2011年1月18日火曜日

花見川の特異な生い立ち

 

花見川はもともと東京湾に流入する小河川で、横戸付近を源流部としていました。
 江戸時代に、3回にわたって印旛沼と東京湾を結ぶ工事(堀割普請)が行われ、天保期の工事は国策に基づく巨大プロジェクトでした。
 この工事の目的は印旛沼の水を東京湾に流して洪水を防ぎ、同時に舟運にも使うためのものでした。この工事は結局最後の完成を見なかったのですが、花見川と印旛沼流域を結ぶ巨大な堀割が残りました。
 戦後、印旛沼の干拓事業が行われ、昭和38年には印旛沼開発事業に改められました。
 昭和44年3月印旛沼開発事業の完成に伴い、花見川は江戸時代につくられた堀割を活用して印旛沼筋の新川とつながり、印旛放水路として位置づけられました。
 印旛放水路の役割は利根川の洪水時に印旛沼の水を東京湾に排水するもので、強制排水するための施設として大和田排水機場が設置されました。
 この時、花見川は大和田排水機場の下流で、もともと印旛沼流域の河川である勝田川と高津川を取り込みました。
 このように、現在の花見川は江戸時代の堀割普請と戦後行われた印旛沼開発事業の流域変更によりつくりだされた特異な生い立ちの河川です。
 また、花見川流域は戦前から一大軍事地域として開発利用され、戦後は開拓が行われました。さらに、海岸部は埋め立てられ、海浜ニュータウンが造成されました。
 
 花見川の歴史は大変興味深いものであり、このブログで折にふれてテーマとして扱っていくつもりです。

 画像は印旛放水路と関連河川の位置を示しています。

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