印西市船尾に中峠(ナカビョウ)という小字が開発前にありました。
印西市小字「中峠(ナカビョウ)」
下総と上総に多い、峠・票・俵などと書いてビョウ、ヒョウ、ビヨ、ヒヨと読ませる地名について柳田國男が検討していることは有名であり、地境の標が起源で目印の立木であり、標は注連縄のシメと同じであると論じています。
印西市船尾の中峠(ナカビョウ)は集落と集落の境の峠(分水界)を連想させるような地勢ではありません。
印西市船尾の小字中峠(ナカビョウ)と西根遺跡との位置関係をみると次のようになります。
西根遺跡と小字「中峠(ナカビョウ)」
私は西根遺跡に祭壇としての立木(生木ではない白木、イナウ、注連縄のある棒)が縄文時代から中近世まで存在していて、古代かあるいは中近世のある時代に地名「中峠(ナカビョウ)」がつけられたのではないかと空想しています。
西根遺跡にはいつの時代にも戸神川谷津を境するような標(イナウ、注連縄のある棒)があり、空間を境していたと空想します。
その標(イナウ、注連縄のある棒)を管理するような集落があった場所が小字「中峠(ナカビョウ)」です。
2017年8月31日木曜日
2017年7月30日日曜日
イナウ学習 梅原猛 柳田國男 金田一京助
イナウに関する付け焼刃学習の第5回目です。
イナウそのものの興味から離れた大脱線記事です。
2017.07.26記事「イナウ学習 梅原猛「日本の深層」による」で梅原猛の「日本の深層」の記述を引用して考察しました。
その引用文の前で梅原猛は、柳田國男がオシラサマと類似の信仰がアイヌにあるか金田一京助に聞いて、関係が無いと判断した顛末について記述しています。
その記述における柳田國男と金田一京助の関係が大分脚色されているような印象を受けるのでメモしておきます。
梅原猛の記述は次の通りです。
「地にあるものたちへの共感
柳田はおしらさまからこけし、おひなさま、あるいは傀儡への展開をみごとに解明したが、おしらさまそのものがなんであるかを、明らかにすることはできなかった。
最初彼は、このような信仰がアイヌにあるのではないかと思って、金田一京助に聞いたところ、アイヌにシラッキカムイというのがあるということを聞いた。シラッキというのは「番をする」ということで、シラッキカムイはアイヌの守り神である。それは多くは、キツネやフクロウのシャレコウベであった。アイヌは旅行のときにもそういうシャレコウベをもって歩く。もしもアイヌのシラッキカムイがそのようなものであるとすれば、それは、顔を描かれた木切れであるおしらさまとは、ずいぶんとちがう。おしらさまとシラッキカムイとは結びつかない。
おそらくそのせいであろう、柳田国男は、おしらさまが蝦夷すなわちアイヌと関係あるという説を捨てる。おしらさまはまったくわが国独自のものであり、たとえそれが偶然蝦夷の地に、すなわち津軽を中心とする東北地方に盛んであったとしても、まったく蝦夷すなわちアイヌと関係のないものだと、後年の柳田は考えたのである。
しかしそれはちがっているのである。金田一の教え方がまずかったか、柳田の尋ね方が不十分かであったのである。おしらさまに、その名もその機能もまったくよく似たというよりは、まったく同じであると思われる神が、実はアイヌに存在しているのである。それはシランパカムイというのである。」
梅原猛「日本の深層」(集英社文庫)から引用
オシラサマについて(ひいてはイナウなどについて)柳田國男が金田一京助から影響を受けているような記述になっています。
柳田國男が金田一京助に物事を聞いたことはあるのでしょうけれども、その情報から柳田國男が思考の組み立ての基本を変更することは無かったと考えます。
というのは金田一京助と柳田國男の関係は巨匠と中堅の関係であり、柳田國男が金田一京助に物事について深い部分で「聞く、教えてもらう」ことは無かったと考えるからです。
柳田國男は金田一京助から現場の情報を提供してもらっていただけだと思います。
私がこのような印象を持つのは次の金田一京助の柳田國男追悼文を読んだからです。
追悼文ですから柳田國男を高め、自分は低めているのでしょうけれど、そうした一般的な衣を剥がしても、二人の関係は巨匠と中堅であったと思います。
定本柳田國男集 月報31 「柳田先生を偲びて 金田一京助」
「柳田先生を偲びて
金田一京助
私が先生をお慕い申上げた初めは、明治四十年頃のこと、私がその年、樺太へ赴いて、東岸のオチョポッカで、そこのアイヌの、毎日のように口にしているエンルㇺ(enrum)が「岬」の意味だったが、バチラー博士のアイヌ語辞典にはこの語が見えない故、北海道アイヌには無い語だろうかといぶかっていた頃のこと、先生は、私より早く、樺太占領直後の三十九年に赴かれてこの語に気付かれ、驚くべきことを事もなげに、何かの上に、こうお述べになったのを読んだことだった。
それは、「エンルㇺは、北海道でも昔は言ったものだろう。室蘭の岬のエンドモ(絵鞆)は即ちエンルㇺの訛であろうし、今一つ大きく太平洋へ突出した大岬の襟裳崎も、もとエンルㇺだったにちがいない。そこの郡名の幌泉は即ちポロ「大」エンルㇺ「岬」であろう。」というお説だったのである。何という活眼、何という識見、私は頭が下がったものだった。
