2011年2月14日月曜日

花見川上流紀行 27明治前期の新川橋(現大和橋)

 迅速図は明治前期測量2万分1フランス式彩色地図-第一軍管地方二万分一迅速測図原図-の略称です。明治10年の西南戦争後首都防衛の必要性から緊急に作られました。当時の陸軍は芸術性の高いフランスの技法によりこの地図を作成しました。
 この迅速図には「視図(しず)」と呼ばれる軍事上の重要地点を描いた絵画が掲載されています。行軍上の渡河地点、分岐点、目標、軍馬移動制約条件としての土塁などです。作成時は軍事上の要件として描かれたものですが、現在では当時の風景や地物風俗を知る貴重な資料となっています。
 上記の視図「新川橋断面(二百分一)」は迅速図「千葉県下総国印旛郡上志津村及千葉郡横戸村」図幅(明治15年1月測量)の上部に描かれているもので、成田街道が新川を渡る橋を描いています。
 印刷図(復刻図)で計測すると橋の延長が10.4m(図上52mm)、橋の部分の水路幅が6m(図上30mm)でした。橋の右に立て札と標柱が描かれています。行軍時にこのような物をも目標確認物としていたと思うと、路上に物が溢れかえっている現在の姿の異常さに気がつかされます。
 この視図を良くみると、橋の両脇は土台となっていて、土(あるいは石など)をせり出して「土橋」にしている様子が分かります。「土橋」は当時の一般的架橋技術であったものと思われます。
 地図上の位置(ハ地点)から新川が低い台地を掘って直線状に作られ、そこに成田街道の橋(新川橋)が架けられていたことが分かります。

 次の図は、同じ場所を旧版1万分の1地形図を赤色で表示し、現代の25000分の1地形図と重ね合わせて表示したものですが、大和橋の位置及び成田街道のルートがほぼ一致している様子が確認できます。

 次の写真は現代の大和橋の状況です。

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