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2017年1月5日木曜日

花見川河口津付近の地名「直道」(ナオミチ)の解釈

1月2日早朝目覚めて、寝床の中でそれまで見ていた夢を反芻しました。

今年の初夢です。

自分が古代社会にいる様子で、その奇妙奇天烈な状況を一所懸命解釈しようとしています。

その夢の反芻の後、関連して検見川台地の小字「直道」(ナオミチ)の意味が直観的に判りました。

その直観は自分の知識の範囲内では正しいと考えますので、初夢のお告げみたいなものですが、メモしておきます。

検見川台地の小字地名は蝦夷戦争時代頃の俘囚収容所(俘囚移配中継所)に関連するものが集中していると考えてきています。

昭和初期大字検見川の小字名

参考 埋蔵文化財の分布

1 これまでの検討

1-1 玄蕃所、居寒台、木戸尻

ア 玄蕃所(げんばしょ)
古代遺跡がある場所に玄蕃所という地名が残っているのですから、この玄蕃所は玄蕃寮の東国出先施設がここに在ったと考えることが順当です。

玄蕃寮は次のように説明されています。

げんばりょう 〔玄蕃寮〕
律令制の官司で治部省に属する。和名類聚抄の〈ほうしまらひと(法師客人)のつかさ〉の訓のように、玄は僧、蕃は蕃客の意。京内の寺院・仏事、僧尼の掌握、外国使節の接待、鴻臚館〘こうろかん〙の管理、在京の夷狄(蝦夷・隼人等)などを管掌した。玄は中国では道教を意味し、隋・唐では崇玄署という道士を監督する役所が設けられ、僧尼も合せて管轄した。日本には道士が存在しないので、玄で僧侶のみをさすことになったとみられる。僧尼・仏寺の管轄範囲は、令制では京内に限られていたが、延喜式制では畿内・諸国にまで及んでいる。
「岩波日本史辞典」(岩波書店)

地名「玄蕃所」の伝承は、玄蕃寮の東国出先で、陸奥国から送られてくる俘囚を国内各地に移送する中継施設としての玄蕃所が存在していた可能性を濃厚に物語ります。

同時に、花見川河口津に俘囚移送中継施設があったと考えると、花見川-平戸川船越が俘囚移送路であったことは確実であり、花見川-平戸川船越ルートが軍事的に重要な水運路であったことを物語ります。

イ 居寒台(いさむだい)
「いさむ(勇)」という言葉には「水戦で、貝を吹き鳴らす」(国語大辞典、小学館)という意味があります。
この場所が軍事的な場所であったことを示す地名です。

玄蕃寮が管理する外国使節の接待施設である鴻臚館は同時に軍事的な側面も持っていました。(「世界大百科事典」(平凡社)による)

ですから陸奥国から送られてきた俘囚を西方の各地に送り出す中継施設である玄蕃所も当然軍事的備えをしていたと考えられます。

地名「玄蕃所」と地名「居寒台」はセットの地名であり、居寒台遺跡、直道遺跡等の古代住居69軒、掘立柱建物40棟などは俘囚収容施設やその管理施設等であった可能性が濃厚です。

ウ 木戸尻(きどじり)
軍港があり、俘囚収容施設があれば当然それらの施設は柵で囲まれます。出入り口は柵に設置された特定の出入り口である「木戸」になります。
地名「木戸尻」は軍港・俘囚収容施設などの施設群の背後(陸側)にあった出入口の場所を指す地名であったと考えます。

(以上 2014.12.24記事「花見川河口津付近の遺跡と地名」による)

1-2 検見川
2014.12.24記事「花見川河口津付近の遺跡と地名」で、花見川河口津に古代律令国家の治部省玄蕃寮の出先機関があった可能性がきわめて濃厚であることを述べました。

玄蕃寮は国内の夷狄(蝦夷・隼人等)の管掌を行っていたことから、花見川河口津に陸奥国から送られた蝦夷戦争俘囚の移送中継施設があり、それが小字名「玄蕃所」として現代にまで伝承してきていると考えました。

さて、小字名「玄蕃所」は近世「検見川村」に位置します。昭和初期検見川町の大字検見川にふくまれます。検見川は少なくとも中世から地名として存在しています(角川日本地名大辞典)。