こうしたことで先生を蔭ながら崇拝している時、先生は同郷人の亀田次郎氏に向かって、「誰かアイヌ語を研究する学者が、大学あたりに居ないか」と問われたことがあって、亀田氏は当時、東大の国語研究室の助手でよく私を知っていた人だったから、
「学者も、食わなきぁなりませんからね」
と突飛な答をして先生を驚かし、
「それぁそうだ、大学あたりでよろしく保護して研究を助けなくては」
そこで亀田氏は、私の名を出して、食うや食わずの刻苦をして居り、ある時、訪れたら、昼飯をしたゝめていたが、何のおかずもなく、塩を振りかけて、から飯をたべて居ました、などお話をしたそう。先生は、目をしばたゝいて聞かれて、
「その人に逢って見たい。君からよろしくこの旨を伝えてくれるように」
と頼まれた、ということで、私もエンルㇺ説に感嘆以来、慕いあげていたものだったから、二三日後、内閣の記録課へお訪ねしてお目にかゝったのが、先生へお近付きになつた最初だった。
心と心との相通、初めてお目にかゝりながら、故旧のように親しく融け合って忘れがたい印象。記録課長は、内閣図書課長を兼ねられ、内閣文庫内の秘本の、蝦夷関係の文書を、課員の窪田君に命じて出して見せて下さるなど、こんな幸福がないと思うほど幸福だった。殊に驚いたのは、どの本を繙いても、赤い不審紙の貼られてない本のなかったこと、それは先生が、そうやってカードを取られた時の目じるしで、実は、先生は、文庫の本を整理されて全部置き替えた上、完全な目録までも作られる目的で、こうやって文庫の本を皆繙かれたものだったというに至って、先生の博覧の源が手に取るように解ったことだった。
果してそうした文庫の新目録は、何年かの後に、出来上ったのであった。
江戸幕府から引き継いだこの文庫は、日本に、否、世界に唯一の珍籍だらけだった内に、最も私を喜ばせた本は浩翰な「蝦夷語彙」三巻の発見だった。
著者「上原有次」は、寛政の蝦夷通辞上原熊次郎にまちがい。最上徳内が信頼した松前藩の通辞で、彼が白虹斎の名で序を書いた「蝦夷方言藻汐草」が成った後、終生のアイヌ語知識をまとめ上げた原本そのものだったから、貴重なものだった。しかも先生は、家へ持ち帰って写してもいいとお許し下さる。暇な頃だったから、持ち帰って、私と家内と家内の姪の林政子(実践卒業)と三人で筆写して製本したのが、凡そこの本の唯一の複本で、私の前に何人もこの書について一言も言っていないし、幕府の書庫内に完全に眠りつゞけて居た本だったから驚く。ロシヤにはドブロトヴォルスキイのAinsko Slovarが在り、英人にはバチラーのアイヌ・イングリシ・ジャパニズ・ディクショナリーがあるのに、日本にだけ住むアイヌの辞書が日本になかったら、正に日本の恥辱だったのに、内閣にこの本が在ることによって、初めて日本の面目も立つ。
余りの嬉しさに、私はその後、これを引き易い分類アイヌ語辞典に写しかえ、謄写版にして知友に頒けるに至ったのは、ひとりでこの珍味を味っているに忍びなかったからである。それもこれもみな、一に柳田先生の賜物だったのである。(昭三九・十一)」
定本柳田國男集 月報31 「柳田先生を偲びて 金田一京助」から引用
アイヌ語に関してすら最初は柳田國男の方がはるかに博識であり、日本で最高の情報に接していたのです。
柳田國男は金田一京助に現場情報を期待していたと思います。
おそらく金田一京助からの現場情報は柳田國男が期待したような(パラダイム転換に使えるような)ものではなかったと想像します。
柳田國男は金田一京助の情報の如何にかかわらず思考の枠組みは自分独自に考えていて、「花とイナウ」にあるようにアイヌと和人が同根である可能性を密かに感じながら、学問上の構築物ではアイヌと和人を区別していたのだと思います。
イナウそのものの興味から離れた大脱線記事です。
2017.07.26記事「イナウ学習 梅原猛「日本の深層」による」で梅原猛の「日本の深層」の記述を引用して考察しました。
その引用文の前で梅原猛は、柳田國男がオシラサマと類似の信仰がアイヌにあるか金田一京助に聞いて、関係が無いと判断した顛末について記述しています。
その記述における柳田國男と金田一京助の関係が大分脚色されているような印象を受けるのでメモしておきます。
梅原猛の記述は次の通りです。
「地にあるものたちへの共感
柳田はおしらさまからこけし、おひなさま、あるいは傀儡への展開をみごとに解明したが、おしらさまそのものがなんであるかを、明らかにすることはできなかった。
最初彼は、このような信仰がアイヌにあるのではないかと思って、金田一京助に聞いたところ、アイヌにシラッキカムイというのがあるということを聞いた。シラッキというのは「番をする」ということで、シラッキカムイはアイヌの守り神である。それは多くは、キツネやフクロウのシャレコウベであった。アイヌは旅行のときにもそういうシャレコウベをもって歩く。もしもアイヌのシラッキカムイがそのようなものであるとすれば、それは、顔を描かれた木切れであるおしらさまとは、ずいぶんとちがう。おしらさまとシラッキカムイとは結びつかない。
おそらくそのせいであろう、柳田国男は、おしらさまが蝦夷すなわちアイヌと関係あるという説を捨てる。おしらさまはまったくわが国独自のものであり、たとえそれが偶然蝦夷の地に、すなわち津軽を中心とする東北地方に盛んであったとしても、まったく蝦夷すなわちアイヌと関係のないものだと、後年の柳田は考えたのである。
