大膳野南貝塚学習のための基礎知識習得のために、「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)の「第1編第8章縄文社会崩壊のプロセス」の学習をしています。
この記事では縄文時代晩期後半の竪穴住居跡数衰退の理由記載等について学習します。
1 縄文時代晩期後半の竪穴住居跡数激減の様子
縄文時代晩期後半の竪穴住居跡数衰退の様子
2 縄文時代晩期後半の竪穴住居跡数衰退の理由
図書では竪穴住居跡数衰退の理由について次のように説明しています。
「従来、弥生小海退と呼ばれていた寒冷化は、今日では後期後半から晩期初頭に相当するものと考えられる。
晩期初頭の遺跡数の減少は、この寒冷化と関連する可能性がある。
無論、遺跡数の減少や人口の減少の原因のすべてを、環境の変化に求める環境決定論的な立場によって縄文時代の繁栄や衰退を語ることは危険であるが、晩期初頭において、いわゆる亀ヶ岡式土器が汎列島的に分布する様相も注目すべきであろう。
散発的ながら九州や中国地方でも出土し、近畿地方での出土も決して珍しいことではない(図35)。
房総では晩期初頭以降、遺跡数に大きな変動はなく、衰退期が続くこととなったが、晩期終末から弥生時代前期の時間幅の中で遠賀川系土器・東海系条痕文土器などの他地方の土器の流入や、新たな葬制である壺棺再葬墓の採用など、新たな要素が加わる。
また、壺棺再葬墓の採用と同時に、焼畑農耕の可能性も示唆されている。
この様相は、まさに中期後半や後期中葉の衰退と再編成に相当するものであろう。
縄文時代的な衰退は、縄文時代的な再編成を生み出す。
広域な土器の分布はさまざまな情報が伝達されやすいシステムの上に成り立っていることから、弥生時代的要素の獲得を容易にする土壌を備えている。」
この文章を自分なりに敷衍してまとめると次のようになります。
・晩期後半の衰退は寒冷化が要因である。したがって、3つの衰退期(中期後半、後期中葉、晩期後半)ともに寒冷化が要因である。
・3つの衰退期ともに遺構に新たな要素が加わり遠方との交流が密になっている。
・3つの衰退期ともに汎列島的規模の類似形式土器分布がみられ、列島規模で交流と人の移動が密になっている。
3 感想
3つの衰退期が寒冷化に関係していることはその通りだと思いますが、「寒冷化」という3つの漢字の言葉以上に具体的な情報がこの図書ではありません。
寒冷化による衰退メカニズムが3つとも同じであるとは考え難いので、その差異を知りたくなります。
3つの衰退期のうち、中期後半の衰退期の学習では第2波渡来民の移動と房総到着を想像しました。
ヒトゲノム研究成果を考古歴史に投影して、3つの衰退期ともに渡来民の移動と関連付けて考察してみることも価値があると考えます。
3つの衰退期ともに汎列島的規模の類似形式土器分布がみられるということですが、その情報を具体的に知ると、果たして、そこに人(渡来民)の西→東移動を想定できるような大局的情報を観察できるのか、出来ないのか、興味が湧きます。
2017年2月26日日曜日
2017年2月22日水曜日
千葉県の貝塚学習 縄文時代後期中葉~晩期後半
大膳野南貝塚発掘調査報告書の学習をするための基礎知識習得のために、「千葉県の歴史 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の貝塚の項の学習をしています。
この記事では縄文時代後期中葉~晩期後半の学習をします。
1 図書の記述
図書では次の貝塚分布図と説明文が示されています。
Ⅶ期(縄文時代後期中葉~晩期前半)・Ⅷ期(縄文時代晩期後半)貝塚分布図
説明
Ⅶ期:後期中葉から晩期前半の貝塚
貝塚数はかなり減少する(図8)。
東京湾沿岸の各水系で核となる一部の遺跡のみが前時期から継続しており、貝層を形成する遺跡はこのような拠点集落にほぼ限られる。
遺跡ごとにみると、廃棄される貝の量は激減し、貝殻は明らかに大きくなる。
これは志向の問題のほかに、漁の規模や頻度が減って採取圧が低くなったことを示すものであろう。
一方、獣骨の増加が顕著となり、松戸市貝の花貝塚・千葉市緑区六通貝塚・横芝町山武姥山貝塚等には獣骨が特に集中する地点が存在した。
汽水産のヤマトシジミの利用が拡大したこともこの時期の特徴である。
古鬼怒湾沿岸では印旛沼・手賀沼・長沼を見下ろす台地縁辺にヤマトシジミ主体の貝塚が分布する。
一方で、印旛沼水系の奥部には東京湾沿岸から分水界を越えて運ばれた貝が多いことがわかってきた。
奥東京湾沿岸域もヤマトシジミ主体となる。
