2014年1月12日日曜日

印旛沼筋=古利根川旧流路説を誘発したキーワード

花見川流域の小崖地形 その96 (千葉県北部地形の学習 1

1 これまでの印旛沼筋河川争奪の検討
次の記事で印旛沼河川争奪仮説メモを作成しました。

その趣旨を一言で述べれば、下総下位面が形成された時代に、当初は、印旛沼筋には古平戸川が手賀沼方面に流れ、鹿島川が栄町方面に流れていた時期があったのですが、その後鹿島川の谷頭浸食により古平戸川が鹿島川に争奪されてしまったという考えです。

その地形的証拠として、印旛沼筋南岸の流入支谷が北方向に揃っていることをあげることができます。
このような流入支谷の方向性は古平戸川筋が手賀沼方向に流れていたことを示します。

しかし、現在の印旛沼筋の流れの方向はその真逆を示していますので、河川争奪があったことを地形が表現しています。

このような仮説と衝突する説(印旛沼筋=古利根川旧流路説)がありましたので、その根拠を調べたところ、杉原(1970)の地形分類図からの考察であり、特段の証拠があるものではないことが判りました。

2 杉原(1970)論文の学習
さて、杉原(1970)地形分類図が掲載された原著論文を詳細の読んだところ、印旛沼筋=古利根川旧流路説を招きかねない記述がありましたので、考察します。

「杉原重夫(1970):下総台地西部における地形の発達、地理学評論、43-12」における下総下位面に関する記述抜粋。
A-1
「利根川下流部に分布する下総下位面は、現在の利根川や鬼怒川の流向とは逆に北ないし北西方向に傾下している。第11図に示した竜ケ崎砂層の基底面も地形面と同じ傾斜方向を示し、それは竜ケ崎砂層のfaciesの変化やクロスラミナの方向性から推定される竜ケ崎砂層堆積当時の河床面の傾きの方向とは明らかに異なる。このような地形面の変位は古河地区造盆地運動の影響によるところが大きいと考える。」

A-2
「なお、印旛沼の谷は酒々井-手賀沼東部を結ぶ高まりに対し、先行性の行程をとっている。事実、印旛沼沿いの下総下位面の高度は、この高まりを横切る部分で僅かながら増加する。また、この高まりの北西方向への延長上にあたる地帯(我孫子市東部)では、竜ケ崎砂層の基底面の高度も周辺部より高い。」

11

B
「なお手賀沼・印旛沼の成因やこれをたたえる谷の形態については古くから興味をもたれてきた。下総下位面の分布状態から、かつてこの方向に河道や澪筋があったことは明らかである。印旛沼や手賀沼は、当時の名残川が台地を刻み込み、その結果できた谷がさらに沈水し、一方、利根川との合流点に近い部分に生じた逆デルタによって堰止められて形成されたものである。」

記述A-1について
記述A-1は図11を示して、竜ケ崎砂層の基底面や地形面の傾斜と堆積当時の河床面の傾きが異なることを示していて、それが古河地区造盆地運動の影響であると論じています。

おそらく、この論文の最大ともいえるポイントがこの記述にあったものと思います。この関東地方全体を視野に入れた記述は当時としては特筆すべき成果であり、現在もそれを否定することはできないのだと思っています。

記述A-2について
記述A-2は印旛沼筋出口の地殻運動に対する先行性を述べています。

この記述も現実の地形をありのまま述べているものだと思います。

記述Bについて
「印旛沼や手賀沼は、当時の名残川が台地を刻み込み、その結果できた谷が・・・」と記述されているように、「印旛沼は当時の名残川が台地を刻み」とあります。

名残川の意味は次のように使われています。
名残川:河川の流路変更で放棄された旧河道の中に残る小流。東木龍七(1928)が延長川の移動後に、もとの流路を受け継ぐ小流を名残川と呼んだことに始まる。(新編地学事典、平凡社)

ですから記述Bは、現在の印旛沼筋の小流(例 神崎川)が名残川であり、流路変更する前の河川は手賀沼方面から流れてきこととなり、印旛沼筋=古利根川旧流路説につながります。

印旛沼筋=古利根川旧流路説を誘発したのが「名残川」というたった1つのキーワードであったことにたどりつくことができました。

3 印旛沼河川争奪仮説を裏付ける地質情報が存在する可能性のある場所
さて、この学術論文(杉原(1970)には古利根川の名残川説(印旛沼筋=古利根川旧流路説)を証明するようなデータはありません。(印旛沼河川争奪仮説から見ると当然ですが。)

11には印旛沼筋の竜ヶ崎砂層の基底面高度14mとか16m付近にcurrent roseが掲載されていません。

このことから、次のような地質情報が印旛沼筋の出自を証明する1つの重要な情報であることに気がつきました。

下図の楕円で囲った付近の地層構成物が示す「faciesの変化やクロスラミナの方向性から推定される竜ケ崎砂層堆積当時の河床面の傾きの方向」が南東方向を示すものならば古利根川の分流路説を支持し、北西方向を示したり、湖沼環境を示すならば河川争奪仮説を支持します。

印旛沼筋の出自を証明する地質情報が得られる可能性のある場所

4 印旛沼筋を名残川とした背景
なお、下総下位面の範囲の印旛沼筋支谷が北方向を向いていることは、この地形面ができた当時の地形面の傾斜の方向を表現している、かなり明瞭な地形証拠といえます。

そのことはこの論文の著者も十分にご存じだったにちがいありません。

しかし、そのことにあえて触れず、名残川という表現をつかったのは次のような理由が背後にあったもとのと想像します。

つまり、この論文で云いたいことは利根川などの川の方向と地形面の傾斜とは逆であり、関東造盆地運動の影響であるということです。

利根川が先行性を有しているということを強く主張したかったのだと思います。

ところが、印旛沼筋については、その支谷の流入角度をみるとこの仮説と反する川の方向になってしまいます。

関東平野全体の問題解決をするなかで厄介なテーマを背負ってしまいます。

従って、印旛沼筋支谷の方向性については触れないで、ローカルで特殊な問題としてとりあえずスルーしておき、関東平野全体の問題解決を優先したのだと思います。

5 印旛沼筋を古利根川の名残川と見ていない文献の例
なお、文献の孫引き学習をするなかで、台地の地層が堆積した地史時代に、印旛沼筋の流れが北西方向であったと考えている古地理図を見つけましたので、参考までに紹介します。

印旛沼筋に北西方向の流れがあったとする古地理図
出典 菊地隆男(1980):古東京湾、アーバンクボタNO18

引用者による書き込みあり

0 件のコメント:

コメントを投稿