しかしそれはちがっているのである。金田一の教え方がまずかったか、柳田の尋ね方が不十分かであったのである。おしらさまに、その名もその機能もまったくよく似たというよりは、まったく同じであると思われる神が、実はアイヌに存在しているのである。それはシランパカムイというのである。」
梅原猛「日本の深層」(集英社文庫)から引用
オシラサマについて(ひいてはイナウなどについて)柳田國男が金田一京助から影響を受けているような記述になっています。
柳田國男が金田一京助に物事を聞いたことはあるのでしょうけれども、その情報から柳田國男が思考の組み立ての基本を変更することは無かったと考えます。
というのは金田一京助と柳田國男の関係は巨匠と中堅の関係であり、柳田國男が金田一京助に物事について深い部分で「聞く、教えてもらう」ことは無かったと考えるからです。
柳田國男は金田一京助から現場の情報を提供してもらっていただけだと思います。
私がこのような印象を持つのは次の金田一京助の柳田國男追悼文を読んだからです。
追悼文ですから柳田國男を高め、自分は低めているのでしょうけれど、そうした一般的な衣を剥がしても、二人の関係は巨匠と中堅であったと思います。
定本柳田國男集 月報31 「柳田先生を偲びて 金田一京助」
「柳田先生を偲びて
金田一京助
私が先生をお慕い申上げた初めは、明治四十年頃のこと、私がその年、樺太へ赴いて、東岸のオチョポッカで、そこのアイヌの、毎日のように口にしているエンルㇺ(enrum)が「岬」の意味だったが、バチラー博士のアイヌ語辞典にはこの語が見えない故、北海道アイヌには無い語だろうかといぶかっていた頃のこと、先生は、私より早く、樺太占領直後の三十九年に赴かれてこの語に気付かれ、驚くべきことを事もなげに、何かの上に、こうお述べになったのを読んだことだった。
それは、「エンルㇺは、北海道でも昔は言ったものだろう。室蘭の岬のエンドモ(絵鞆)は即ちエンルㇺの訛であろうし、今一つ大きく太平洋へ突出した大岬の襟裳崎も、もとエンルㇺだったにちがいない。そこの郡名の幌泉は即ちポロ「大」エンルㇺ「岬」であろう。」というお説だったのである。何という活眼、何という識見、私は頭が下がったものだった。
こうしたことで先生を蔭ながら崇拝している時、先生は同郷人の亀田次郎氏に向かって、「誰かアイヌ語を研究する学者が、大学あたりに居ないか」と問われたことがあって、亀田氏は当時、東大の国語研究室の助手でよく私を知っていた人だったから、
「学者も、食わなきぁなりませんからね」
と突飛な答をして先生を驚かし、
「それぁそうだ、大学あたりでよろしく保護して研究を助けなくては」
そこで亀田氏は、私の名を出して、食うや食わずの刻苦をして居り、ある時、訪れたら、昼飯をしたゝめていたが、何のおかずもなく、塩を振りかけて、から飯をたべて居ました、などお話をしたそう。先生は、目をしばたゝいて聞かれて、
「その人に逢って見たい。君からよろしくこの旨を伝えてくれるように」
と頼まれた、ということで、私もエンルㇺ説に感嘆以来、慕いあげていたものだったから、二三日後、内閣の記録課へお訪ねしてお目にかゝったのが、先生へお近付きになつた最初だった。
心と心との相通、初めてお目にかゝりながら、故旧のように親しく融け合って忘れがたい印象。記録課長は、内閣図書課長を兼ねられ、内閣文庫内の秘本の、蝦夷関係の文書を、課員の窪田君に命じて出して見せて下さるなど、こんな幸福がないと思うほど幸福だった。殊に驚いたのは、どの本を繙いても、赤い不審紙の貼られてない本のなかったこと、それは先生が、そうやってカードを取られた時の目じるしで、実は、先生は、文庫の本を整理されて全部置き替えた上、完全な目録までも作られる目的で、こうやって文庫の本を皆繙かれたものだったというに至って、先生の博覧の源が手に取るように解ったことだった。
果してそうした文庫の新目録は、何年かの後に、出来上ったのであった。
江戸幕府から引き継いだこの文庫は、日本に、否、世界に唯一の珍籍だらけだった内に、最も私を喜ばせた本は浩翰な「蝦夷語彙」三巻の発見だった。
著者「上原有次」は、寛政の蝦夷通辞上原熊次郎にまちがい。最上徳内が信頼した松前藩の通辞で、彼が白虹斎の名で序を書いた「蝦夷方言藻汐草」が成った後、終生のアイヌ語知識をまとめ上げた原本そのものだったから、貴重なものだった。しかも先生は、家へ持ち帰って写してもいいとお許し下さる。暇な頃だったから、持ち帰って、私と家内と家内の姪の林政子(実践卒業)と三人で筆写して製本したのが、凡そこの本の唯一の複本で、私の前に何人もこの書について一言も言っていないし、幕府の書庫内に完全に眠りつゞけて居た本だったから驚く。ロシヤにはドブロトヴォルスキイのAinsko Slovarが在り、英人にはバチラーのアイヌ・イングリシ・ジャパニズ・ディクショナリーがあるのに、日本にだけ住むアイヌの辞書が日本になかったら、正に日本の恥辱だったのに、内閣にこの本が在ることによって、初めて日本の面目も立つ。
余りの嬉しさに、私はその後、これを引き易い分類アイヌ語辞典に写しかえ、謄写版にして知友に頒けるに至ったのは、ひとりでこの珍味を味っているに忍びなかったからである。それもこれもみな、一に柳田先生の賜物だったのである。(昭三九・十一)」
