)川確認初出資料

花見川の読みが(ハナミガワ)であることが確認できる初出資料は明治40年発行吉田東伍著「大日本地名辞書 坂東」であると考えられます。


吉田東伍著「大日本地名辞書 坂東」の花見(ハナミ)川の項

1-5 明治期印旛沼開発や利根川治水で使われる河川名称

明治期印旛沼開発資料の総集編とも言える織田寛之著「印旛沼経緯記」(明治26年)では「花見川」は一切つかわれていません。現花見川のことを検見川筋あるいは古堀筋などと表現しています。吉田東伍著「利根治水論考」(明治43年)では検見川が地図に書き込まれています。


吉田東伍著「利根治水論考」(明治43年)の地図に表記される検見川

2 河川名称「花見川」に関する資料の時系列整理のまとめ

ア ケミガワ(検見川)の漢字表記を「花見川」とする語法の発生

鎌倉期頃から江戸期にかけて、河川名称「検見川」の読みであるケミガワだけを取り出し、漢字表記は「花見川」とする風流な語法が存在しました。

イ 江戸期までの公式文書や地図には「花見川」表記は存在しない

江戸期までの古文書、古地図には「花見川」表記はありません。

ウ 明治期以降地図表記に「花見川」が採用される

「明治前期測量2万分の1フランス式彩色地図」を最初として、国が発行する地図にはすべて「花見川」が表記されています。

エ 明治期に「花見川」がハナミガワと発音されたことが確認できる

明治40年発行吉田東伍著「大日本地名辞書 坂東」で「花見川」がハナミガワと発音していたことが確認できます。

オ 明治期印旛沼開発や利根治水で使われる河川名称は主に検見川だった

明治期印旛沼開発や利根川治水で使われる河川名称は主に検見川であり、花見川は全く使われていません。

3 河川名称「花見川(ハナミガワ)」の発生仮説

2の事実から河川名称「花見川(ハナミガワ)」の発生を次のように仮説します。

・江戸期まで現「花見川」の河川名称は「検見川」あるいは「印旛沼堀割」等であり、「ハナミガワ」という呼称は公的には一切使われていません。

・風流の世界でケミガワの漢字表記を「花見川」とする流行があり、さらに、その漢字表記をハナミガワと読み替える住民レベルの流行が存在しました。

・「明治前期測量2万分の1フランス式彩色地図」作成に際して、測量兵士は河川名称を行政文書から収集するのではなく、現場で住民から聞き取り収集しました。そのため現「花見川」の名称は公的な「検見川」あるいは「印旛沼堀割」ではなく、地元で流行していた「書き換え、読み替え」名称である「花見川」(ハナミガワ)が採用されました。以後、公的地図表記は「花見川」(ハナミガワ)が踏襲されました。

・一方、地域開発や河川行政における河川呼称は正式名称である「検見川」や「印旛沼堀割」が使われました。

・令和の現在でも現「花見川」の河川法上の名称は「印旛放水路(下流部)」であり「印旛沼堀割」を引き継いだ名称となっています。

4 河川名称「花見川(ハナミガワ)」の発生意義

風流の世界でケミガワの漢字表記を「花見川」とする流行があり、さらに、その漢字表記をハナミガワと読み替える住民レベルの流行が存在したと仮説しました。

この流行の背後に、河川名称や地名を吉祥語にしたいという一般社会心理が働いていたと考えます。

検見川という河川名称は「俘囚の検見(尋問)に由来する」という重く苦しい名称です。ですから、住民はできればその名称を払拭して明るく楽しい名称(吉祥名称)に変更したいという社会心理の下にあったことが推察できます。

参考 2021.07.13記事「編集再掲 地名「検見川」は俘囚の検見(尋問)に由来する



2023年2月5日日曜日

花見川と渋沢栄一

 花見川よもやま話 第9話


Hanami River and Eiichi Shibusawa


We don't usually come across information that Hanami River and Eiichi Shibusawa are related. However, from the perspective of the history of the Hanami River, Eiichi Shibusawa became a patron of the Inbanuma excavation project and played a major role, so it is worth knowing.


