2011年10月24日月曜日

花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想8

花見川河川争奪を知る22 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想8

oryzasan氏論文「花見川の地学」全4章の最終章である第4章を紹介します。

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oryzasan氏論文「花見川の地学」 第4章引用

Ⅳ.花見川付近でのみ分水界が北にずれるのはなぜか


白鳥さんの論文で引用された図2は僕が描いたものです。あの図は築地書館発行の「日曜の地学 千葉県編」中の「花見川から印旛沼へ」という章の中のものですが、文章の中で僕は、印旛沼と東京湾という地域の差異は木下層堆積期からすでにあり、前者に泥質の潟湖(ラグーン)堆積物が分布するのに対して、後者には砂州の堆積物が分布している。両地域の分化は地殻変動と密接な関係があり、印旛沼西部調整池周辺と東京湾とは別個の沈降域である。花見川開削の行われた横戸の台地は両者を分かつ隆起帯であり、工事の困難さをもたらした遠因になっているのではないかと書いて、常総粘土層の高度分布と泥質の木下層の分布を重ねた図を描いたのでした。図を素直に見ればわかるとおり、花島から横戸間の花見川流域は尾根状の高まり(隆起域)であり、白鳥さんの言われるような沈降域ではありません。したがって地下水が特にここに多く集まる理由はなく、谷津の頭部侵食が花見川だけで進まなければならない理由はありません。


天明・天保の開削工事において、多量の湧水のために花島付近の工事が困難を極めるのは、「ケト土」の部分を深く掘ったからでしょう。「ケト土」は泥炭層ですが、縄文海進の海が及ばなかった低地の奥に分布し、弥生時代から古墳時代の「草本質泥炭層」と縄文時代後期から晩期の「木本質泥炭層」の二つの部分に分けられます。木本質泥炭層は当時低地に成立した、ハンノキやヤチダモなどの湿地林の林床堆積物で、木の枝などの破片が厚く積もった地層です。砂や泥などはあまり含まず、分解が進んでいない、スポンジ状の木くずの集まりといった見かけを呈することもしばしばです。このため隙間が多く、多量の地下水を含むことができますし、固結力はほとんどありません。工事の困難さはこうした木本質泥炭層を深く掘り下げねばならなかったところにあったと考えられ、花見川に限らず、低地の奥であればどこででも起こり得る現象です。

図9


花見川付近でのみ分水界が北にずれる理由(即ち、東西の「柏井川」が30m隆起帯を越えられなかった理由)は実のところ、僕にはよくわかりません。下の図はクーラーさんの作られたものに僕がオレンジの直線を書き加えたものですが、僕はこの図を見て、27.5mの等高線の分布域のずれに目がいきました。地図の東に比べ、西側が500mほど北東側にずれています。地図の西の外れには花見川が見えています。これは花見川流域のみで隆起運動の軸が北にずれていることを意味するのかもしれません。

図10


関東平野における地殻変動は、1000mを越える地下の深所にある岩盤(「基盤」といいます。関東平野はこの岩盤の上に新しい時代の地層が厚く積もっています)の動きと密接な関係があるといわれています。基盤は北東-南西方向と北西-南東方向の直行する2方向の断層でズタズタに切られており、これを「ブロック」と呼びます。このブロックの動きが上に積もっている地層を変形させて、様々な地殻変動を引き起こすと考えられています。いわば畳の上に厚く布団が敷かれていて、一枚々々の畳の上下によって、上に敷かれた布団がゆがむというイメージ(関東平野の海岸線が北東-南西と北西-南東方向の直線の組み合わせからできているのはこのため)です。上図のオレンジの線の方向は、ほぼ基盤中の断層の方向であり、25m等高線のずれは、ここを境に地下のブロックが異なっている可能性(想像を逞しくすれば右の図のようなイメージ)があります。

図11


と言うわけで、花見川の流域が、この地域の一般的な分水界の北に入り込んでいる理由ははっきりしません。しかしそれは、地下深部のブロックの動きに起因するだろうとの漠然としたイメージを、僕は持っています。
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この章の感想は次の記事で述べます。

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