2017年7月30日日曜日

イナウ学習 梅原猛 柳田國男 金田一京助

イナウに関する付け焼刃学習の第5回目です。

イナウそのものの興味から離れた大脱線記事です。

2017.07.26記事「イナウ学習 梅原猛「日本の深層」による」で梅原猛の「日本の深層」の記述を引用して考察しました。
その引用文の前で梅原猛は、柳田國男がオシラサマと類似の信仰がアイヌにあるか金田一京助に聞いて、関係が無いと判断した顛末について記述しています。

その記述における柳田國男と金田一京助の関係が大分脚色されているような印象を受けるのでメモしておきます。

梅原猛の記述は次の通りです。
地にあるものたちへの共感

柳田はおしらさまからこけし、おひなさま、あるいは傀儡への展開をみごとに解明したが、おしらさまそのものがなんであるかを、明らかにすることはできなかった。

最初彼は、このような信仰がアイヌにあるのではないかと思って、金田一京助に聞いたところ、アイヌにシラッキカムイというのがあるということを聞いた。シラッキというのは「番をする」ということで、シラッキカムイはアイヌの守り神である。それは多くは、キツネやフクロウのシャレコウベであった。アイヌは旅行のときにもそういうシャレコウベをもって歩く。もしもアイヌのシラッキカムイがそのようなものであるとすれば、それは、顔を描かれた木切れであるおしらさまとは、ずいぶんとちがう。おしらさまとシラッキカムイとは結びつかない。

おそらくそのせいであろう、柳田国男は、おしらさまが蝦夷すなわちアイヌと関係あるという説を捨てる。おしらさまはまったくわが国独自のものであり、たとえそれが偶然蝦夷の地に、すなわち津軽を中心とする東北地方に盛んであったとしても、まったく蝦夷すなわちアイヌと関係のないものだと、後年の柳田は考えたのである。

しかしそれはちがっているのである。金田一の教え方がまずかったか、柳田の尋ね方が不十分かであったのである。おしらさまに、その名もその機能もまったくよく似たというよりは、まったく同じであると思われる神が、実はアイヌに存在しているのである。それはシランパカムイというのである。
梅原猛「日本の深層」(集英社文庫)から引用

オシラサマについて(ひいてはイナウなどについて)柳田國男が金田一京助から影響を受けているような記述になっています。

柳田國男が金田一京助に物事を聞いたことはあるのでしょうけれども、その情報から柳田國男が思考の組み立ての基本を変更することは無かったと考えます。

というのは金田一京助と柳田國男の関係は巨匠と中堅の関係であり、柳田國男が金田一京助に物事について深い部分で「聞く、教えてもらう」ことは無かったと考えるからです。
柳田國男は金田一京助から現場の情報を提供してもらっていただけだと思います。

私がこのような印象を持つのは次の金田一京助の柳田國男追悼文を読んだからです。
追悼文ですから柳田國男を高め、自分は低めているのでしょうけれど、そうした一般的な衣を剥がしても、二人の関係は巨匠と中堅であったと思います。

定本柳田國男集 月報31 「柳田先生を偲びて 金田一京助」

柳田先生を偲びて

金田一京助

私が先生をお慕い申上げた初めは、明治四十年頃のこと、私がその年、樺太へ赴いて、東岸のオチョポッカで、そこのアイヌの、毎日のように口にしているエンルㇺ(enrum)が「岬」の意味だったが、バチラー博士のアイヌ語辞典にはこの語が見えない故、北海道アイヌには無い語だろうかといぶかっていた頃のこと、先生は、私より早く、樺太占領直後の三十九年に赴かれてこの語に気付かれ、驚くべきことを事もなげに、何かの上に、こうお述べになったのを読んだことだった。

それは、「エンルㇺは、北海道でも昔は言ったものだろう。室蘭の岬のエンドモ(絵鞆)は即ちエンルㇺの訛であろうし、今一つ大きく太平洋へ突出した大岬の襟裳崎も、もとエンルㇺだったにちがいない。そこの郡名の幌泉は即ちポロ「大」エンルㇺ「岬」であろう。」というお説だったのである。何という活眼、何という識見、私は頭が下がったものだった。

