2016年7月6日水曜日

地名型「箇」(郷連合体地名)の千葉県検索結果

鏡味完二の地名型全21の17番目の「箇」(郷連合体地名)について検討しました。

1 鏡味完二の検討 地名型「箇」(郷連合体地名)

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「郷の聯合体」の地名

清水博士は"五ケ荘"とか"五箇村"とかいう地名は,「郷の聯合体」を示すもので,室町時代に形成されたということである。

すなわち中世村人の生活は,大体その1村内に鎖されていた時により所によっては,数村の共同祭祀が行われ,用水のための聯合組織を作るなどがあり,この種の地名をもつ聯合体の活躍を多くみるようになったのである。

同博士による引例を次に記してみよう。

伊賀国北杣は玉滝,柄田,温船,内保,槙山の5荘で,南杣である黒田荘に対するものである。

このように他領から自己の村々を守るために,同寺領の荘民が団結したと同時に,内部においても団結した。

宝治3年(1249)北杣"五ケ荘"の百姓が,荘の預所の先例にない課役を五ケ荘連名で東大寺に訴えている。

この団結の根底は一般地理的地形的でもあるが,更にこの地の人という特殊の生活形態が,その地域的団結を一層強めている。

またこれらの山民は共通の山の神を杷ることにおいて,その聯体性を保持したのである。

次に用水を同じくする場合の聯合として,山城国西岡"五ケ荘"(東寺領)文明16年(1484)の文書の例がある。

この場合上久世,下久世,上桂,上野,植松の五荘が,桂川の用水について1体となっていた。

また次のような例もある。

山城国"五ケ荘"(近衛家領)が守護方によって,兵糧料所として没収されようとしたとき,五ケ荘の郷民が番衆をおいて防禦して,遂にその侵入を退けることができた。

このように元来は自然的な条件によって結合した村落が,室町の乱世において自己防禦の必要から結合したのである。

これが更に発展すると,単に近村の聯合にとどまらず,1ケ国を規模とするものまでに進展する勢を示すものもあった。

聯合分子の数は,現在の地名では次のようになっている。

1(0),2(1),3(17),4(9),5(30),6(2),7(0),8(2),9(1),10(2),11(2),12(1)〔数宇は聯合分子の数,カツコ内の数字は該当地名例の数〕

これらの地名は,"~箇"の次に,"村","荘","所","屋敷"の語尾がついているものもある。

例えば"五箇屋敷"の如く。

ただこれらの地名の中には"三箇"といって,実は「三戸」の意味であること,恰も"三軒家"というに等しい場合が混入しているかも知れない。

しかし石岡図幅の"三箇"は現在では確かに3つの集落から成っている。

この地名の分布Patternをみると,前項のZaikeとはハツキリ区別される程の,重心の東漸が認められる。

しかし九州に別の小開拓地域が独立しているのは,何か特殊の事情があったのであろう。

この地名型も単なる普通の意味の開墾地名ではないが,ある時代の社会状態の所産である地名の発生として意義がある。

〔地図篇Fig.78〕

(Fig.22,No.17)

以上の~ノ宮,Zaike,-kaの3つの地名型にあっては,それらの分布の核心帯は常に近畿と鎌倉を包括する地域にあったことは,それらの分布図にみる通りである。

故に著者はこれらの中世を代表する地名型を,近畿から関東への重心移動の過渡期にあるものと見倣したのである。

鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年) から引用


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2 千葉県における地名「箇」(郷連合体地名)検索結果

小字2件、大字2件を郷連合体地名として抽出しました。

郷の連合体の地名

分布は次のようになります。

郷連合体地名分布

小字の由来は不明ですが、大字の由来は角川千葉県地名大辞典では次のように説明されています。

袖ヶ浦市三箇(サンガ)…地名は、御霊原台・松崎台・塚越の3か村が合併したことに由来すると伝えられる。

香取市五郷内(ゴゴウチ)…地名は阿玉郷5か村の中心部であったことによる(下総国旧事考)。「五ケ内」などともみえる。

なお数詞を含む類似地名として小字十二所が各地に多数ありますが、神社関連の地名だと考えます。

また市原市にある大字「五所」は御所に由来する(角川千葉県地名大辞典)のでこの地名型には含めませんでした。



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