花見川と渋沢栄一が関係しているという情報は普段接することはありません。日本資本主義の父、実業世界の巨人である渋沢栄一が成し遂げた業績という観点から言えば、花見川の件(明治期印旛沼開削事業計画)はそもそも実現しなかった案件であり、些末なことになるのかもしれません。しかし、花見川の歴史という観点に立てば、渋沢栄一が事業計画のパトロンになり、大きな役割を果たしたので、確認して知っておくだけの価値はあります。

失敗した事業とはいえ、明治期花見川の歴史を学習することは、その中で渋沢栄一の開発思想に触れ、伊藤博文や土木最高位お雇い外人技師デレーケなどに触れることになり、歴史知識世界における視野拡大になります。

1 明治期印旛沼開削事業計画の推進者織田寛之と渋沢栄一

明治期印旛沼開削事業計画の立役者であり最大の推進者は織田寛之です。その活動は事業計画失敗後に編纂された資料総集編である織田寛之著「印旛沼経緯記」(明治26年)で詳しく知ることができます。

織田寛之は日本の農政、治水、水利に関する資料を収集整理して徳川期以来数度にわたり計画、着工された印旛沼開削工事を知る機会を得て、現代にいう民間ベンチャー起業のような形で開削同盟「大明会」を設立し、印旛沼開削事業を計画し事業化を推進します。その20年間にわたる過程の中で地元住民の賛同を得るだけでなく、伊藤博文をはじめとする明治政府の重鎮や千葉県に積極的説明と賛同をもとめました。当時日本土木界における最高権威であったデレーケの視察賛同まで引き出しました。その活動を裏で支えたのが渋沢栄一です。渋沢栄一は織田寛之がいつ誰と面会することが効果的であるかアドバイスし、実際の要人面会根回しを要人との交遊の中で、こと細かくサポートしたことが「印旛沼経緯記」に書かれています。また経費面でのパトロンにもなっていました。

明治期日本の国家発展のために印旛沼開削事業という社会資本整備がとても重要であると見抜いていた渋沢栄一は、事業計画推進者が織田寛之という民間(個人)であるにもかかわらず、強くサポートしました。

(参考 栗原東洋著「印旛沼開発史」第1部下巻)

2 古市公威と渋沢栄一

明治20年代に古市公威(後の日本土木学会初代会長)も渋沢栄一の示唆で印旛沼を視察しています。渋沢栄一は開発のための同盟者を募集するためには古市の視察巡見が必要であると織田に忠告しています。

(参考 三浦裕二・高橋裕・伊澤岬編著「運河再興の計画 房総・水の回廊構想」(彰国社))

3 明治期印旛沼開削事業失敗の分析

明治期印旛沼開削事業の失敗要因として、次の2つが指摘されています。

1 利根運河(利根川-江戸川)が先行して開通したこと。(=ニーズの減少)

2 印旛沼開削事業では印旛沼の利根川出口安食に閘門を設置することになるため、それにより利根川出水時における印旛沼遊水効果が無くなること(=利根川治水安全度の低下)、あるいは渇水時に印旛沼からの水供給を利根川が受けられなくなること(=利根川利水環境の劣悪化)が指摘されています。

(参考 三浦裕二・高橋裕・伊澤岬編著「運河再興の計画 房総・水の回廊構想」(彰国社))



織田寛之著「印旛沼経緯記」(明治26年)


渋沢栄一揮毫(織田寛之著「印旛沼経緯記」(明治26年))


予定される新1万円札(Wikipediaから引用)


2023年1月26日木曜日

花見川とお雇い外人技師デレーケ

 花見川よもやま話 第6話


Hanami River and Hired Foreign Engineer Johannis de Rijke


Johannis de Rijke is one of the great men who built the foundation of river improvement and erosion control in Japan. Dereke is a foreign engineer hired in the Meiji era, and is involved in the Inbanuma Canal plan. I made a note of that situation.


日本の河川改修や砂防の基礎を築いた偉人の一人である、明治期お雇い外人技師のデレーケが印旛沼運河計画にかかわっているので、その様子をメモしました。

1 ヨハネス・デレーケ

ヨハネス・デレーケはオランダの土木技術者で、明治期に来日したいわゆるお雇い外人技師であり、日本の河川改修や砂防の基礎を築いた偉人の一人です。

デレーケは淀川河川改修工事、木曽三川分流工事、常願寺川河川改修工事などにかかわり、治山・植林、砂防の重要性を指摘したり、粗朶沈床というオランダ由来工法を導入するなど指導者として大きな業績を残しました。また大阪港、三國港など港湾の調査・計画・工事の指導でも業績を残しました。