定本柳田國男集 月報31 「柳田先生を偲びて 金田一京助」から引用
アイヌ語に関してすら最初は柳田國男の方がはるかに博識であり、日本で最高の情報に接していたのです。
柳田國男は金田一京助に現場情報を期待していたと思います。
おそらく金田一京助からの現場情報は柳田國男が期待したような(パラダイム転換に使えるような)ものではなかったと想像します。
柳田國男は金田一京助の情報の如何にかかわらず思考の枠組みは自分独自に考えていて、「花とイナウ」にあるようにアイヌと和人が同根である可能性を密かに感じながら、学問上の構築物ではアイヌと和人を区別していたのだと思います。
2017年7月29日土曜日
イナウ学習 鉄器以前のイナウ
イナウに関する付け焼刃学習の第4回目です。
2017.07.28記事「イナウ学習 柳田國男「花とイナウ」による」で柳田國男のイナウに関する興味を学習しました。
柳田國男は「花とイナウ」の中で「小刀のまだ普及せぬ頃の、アイヌの中ではどうであったらうか。二つの種族における一つの習俗の、同源異源を説く前には何とかしてこの點を明らかにして置く必要があると思ふ。」と疑問を述べています。
現在見ることのできるイナウは古いものも含めて全て鉄器により作られたものです。
鉄器以前、つまり石器で作られたイナウを見たことはありませんし、それがどのようなものであったか問題にした研究の存在を(自分が素人なので)知りません。
柳田國男は鉄器以前にイナウが作られていたのかどうか疑問を呈しているのですが、その解答はだれもできないのではないかと思います。
しかし、西根遺跡出土丸木製品(発掘調査報告書では杭)が石器で作られたイナウである可能性が濃厚になりました。
石器でつくられた縄文時代後期のイナウ(想定)
この物的証拠が専門家によって認められるならば、縄文人が日常作って祭祀に使っていたイナウの風習がそのままアイヌに受け継がれていると考えられます。
縄文社会の祭祀の様子をアイヌの祭祀から読み解くことができるという思考の根拠になります。
柳田國男がこの情報を知れば、アイヌに残ったイナウという風習と和人に残った削り花が同源であると理解したに違いありません。
2017.07.28記事「イナウ学習 柳田國男「花とイナウ」による」で柳田國男のイナウに関する興味を学習しました。
柳田國男は「花とイナウ」の中で「小刀のまだ普及せぬ頃の、アイヌの中ではどうであったらうか。二つの種族における一つの習俗の、同源異源を説く前には何とかしてこの點を明らかにして置く必要があると思ふ。」と疑問を述べています。
現在見ることのできるイナウは古いものも含めて全て鉄器により作られたものです。
鉄器以前、つまり石器で作られたイナウを見たことはありませんし、それがどのようなものであったか問題にした研究の存在を(自分が素人なので)知りません。
柳田國男は鉄器以前にイナウが作られていたのかどうか疑問を呈しているのですが、その解答はだれもできないのではないかと思います。
しかし、西根遺跡出土丸木製品(発掘調査報告書では杭)が石器で作られたイナウである可能性が濃厚になりました。
石器でつくられた縄文時代後期のイナウ(想定)
この物的証拠が専門家によって認められるならば、縄文人が日常作って祭祀に使っていたイナウの風習がそのままアイヌに受け継がれていると考えられます。
縄文社会の祭祀の様子をアイヌの祭祀から読み解くことができるという思考の根拠になります。
柳田國男がこの情報を知れば、アイヌに残ったイナウという風習と和人に残った削り花が同源であると理解したに違いありません。
2017年7月28日金曜日
イナウ学習 柳田國男「花とイナウ」による
イナウに関する付け焼刃学習の第3回目です。
梅原猛「日本の深層」でイナウに関する学習を行いました。
2017.07.26記事「イナウ学習 梅原猛「日本の深層」による」
この図書(集英社文庫)の解説を赤坂憲雄という方が書いていて、その中で柳田國男「花とイナウ」について次のように触れています。
「戦後の柳田には、「花とイナウ」と題された論考がある。柳田の最初にして、最後の本格的なアイヌ文化論であった。祭りの庭に神霊の依代として立てられる樹木ないし枝である、花/イナウ。削りかけ・御幣・ヌサ・手草などの名で呼ばれる、日本人の信仰のなかの祭りの木つまり花を、アイヌの人々はイナウと称する。花とイナウはあまりに似ている。だからこそ、柳田はそれを「二つの種族における一つの習俗」である、と語らざるをえなかった。ほかの信仰・習俗・伝承については、日本文化/アイヌ文化のあいだに切断線を引くことにためらいを見せなかった柳田が、花/イナウの前では途方に暮れている。「花とイナウ」の漂わせるひき裂かれた雰囲気は、日本文化/アイヌ文化の切断それ自体にたいする確信の揺らぎを暗示している、そんな気がする。
二つの種族における一つの習俗とは、いかにも苦しい。説得力に欠ける。梅原さんならば、迷わずに、それは一つの種族における一つの習俗である、と断言することだろう。わたしには断言するだけの自信は、残念ながらない。しかし、花/イナウとかぎらず、一つの種族における一つの習俗であると仮定することで見えてくるものが、ことに東北の文化のなかには、あまりに多い。」
