2013年1月29日火曜日

戦後印旛沼開発と地域開発を振り返る

花見川流域資料6 戦後印旛沼開発と地域開発」に掲載した過去ログをざっと読み返して、このテーマに関する活動を振り返ってみました。

●戦後印旛沼開発で流域変更が行われ、印旛沼水系である勝田川流域と高津川流域が東京湾水系の花見川流域に編入されました。この流域変更があったという事実を知っている人は一般住民ではまずいません。この流域変更の理由について詳しく知りたいと思っています。

●その理由はさておき、現実に流域変更があって、3つの河川流域が一つに統合されたのですが、流域の地域づくりという観点からみると、バラバラであり、木に竹を接いだような状況も見受けられます。
ただ水の流れを繋いだだけという感じを否めません。
たとえば、花見川も勝田川も緑地としての存在意義が大きく、それぞれ地域にとって散歩空間としての価値は高いものがあります。しかし、花見川の緑地と勝田川の緑地は別々の空間として扱われており、公園緑地部局によって一体的に扱われるということはありません。従って、花見川本川筋と勝田川の谷津を結ぶ散歩道(歩道)はありません。千葉市と八千代市の市境であるということを考慮しても、少しお粗末な対応です。
花見川流域を意識して地域づくりを進めれば、今より自然環境のよさを取り込んだ居住環境をつくることができると思います。

●「印旛放水路(下流部)」という河川法上の名称が、流域を意識した地域づくりを妨げています。「印旛放水路(下流部)」という名称を使ったとたん、その「放水路」の流域の環境を考えるという発想は確実に欠落します。というか、流域という概念を拒否する用語です。
河川管理者が「印旛放水路(下流部)」という用語を使っていて、一方他の行政部局が花見川流域を意識して行政を進めるなどということはあり得ません。「名は体を表す」のです。
過去はいざ知らず、今となっては「印旛放水路(下流部)」という名称が不条理であることに、世の中に早く気がついていただきたいものです。

●流域を意識した地域づくりの在り方について考えてみたいと思います。具体的には花見川水系とその流域の自然環境・緑地を保全・創造しながら、それを居住環境に取り込み、地域の価値を高める方法です。
その方法を考えるために、過去の宅地開発によってどのような地域が形成されたのか検証してみたいと思います。

路傍の模様

2013年1月28日月曜日

二つの陸軍演習場を振り返る

花見川流域資料5 二つの陸軍演習場」に掲載した過去ログをざっと読み返して、このテーマに関する活動を振り返ってみました。

●このブログを始めた頃は花見川流域に二つの演習場が在ったという認識はありませんでした。
習志野演習場はNHKテレビ番組の「坂の上の雲」が話題になっていた頃であり、秋山好古→陸軍騎兵学校→習志野演習場→高津川流域といった連想で事前に興味の対象でした。ブログを始めて3ヶ月経たないうちに陸上自衛隊習志野演習場の見学をしています。
下志津演習場は、ブログを始めて徐々にその存在を知り、大砲の実弾演習場として重要な役割を果たしていたことを初めて理解しました。

●「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)に掲載されている「近衛師団管轄演習場規程」付図の所在を探す活動の中で二つの演習場に対する興味が増幅し、射弾下掩蔽部(しゃだんしたえんぺいぶ)、特殊演習場(毒ガス演習場)、演習場拡張過程、演習場管理機能などについて知識を習得しました。
下志津演習場には三角原射場(爆撃基本目標を設置してある空爆演習場)がありますが、これを通じて、現在の三角町の三角(△)の由来に気がつくこともできました。

●偶然の成り行きで、花見川河川敷に軽便鉄道橋台とトーチカ監視塔を見つけました。このブログで呼びかけて4人のグループで予備調査を実施したところ、トーチカ本体が覆土されて実在していることを突き止めました。
これらの戦争遺跡の本格調査は市民では無理であり、現在行政に本格調査に向けての取組をお願いしているところです。
偶然発見したトーチカは、私個人の見立てでは、戦争末期の本土決戦用の施設であると考えました。もしそうであるならば、内陸の花見川筋を上陸米軍の首都圏侵攻に対する抵抗ラインとしたことを示しています。
本格調査(発掘調査)を実施することにより、これまで知られていなかった千葉における本土決戦の準備の一端が判明するかもしれません。

●演習場に関わる地物・情報や戦争遺跡などを、地域のマイナス資産として計上するのではなく、プラス資産として計上できるような方法について考えていきたいと思っています。