デレーケ像

農林水産省webサイトから引用

そのデレーケが明治期の花見川の運河化と大いにかかわっているので、その状況・様子をメモします。

2 内務卿大久保利通の7大プロジェクト


内務卿大久保利通の7大プロジェクト

三浦裕二・高橋裕・伊澤岬編著「運河再興の計画 房総・水の回廊構想」(彰国社)から引用

明治11年(1878)内務卿大久保利通は国土計画の7つの計画が含まれるいわゆる大久保利通の7大プロジェクト(「一般殖産および華士族授産の儀に付伺」)を建議しますが、この中に「印旛運河の掘削」が含まれています。明治期は鉄道が未発達であり、人流・物流ともに舟運発達が期待されていて、利根川-印旛沼-花見川-東京湾の舟運開通が国家的プロジェクトとして注目をあびていました。

3 「印旛沼開鑿成功予期図」と大明会の結成


印旛沼開鑿成功予期図

織田寛之著「印旛沼経緯記」から引用

明治19年(1886)に大橋精次は「印旛沼開鑿成功予期図」を世に公表し注目をあびました。この「印旛沼開鑿成功予期図」を契機にして利根川-印旛沼-花見川-東京湾を舟運でつなぐプロジェクト実行促進民間団体の大明会が発足します。大明会には織田寛之を筆頭に渋沢栄一、金原明善、高島嘉右衛門等が集い、資金調達に動きました。

なお、印旛沼開鑿成功予期図には織田寛之の漢詩とともに二宮尊徳の言葉「ナセバ ナル・・・」も掲載されていて、この頃二宮尊徳の報徳仕法が世の中に受け入れられていたこと物語っています。二宮尊徳は天保期に老中水野忠邦により引き上げられ、印旛沼堀割普請に関する調査報告書を作成しています。

4 デレーケの視察と報告

明治22年(1889)デレーケは渋沢栄一の推薦により利根川安食から印旛沼-花見川-東京湾一帯の視察を2回にわたり行い、報告を行っています。高明なデレーケのお墨付きは資金集めのためにも、内務省土木局の理解を得るためにも必要だったと考えられます。


デレーケの報告に関する記事(印旛沼経緯記 内編)1/4


デレーケの報告に関する記事(印旛沼経緯記 内編)2/4


デレーケの報告に関する記事(印旛沼経緯記 内編)3/4


デレーケの報告に関する記事(印旛沼経緯記 内編)4/4

デレーケの報告では「此事業ハ大利益ニシテ運河開鑿共ニ必成ヲ期スヘシ」として、経費として100万円を見積もっています。この報告を受けて織田等は事業計画として「印旛沼実益概況」を作成し、国庫から80万円の支出を取付け、100万円の県債を立てて実行に移そうとします。しかし日露戦争の影響を受け、事業は挫折します。

5 メモ (2023.01.27追記)

・渋沢栄一が金銭的に応援した織田寛之らの大明会プロジェクトは明治26年(1893)にはすでに挫折していて、その挫折という結果を受けてまとめた資料集が「印旛沼経緯記」(明治26年7月、8月発行)になります。

・従って印旛沼運河プロジェクト挫折は日露戦争(1904~1905)とは関係ありません。(日露戦争の影響という記述はある土木専門書の記述にあったものを咀嚼しないで引用したものです。)

・挫折の要因は競合プロジェクトである利根運河の開通(1890)などが関わっていた可能性がありますが、今後詳しく検討することにします。

2023年1月24日火曜日

花見川に舞い降りた白鳥

 花見川よもやま話5


Swans that landed on the Hanami River


There was a time when swans landed on the Hanami River and it became a hot topic, so I ruminated on that thought and enjoyed it.


花見川に白鳥が舞い降りて話題になったことがありますので、その思いでを反芻して楽しみました。

1 2011.02.21水資源機構千葉用水総合管理所ホームページ画面


2011.02.21水資源機構千葉用水総合管理所ホームページ画面

画面にはつぎのような説明が書かれています。

「平成23年1月31日、花見川(印旛疎水路下流)に4羽の白鳥が舞い降りました。

ここは、大和田機場から南方に約700mの花見川と勝田川の合流地点付近。千葉市花見川区横戸町。川沿いを散歩される方々も「どうして、ここに?」「何十年も、ここに住んでいるけれど白鳥を見るのははじめて!」しばし、花見川はみんなの癒しスポットになりそうですね…。」