赤坂憲雄「梅原猛「日本の深層」集英社文庫収録解説」から引用
柳田國男がイナウについて考察していること自体興味がありますし、解説文の趣旨が本当にそうであるかも興味が湧きましたので、早速読んでみました。
柳田國男「花とイナウ」定本柳田國男集第11巻から
(文中の鉛筆線は30年前に自分が引いたものです。30年くらい前に定本柳田國男集全31巻、別巻5巻を入手し第1巻から読みだし15巻くらまで読んで、全巻読破できなかった思い出があります。)
柳田國男「花とイナウ」の初出は「昭和22年1月、2月、北方風物2巻1号、2号」です。
書き出しは次の通りです。
「北地原住民の神を祭る日に立てる木、彼等の言葉でイナウ又はイナオといふものは、こちらにもよほど似よつた風習があつて、最も普通にはこれを花と呼んでゐる。関東北部では木花、信州の一部には花の木といふ名もあり、正月十三日をそのために花掻き日、同十四日の晩から十五日へかけての年越を花正月、また大正月の松の内に対して、小正月の幾日かの休みを、花の内といつてゐる例も東京の近くにはある。
古い時代には、これを本ものの花と区別するために、削り花と呼んでゐたことが文献の上に伝わり、それを後々は又ケヅリカケともいつたやうで、今も九州方面にはこの名が行はれてゐる。最初の心持は削って掛けるといふのだったらしいが、近頃少しづゝその技術が衰へて来て、何か未完成のやうな感じを伴ふやうになった。しかしもしこのカケが作りかけなどのカケであつたならば、これを改った信仰の儀式に、用意する筈はないのである。
花とイナウと、隻方一つ一つの作品を比べ合せて見ると、あちらのは念入りで手が込んでをり、こちらのは簡略で無造作なものが多いので、たつたこれだけの近頃の事實によつて、或は一方を摸倣であり、眞似そこなひであるやうに、想像する人もないとは限らぬが、さういふ早合點が一番いけない。以前も今の通りであつたといふ根拠は一つもないばかりか、寧ろ反対の推測を下すべき理由が幾つもある。つまりはかういふ目に立たぬ事物にも、まだわれわれの知らなかつた歴史があるのである。」
柳田國男「花とイナウ」から引用
この論考で柳田國男はアイヌのイナウという風習が和人の花(削り花)と瓜二つであり、それがどのように関係しているのか興味を持っているということをメインテーマにしています。
アイヌのイナウ習俗のほかにヌサ、タクサなどの神に関する言葉の相似もあり「お互いに内部の生活まで、理解しあってゐたことが想像せられ、たとへやうもないなつかしさを感ずる」と述べています。
そして最後に「一方の信仰が他の信仰の一部までも、置き換へたものとは解することができないのである。」と結んでいます。
この柳田國男の最後の文章は和人の神道などの風習や言葉がアイヌに影響を与えて、それがアイヌのアイデンティティになって現在に至っているという単純な結論を排除しているのです。
和人とアイヌに信仰にかんして花とイナウにみられるように相似の風習や言葉があり、その起源が同じか違うのかわからないと結論付けているのです。
むしろ、和人の神道などの影響でアイヌの信仰を説明しようということではなく、花とイナウの相似の根拠はまだ証拠(データ)の上でその原理を説明できるものがないといっているのです。和人とアイヌの信仰が同根であることを排除していません。
これは終戦直後の昭和22年の文章です。
今から批判すればいくらでもできます。上記赤坂憲雄の文章は昭和22年の柳田國男にたいして少し酷なような印象を持ちました。
寧ろ柳田國男の「花とイナウ」を、柳田國男がアイヌと和人の信仰が同根であると考えようとした可能性があるものとして肯定的に扱うべきものであると考えます。
柳田國男「花とイナウ」は梅原猛にインスピレーションを与えたに違いありません。
……………………………………………………………………
定本柳田國男集第11巻 中表紙
梅原猛「日本の深層」でイナウに関する学習を行いました。
2017.07.26記事「イナウ学習 梅原猛「日本の深層」による」
この図書(集英社文庫)の解説を赤坂憲雄という方が書いていて、その中で柳田國男「花とイナウ」について次のように触れています。
「戦後の柳田には、「花とイナウ」と題された論考がある。柳田の最初にして、最後の本格的なアイヌ文化論であった。祭りの庭に神霊の依代として立てられる樹木ないし枝である、花/イナウ。削りかけ・御幣・ヌサ・手草などの名で呼ばれる、日本人の信仰のなかの祭りの木つまり花を、アイヌの人々はイナウと称する。花とイナウはあまりに似ている。だからこそ、柳田はそれを「二つの種族における一つの習俗」である、と語らざるをえなかった。ほかの信仰・習俗・伝承については、日本文化/アイヌ文化のあいだに切断線を引くことにためらいを見せなかった柳田が、花/イナウの前では途方に暮れている。「花とイナウ」の漂わせるひき裂かれた雰囲気は、日本文化/アイヌ文化の切断それ自体にたいする確信の揺らぎを暗示している、そんな気がする。
二つの種族における一つの習俗とは、いかにも苦しい。説得力に欠ける。梅原さんならば、迷わずに、それは一つの種族における一つの習俗である、と断言することだろう。わたしには断言するだけの自信は、残念ながらない。しかし、花/イナウとかぎらず、一つの種族における一つの習俗であると仮定することで見えてくるものが、ことに東北の文化のなかには、あまりに多い。」