路傍の模様

2013年1月27日日曜日

印旛沼堀割普請を振り返る

花見川流域資料4 印旛沼堀割普請」に掲載した過去ログをざっと読み返して、このテーマに関する活動を振り返ってみました。

●このブログを始めてから、自分の居住場所のすぐ近くに印旛沼堀割普請の跡があり、その姿が普請往時の姿を彷彿させるような雰囲気で残っていることに感動しました。 堀割部にはコンクリートがなく、サイクリングロードさえ舗装されていないことが一種独特の峡谷風の風景を保持しています。

●そうした現実の風景と、続保定記をはじめとする現存する多数の歴史資料(特に絵図、イラスト類)からの情報を重ね合わせると、興味が膨らみ、一種の知的エンターテインメント対象のようにすら感じます。

●印旛沼堀割普請が千葉市や八千代市の小学校社会科副読本の主要テーマの一つとなっていて、両市の全小学生は1度は必ず学習することになっています。このことは、実物の土木遺構が残っているだけに、郷土の歴史を身近に感じることができる素晴らしいことだと思いました。

●一方、この空間(特に花見川堀割部分)は文化財の指定とか土木遺構としての認定などはありません。そのため、ひたひたと迫っている開発圧力に対してたいそう脆弱です。これまではたまたま大きな改変圧がなく、運がよかったので、長い間現状を保持できてきました。

●続保定記の絵地図は詳しい工事状況パースであり、詳しい分析をしたいと思っています。

●戦後印旛沼開発による堀割部分の改変をできるだけ正確に把握して、その前の姿(天保期印旛沼堀割普請後の姿)を復元したいと思います。 さらに、天保期印旛沼堀割普請による改変の姿を、現存する捨土土手の土量等から推定して、天保期印旛沼堀割普請前の姿を復元したいと思います。
そうした地形復元作業により、江戸時代の人々をしてこの場所に川を通そうと決意させた、元々の谷津地形の姿を知ります。 この作業は花見川の出自を知る上で必須です。


路傍の模様

2013年1月26日土曜日

小金牧と六方野を振り返る

アーカイブWEBページ「花見川流域資料3 小金牧と六方野」をざっと読み返してみて、次のような感想を持ちました。

このテーマは気になっていたにもかかわらずブログ記事が最も少ないものです。
このテーマの特徴は、人々の歴史の中で水のない台地内部は長らく土地利用されずに放置されていて、江戸時代が始まる前後頃に順次所有者がきまり、牧や入会地として利用され出したという開拓内容を知ることにあります。
馬防土手など、残されている地物遺跡も少々ありますが、物的な興味対象は少ないような印象を受けます。
一方、古文書が残されている時代の出来事であり、興味を深めようとすると古文書類に興味の対象を向ける必要があります。

私に古文書の文章を解読する能力はないのですが、絵図類を現代の地図に比定するなどの作業は、地形情報等を媒介にしてある程度できると思いますので、そうした方向に興味を深める入口を見つけ、小金牧と六方野にまつわる土地開発について学習していきたいと思っています。

さしあたって、小金牧周辺野絵図(千葉県立文書館収蔵)と六方野開墾絵図(宇那谷町内会所蔵)をGIS上に比定してみたいと思います。

路傍の模様

2013年1月25日金曜日

花見川のモノレール

昨年末ごろから花見川でボーリング調査が行われていますが、昨日その概要を千葉県千葉土木事務所で聞き取りしてきました。
大和田機場から汐留橋の区間を対象に500mピッチで1断面5箇所程度のボーリングを行う大規模調査です。
花見川の河川改修(低水護岸建設)の設計図作成のための基礎調査とのことでした。

花見川のボーリング現場

堀割部分では西岸が崖になっており、ボーリング機材の搬入が困難であるため、モノレールを設置しているとのことでした。
毎朝の散歩で、電源のケーブルかもしれないと思っていたものが、モノレールでした。
急斜面の果樹園等で見かけるモノレールです。

モノレール(近景)

モノレール(全景)

この場所では桟橋もつくってボーリング機材を設置するようです。

桟橋の設置

別の場所ではケーブルで西岸に機材を運んでいるようです。

ケーブルの設置

ボーリングの結果(データ)は一定期間後千葉県の地質環境インフォメーションバンクでWEB公開されるとのことです。

なお、堀割部分のコンクリート護岸設置については自然的、風景的、文化財的影響が大きいので、工事着工決定以前の段階において住民等に説明していただき、住民サイドの意向にも配慮していただくようお願いしました。