2011.02.21水資源機構千葉用水総合管理所ホームページ画面(拡大)

当時私はこのホームページ画面をみて早速現場の勝田川合流部の花見川に出かけたのですが、もう白鳥はいませんでした。


白鳥の去った勝田川合流部付近の風景(2011.02.21)

このころは勝田川合流部拡幅の工事が終わったばかりの頃であり、新たにみつけた広々とした水辺空間が棲みかになるかどうか、印西市本埜の白鳥が偵察にきたのかもしれません。

印西市本埜の白鳥飛来地には2023年1月19日には1008羽の白鳥が飛来してきています。印西市立本埜小学校ホームページによる。

印西市本埜の白鳥飛来地と2011年2月に白鳥が飛来した花見川勝田川合流地点の位置関係を示すとつぎのような地図になります。


印西市本埜白鳥飛来地と花見川白鳥飛来地

なお、web検索すると花見川瑞穂橋付近に2015年から2016年にかけて2羽の白鳥が飛来し、付近の住民が白鳥に親み、大事にした様子の記事が幾つか見つかりました。

花見川に白鳥が飛来したという事実に直面して、白鳥が住みやすい千葉県をつくるのにはどうしたらよか考えてみるのも、意味のあることだと思います。普段はそのようなことを考えることはありませんから。さらにコウノトリやトキが舞う千葉県をどうしたらつくれるのか、考えてみることもたまにはあってもよいかもしれません。


2023年1月21日土曜日

花見川と二宮尊徳

 花見川よもやま話 第4話


Hanami River and Sontoku Ninomiya


Sontoku Ninomiya (Kinjiro Ninomiya) appears in the Inbanuma moat construction project during the Tenpo period. Sontoku Ninomiya is a rural reformer who is famous for his statue of him reading a book while walking with firewood on his back. I was surprised that Hanami Rover and Sontoku Ninomiya were connected, as I had little knowledge of history. I have tasted the real thrill of secret learning.


天保期印旛沼堀割普請に二宮尊徳(二宮金次郎)が登場します。二宮尊徳は薪を背負って歩きながら本を読む像で有名な農村改良家です。歴史知識の少ない自分は花見川と二宮尊徳が結びついて驚きました。秘かなる学習の醍醐味を味わいました。


花見川の歴史と言えば印旛沼堀割普請が最も有名な出来事であると言えます。江戸期の印旛沼堀割普請は享保、天明、天保と3回にわたって行われ、いずれも失敗に終わりました。しかし最後の天保期印旛沼堀割普請は防災、干拓だけでなく、舟運路開通という新たな意義を有するものでした。天保期印旛沼堀割普請はペリー来航前ですがすでに列強による外圧を意識した国際情勢のもとで、東北からの舟運を東京湾口を使わないで利根川-印旛沼-花見川経由で東京湾江戸城に導くという戦略的意義を内包する国家的大規模プロジェクトとなっていました。丁度その頃、アヘン戦争が勃発していて、日本もぼやぼやしているといつ列強の餌食になるかわからない状況に置かれていました。


天保期印旛沼堀割普請の計画図面 「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市)から引用

この天保期印旛沼堀割普請に脇役として二宮尊徳(二宮金次郎)が登場します。あの薪を背負って歩きながら本を読む像で有名な二宮尊徳が花見川学習に登場するのですから、歴史知識の少ない自分は驚きました。自分の知識の中で何ら関連性を意識していなかった二宮尊徳像と天保期印旛沼堀割普請が結びつくのですから、その瞬間の感情は表現し難い感動でした。学習の醍醐味を味わったということです。


二宮尊徳像

Wikipedia掲載画像引用


二宮尊徳像

Wikipedia掲載写真改変引用

農民の出であった二宮尊徳は荒廃した農村の復旧に力を発揮しその才能を世の中に認められていました。天保13年(1842)に天保改革の指導者であり印旛沼堀割普請の推進者である老中水野忠邦の信頼を得て、幕府の御普請役格に任ぜられました。その最初の仕事が「利根川分水路見分目論見御用」でした。二宮尊徳は共のもの重蔵を同行して10月21日に江戸を出発して現場に赴き、11月15日には江戸に帰りその後報告書を提出していて、短期間に効率的な作業をしています。次の孫引きは二宮尊徳が提出した報告書冒頭部分です。