赤坂憲雄「梅原猛「日本の深層」集英社文庫収録解説」から引用
柳田國男がイナウについて考察していること自体興味がありますし、解説文の趣旨が本当にそうであるかも興味が湧きましたので、早速読んでみました。
柳田國男「花とイナウ」定本柳田國男集第11巻から
(文中の鉛筆線は30年前に自分が引いたものです。30年くらい前に定本柳田國男集全31巻、別巻5巻を入手し第1巻から読みだし15巻くらまで読んで、全巻読破できなかった思い出があります。)
柳田國男「花とイナウ」の初出は「昭和22年1月、2月、北方風物2巻1号、2号」です。
書き出しは次の通りです。
「北地原住民の神を祭る日に立てる木、彼等の言葉でイナウ又はイナオといふものは、こちらにもよほど似よつた風習があつて、最も普通にはこれを花と呼んでゐる。関東北部では木花、信州の一部には花の木といふ名もあり、正月十三日をそのために花掻き日、同十四日の晩から十五日へかけての年越を花正月、また大正月の松の内に対して、小正月の幾日かの休みを、花の内といつてゐる例も東京の近くにはある。
古い時代には、これを本ものの花と区別するために、削り花と呼んでゐたことが文献の上に伝わり、それを後々は又ケヅリカケともいつたやうで、今も九州方面にはこの名が行はれてゐる。最初の心持は削って掛けるといふのだったらしいが、近頃少しづゝその技術が衰へて来て、何か未完成のやうな感じを伴ふやうになった。しかしもしこのカケが作りかけなどのカケであつたならば、これを改った信仰の儀式に、用意する筈はないのである。
花とイナウと、隻方一つ一つの作品を比べ合せて見ると、あちらのは念入りで手が込んでをり、こちらのは簡略で無造作なものが多いので、たつたこれだけの近頃の事實によつて、或は一方を摸倣であり、眞似そこなひであるやうに、想像する人もないとは限らぬが、さういふ早合點が一番いけない。以前も今の通りであつたといふ根拠は一つもないばかりか、寧ろ反対の推測を下すべき理由が幾つもある。つまりはかういふ目に立たぬ事物にも、まだわれわれの知らなかつた歴史があるのである。」
柳田國男「花とイナウ」から引用
この論考で柳田國男はアイヌのイナウという風習が和人の花(削り花)と瓜二つであり、それがどのように関係しているのか興味を持っているということをメインテーマにしています。
アイヌのイナウ習俗のほかにヌサ、タクサなどの神に関する言葉の相似もあり「お互いに内部の生活まで、理解しあってゐたことが想像せられ、たとへやうもないなつかしさを感ずる」と述べています。
そして最後に「一方の信仰が他の信仰の一部までも、置き換へたものとは解することができないのである。」と結んでいます。
この柳田國男の最後の文章は和人の神道などの風習や言葉がアイヌに影響を与えて、それがアイヌのアイデンティティになって現在に至っているという単純な結論を排除しているのです。
和人とアイヌに信仰にかんして花とイナウにみられるように相似の風習や言葉があり、その起源が同じか違うのかわからないと結論付けているのです。
むしろ、和人の神道などの影響でアイヌの信仰を説明しようということではなく、花とイナウの相似の根拠はまだ証拠(データ)の上でその原理を説明できるものがないといっているのです。和人とアイヌの信仰が同根であることを排除していません。
これは終戦直後の昭和22年の文章です。
今から批判すればいくらでもできます。上記赤坂憲雄の文章は昭和22年の柳田國男にたいして少し酷なような印象を持ちました。
寧ろ柳田國男の「花とイナウ」を、柳田國男がアイヌと和人の信仰が同根であると考えようとした可能性があるものとして肯定的に扱うべきものであると考えます。
柳田國男「花とイナウ」は梅原猛にインスピレーションを与えたに違いありません。
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定本柳田國男集第11巻 中表紙
2016年7月3日日曜日
地名型「田代」の千葉県検索結果
このブログでは千葉県小字データベースの試用として鏡味完二の地名型について千葉県小字を検索して予察的検討をしています。
この記事では地名型「田代」を検討します。
1 参考 鏡味完二の地名型
鏡味完二の地名型
2 鏡味完二の検討 地名型「田代」
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Tasiroの地名
"田代"は疑なく開墾地名である。
その分布は大体,Yasikiと大同小異であるが,四国の大半が開拓地域から充実地域に進化している点で異り,それだけ時代の進行を示している。
"田代"の地名は柳田先生の指摘のように,峡谷(ここに"軽井沢"の地名あり)を越えて入り込んだ,山間の小盆地にこの田代の地名があるという傾向が存在するのは,近畿文化の最後の時期の開墾が,このような山間部に及ばなければならなかった事情として考えられる。
〔地図篇,Fig.269〕
(Fig22.No.14)
鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年) から引用
