2011年7月6日水曜日

四街道市と千葉市の市境形状

小深川流域紀行4 四街道市と千葉市の市境形状

            四街道市と千葉市の市境形状

 花見川流域における四街道市と千葉市の市境形状が谷津谷底を表現しているところがあり、大変特徴的に感じます。なぜそうなったのか、文献で調べてみました。

 次の水系図と町丁目界図で確認できるように、四街道市大日と鹿放ヶ丘の台地を囲むように千葉市域の谷津が囲んでいます。

            水系図

            町丁目界図

 大日と鹿放ヶ丘の台地は、水に不自由するので、もともと野(入会地)であった場所です(2011年6月6日記事「六方野」参照)。旧陸軍演習場に編入される前は犢橋村(現千葉市)でありました。

 この台地を囲む東側の谷津(宇那谷川)と西の谷津(小深川)の北半分は宇那谷村(現千葉市)によって水田として開発されました。西の谷津(小深川)の南半分はそのさらに南側に位置する小深新田(現千葉市)によって水田として開発されました。

 明治以降順次これらの台地、谷津谷底は旧陸軍下志津演習場に編入されました。

 戦後、台地部分(大日、鹿放ヶ丘)が旧犢橋村に返還されましたが、その大部分が昭和29年に旧千代田町に編入され、翌年旧千代田町は旭村と合併して四街道町が成立しました。
この時点で四街道町と千葉市の境が現状に近い、特異な形状になりました。
その後、昭和34年には大日の一部(台地内の小谷津)が千葉市に編入され現在の姿になりました。

 結論として、四街道市と千葉市の市境形状の起源は江戸時代の水田耕作地と野(入会地)の境に遡るものであるということが判りました。
 また、台地の戦後開拓で、人々(入植者)が犢橋村(現千葉市)から旧千代田町(現四街道市)に行政変更して編入したことについては、大きな理由があったものと思われます。(その理由について直接示唆するものは、関係資料の中に見つけることが出来ませんでした。)

参考資料
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」
「四街道町史(第1部通史篇)」
「角川日本地名大辞典12千葉県」

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