近世検見川村の領域

この地名「検見川」の意味説明は、私はこれまで納得のいくものがありませんでした。

ところが、この検見川の地に玄蕃所という特殊施設(俘囚一時収容施設)があることに気がつくと、私は、一気に検見川の意味が脳裏に浮かびあがりました。

自分の感情レベルでは「検見川」語源を探り当てたと思うようになりました。

陸奥国から送られてきた俘囚は、玄蕃所で検見(「よく見て調べること」精選国語大辞典、小学館)されたのです。

俘囚は花見川河口津まで水運で運ばれてきて、玄蕃所で尋問され(検見され)、その思想性や健康状態などを検査され、隼人などのように精強な軍事組織に組み入れるグループ、貴族の使役奴隷に回すグループ、各地の地域開発の労働力奴隷として回すグループ、…などに分類されたのだと思います。

つまり、花見川河口津の「玄蕃所」における検見(けみ)で俘囚の運命が決まったのだと思います。

俘囚とはいえ、同じ人間の運命が、それも多人数の運命が「玄蕃所」で決まることは、恐らく近隣の人々に一種の心理的影響を与えたと考えます。

その心理的影響から、玄蕃所のある地域一帯の地名が「検見川」となったと考えます。

俘囚は遠く陸奥国から水運で運ばれ、印旛浦、花見川-平戸川船越、花見川を経由して花見川河口津に到着し、そこで検見され、運命が決まったのです。

運命が決った俘囚は花見川河口津から東京湾に船出し、西方各地に送られて新しい境遇人生が始まったのです。

花見川河口津付近の人々は、俘囚が水運で運ばれてくる花見川を、俘囚の運命が決ることに思いを深めて、検見川と呼んだのだとの思います。

検見川とは自然現象の川、風景としての川ではなく、俘囚が運ばれてきて、この地でその運命が決ってしまうという、その俘囚の運命に移動経路の川を重ねた一種の比喩語です。

アフリカ大陸を暗黒大陸などと比喩するのと同じ言葉使いです。

その比喩語検見川が地名となったのです。

その後玄蕃所がなくなって検見川の意味は全く忘れられてしまったのだと思います。

ただ地名は、恐ろしく愚直に現代まで伝承してきているのです。

(以上 2014.12.24記事「地名「検見川」は俘囚の検見(尋問)に由来する」)

