2011年7月30日土曜日

犢橋貝塚

犢橋川流域紀行7 犢橋(こてはし)貝塚

            犢橋貝塚の碑
 貝塚の説明文とともに、「千葉県主要遺跡百選の内の一」が刻まれています。

            犢橋貝塚公園
 国指定遺跡「犢橋貝塚」を保存する歴史公園。なだらかな草原の公園で、地表に貝殻が露出している樹林地があります。

 犢橋貝塚は犢橋川支流の谷津谷頭付近の台地上に位置している縄文後期・晩期の集落遺跡です。
 縄文海進時の海岸線を現在の標高10m等高線付近と考えた時の海岸線と犢橋貝塚の位置関係を次に示しました。
 犢橋貝塚は最も近い海岸線から200m程度の距離にあり、海(干潟)の幸を採集するには好適な場所にあります。

            犢橋貝塚と縄文海進の海(想定)
 旧版地形図「六方野原」「検見川」「大久保」「三角原」をベースにしています。
 犢橋貝塚の形状は「千葉市史 原始古代中世編」(千葉市発行)掲載図面をGIS上で転写して作成しました。

            犢橋貝塚と縄文海進の海(想定)の現代地図プロット

 次に「千葉市史 原始古代中世編」(千葉市発行)より犢橋貝塚の説明を引用します。
本遺跡は東京から近い距離にあるため、明治年間より、「遠足会」と称する遺物採集や発掘などがしばしば行われた。戦後になってからは、昭和26年5月明治大学、同年8月東京学芸大学、昭和31年6月明治大学、昭和39年5月明治大学及び千葉大学が、測量や発掘調査を行い、次第にその様相が明らかとなった。
 この遺跡は、貝塚の分布範囲が東西200m、南北150mをはかる集落遺跡で、貝層は東西に長い馬蹄形を呈し、東と西に開口している。貝塚を構成する貝類は、キサゴ・ハマグリ・アサリ・カガミガイ・シオフキなどを主体としる主鹹貝類によって占められている。
 遺物も豊富で、土器は堀之内式・加曽利B式・安行Ⅰ・Ⅱ・Ⅲa式などの縄文後期前半から晩期初頭にかけてのものが発見されており、かなり長期にわたって集落が営まれたことを物語っている。
 昭和31年度の明治大学が行った発掘調査によると、貝塚北側末端部における層序は、ほぼ次のとおりであった。
 まず表土(20~50cm)はかなりの撹乱をうけた形跡があり、後期から晩期までの各型式の土器片や貝殻が混合していた。表土下の第一、第二、第三の各純貝層が整然と重なっており、おのおの10~30cm程度の厚さであり、遺物の包含は少ない。第三貝層の下に約1mの厚さをもつ混貝土層、その下のキサゴのこまかく砕かれた貝層がはいりこみ、その下の暗褐色の混貝土層(約20cm)、そしてローム層に至る。混貝土層は、後期終末の安行Ⅱ式土器を包含し、キサゴの破砕貝層以下は堀之内土器を包含している。しかし混貝土層中かなり深い部分まで大洞B式土器類似の砕片が含まれており、晩期と後期との境界を決める重要な問題を提起した。
 しかし、これらの諸調査において、常に、貝層部やその内側を発掘してきたにもかかわらず、これまでに一度も後・晩期の住居祉には遭遇せず、これを集落としてとらえる実証はつかめなかった。
 ところが昭和43年、遺跡の周辺を造成する際、貝層部から30m~50mをへだてた周辺部を削平したところ、その断面に、堀之内式及び加曽利B式の竪穴住居祉と貯蔵穴が数基露呈された。しかも貯蔵穴中から、称名寺及び堀之内Ⅰ式の完形土器も採集された。これによっても、当時の集落の基調となるべき住居祉群は、貝層部の内側よりも、むしろ外側にこそ広範囲に展開していた可能性が確認されたわけである。

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