利根川分水路堀割御普請見込之趣尋に付申上候書付 栗原東洋「印旛沼開発史 第1部上巻」(1972年)から引用

二宮尊徳の報告書内容は土木技術的な問題点を指摘して開削計画を立案するとともに、事業を成功させるためには農民の賛同を得ることが必要であり、そのために貧乏を克服するための長期にわたる施策を含んでいます。この報告書は20年以上の先までを見ているもので、幕府に採用されることはありませんでした。

なお、二宮尊徳が調査報告を求められる2年前の天保11年から、幕府は本格的な利根川分水路堀割普請の計画策定作業に着手しています。老中水野忠邦が二宮尊徳に調査報告をもとめた背景には、大規模プロジェクトの実施組織の中に対立や調整されていない状況があり、この対立をなんとか緩和し、できれば何らかの技術的名案はないものかと思案していたことがあるようです。(栗原東洋「印旛沼開発史 第1部上巻」(1972年)による)

天保期印旛沼堀割普請の中で二宮尊徳が果たした役割は脇役というか端役に過ぎないものがあります。しかし、荒廃地域復旧の地域開発専門家である二宮尊徳が登場するほどに、この普請は国家的見地からのビッグプロジェクトであったといえます。その後老中水野忠邦は失脚し多くの普請関係者が連座しますが、二宮尊徳は生き残り、日光神領の立て直しの命を受け活躍します。二宮尊徳の農村改良策(報徳仕法)は明治前期にかけて各地に広まります。


先日子どもたちと交流する機会がありました。その時、「花見川で染谷源右衛門以外に有名な人はいますか」という質問を受けました。染谷源右衛門は享保期印旛沼堀割普請の創始実行者で千葉市や八千代市小学校副読本に必ず登場する郷土の偉人です。予期せぬ質問に「有名人」という語句に反射的に反応してしまい二宮尊徳(二宮金次郎)と答えてしまいました。自分の子どもの頃は薪を背負って歩きながら本を読む銅像をよく見かけたと話すと、子どもたちは二宮尊徳を知っている様子でした。二宮尊徳が登場する漫画とかアニメがあるのでしょうか。

花見川で染谷源右衛門の次に有名な人はだれでしょうか。老中水野忠邦ということになるのでしょうか。自分の内なる有名人ランクとしては、二宮尊徳の次に明治期印旛沼計画のお雇い外人技師のデレーケが、その次に同じく明治期の渋沢栄一が、さらに印旛沼堀割普請を小説「天保図録」にかいた松本清張が、さらに印旛沼堀割普請を研究して「印旛沼開発史」にまとめた栗原東洋と続きます。花見川は単なるトリガーであり、もともと二宮尊徳、デレーケ、渋沢栄一、松本清張、栗原東洋に興味を持っている自分が存在しているということです。


2023年1月19日木曜日

花見川のトーチカ

 花見川よもやま話 第3話


Hanami River Pillbox


We discovered concrete pillbox remaining on the riverbed of the Hanami River, and conducted a preliminary survey with a local citizen group. The hypothesis that it was a facility to utilize the Hanami River moat as a line of defense against the U.S. forces in the mainland decisive battle also became a hot topic.


花見川河川敷にコンクリート製トーチカが残存していることを発見し、地元市民グループで予備調査しました。花見川堀割を本土決戦における米軍阻止線として活用するための施設であるという仮説も話題となりました。

1 はじめに

周辺住民でもほとんど知られていない花見川のトーチカを2012年の花見川散歩で偶然発見し、地元市民グループで予備調査しました。普段は土と灌木に覆われ全く見えない戦争遺跡の存在を確認し、予備調査報告書を河川管理者(千葉県千葉土木事務所)と千葉市文化財担当(千葉市教育委員会文化財課)に提出しました。


花見川河川敷内で発見された戦争遺跡の予備調査報告書

ここからダウンロードできます。

2 花見川のトーチカ

花見川堀割の右岸で鷹之台カンツリー倶楽部に隣接する河川敷内にコンクリート製のトーチカ(砲口を備えた陣地)があります。土と灌木に覆われ、その全貌を現在は確認できません。現在は銃眼口を備えたコンクリート製監視塔下部と半ば埋もれたコンクリート製トーチカ本体の一部を確認できます。


戦争遺跡の分布

コンクリート製監視塔下部は調査グループによる草刈でその全貌を観察できるようになりました。(現在は灌木繁茂により、再び全く観察できない状況になっています。)


