2013年8月28日水曜日

地名「横戸」の由来と香取の海との関係

花見川地峡の自然史と交通の記憶 66

1 戸地名分布図を見て思い浮かんだ問題意識
2013.08.27記事「「戸(と、ど)」地名検討の中間報告」で紹介した戸地名分布図(木戸、井戸、出戸、渡戸、橋戸、折戸以外の戸地名分布図)の花見川地峡部分を見て、次のような問題意識が浮かびました。

戸地名分布図(木戸、井戸、出戸、渡戸、橋戸、折戸以外の戸地名分布図)を見て思い浮かんだ問題意識

横戸は香取の海からさかのぼってやってきた海の民によって植民された場所(地名)であると言っていいのかどうかという問題意識です。

この問題意識を出発点として次の検討をおこないました。

2 地名「横戸」の由来
2-1 既存資料の情報と批判
自分の仮説を述べる前に、既存資料による地名「横戸」の由来情報を整理し、誤った論に対して批判しておきます。
地名「横戸」に関しては既往の論が特殊性を帯びているので、これに対する批判なくして、自分の仮説を述べることが困難です。

●「千葉市の町名考」(和田茂右衛門、昭和45年、加曾利貝塚友の会)
町名の起原については詳らかでない。

●「千葉県地名大辞典」(「角川日本地名大辞典」編纂委員会、昭和59年、角川書店)
地名は、大宝令の余部(あまるべ)によるともいう(地理志料)。

角川の記述は、一見、日本地理志料(邨岡良弼、明治35年)の記述を単純に引用しているように見えます。しかし、この一文はその筆者が誤った先入観にもとづいて、無理なこじつけを思考して、その結果を日本地理志料という資料名でカムフラージュして原稿用紙を埋めたものです。日本地理志料の誤りを横戸でさらに増幅しています。専門家らしからぬ不透明かつ低次元のものです。

横戸に関する日本地理志料の見立てが誤りですから、角川のこの一文は誤りの2乗みたいなものです。

【日本地理志料の誤り】
日本地理資料では、千葉郡の郷として「余部」を作郷(!)しています。つまり邨岡良弼が「余部」という郷名を新たに創作しているのです。信じがたいことです。
「原無シ。今補ヘリ。図ヲ按ズルニ、山梨・三枝・山家之中間ニ、天戸村有リ。余・天、同訓」という説明です。
「天戸(アマド)村があるから、この付近は余部(アマルベ)という郷に違いない。」という単純な発想で、それ以上の根拠なく邨岡良弼がかってに余部郷をつくってしまったのです。郷の範囲も地図とにらめっこで作図したものと考えます。

日本地理志料(邨岡良弼)が創作した千葉郡余部の範囲
千葉県地名変遷総覧(千葉県立中央図書館編、昭和47年)附図「千葉県郷名分布図」による

印旛郡に余戸(アマルベ)郷があり、天辺(アマベ)という地名が遺称として残っていることから、それを念頭において類推した創作であると想像します。

※余部(アマルベ):律令制下、50戸をもって1里に編成した際の端数戸の呼称。僻地に置く特殊な里の一種ともいうが、令に明文はない。実例として、郷里制下の「出雲国風土記」の4郡に余部里がみえ、その一つは後に郷に昇格している。「和名抄」の郷名となり、現在の余部・余目などの地名に続く例も多い。(岩波日本史辞典)

日本地理志料のこの創作が、結果正しいと裏付ける情報は世の中にありませんから、この創作を誤りであると断じます。
ちなみに、「余部郷」の隣は「駅家茜津」となっていて、現在では「駅家茜津」は柏市付近に比定されていて、これも間違っています。

【角川日本地名大辞典の執筆者の誤り】
さて、日本地理志料には、横戸が余部郷に含まれることは書いてありますが、横戸に注目した記述はありません。
それにもかかわらず、執筆者は「地名は、大宝令の余部(あまるべ)によるともいう(地理志料)。」と書いています。
余部(アマルベ)と横戸(ヨコド)がどのように関連するのか普通の人は分からないので、不思議です。

執筆者は次のような思考をして、その思考を直接書かないで、「余部」という言葉を出して暗喩として専門家に情報を提供し、自分は日本地理志料の影に隠れたのだと思います。

執筆者の思考は次のようなものであると考えられます。

「余部(アマルベ)の余の字は「ヨ」とも読む。余部から転じて余戸(ヨコ)という言葉もある。従って横戸(ヨコド)も余部と同族であろう。」

特定の誤った先入観に強く囚われているために、強引にこじつけして、横戸を「余部」に結び付けようとしています。

邨岡良弼が特定の先入観に囚われて「余部」という地名を創作命名し、角川日本地名大辞典の執筆者はその創作地名「余部」に基づいて、特定の誤った先入観に基づく隠語解読をして、それを横戸に投影しています。

角川日本地名大辞典の記述は人心を惑わすたちの悪い誤りであり、全く参考になりません。

結局、地名「横戸」の由来はこれまでのところ、不明だということです。

2-2 地名「横戸」の由来(仮説)
横戸は横浜、横須賀などと同じ地名のでき方であると考えます。

海上のメインルートを進む船に視点を置いた時、横に拡がる特徴的な浜を横浜、横に拡がる特徴的な須賀(洲)を横須賀と云うように、横に拡がる特徴的な戸(海の民が植民した場所、2013.05.20記事「「戸」を構成する4つのイメージ」参照)を横戸と言ったものと考えます。

平戸川を遡ると、横戸付近で高津川と勝田川が合流します。その合流の様子は古代(印旛沼堀割普請以前)では下図のようになっていました。

古代における(印旛沼堀割普請以前における)高津川と勝田川の合流の様子

平戸川を下流から遡ってきた人は、この合流部付近にくると、正面に横戸の台地が横に長く拡がる様を一望します。

この地形的特徴が横戸という地名になったのだと思います。

平戸川を遡り、高津川と勝田川の合流部付近に来た時の眼前の風景

成田街道付近から南を見た風景です。
地形は現在の地形です。京成本線土手が邪魔しています。

正面に横戸の台地が横に広がります。

現在の風景
成田街道歩道橋上から撮影。

横戸の台地が眼前一杯にひろがります。この横に拡がる風景の特徴から、この土地が横戸と名付けられたのだと思います。

3 平戸川を遡る海の民の植民ルート
横戸という地名が平戸川から横戸方面を見て名付けられたという仮説に基づけば、銚子方面から香取の海に入った海の民は平戸川を遡り、横戸までその植民場所を広げたとイメージできます。
平戸から砂戸を経て横戸に到るルートをイメージできます。

戸地名仮説からイメージできる海の民の植民の方向

つづく


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