2 小字「直道」(ナオミチ)の解釈

道の意味は人が歩む道という意味であり、直道は「人が歩む道に直る」「人が歩む道に直す」という意味に解釈します。

つまり俘囚が蝦夷の考え方を捨て、中央政府社会に服属を誓うことを直道(ナオミチ)と称したのだと思います。

より具体的には、俘囚教化施設があった場所の地名であると考えます。

直道(ナオミチ)と同じような用語法の言葉に直会(ナオライ)があります。

3 小字「大道」(オオミチ)の解釈

直道に隣接して小字「大道」(オオミチ)があります。

検見川台地上に幅広の大路が存在していたという情報は知りません。

小字「大道」(オオミチ)も「人が歩むべき正しい道」という比喩的な意味であると考えます。

直道(なおみち)(=俘囚教化施設)で中央政府に服属することを誓った俘囚が各地に移配される前に収容された施設が存在していた場所だと考えます。

小字「大道」(オオミチ)は服属した俘囚が中央政府社会に旅立つ(移配される)、開かれた場所を意味すると考えます。

4 花見川河口津における俘囚検見プロセス

花見川河口津における俘囚の検見プロセスを次のように想像することができます。

ア 居寒到着

陸奥国から平戸川-船越-花見川経由で居寒(花見川河口津(軍港))に俘囚が到着します。

イ 玄蕃所における検見

玄蕃所で俘囚は検見(尋問)を受けます。

ウ 直道での教化

俘囚は教化施設で中央政府に力づくで服属させられます。

エ 大道からの移配

服属した俘囚は外に開かれた施設に移り、そこから全国各地に移配されます。

2016年11月30日水曜日

地名学習 6年間のふりかえり

6年間の趣味活動(ブログ活動)のふりかえりを行っています。

2016.11.19記事「ブログ花見川流域を歩く 6年間のふりかえり」参照

この記事では地名学習をふりかえります。

6年間の主な学習テーマ(対象)を時間順にならべてみました。

表の上が最近、下が最初です。

地名学習の主なテーマ



●これまでの学習で、花見川付近の個別地名の由来を考える中で古代起源の地名が多いことに気が付きました。

●角川千葉県地名大辞典付録小字リストを電子化してデータベースとして利用できるようになりました。

この結果、自分の地名学習が大いに深まりつつあります。

データを集めることに多大なエネルギーを使うのではなく、思考にエネルギーを使えるので、活動が効率的になりました。

●縄文・アイヌ・蝦夷(俘囚)関連地名に興味を深めています。

地名からみて古代房総には縄文人末裔と俘囚(蝦夷)の集落が存在していたと考えます。

そのような地名情報を遺跡発掘情報の中で確認することが自分の密かな大テーマとなっています。

以下は2016.06.02記事「千葉県のアイヌ語地名「メナ」」で掲載した図面です。

メナの分布

アイヌ語地名 小字「メナ」の分布

東北地方のナイ、ペツ地名の分布
瀬川拓郎(2016):「アイヌと縄文-もうひとつの日本の歴史-」(ちくま新書)から引用
(ナイ、ペツを使った集団とメナを使った集団が同じならば、房総に飛地的にその集団が残された可能性があります。)

このような図面から、縄文人末裔集落が古代房総に存在していたと仮説していて、古代学習に興味がそそられる要因の一つになっています。


2016年10月5日水曜日

上谷遺跡 竪穴住居の機能・利用が2分割できそう

竪穴住居について重要なことに気が付きましたのでメモしておきます。

これまでの検討で、地形の検討から泉の存在に気が付き、水管理用竪穴住居の存在を突き止めました。

また、付着土器や土坑の検討から漆工房(竪穴住居)の存在を突き止めました。

さて、これらの特定機能を有する竪穴住居から墨書土器が出土していないことに気が付きました。

上谷遺跡 墨書土器が出土する竪穴住居と出土しない竪穴住居



墨書土器が出土しない竪穴住居の例

浸水する心配があるので周りに堤防を張り巡らして、そこを拠点に馬の水飲み場の管理を行っている1軒屋の竪穴住居からは墨書土器が出土していません。

また、漆工房である竪穴住居からも墨書土器は出土していません。

なぜ墨書土器が出土しないのか?

その理由として次の2つを仮説していみました。

仮説1 竪穴住居が住居ではなく、短時間利用する作業空間であったため墨書土器が出土しないと考える仮説。

水管理施設あるいは漆工房は業務が必要な短時間だけ利用している作業空間であり、食事や睡眠を伴う生活空間ではなかったと考えます。

いわば職場であり、自宅ではないので、そこからは墨書土器が出土しないと考えます。

墨書土器とは祈願ツールとしての食器ですから、主に食事や睡眠を伴う自宅に置いていたという考えです。

仮説2 竪穴住居の住民が俘囚や奴婢であるため墨書土器が出土しないと考える仮説

水管理施設あるいは漆工房で働いていた人が俘囚や奴婢であり、社会の下層に位置していて墨書土器風習を持つことができなかったと考えます。

土の堤防で浸水を防ぐような劣悪環境や、斜面の貧弱住居で漆工芸を行っていたのは俘囚や奴婢であったと考えます。

俘囚や奴婢は劣悪環境に耐えることができるとともに、陸奥国から連れてこられた俘囚の中には漆工芸技術にすぐれた工人が含まれていて、それらの技術を持った俘囚が働かさせられていた可能性があります。


当初仮説1を念頭においていたのですが、子細な情報を積み重ねると、仮説2の方が有力であると考えるようになりました。

俘囚や奴婢(特に蝦夷戦争で連れてこられた俘囚)の存在を証明できる直接証拠がどこかにないか探しています。


統計的な意味で、墨書土器が出土する竪穴住居と出土しない竪穴住居はその機能が異なることがいえると考えます。

さらに住んでいた住民の社会階層が異なっていた可能性があります。

竪穴住居の大小などの検討作業(統計的比較作業など)を行う価値がありそうです。

また墨書土器の出る竪穴住居と出ない竪穴住居がまるでペアのように分布していことが多くみられますので、主人と従者の関係を想像してしまいます。