銃眼口のあるコンクリート製監視塔下部


銃眼口のあるコンクリート製監視塔下部

米軍撮影空中写真(1949)を拡大するとこのトーチカの様子をある程度推察することができます。


米軍撮影空中写真


空中写真判読によるトーチカの様子


空中写真判読によるトーチカと軽便鉄道橋台・橋脚の様子

このトーチカに関連する文書資料は見つけていません。予備調査グループでは、戦争末期に九十九里浜に米軍が本土上陸して東京方面に向かう際に、軽便鉄道鉄橋を使わせないためのトーチカであるとの見立てが話題となりました。

なお、トーチカ内部に危険物が残存している可能性が排除できないため、予備調査では内部調査を実行しませんでした。


2023年1月18日水曜日

花見川の「上(うわ)ガス」

 花見川よもやま話 第2話


"Uwa Gas" of Hanami River


From spring to summer, you can observe the phenomenon of natural gas seeping everywhere along the water surface of the Hanami River.


1 花見川の「上(うわ)ガス」

「上(うわ)ガス」とは地表に湧出する天然ガス(メタンガス)の千葉県における呼称です。

花見川では堀割部水面のいたるところで春先から夏までの期間上ガスが毎年観察できます。


激しい上ガスの様子


上ガスで泡立つ水面

大和田排水機場から花見川に放水が行われ、激しく流水が流れた後でも同じような上ガスが広い範囲で観察できることから、川底に溜まった有機物が腐って生まれるガスではなく、地下深くから湧き出しているガスであることが確認できます。

千葉県環境研究センターに連絡したところ、花見川における上ガスはこれまで聞いたことがなく、現場を確認してみたいとのことでした。

2 南関東ガス田

千葉県一帯はもともと天然のガス田であり、営業的な天然ガス採取が行われています。


南関東ガス田の分布と地下構造概略

出典:施設整備・管理のための天然ガス対策ハンドブック、営繕工事における天然ガス対策のための関係官公庁連絡会議編

上ガスは九十九里平野などで観察され、一部地域では特別な許可のもとに上ガスを採取して一般家庭で燃料として消費しています。同時に上ガスが建造物内部に溜まり、爆発事故を起こすこともあります。2004年には九十九里町イワシ博物館で爆発事故がありました。

3 花見川における上ガスメカニズム仮説

花見川付近の地下水位変動図をみると、4月になって急激に低下し、10月頃までつづきます。田植えのために地下100~200m付近から地下水を揚水しているためであると考えられます。


八千代・習志野・四街道地域の地下水変動図(2003年~2005年)(千葉県地質環境インフォメーションバンクによる)

この揚水起因地下水位変動図をヒントに次の花見川上ガスメカニズムを仮説しました。


花見川上ガスのメカニズム仮説

春になると、多数の農業用深井戸(100~200m)が一斉にフル稼働して地下水をくみ上げる活動が始まります。

この時、揚水を賄うために地層中の地下水が深井戸に吸い寄せられるように急速に移動します。

この時、揚水している地層より下位にある地層からも地下水が絞り出されます。

この絞出された地下水にガスが含まれていると考えます。

つまり、揚水している地層のすぐ下位にガス兆候層あるいはガス層があると考えます。

揚水によりガス兆候層の地下水が絞り出されると、ガスを含んだ地下水が地下100~200mの地層中を移動することになります。

この移動している地下水に取り込まれたガスが移動途中に地表に湧出します。

花見川では水面で泡となって湧出し、観察できます。

水面のないところでも湧出しているのですが、量がごくわずかですから人に観察されることはないのです。

この絵は概念図(ポンチ絵)ですが、ちなみに「農業用深井戸による揚水」地点と「花見川の上ガス」地点の距離は約900mです。それと同じスケールで、絵の深井戸の深さ200mを描いてあります。



2022年12月27日火曜日

河川名「花見川」(はなみがわ)が明治以前資料で確認できないことに気が付く

 Noticed that the river name "Hanamigawa" cannot be confirmed in pre-Meiji documents.


I noticed that the river name "Hanamigawa", which is a familiar river to me, could not be confirmed in materials before the Meiji era. "Hanamigawa" seems to have been changed from "Kemigawa" as a lucky river name around the early Meiji era.


