2012年8月16日木曜日

忘れ去られた双子塚古墳

双子塚古墳の過去・現在・未来 その10
双子塚古墳出土物を閲覧して

5 現代
5-1 発掘調査時点の近隣住民の意識
報告書によれば双子塚古墳について近隣住民の意識は次のように記載されています。
塚としては、寛永通宝・片口鉄鍋・皿などからして江戸時代に利用されたものと推測される。元地主をはじめとする横戸および柏井地区の聞き込みを実地したところ、北東約600mに位置する庚申塚群および庚申塔については、庚申祭や「横戸村に婿入りした人が、力量を示すために朝食前に築いてみせた塚だ。」という伝承など具体的で、あり多くの人が知っているのに対し本双子塚については存在を知らない人も多く、わずかに旧横戸村と旧柏井村の村界にあたることと、「境神」ということを聞いた人がいたのみであった。

双子塚古墳に対して近隣住民の意識が大変希薄であったことがわかります。

大正6年測量旧版1万分の1地形図には、双子塚はケバ記号でわざわざ記載されており、地図測量隊が見つけた土盛りを、通常なら、近隣住民が知らないわけがありません。
大正6年測量旧版1万分の1地形図に表現された双子塚古墳
「三角原」図幅
赤丸内の星状の記号が双子塚古墳
赤点線は現在の町丁目界線

1983年頃(昭和58年頃)の近隣住民の意識の中で双子塚古墳の存在そのものが希薄化していた理由について、次のような想像も成り立つと考えました。


双子塚古墳に対する近隣住民の意識が希薄化した理由の想像

1 古墳であることの記憶が一旦途切れてしまったこと。
双子塚古墳が柏井村にではなく、横戸村にあることに示されるように、近世の柏井村住民をはじめ近隣住民は双子塚古墳を古墳として認識することが一旦途切れた時期があったのだと思います。

一方、双子塚という名称は「双子塚」=「前方後円墳」=「古墳」というイメージ連鎖を呼び起こす名称であり、人々の意識の奥底には双子塚が古墳であるという真実が伝わってきてはいるのだと思います。

しかし、次の理由により、最後まで古墳という認識が意識の表面で回復されることはなかったのだと思います。

2 古墳立地要件が物理的に失われてしまったこと。
印旛沼堀割普請により、東京湾水系花見川源流部の地形や湧泉が物理的に失われ、なぜこの場所に古墳がつくられたのか、人々がイメージできる条件が決定的に欠如してしまいました。

古墳であることが想像できれば、近隣住民の心情としてその場所に何らかの神を祀ることになるのだと思います。
しかし、大規模工事の土捨現場近くにあるこの土盛りにあまり神聖性を感じることが無かったのだと思います。

聖は聖でも「意味不明の聖」になっていったのだと思います。

塚として利用しつつ(供え物をしたり賽銭をしたりして願掛けはした)、一方柏井村と横戸村の境に位置していて、双方の村から「境」というか、「塚から向こうは村の外」という感覚でとらえられていたのだと思います。

3 聖から穢れへの転換
前記事で述べたように、片口鉄鍋が伏せた状態で見つかったことから、疫病等による不浄の遺体を周溝内で土葬し、この片口鉄鍋で顔を覆ったという可能性もあると考えました。

もしそうだとすると、双子塚古墳は江戸時代に聖の場所から穢れの場所に180度転換したのだと思います。

近隣住民にとって穢れの場所を確保することも生活上必要であり、双子塚古墳は「意味不明の聖」であり、「村境」であり、ここを穢れの場所にすることは合理的だったのだと思います。

4 穢れの場所の記憶を消す
1983年頃(昭和53年頃)は経済の高度成長期まっただ中であり、穢れの場所を開発工事によって一挙にリセットしたいという社会心理が働いたものと想像します。

報告書では双子塚古墳に対する意識が希薄であったことが述べられていますが、その理由の背後には次のような状況が存在していたと考えます。
つまり、戦後の近隣住民自身が、江戸時代から伝わる穢れにまつわるイメージから、この双子塚古墳を存在必要性のないマイナス事象として捉え、意識の視野から消そうとする無意識が社会集団的に働いていたのだと思います。
そして、若い世代はそのような複雑な意識状況も消失してしまっていて、双子塚古墳の存在そのものを知らないという状況が存在していたものと考えます。

(つづく)

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