花見川流域の小崖地形 その91(5mメッシュDEM図を読む 30)
想像を交えて、現在考えている(最初に思考した)印旛沼筋河川争奪仮説をメモしておきます。
専門書の情報を引用し参考にしながらメモします。
印旛沼筋河川争奪仮説メモ(2014.01.06)
1 最終間氷期最盛期の時代(ステージ5e、13-11万年前)
千葉県北部はこの時期、下末吉海進により海底でした。
最終間氷期最盛期の古東京湾
増田富士雄(1992):古東京湾のバリアー島、地質ニュース485 より引用
2 バリアー島の時代(ステージ5e、13-11万年前)
最終間氷期最盛期後のわずかな海面低下に伴って、関東平野の東側にバリアー島が出現しました。
バリア島のイメージ
増田富士雄(1992):古東京湾のバリアー島、地質ニュース485 より引用
バリアー島の時代の堆積環境は次の図に示されます。
古東京湾の堆積環境 バリアー期(13-11万年前)
岡崎浩子・増田富士雄(1989):古東京湾の流系、堆積学研究会会報、31号 より引用
上記図をGISにプロットし、印旛沼筋付近の地形段彩図とオーバーレイすると次のようになります。
古東京湾の堆積環境 バリアー期(13-11万年前)と地形段彩図のオーバーレイ図
古東京湾の堆積環境 バリアー期(13-11万年前)は「岡崎浩子・増田富士雄(1989):古東京湾の流系、堆積学研究会会報、31号」より引用
この図から判る様に、印旛沼流域はBarriers(バリアー島)、Beach(海浜)、Lgoon(潟)、Flood-tidal
delta(潮汐三角州)から構成されていて、花見川流域から印旛沼にかけての地域の地形は、南西から北東方向に緩やかに傾斜する(下がる)平坦面であったと捉えることができます。
この地形(堆積環境)がそのまま離水して平坦な土地となったのが下総上位面の原面であると考えます。
下総上位面には緩やかな傾斜に従って平行河川が流れていたと考えます。その平行河川(原始河川)はその後の地殻変動で変形していますが、花見川流域では各所で観察できて、このブログでも報告を重ねています。
平行河川(原始河川)が各所で観察できるということは、下総上面が離水した時には、顕著な地殻変動が無かったことを示します。
地殻変動は時間的に偏在していることを示しています。
この時期には、古平戸川(新川(平戸川)や神崎川)や鹿島川は明確に出来ていなかったと考えます。
その後海面低下があり、下総上位面を刻む谷津の形成が進んだものと考えます。
3 地殻変動が盛んになり出した時代(ステージ5eとステージ5cの間、13-11万年前と10-8万年前の間)
この時代に地殻変動が盛んになったと考えます。
勝田高津付近に向斜軸ができて、勝田高津レーキが形成されたと考えます。
印旛沼筋にも向斜軸が形成され、そこにできた凹地の水は手賀沼方面に流れ、古平戸川が出来たと考えます。
現在の北印旛沼や中央排水路付近で生じた地殻変動(陥没)により鹿島川は成田市方向に新たに流路をとったものと想像します。
地殻変動により古平戸川と鹿島川ができる(想像)
4 鳥趾状三角州期の時代(ステージ5c、10-8万年前)
「10-8万年前には海面上昇後の海面低下によって広く海岸平野が出現し、古鬼怒川の鳥趾状三角州が前進した。」とされています。
古東京湾の堆積環境 鳥趾状三角州期(10-8万年前)
岡崎浩子・増田富士雄(1989):古東京湾の流系、堆積学研究会会報、31号 より引用
上記図をGISにプロットし、印旛沼筋付近の地形段彩図とオーバーレイすると次のようになります。
古東京湾の堆積環境 鳥趾状三角州期(10-8万年前)と地形段彩図のオーバーレイ図
古東京湾の堆積環境 鳥趾状三角州期(10-8万年前)は「岡崎浩子・増田富士雄(1989):古東京湾の流系、堆積学研究会会報、31号」より引用
この図から判る様に、この時期には成田から手賀沼まで水域(海)が回廊のように広がっています。
この時期には古平戸川と鹿島川は回廊のようにつながる水域(海)に注いでいたと考えます。
回廊のように広がる水域分布とその後にできた下総下位面分布が対応します。
この時期の最初にできた下総下位面がエ面(エ1面)であると考えます。
5 鳥趾状三角州期の時代の後期1
その後の海退の中で、鹿島川は河道を下刻して、河岸段丘(エ2面)を残します。
古平戸川筋は手賀沼方向に流れ、河道に河岸段丘(エ、オ、カ)を残します。
6 鳥趾状三角州期の時代の後期2
古平戸川が北に出る手賀沼付近の出口が隆起して古平戸川がダムアップされ湖沼ができます。
湖沼の水位は高水位と低水位があり、それぞれに対応して湖岸段丘が形成されたと考えます。現在の標高22m・23mに分布するウ1面、キ1面。現在の標高20m・21mに分布するウ2面、キ2面です。
ダムアップした場所の標高は22m・23mですが、一部に20m・21mの区域があるので、それに対応しているものと想定しています。
標高22m・23m分布図
湖岸段丘の可能性を示します。
標高20m・21m分布図
湖岸段丘の可能性を示します。
ダムアップによりできた湖沼は、最後には鹿島川の支谷の谷頭浸食が佐倉市先崎付近で古平戸川湖沼を破り、古平戸川流域全体を奪うことにより終わったと考えます。
湖沼形成以前には手賀沼方面に抜けていた古平戸川流域がこの時を境に現在の鹿島川流域に編入され、現在の印旛沼流域ができたと考えます。
7 千葉段丘の時代(武蔵野面の時代)以降
鹿島川が古平戸川を争奪して成立した現在の印旛沼流域の河川に沿って千葉段丘がつくられました。
最終氷期には鹿島川は印旛沼付近で-40m付近まで下刻し、その後縄文海進で現在の沖積地形面をつくり、現在に至っています。
以上のような、印旛沼筋河川争奪仮説の最初のイメージを考えました。
地形面の対比や地質情報の入手、現場観察により、この仮説の適否判断および精度の向上を目指したいと思います。
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