こうしたことで先生を蔭ながら崇拝している時、先生は同郷人の亀田次郎氏に向かって、「誰かアイヌ語を研究する学者が、大学あたりに居ないか」と問われたことがあって、亀田氏は当時、東大の国語研究室の助手でよく私を知っていた人だったから、
「学者も、食わなきぁなりませんからね」
と突飛な答をして先生を驚かし、
「それぁそうだ、大学あたりでよろしく保護して研究を助けなくては」

そこで亀田氏は、私の名を出して、食うや食わずの刻苦をして居り、ある時、訪れたら、昼飯をしたゝめていたが、何のおかずもなく、塩を振りかけて、から飯をたべて居ました、などお話をしたそう。先生は、目をしばたゝいて聞かれて、
「その人に逢って見たい。君からよろしくこの旨を伝えてくれるように」
と頼まれた、ということで、私もエンルㇺ説に感嘆以来、慕いあげていたものだったから、二三日後、内閣の記録課へお訪ねしてお目にかゝったのが、先生へお近付きになつた最初だった。

心と心との相通、初めてお目にかゝりながら、故旧のように親しく融け合って忘れがたい印象。記録課長は、内閣図書課長を兼ねられ、内閣文庫内の秘本の、蝦夷関係の文書を、課員の窪田君に命じて出して見せて下さるなど、こんな幸福がないと思うほど幸福だった。殊に驚いたのは、どの本を繙いても、赤い不審紙の貼られてない本のなかったこと、それは先生が、そうやってカードを取られた時の目じるしで、実は、先生は、文庫の本を整理されて全部置き替えた上、完全な目録までも作られる目的で、こうやって文庫の本を皆繙かれたものだったというに至って、先生の博覧の源が手に取るように解ったことだった。

果してそうした文庫の新目録は、何年かの後に、出来上ったのであった。

江戸幕府から引き継いだこの文庫は、日本に、否、世界に唯一の珍籍だらけだった内に、最も私を喜ばせた本は浩翰な「蝦夷語彙」三巻の発見だった。

著者「上原有次」は、寛政の蝦夷通辞上原熊次郎にまちがい。最上徳内が信頼した松前藩の通辞で、彼が白虹斎の名で序を書いた「蝦夷方言藻汐草」が成った後、終生のアイヌ語知識をまとめ上げた原本そのものだったから、貴重なものだった。しかも先生は、家へ持ち帰って写してもいいとお許し下さる。暇な頃だったから、持ち帰って、私と家内と家内の姪の林政子(実践卒業)と三人で筆写して製本したのが、凡そこの本の唯一の複本で、私の前に何人もこの書について一言も言っていないし、幕府の書庫内に完全に眠りつゞけて居た本だったから驚く。ロシヤにはドブロトヴォルスキイのAinsko Slovarが在り、英人にはバチラーのアイヌ・イングリシ・ジャパニズ・ディクショナリーがあるのに、日本にだけ住むアイヌの辞書が日本になかったら、正に日本の恥辱だったのに、内閣にこの本が在ることによって、初めて日本の面目も立つ。

余りの嬉しさに、私はその後、これを引き易い分類アイヌ語辞典に写しかえ、謄写版にして知友に頒けるに至ったのは、ひとりでこの珍味を味っているに忍びなかったからである。それもこれもみな、一に柳田先生の賜物だったのである。(昭三九・十一)
定本柳田國男集 月報31 「柳田先生を偲びて 金田一京助」から引用

アイヌ語に関してすら最初は柳田國男の方がはるかに博識であり、日本で最高の情報に接していたのです。
柳田國男は金田一京助に現場情報を期待していたと思います。
おそらく金田一京助からの現場情報は柳田國男が期待したような(パラダイム転換に使えるような)ものではなかったと想像します。
柳田國男は金田一京助の情報の如何にかかわらず思考の枠組みは自分独自に考えていて、「花とイナウ」にあるようにアイヌと和人が同根である可能性を密かに感じながら、学問上の構築物ではアイヌと和人を区別していたのだと思います。



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