2017年2月22日水曜日

千葉県の貝塚学習 縄文時代後期中葉~晩期後半

大膳野南貝塚発掘調査報告書の学習をするための基礎知識習得のために、「千葉県の歴史 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の貝塚の項の学習をしています。

この記事では縄文時代後期中葉~晩期後半の学習をします。

1 図書の記述

図書では次の貝塚分布図と説明文が示されています。

Ⅶ期(縄文時代後期中葉~晩期前半)・Ⅷ期(縄文時代晩期後半)貝塚分布図

説明
Ⅶ期:後期中葉から晩期前半の貝塚
貝塚数はかなり減少する(図8)。
東京湾沿岸の各水系で核となる一部の遺跡のみが前時期から継続しており、貝層を形成する遺跡はこのような拠点集落にほぼ限られる。
遺跡ごとにみると、廃棄される貝の量は激減し、貝殻は明らかに大きくなる。
これは志向の問題のほかに、漁の規模や頻度が減って採取圧が低くなったことを示すものであろう。
一方、獣骨の増加が顕著となり、松戸市貝の花貝塚・千葉市緑区六通貝塚・横芝町山武姥山貝塚等には獣骨が特に集中する地点が存在した。
汽水産のヤマトシジミの利用が拡大したこともこの時期の特徴である。
古鬼怒湾沿岸では印旛沼・手賀沼・長沼を見下ろす台地縁辺にヤマトシジミ主体の貝塚が分布する。
一方で、印旛沼水系の奥部には東京湾沿岸から分水界を越えて運ばれた貝が多いことがわかってきた。
奥東京湾沿岸域もヤマトシジミ主体となる。
近年、貝塚以外でも盛土や中央の掘削によって馬蹄形貝塚と同様の地形を形成する例が多いことがわかってきた。

Ⅷ期:晩期後半の貝塚
Ⅴ期ないしⅥ期に現れた大規模な拠点集落は晩期前半で消滅し、晩期後半はほとんど集落や貝塚がみられなくなる(図8)。
東京湾沿岸の魚貝類を重視した生業・文化は終焉を迎えた。
しかし、長沼低地の成田市荒海貝塚のみは集落も貝塚もⅥ期以来継続した。
また、周辺にも貝塚を伴う集落が現れる。

2 理解促進のための分布図調整

図書記述の理解を促進するために貝塚分布図をIllustratorレイヤを活用して調整し、見やすいものにしました。

Ⅶ期貝塚分布図

参考 Ⅵ期貝塚分布図

Ⅷ期貝塚分布図

3 疑問・興味

●Ⅵ期→Ⅶ期では古東京湾沿岸では貝塚は減少しますが、それ以外の太平洋岸、古鬼怒湾沿岸、印旛沼沿岸では逆に貝塚が増加しているように観察できます。

増加した貝塚は汽水産のヤマトシジミの利用が拡大しているようです。

古東京湾沿岸の貝塚集落の衰退傾向をそれまで利用の進んでいなかった古鬼怒湾沿岸と太平洋岸でカバーして、全体としての衰退を食い止めようとしているように感じられてしまいます。

このような全体としての貝塚集落退潮傾向の要因について今後検討していこうと思います。

Ⅵ期→Ⅶ期退潮傾向の要因がⅦ期→Ⅷ期の破滅的現象とどのように関係するのか、興味が湧きます。

●Ⅶ期→Ⅷ期の変化は破滅的現象であり、大変極端なものです。古鬼怒湾沿岸1地域を除いて貝塚集落は全滅しています。

縄文時代と弥生時代を画期するこの時期になぜ貝塚集落がほぼ全滅したのか、その理由を大いに検討したいと思います。

その検討は少し準備をして別記事で行うこととします。

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