大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 17
2048.02.05記事「集落変遷と竪穴住居張出部方向 大膳野南貝塚後期集落」で集落創始期(称名寺式期前後期)にのみ漆喰貝層有竪穴住居で海へ向かう道とは正反対の北方向の張出部(出入口)を持つ竪穴住居が存在していることを突き止めました。
その理由は海で行う漁撈ではなく陸で行う狩猟を意識しているからだと推測しました。
その推測をデータで検討してみました。
1 集落創始期は生業展望が確立していなかった
1-1 狩猟フィールド方向を張出部方向とする竪穴住居(漆喰貝層有竪穴住居)の存在
狩猟フィールド方向(北方向)を張出部方向(出入口方向)とする漆喰貝層有竪穴住居は集落創始期だけに存在します。
集落創始期は主食の堅果類確保のメドは仮に立っても、まだ狩猟と漁撈の力点の入れ方が定まらなかった時期であると考えます。
集落創始家族は全て主食確保はもちろんのこと狩猟も漁撈もすべて行ったと考えられますが、南貝層を例にとれば、J77竪穴住居家族は狩猟の可能性により興味を持ち、J82、J104竪穴住居家族は漁撈の可能性により興味を持っていたと想定できます。
J77竪穴住居からは鹿角製腰飾りとともに獣骨が多量に出土し、この竪穴住居家族主人が狩猟に丈ていたことを物語っています。なお貝刃など貝製品も出土していて、J77竪穴住居家族が狩猟も漁撈も、当然主食堅果類採集もすべて満遍なく行っていたことは当然であると考えます。
集落創始期(称名寺式期前後期)の竪穴住居と出土物
1-2 石器出土数が多量である
時期別に竪穴住居1軒あたり平均石器出土数をみると、集落創始期の数が異常に大きくなっています。
時期別竪穴住居1軒あたり平均石器出土数
個別住居毎に確かめると確かに集落創始期住居の石器出土数が上位を占めています。
竪穴住居別石器出土数
これまでの検討では集落創始期になぜ石器出土数が「異常」に多いのかわかりませんでした。しかし、この時期は仮に主食が確保できても(それも実は未知だったのかもしれませんが)主な副食を狩猟から得るのか漁撈から得るのか不明だったとすれば、1つの理解をすることが可能になります。
つまり生活基盤が十分に出来ていないことを十分に自覚していたので、どのような想定外事態が生じても道具不足によって生活が破たんしないように、普通必要な道具セットの予備を多数所持しているというリスク管理をしていたのだと考えられます。
なお、集落全期の竪穴住居1軒あたり石器数グラフと集落創始期(称名寺式期前後期)のおなじグラフを比較すると、利用系統別の割合がよく似ています。
このことから、縄文時代家族が所持する石器セット(生活道具セット)は主食採集・調理、狩猟、素材を基本に一定のパターンが存在していることが想定できます。
生業における専門分化は現代人が考えるほどには存在していなかったことが理解できます。
後期集落全期 利用系統別石器平均出土数
後期集落創始期 利用系統別石器平均出土数
2 考察
集落創始期にこの場所にやってきた家族は別の場所で「まっとうな生活が出来なくなってこの場所に流れついた」ので、この場所ではどのように食うことができるのかいろいろと試しながら生活したことは確実です。その一環として狩猟と漁撈のどちらをメインにするのか試した結果が竪穴住居張出部の北向きと南向きの双方が存在することに表現されていると考えます。
また、はたして本当に餓死しないで生活できるのか、リスク管理の観点からいつもの生活で必要な石器セット(生活道具セット)の約3倍近いセットを所持していたことから集落創始家族の悲壮な決意が判ります。
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