2012年8月15日水曜日

双子塚古墳の近世の遺物

双子塚古墳の過去・現在・未来 その9
双子塚古墳出土物を閲覧して

4 近世
4-1 双子塚古墳の近世遺物閲覧
近世になると双子塚古墳は古墳としての意義はすでに忘れさられており、それを築造した小豪族の本拠地とは関係のない横戸村が奪取するところとなりました。
そして、横戸村と柏井村の領域確定のための境界杭として利用され、その後横戸村と柏井村の境界付近にある境界塚として利用されました。

次の出土遺物は報告書では次のように記載されています。 「5の皿は径13.5cm、器高3cmの高台付の有田焼の皿である。文様はくすんだ藍色を呈し、蛇の目型に釉をふき取って重ね焼きしたあとが見られる。江戸時代後期。」

有田焼の皿
(千葉県立房総のむら所蔵)

江戸時代に双子塚古墳は境界塚として利用されたのですが、この皿は信心深い近隣住民が供え物をしたり、灯明を灯したりするのにつかったのでしょうか。

寛永通宝は報告書で、次のように記載されています。 「7と8の寛永通宝は、古寛永であり、7は径1.9、8は径1.8cmを計る。」

寛永通宝
(千葉県立房総のむら所蔵)

双子塚古墳の南東部の裾部から検出されたとのことであり、双子塚古墳の東側を通り柏井村と横戸村を結ぶ道路に近いことから、通行人(旅人)などが安全と願い事成就を祈願して賽銭として置いていったものかもしれません。
あるいは、数十m西で行われた天保期印旛沼堀割普請の関係者(幕府監督役人や庄内藩現場監督等)が工事安全・目標達成祈願をしたのかもしれません。

4-2 片口鉄鍋
以上のほか、片口鉄鍋が出土しています。しかし、出土物を所蔵している千葉県立房総のむらには最初から伝わってきておらず、現物は紛失してしまったようです。

報告書では次のような記載と図版、写真が添付しています。 「6の片口鉄鍋は、周溝南西部のa層中に伏せた状態で検出された。掘り込み等の遺構は特別認められなかった。口径32cm、器高21cm、器厚2.5mmを計り、片口を持つ独特な形態の鉄鍋で、いわゆる燗鍋と称せられる形式の鍋である。」

片口鉄鍋の出土状況
報告書(「千葉市双子塚-横戸団地建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」1983、千葉県住宅供給公社・財団法人千葉県文化財センター)より引用

この片口鉄鍋が伏せた状態で見つかったことから、疫病等による不浄の遺体を周溝内で土葬し、この片口鉄鍋で顔を覆ったという可能性もあります。
もし仮にそうだとすると、遺体を土葬したのに、遺体はもとより「掘り込み等の遺構は特別認められなかった」という土層形成の特徴が浮かびあがります。

そうした土層形成の特徴は、古墳主体部が見つからなかったという特徴に通じます。

古墳築造当初のローム層撹拌・混合・堆積というプロセス、及びローム層の理化学的特性などの条件がこのような土層形成の特徴に結びついているのかもしれません。

(つづく)

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