2013年1月24日木曜日

考古学的遺跡等からみた古代文化を振り返る

アーカイブWEBページ「花見川流域資料2 考古学的遺跡等からみた古代文化」をざっと読み返してみて、次のような感想を持ちました。

●花見川の語源に関する検討
・最初はだいぶ前に仕入れていた柳田國男の説を「花見川」に投影して記事を書いていました。しかし、いろいろ思考するうちに、またいろいろな本を読むことによって、柳田國男のアイヌ語源説から脱し、縄文語起源に行き着くことができました。
私の頭の中では、地名「ハナミガワ」と花見川河川争奪現象の地形とが結びつく様相を呈してきており、もっと深めたいテーマです。

・古代言語学(縄文語学)、狩猟時代(縄文時代)の人々の思考・発想の特徴の学習を深め、また花見川河川争奪地形の発達史の詳細について調査研究することにより、「花見川」という名称が古代社会におけるこの地域の最大の地形特徴を伝えてきているという、驚くべき口承の歴史を豊かに記述したいと思います。

●子和清水
・子和清水の語源と地形についても、古代社会から現代にまで届いた口承文化の贈り物と考えます。(地形は高速道路建設で失われましたが…)

・子和清水の語源を考えたことによって、その出土物を閲覧した時に、古代社会の一端をありありと想起できたような感覚を持ちました。

●東京湾-香取の海(印旛沼)の連絡幹線としての花見川
・花見川河川争奪現象により、花見川(東京湾水系)と古柏井川(印旛沼水系)が一連の谷津となりました。その一連の谷津が古代から東京湾-香取の海(印旛沼)を結ぶ社会の交流連絡幹線となってきています。

・このような視点から検見川で大賀ハスとともに発見された縄文丸木舟と、八千代市保品で発見された縄文丸木舟が、東京湾側の湊と香取の海の湊の存在を暗示し、その二つの湊を結ぶ連絡ルートが一部区間は谷津(陸路)を含むものの、花見川筋であると考えました。
一種の「船越」(陸地が細くくびれて両側が海に臨む地。船をかついで越すのでつけられた呼称。運河をつくれない古代にあっては、日本のみならず汎世界的に存在した。)が存在していたと考えます。

・弥生時代の土器様式伝播にこのルートが関わっていたことが八千代市によって明らかにされています。

・江戸時代にはこのルートで印旛沼堀割普請が行われ、現代では印旛沼開発の施設として利用されています。

●双子塚古墳と谷中分水界
・花見川河川争奪現象により、花見川(東京湾水系)と古柏井川(印旛沼水系)が一連の谷津となりましたが、その境は谷中分水界となり、その間近につくられた古墳が双子塚古墳です。
谷中分水界(印旛沼堀割普請で失われた花見川源流で泉の存在が想定される)と双子塚古墳の関係は、子和清水における泉と古代遺跡の関係と瓜二つです。
この関係は船橋市三山の御手洗之池と二宮神社にもみられる東京湾水系源頭部の共通文化事象です。

・近世には双子塚古墳は花見川水系との縁が切れて、印旛沼水系を本拠とする横戸村の土地になり、双子塚古墳と高台南古墳は境界杭として利用され、二つの古墳を結ぶ直線が横戸村と柏井村の境界となり、現代の町丁目境として引き継がれてきています。

・同時に双子塚古墳は古墳としての神聖性は失われ、最後は村境に設置した不浄の場にまで零落してしまいました。

・このように興味深い双子塚古墳が発掘調査され、古墳であることを確認する報告書が出ているにも関わらず、文化行政上「古墳」として認定していないことは一種の怪現象です。

・また、この古墳が撤去されて早30年経ちましたが、毎年数回、税金で丁寧な草刈をするだけの空き地になっていて、だれも見向かない場所になっています。
古墳の盛衰を知った者として、また近隣住民のひとりとして、文化財のあり方に心が痛みます。


花見川流域で見つけることができる古代文化には、汲めども汲みつくせない興味が湧きます。

路傍の模様

2013年1月22日火曜日

「考古学的遺跡等からみた古代文化」外全6つのアーカイブサイトの公開

先日アーカイブWEBサイト 花見川流域資料1 下総台地の地形発達史 を公開しました。

これに引き続き次のアーカイブWEBサイトを公開しました。

花見川流域資料2 考古学的遺跡等からみた古代文化
花見川流域資料3 小金牧と六方野
花見川流域資料4 印旛沼堀割普請
花見川流域資料5 二つの陸軍演習場
花見川流域資料6 戦後印旛沼開発と地域開発
花見川流域資料7 現在の自然環境と風景