近年、貝塚以外でも盛土や中央の掘削によって馬蹄形貝塚と同様の地形を形成する例が多いことがわかってきた。
Ⅷ期:晩期後半の貝塚
Ⅴ期ないしⅥ期に現れた大規模な拠点集落は晩期前半で消滅し、晩期後半はほとんど集落や貝塚がみられなくなる(図8)。
東京湾沿岸の魚貝類を重視した生業・文化は終焉を迎えた。
しかし、長沼低地の成田市荒海貝塚のみは集落も貝塚もⅥ期以来継続した。
また、周辺にも貝塚を伴う集落が現れる。
2 理解促進のための分布図調整
図書記述の理解を促進するために貝塚分布図をIllustratorレイヤを活用して調整し、見やすいものにしました。
Ⅶ期貝塚分布図
参考 Ⅵ期貝塚分布図
Ⅷ期貝塚分布図
3 疑問・興味
●Ⅵ期→Ⅶ期では古東京湾沿岸では貝塚は減少しますが、それ以外の太平洋岸、古鬼怒湾沿岸、印旛沼沿岸では逆に貝塚が増加しているように観察できます。
増加した貝塚は汽水産のヤマトシジミの利用が拡大しているようです。
古東京湾沿岸の貝塚集落の衰退傾向をそれまで利用の進んでいなかった古鬼怒湾沿岸と太平洋岸でカバーして、全体としての衰退を食い止めようとしているように感じられてしまいます。
このような全体としての貝塚集落退潮傾向の要因について今後検討していこうと思います。
Ⅵ期→Ⅶ期退潮傾向の要因がⅦ期→Ⅷ期の破滅的現象とどのように関係するのか、興味が湧きます。
●Ⅶ期→Ⅷ期の変化は破滅的現象であり、大変極端なものです。古鬼怒湾沿岸1地域を除いて貝塚集落は全滅しています。
縄文時代と弥生時代を画期するこの時期になぜ貝塚集落がほぼ全滅したのか、その理由を大いに検討したいと思います。
その検討は少し準備をして別記事で行うこととします。
この記事では縄文時代後期中葉~晩期後半の学習をします。
1 図書の記述
図書では次の貝塚分布図と説明文が示されています。
Ⅶ期(縄文時代後期中葉~晩期前半)・Ⅷ期(縄文時代晩期後半)貝塚分布図
説明
Ⅶ期:後期中葉から晩期前半の貝塚
貝塚数はかなり減少する(図8)。
東京湾沿岸の各水系で核となる一部の遺跡のみが前時期から継続しており、貝層を形成する遺跡はこのような拠点集落にほぼ限られる。
遺跡ごとにみると、廃棄される貝の量は激減し、貝殻は明らかに大きくなる。
これは志向の問題のほかに、漁の規模や頻度が減って採取圧が低くなったことを示すものであろう。
一方、獣骨の増加が顕著となり、松戸市貝の花貝塚・千葉市緑区六通貝塚・横芝町山武姥山貝塚等には獣骨が特に集中する地点が存在した。
汽水産のヤマトシジミの利用が拡大したこともこの時期の特徴である。
古鬼怒湾沿岸では印旛沼・手賀沼・長沼を見下ろす台地縁辺にヤマトシジミ主体の貝塚が分布する。
一方で、印旛沼水系の奥部には東京湾沿岸から分水界を越えて運ばれた貝が多いことがわかってきた。
奥東京湾沿岸域もヤマトシジミ主体となる。
近年、貝塚以外でも盛土や中央の掘削によって馬蹄形貝塚と同様の地形を形成する例が多いことがわかってきた。
Ⅷ期:晩期後半の貝塚
Ⅴ期ないしⅥ期に現れた大規模な拠点集落は晩期前半で消滅し、晩期後半はほとんど集落や貝塚がみられなくなる(図8)。
東京湾沿岸の魚貝類を重視した生業・文化は終焉を迎えた。
しかし、長沼低地の成田市荒海貝塚のみは集落も貝塚もⅥ期以来継続した。
また、周辺にも貝塚を伴う集落が現れる。
2 理解促進のための分布図調整
図書記述の理解を促進するために貝塚分布図をIllustratorレイヤを活用して調整し、見やすいものにしました。
Ⅶ期貝塚分布図
参考 Ⅵ期貝塚分布図
Ⅷ期貝塚分布図
3 疑問・興味
●Ⅵ期→Ⅶ期では古東京湾沿岸では貝塚は減少しますが、それ以外の太平洋岸、古鬼怒湾沿岸、印旛沼沿岸では逆に貝塚が増加しているように観察できます。
増加した貝塚は汽水産のヤマトシジミの利用が拡大しているようです。
古東京湾沿岸の貝塚集落の衰退傾向をそれまで利用の進んでいなかった古鬼怒湾沿岸と太平洋岸でカバーして、全体としての衰退を食い止めようとしているように感じられてしまいます。
このような全体としての貝塚集落退潮傾向の要因について今後検討していこうと思います。
Ⅵ期→Ⅶ期退潮傾向の要因がⅦ期→Ⅷ期の破滅的現象とどのように関係するのか、興味が湧きます。
●Ⅶ期→Ⅷ期の変化は破滅的現象であり、大変極端なものです。古鬼怒湾沿岸1地域を除いて貝塚集落は全滅しています。
縄文時代と弥生時代を画期するこの時期になぜ貝塚集落がほぼ全滅したのか、その理由を大いに検討したいと思います。
その検討は少し準備をして別記事で行うこととします。
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