自分にとって身近な河川である花見川(はなみがわ)という名称が明治以前資料では確認出来ないことに気が付きました。「花見川」(はなみがわ)は明治初期前後頃に吉祥河川名としてケミガワ(華見川とか花見川)から変化して生まれたようです。

1 河川名「花見川」が確認できる最古地図は「明治前期測量2万分の1フランス式彩色地図」

私は10年以上にわたって、趣味レベルですが、花見川について興味を持ち、調べてきています。そうした中で、河川名「花見川」が記載された最古地図は「明治前期測量2万分の1フランス式彩色地図 千葉県下総国千葉郡馬加村」が最初のものであると気が付きました。


「明治前期測量2万分の1フランス式彩色地図 千葉県下総国千葉郡馬加村」に登場する花見川

河川名「花見川」が地図に登場するのは、私が確認した範囲では最古です。ただし、読みが「はなみがわ」であるかどうかの確認はとれません。地図作成兵士が「花見川」と書いて「けみがわ」と読んでいた可能性は残されていると考えます。

千葉市発行歴史資料に掲載されている明治以前の古文書・古地図では「花見川」という語句が記載されているものは確認できません。

資料

・絵にみる図でよむ千葉市図誌(千葉市発行)

・千葉市史

・千葉市史資料編1、2、8、9 など

明治40年発行吉田東伍著「大日本地名辞書 坂東」では花見川は次のように説明されています。

「花見(ハナミ)川

元は犢橋村柏井の邊に発する野水の末なるが、近世印旛沼堀割の土功を起こしし時、印旛郡平戸川の低谷より、此川筋へ達する水路を疎開したり。故に其水路は成就せざりしも、横戸に於て一堰を造りて、之に水を貯へ、夏時には之を花見川へも灌くこととなりぬ、横戸堰より検見川村の海濱まで凡二里。」

「角川日本地名大辞典 12千葉県」(昭和59年発行)では花見川(はなみがわ)の記述は「正式名称は印旛沼放水路という。印旛沼周辺の洪水防止を目的として整備された人工河川。」で始まり、工事の歴史が書いてあります。

「明治前期測量2万分の1フランス式彩色地図」に花見川が使われ、明治40年発行吉田東伍著「大日本地名辞書 坂東」で花見川の説明があるので、明治時代から花見川(はなみがわ)が使われていたことは確認できます。江戸時代までの資料では花見川(はなみがわ)使用例は確認できません。

2 河川名「花見川」(はなみがわ)の語源・由来説明記述は見つからない

「花見川」(はなみがわ)の語源・由来を説明した記述を既存図書で見つけることはできませんでした。

3 印旛沼堀割普請関連古文書では河川名として「検見川」(けみがわ)が使われている

天保期の印旛沼堀割普請関連の古文書・古地図では工事対象名として「利根川分水路印旛沼堀割筋」「利根川分水路」「印旛沼堀割」「印旛沼古堀筋」「堀割筋」などが使われています。河川を意識した古文書では「検見川古川筋」「検見川堀割」「検見川筋」などが使われ、現在の花見川を特定しています。つまり、河川名としては「検見川」が使われています。印旛沼堀割普請関連古文書・古地図では花見川という言葉は一切使われていません。


河川名「検見川」が使われている古文書の例

出典 天保期の印旛沼堀割普請(千葉市発行)

資料

・天保期の印旛沼堀割普請(千葉市発行)

4 地名「検見川」(けみがわ)について

「角川日本地名大辞典 12千葉県」(昭和59年発行)では検見川について次のように記述しています。

「けみがわ 検見川 <千葉市>

花見川河口南岸の袖ヶ浦沿いの海岸低地。地名の由来は源頼朝が兵を検せしことが起源という説もある(検見川小学校百年誌)。「千葉実録」に治承4年頼朝通過の折り、東六郎大夫が在名にちなんだ「花見川」の和歌をよみ、川上の桜は吉野の勝るとし、「花見川村」とも書いている。また、「千葉郡誌」には「花見川に因て華見川なりといふこともあり」と見える。

