2011年7月27日水曜日

河川争奪の胚

犢橋川流域紀行4 河川争奪の胚

            27.5m等高線と閉じた凹地等高線
 旧版1万分の1地形図(大久保、三角原、検見川、六方野原 各大正6年測量)

 犢橋川流域の旧版1万分の1地形図を良く見ると、河川争奪の胚とも言える現象が幾つも見つかります。

 上図は27.5m等高線をピンク色で抜き出したものです。南側の端が途中で段差で区切られた、2つの直線を成して分布しています。

 この直線状の27.5m等高線分布端を突き抜けて、宇那谷川筋、横戸川筋の谷地形が連続しています。
 このことから、等高線の直線状の分布は谷地形が出来たあと形成されたことがわかります。つまり、地盤変動でできたことが確認できます。

 27.5m等高線の直線状分布域の南側の谷地形を見ると、閉じた凹地等高線を示してしまうものがあります。閉じた凹地等高線を示す谷地形は宇那谷川や横戸川の流域から分離したけれど、犢橋川の流域にはいまだ入っていない、未分化の状況を表しています。河川の争奪はまだ行われていません。

 同時に、27.5m等高線の南側の谷で犢橋川の水系に入るものもあります。これは河川争奪が今始まった瞬間を捉えた、いわば河川争奪の胚みたいな地形であると考えます。

 これと同じ現象が現在の花見川本川でもあり、花見川本川の方は河川争奪が胚で終わることなく、古柏井川を大規模に争奪しました。しかし、犢橋川では河川争奪は胚で終わってしまいました。

 その差異の理由は、花見川本川の方はたまたまそこが南北方向の断層線の場所であったため、構造的弱線に沿って侵食を進めることができたのではないかと想像しています。(2011年3月18日記事「花見川中流紀行19活断層存在の可能性4」など)

 なお、上図をよくみると、直線状の27.5m等高線分布端の付近の谷に補助等高線で小崖が表現されています。もしかしたら東西方向の断層崖の名残かもしれません。

 旧版地形図による27.5m等高線と閉じた凹地等高線分布を現代地図のプロットしてみました。土地の改変が激しく、現代の地図からは全く想像も考えることもできない情報であることがわかりました。

            27.5m等高線と閉じた凹地等高線
 旧版地形図情報を現代図にプロットしたものです。

0 件のコメント:

コメントを投稿