これで花見川流域第1の課題~第7の課題に対応したアーカイブWEBサイトがそろいました。

画面上のメニューから各サイトに飛ぶことができます。

7つのアーカイブWEBサイトに掲載された記事数は次のようになり、直接比例しているわけではありませんが、私個人の課題別興味の強さをある程度反映しています。
 
アーカイブWEBサイト別記事数
アーカイブWEBサイト
記事数
花見川流域地誌の課題対応
花見川流域資料1 下総台地の地形発達史
170
1の課題
花見川流域資料2 考古学的遺跡等からみた古代文化
72
2の課題
花見川流域資料3 小金牧と六方野
12
3の課題
花見川流域資料4 印旛沼堀割普請
56
4の課題
花見川流域資料5 二つの陸軍演習場
43
5の課題
花見川流域資料6 戦後印旛沼開発と地域開発
35
6の課題
花見川流域資料7 現在の自然環境と風景
120
7の課題

 
これらのサイトはアーカイブ「花見川流域を歩く」2013.01.08をベースに作成しており、次のような特徴があります。

● ブログ「花見川流域を歩く」と表示が逆順
● 投稿日時はダミー
● 動的ビュー機能により表示

今後、このアーカイブサイトの記事を基にして、繰り返しや冗長な部分あるいは誤りなど不用な情報を削るとともに、1回ごとの記事という制約を取り払い、体系的な論文風の著述を作成する予定です。

路傍の模様

2013年1月21日月曜日

下総台地の地形発達史を振り返る

花見川流域資料1 下総台地の地形発達史」に掲載した過去ログ170記事をざっと読み返して、このテーマに関して活動を振り返ってみました。

●2年間にわたるブログ記事であり、現場を散歩して気になった事柄は、だいたい全部記事にしています。

大ざっぱに記事内容を整理すると次のようになります。

「下総台地の地形発達史」に関するブログコンテンツのまとめ

●ブログを始めた当初は花見川流域の地形地質にかんする事前知識は完全なるゼロでした。そのため、気軽に花見川河川争奪について記事にしていました。
そのうち、oryzasan氏からの情報提供やコメントがあり、刺激をうけて本腰を入れて検討するようになりました。
検討すればするほど、花見川流域に珍しい河川争奪現象が存在していることに確信をもてるようになり、その考えを支える現場情報とGIS上の情報も集まり現在に至っています。

●GIS上の情報(標高5mメッシュ)が最新版になり、地形断面図作成ツールを途中から入手できたことが検討を深める上で重要な役割を果たしました。
現在はさらに高精度の地形断面図作成ツールを使えますので、今後さらに検討を深めることができると思います。
このブログ活動では、分析ツールの選択肢を広げ、分析スキルをアップさせることが、大切であると感じています。

●ブログ記事では専門家や好事家でないと理解できない用語や、興味対象地物・現象が書いてあります。
これを地域資産の説明という観点から一般住民が興味をもてるように表現すれば、ブログ記事情報の価値がアップすると思います。

●今後この170記事を編集して体系的な著述を作成し、花見川流域地誌第1章作成のための素材資料とします。


路傍の模様

2013年1月19日土曜日

下総台地の地形発達史に関するアーカイブサイトの公開

アーカイブWEBサイト 花見川流域資料1下総台地の地形発達史 を公開しました。

このサイトでは、ブログ「花見川流域を歩く」の記事のなかから花見川流域第1の課題「下総台地の地形発達史」に関わる167記事を抽出して掲載しています。

このサイトはアーカイブ「花見川流域を歩く」2013.01.08をベースに作成しており、次のような特徴があります。
● ブログ「花見川流域を歩く」と表示が逆順
● 投稿日時はダミー
● 動的ビュー機能により表示

今後、このアーカイブサイトの記事を基にして、繰り返しや冗長な部分あるいは誤りなど不用な情報を削るとともに、1回ごとの記事という制約を取り払い、下総台地の地形発達史にかかわる体系的な論文風の著述を作成する予定です。

路傍の模様

2013年1月18日金曜日

「7つの課題と地誌」ページを設けました

「7つの課題と地誌」ページを設けました。

 画面上のメニューから入れます。

 このページは20130106記事「花見川流域の7つの課題」、20130107記事「花見川流域7つの課題-課題追究の目的方法-」、20131009記事「花見川流域の7つの課題」-花見川流域地誌を地域づくりに活かす方法-」の3つをまとめて編集加筆し、一つの文章(「花見川流域の7つの課題と流域地誌作成」)にしたものです。

路傍の模様