2011年1月25日火曜日

花見川上流紀行 6天保期横戸弁天の姿

上記の絵図は横戸弁天付近を示しており、「天保期の印旛沼堀割普請」(平成10年千葉市発行)に収録されている「続保定記」(山形県平田町久松俊一家文書)の口絵の一部とそれをさらに拡大したものです。逆さになっていますが、「元池弁天」の文字と社と社務所及びそれぞれ背後の樹林が描かれています。小型の建物が社で、弁天池に張り出した岬のような部分に位置しています。社と社務所双方とも赤く彩色されており、当時の横戸弁天の姿を生き生きと描写しています。
 弁天すぐ下の建物は「御小屋」と書かれており、庄内藩の工事関係建物です。
 対岸の丘の上の赤い大鳥居は横戸弁天の鳥居で、堀割普請の邪魔になるとのことで移されました(「天保改革と印旛沼普請」鏑木行廣著、同成社)。現在の鷹之台カンツリー倶楽部付近です。
 なお、弁天橋が両岸から土をせり出して堀を狭め、中央部で橋を架ける「土橋」の形式になっていることが確認できます。これは明治15年測量の迅速図からも読み取れるので、この絵図の弁天の姿が天保堀割普請が概成した状況での姿を表していると考えることができます。
この絵図に示された横戸弁天の姿をさらにリアルに想像するための参考図を下に掲載します。
この図は現在埋め立てられて羽田飛行場の敷地になっているところに立地していた玉川弁天(羽田弁財天社)の名所図(原本「江戸川名所図会」、新訂江戸川名所図会2 ちくま学芸文庫 収録)です。この図でも社が東京湾に張り出した部分に立地しており、社務所と思われる大きな建物がその近くにあります。また樹林で周りを囲んでいます。なお横戸弁天は正徳5年(1715年)に江ノ島弁財天から勧請されたのですが、玉川弁天は宝永8年(1711年)あるいは正徳3年(1713年)に江ノ島弁財天から勧請されたので、いわば兄弟筋にあたります。(横戸弁天も玉川弁天も戦後の地域開発で近くに移転し、共に往時より退縮しています。しかも、今なお信仰が途切れないで細い糸のようにつながっている姿も似ています。)

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