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3 学習 柳田國男の田代と軽井沢
鏡味完二が言及しているように柳田國男は「地名考説」のなかで「田代と軽井沢」という項目をたてて田代の意味と田代と軽井沢の関係を検討してます。
そのうち、田代に関する部分を引用します。
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此序に一言したいのは輕井澤と田代と云ふ地名との關係である。此二地が縷々相接してあることはよもや偶合ではあるまい。例へば、
伊豆田方郡函南村大字輕井澤
同 同 同 大字田代
岩代大沼郡東川村大字輕井澤
同 同 同 大字田代
羽後雄勝郡田代村大字輕井澤
同 同 同 大字田代
同 北秋田郡十二所町大字輕井澤字輕井澤
同 同 同 大字葛原字田代
少し離れては居るが上野吾妻郡嬬戀村大字田代なども、淺間山の東側を傳つて碓氷の輕井澤と通うて居る。
この田代と云ふ地は全國に何百とあるが意味の深い地名だ。
田代と云ふ語は近世の書物には單に耕地の意味に用ゐられて居るのもあるが、其字義から推しても又其所在が多く入野の奥であることを考へても、もとは唯水田適地と云ふことで、上古の文書に墾地などゝあるのと同じ意味であつたらしい。
天平十六年の大安寺資財帳に、伊勢國三重郡采女郷十四町の内譯、開田二町五段未開田代十二町、同員辨郡宿野原五百町、開田三十町未開田代四百七十町などゝある。
この未開田代はやがては田代と云ふ地名の起原であらうと思ふ。
降つて績左丞抄に探録した建久六年の若狭の國富保の文書などには、前には田三十四町一反餘の内譯、見作(現作)二十五町三段餘、田代八町八段餘とあり、後には同じ敷字を再起して、見作田何程荒何程としてある。
要するに開けば水田に成るべき地のことゝ考へられる。
其田代が今は大抵開かれて一區の村里の名になつて居ることは、以前其下流又は隣接地に本村などがあつて、早くから水田適地として此地に着目して居たのを人口が増すにつれて開作に手を下したと云ふことを意味し、多くの田代が随分の山奥にあるのは、今日でも北海道樺太の新村で米を栽培したがると同一の人情で、水の手の乏しい高地を拓くに至り、愈ゝ米作の希望を痛切にした結果が、地名となつて残つたものと思ふ。
而うして其田代に接近して存する輕井澤が、負搬してまでも道路を求めた人間移動の流れの溝口を意味するとすれば、是だけでも昔の田舎の生活が偲ばれる。
伊豆の今一つの田代などは、源平時代に既に狩野氏の分家が入つて住んで居た。
柳田國男「地名考説」(定本柳田國男集第20巻)から引用
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柳田國男は軽井沢(馬も通れない急峻な峠を人が荷を背負って運んだことに因む地名)と田代がツインで存在していることに着目して、田代とは山奥の水田適地のことを意味していたと考察しています。
鏡味完二はこの考察を踏まえて地名型として田代を設定したと考えます。
なお、辞書では田代の説明を次のように行っていて、柳田國男説と同じく田にするための土地(まだ開田されていない湿地)の意味も含めています。
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た‐しろ【田代】
〖名〗 田地。田となっている土地。また、田にするための土地。でんだい。
多度神宮寺伽藍縁起資財帳(801)延暦二〇年一一月三日「合墾田并田代捌拾町肆段参〓肆拾歩」
山家集(12C後)下「たしろ見ゆる池の堤の嵩添へて湛ふる水や春の夜のため」
補注 現在も山中の湿地について田代と呼んでいる例が少なくないから、まだ開田されていない湿地をいうか。
『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用
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4 千葉県における小字「田代」検索結果
小字「田代」は37件ヒットし所在市町は市原市、君津市、富津市、大多喜町、館山市、鴨川市、南房総市に限られました。
その分布図は次の通りです。
「田代」小字分布
「田代」は房総半島の南部に偏在し、かつ地形の険しい土地に多くなっていることがわかります。
「田代」が房総半島の南部に偏在している理由や田代の意味がかつて開発適地であったことを意味しているかどうかという検討は今後の課題とします。
なお、小字「軽井沢」は柏市に1個所あります。
「軽井沢」と「田代」とは、千葉県では関係ないと考えてよいと思います。
この記事では地名型「田代」を検討します。
1 参考 鏡味完二の地名型
鏡味完二の地名型
2 鏡味完二の検討 地名型「田代」
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Tasiroの地名
"田代"は疑なく開墾地名である。
その分布は大体,Yasikiと大同小異であるが,四国の大半が開拓地域から充実地域に進化している点で異り,それだけ時代の進行を示している。