[中世]けみ川

戦国期に見える地名。下総国のうち。宗長の「東路の津登」によれば、宗長は永正6年10月、小弓城主原胤隆の許に滞在したが、その帰途のこととして「はまの村をたちて、けみ川といふ所の浦風あまり烈しかりしかば、一宿して、いまだ日もたかかりしに、人々物語の序に一折などのことにて、玉がしは藻にうづもれぬあられ哉」と記している(群書18)。また、「国府台戦記」には、天文7年の第1次国府台合戦の後、小弓御所足利義明の息男の乳母れんせいが若君の墓参に赴く途次を「心ぼそくもけみ河の、川瀬の千鳥友よぶも、君に逢ふかとおどろきて……」と描写している(続群21)。

[近世]検見川村

江戸期~明治22年の村名。……略

[近代]検見川村

明治22~24の千葉郡の自治体名。……略

[近代]検見川町

明治24年~昭和12年の千葉郡の自治体名。……略

[近代]検見川

明治22年~昭和13年の大字名。……略

[近代]検見川町

昭和13年~現在の千葉市の町名。……略

「角川日本地名大辞典 12千葉県」(昭和59年発行)の検見川説明記述に登場する「花見川」は「はなみがわ」ではなく、「けみがわ」と読むと当時の実在地名と符号して理解することができます。漢字「花」は「け」とも読みます。次のように読むことが適切です。

「千葉実録」に治承4年頼朝通過の折り、東六郎大夫が在名にちなんだ「花見川」(けみがわ)の和歌をよみ、川上の桜は吉野の勝るとし、「花見川村」(けみがわむら)とも書いている。また、「千葉郡誌」には「花見川(けみがわ)に因て華見川(けみがわ)なりといふこともあり」と見える。

5 河川名「花見川」(はなみがわ)の語源について

河川名「花見川」(はなみがわ)は天保期印旛沼堀割普請では使われておらず、工事名として「印旛沼堀割」が使われ、河川名としては検見川が使われていました。河川名「花見川」(はなみがわ)が登場するのは明治に入ってからです。

つまり河川名「花見川」(はなみがわ)は明治に入ってから河川名「検見川」(けみがわ)にとってかわるように生まれた新名称であることが資料から確認できます。

新河川名「花見川」(はなみがわ)が明治初期前後頃生まれた理由は今後検討することにしますが、「千葉郡誌」(大正15年発行)の記述「花見川(けみがわ)に因て華見川(けみがわ)なりといふこともあり」をヒントにすれば、次のような想像も意義があるような気がします。

●新名称「花見川」(はなみがわ)が生まれた経緯に関する想像

検見川の検見は行政が上から監視するようなイメージの言葉であり、地元からすると地域発展をイメージするにはあまり好ましい名称では無かった。天保期印旛沼堀割普請が失敗すると、河川名「検見川」(けみがわ)は一段とイメージが悪い名称となった。地元では検見川(けみがわ)の当て字として故事になぞらえた吉祥語として「花見川」(けみがわ)や「華見川」(けみがわ)を使うものも現れた。「花見川」や「華見川」がいったん文字になるとそのよみをわざと「はなみがわ」と読む人が増えた。徐々に河川名が「けみがわ」から「はなみがわ」に変化し始めた。

こうした中で「明治前期測量2万分の1フランス式彩色地図」の測量が行われ、測量兵士は地元から「花見川」名称をききとり地図に記載した。公的な資料に掲載されたので、河川名称は社会一般では「検見川」(けみがわ)から「花見川」(はなみがわ)により一層変化した。

6 明治時代の印旛沼開発計画で使われた河川名

明治時代に印旛沼開発計画が取組まれ、渋沢栄一やお雇い外人技術者デレーケなどが登場しますが、この土木地域開発分野では花見川の言葉は一切見られず、河川名としては検見川が使われています。

資料

織田寛之著「印旛沼経緯記」(明治26年)

7 現在の河川法上の名称

現在、花見川は社会一般における通称であり、河川法上の名称は印旛放水路(下流部)となっています。


2016年8月23日火曜日

花見川放水風景

今朝、大和田排水機場から印旛沼の洪水が花見川に放水されていました。

水の流れるざわざわした音は久しぶりです。

過去の観察体験からポンプ能力目いっぱいの120m3/sの放水が行われているようです。

音を立てて流れる花見川 2016.08.23 5:31頃

普段の同じ風景 2016.08.15

音を立てて流れる花見川 2016.08.23 5:36頃

普段の同じ風景 2016.08.15

音を立てて流れる花見川 2016.08.23 5:47頃

普段の同じ風景 2016.08.15

音を立てて流れる花見川 2016.08.23 5:49頃

普段の同じ風景 2016.08.15