2011年1月26日水曜日

花見川上流紀行 7弁天の横戸勧請理由の想像

コンビニやスーパーのチェーン店を広く地域展開する運動と同じように、神社の地域展開が行われた場合も多かったようです。ある特定の宗教的人脈(ネットワーク)が特定の神様を広めて行ったことが多かったのだと想像します。
 多摩川の沿川には各地に漂着神伝承のある神社仏閣があるのですが、よく調べると多くの神社仏閣がある宗門の学問所のメンバーとつながりがあることがわかったという事実もあります。(「新多摩川誌」編著新多摩川誌編集委員会、平成13年発行)
 横戸に弁天が勧請されたのも、横戸村の住民が弁天勧請を望んだことは当然ですが、外からの戦略的な「出店」が横戸に行われたと考えるのが本筋だと想像します。同じ江ノ島からほとんど同じ頃多摩川羽田にも、横戸にも勧請されたことからそのように想像します。
 ここで、なぜ横戸という場所に勧請されたのでしょうか。横戸に勧請されたのが正徳5年(1715年)ということが正しければ、3回行われた堀割普請のうち最初の享保期堀割普請のきっかけとなった享保9年(1724年)の平戸村農民染谷源右衛門などの幕府に対する印旛沼干拓願い出より9年前のことです。まだ堀割はありません。
 現地を散歩しながら想像したことは、弁天を各地に「出店」していた「江ノ島商事」の戦略担当役員が、「印旛沼干拓」、「堀割普請」、「東京湾連絡舟運」などをキーワードとする地域開発機運の情報をいち早く察知し、リスク覚悟で当時未開の横戸に「出店」したのだと思います。
 横戸にたまたま弁天が勧請されて、後から偶然に堀割普請がそこに決まったとはどうしても考えられません。そこを掘りぬけば印旛沼と東京湾が結ばれるという象徴的戦略的な場所に、リスクテイクの達人である「江ノ島商事」の戦略担当役員が「出店」を決めたのだと思います。
 享保9年(1724年)から始まった享保の堀割普請は完成することなく終わりましたが、その後、安永9年(1780年)から始まる天明の堀割普請、天保13年(1842年)から始まる天保の堀割普請と3回にわたるビッグプロジェクトがこの地で行われ、弁天の横戸「出店」は結果として成功したのではないでしょうか。「天保改革と印旛沼普請」(鏑木行廣著、同成社)には普請の監督である幕府役人が弁天を利用ことなども書かれており、ビジネスとしての弁天が成功していたであろう様子を空想させます。

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