"田代"の地名は柳田先生の指摘のように,峡谷(ここに"軽井沢"の地名あり)を越えて入り込んだ,山間の小盆地にこの田代の地名があるという傾向が存在するのは,近畿文化の最後の時期の開墾が,このような山間部に及ばなければならなかった事情として考えられる。
〔地図篇,Fig.269〕
(Fig22.No.14)
鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年) から引用
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3 学習 柳田國男の田代と軽井沢
鏡味完二が言及しているように柳田國男は「地名考説」のなかで「田代と軽井沢」という項目をたてて田代の意味と田代と軽井沢の関係を検討してます。
そのうち、田代に関する部分を引用します。
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此序に一言したいのは輕井澤と田代と云ふ地名との關係である。此二地が縷々相接してあることはよもや偶合ではあるまい。例へば、
伊豆田方郡函南村大字輕井澤
同 同 同 大字田代
岩代大沼郡東川村大字輕井澤
同 同 同 大字田代
羽後雄勝郡田代村大字輕井澤
同 同 同 大字田代
同 北秋田郡十二所町大字輕井澤字輕井澤
同 同 同 大字葛原字田代
少し離れては居るが上野吾妻郡嬬戀村大字田代なども、淺間山の東側を傳つて碓氷の輕井澤と通うて居る。
この田代と云ふ地は全國に何百とあるが意味の深い地名だ。
田代と云ふ語は近世の書物には單に耕地の意味に用ゐられて居るのもあるが、其字義から推しても又其所在が多く入野の奥であることを考へても、もとは唯水田適地と云ふことで、上古の文書に墾地などゝあるのと同じ意味であつたらしい。
天平十六年の大安寺資財帳に、伊勢國三重郡采女郷十四町の内譯、開田二町五段未開田代十二町、同員辨郡宿野原五百町、開田三十町未開田代四百七十町などゝある。
この未開田代はやがては田代と云ふ地名の起原であらうと思ふ。
降つて績左丞抄に探録した建久六年の若狭の國富保の文書などには、前には田三十四町一反餘の内譯、見作(現作)二十五町三段餘、田代八町八段餘とあり、後には同じ敷字を再起して、見作田何程荒何程としてある。
要するに開けば水田に成るべき地のことゝ考へられる。
其田代が今は大抵開かれて一區の村里の名になつて居ることは、以前其下流又は隣接地に本村などがあつて、早くから水田適地として此地に着目して居たのを人口が増すにつれて開作に手を下したと云ふことを意味し、多くの田代が随分の山奥にあるのは、今日でも北海道樺太の新村で米を栽培したがると同一の人情で、水の手の乏しい高地を拓くに至り、愈ゝ米作の希望を痛切にした結果が、地名となつて残つたものと思ふ。
而うして其田代に接近して存する輕井澤が、負搬してまでも道路を求めた人間移動の流れの溝口を意味するとすれば、是だけでも昔の田舎の生活が偲ばれる。
伊豆の今一つの田代などは、源平時代に既に狩野氏の分家が入つて住んで居た。
柳田國男「地名考説」(定本柳田國男集第20巻)から引用
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柳田國男は軽井沢(馬も通れない急峻な峠を人が荷を背負って運んだことに因む地名)と田代がツインで存在していることに着目して、田代とは山奥の水田適地のことを意味していたと考察しています。
鏡味完二はこの考察を踏まえて地名型として田代を設定したと考えます。
なお、辞書では田代の説明を次のように行っていて、柳田國男説と同じく田にするための土地(まだ開田されていない湿地)の意味も含めています。
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た‐しろ【田代】
〖名〗 田地。田となっている土地。また、田にするための土地。でんだい。
多度神宮寺伽藍縁起資財帳(801)延暦二〇年一一月三日「合墾田并田代捌拾町肆段参〓肆拾歩」
山家集(12C後)下「たしろ見ゆる池の堤の嵩添へて湛ふる水や春の夜のため」
補注 現在も山中の湿地について田代と呼んでいる例が少なくないから、まだ開田されていない湿地をいうか。
『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用
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4 千葉県における小字「田代」検索結果
小字「田代」は37件ヒットし所在市町は市原市、君津市、富津市、大多喜町、館山市、鴨川市、南房総市に限られました。
その分布図は次の通りです。
「田代」小字分布
「田代」は房総半島の南部に偏在し、かつ地形の険しい土地に多くなっていることがわかります。
「田代」が房総半島の南部に偏在している理由や田代の意味がかつて開発適地であったことを意味しているかどうかという検討は今後の課題とします。
なお、小字「軽井沢」は柏市に1個所あります。
「軽井沢」と「田代」とは、千葉県では関係ないと考えてよいと思います。
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