花見川河川争奪を知る15 思わぬみっけものに興奮
2011年10月6日記事「花見川河川争奪の証明」の文章を一部削除したことを、前記事で報告しました。
この削除した文章にある花見川本川谷底と前谷津谷底の段差の成因については、やはり気になっています。
戦後の印旛沼総合開発の工事前の段差と、現在の段差を比較すれば、江戸時代の堀割普請によりできた段差の量と戦後の工事で出来た段差の量を分離して把握することができます。
それができれば、江戸時代の堀割普請の工事土量がわかり、普請の実体を定量的な工事量としてより正確に把握できます。
また、谷津の形成にかかわるなんらかの情報も得られるかもしれません。
このような視点から旧版1万分の1地形図(大正6年測量)と迅速図(2万分の1、明治15年測量)をみましたが、問題個所に段差は表現されていません。
そのようなことを考えているとき、米軍撮影空中写真なら戦後の工事前の地形実体を把握できることに気がつきました。
それを入手(購入)しようとして国土地理院のWEBをのぞいてみると、その空中写真の電子ファイルをフリーに閲覧(「名前を付けて保存」でjpgファイルのダウンロード可)できることが判り、驚きました。
さらにダウンロードした連番2つの電子ファイルをディスプレイ上でならべて裸眼実体視を試みると、
なんと鮮明な映像で地形の起伏が実体視できました!!!
久しぶりにパソコンの前で静かに大興奮しました。
すきな時に、すきな場所、すきな時点の空中写真をダウンロードして、それをパソコンディスプレイ上で実体視できる環境が日本に実現していたことに驚きました。
案の定という表現がぴったりですが、案の定、この実体視により花見川本川と前谷津の間に、戦後工事前の明瞭な段差を確認できました。その他、地図では分からなかった地形の様々な特徴が、凹凸が強調されている実体視画面の中に広がっています。
そして、さらに、なんと、堀割普請により原地形が失われたと勝手に思い込んでいた場所に、
古柏井川の谷壁の断片と考えられる地形を、複数個所発見しました。!!!
古柏井川の谷底の断片と考えられる地形まで見つかります。
古柏井川の谷地形復元に手が届いたという感触を持ちました。
その地形が花見川方向と勝田川方向でともに、これまで見過ごしてきた河岸段丘に連続しているということにも気がつきました。(追って詳細は報告します。)
米軍空中写真の閲覧と実体視により、自分の花見川河川争奪検討に一つの転機が訪れました。
終戦直後に撮影された米軍空中写真で地形を実体視で調べることができるということは、人工改変が少ない場所なら、大正、明治、江戸時代、さらにさかのぼってその地形をほぼそのまま正確に把握できるということだ、と私は思います。
地図という人の抽象化過程が介在する間接的情報ではなく、地物そのものの直接的情報を3D画像として認識できることに興奮が収まりません。
河川争奪以外の興味(縄文語「ハナ」地名由来の地形、子和清水の姿、縄文丸木舟出土地の状況、続保定記絵地図掲載情報の現地比定、特殊演習場など軍関係施設の残存状況など)にも米軍空中写真実体視は、大いに活用できそうです。
私の散歩にとって革命的と言えるほどのツールを入手できたことになります。
散歩のICT化をまた一歩進められそうです。
花見川谷底の段差から、思わぬみっけものを得ました。
裸眼実体視した画面
ダウンロードした写真は1949年米軍撮影、縮尺1:16000。ファイルの画像解像度は200dpi。
参考
国土地理院の空中写真閲覧ページ
「国土変遷アーカイブ 空中写真閲覧」 http://archive.gsi.go.jp/airphoto/
現在公開されている空中写真
1936年1月~1945年12月撮影:約 17,000枚
1946年1月~1960年12月撮影:約144,000枚
1961年1月~1970年12月撮影:約138,000枚
1971年1月~1980年12月撮影:約393,000枚
1981年1月~1990年12月撮影:約 56,000枚
1991年1月~2000年12月撮影:約 71,000枚
2001年1月~2009年12月撮影:約174,000枚
2010年1月~2010年11月撮影:約 15,000枚
2011年10月18日火曜日
「花見川河川争奪の証明」記事の訂正
花見川河川争奪を知る14 「花見川河川争奪の証明」記事の訂正
oryzasan氏論文「花見川の地学」第1章を読ませていただき、自分の思考の中にあった、河川争奪により沖積層を切ることがあったかのような勘違いに気がつきました。
この勘違いにより書いた次の文章を削除しました。
2011年10月6日記事「花見川河川争奪の証明」の「なお、付け加えれば、より決定的証拠になりますが、…」文章以下の全文。
(自分の思考の跡を残しておくために、文章そのものは残し、否定線を引くことで、削除としました。)
oryzasan氏論文「花見川の地学」第1章を読ませていただき、自分の思考の中にあった、河川争奪により沖積層を切ることがあったかのような勘違いに気がつきました。
この勘違いにより書いた次の文章を削除しました。
2011年10月6日記事「花見川河川争奪の証明」の「なお、付け加えれば、より決定的証拠になりますが、…」文章以下の全文。
(自分の思考の跡を残しておくために、文章そのものは残し、否定線を引くことで、削除としました。)
2011年10月17日月曜日
花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想2
花見川河川争奪を知る13 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想2
oryzasan氏論文「花見川の地学」 第1章引用に対する感想を述べます。
感想
ア 自分の思考に時間観念が無いことに気がつく
最新地学の基礎をわかりやすく噛み砕いて教えていただき、ありがとうございます。
図1と図2で花見川付近の地形発達の模式がとてもよくわかりました。
この模式図をみて、私の花見川河川争奪のイメージには地史的な時間観念がないことに気がつきました。
この教えていただいた地形発達モデルを思考の基盤として、それに自分の考えていた花見川河川争奪の概念をあてはめたところ、次のようなことが、まず、わかりました。
イ 沖積層を切るような形での河川争奪ではないこと
oryzasan氏の次の文章から、花見川河川争奪は沖積層を切るような形での河川争奪ではないことに気がつきました。
「浸食作用の卓越は、海水面低下期に伴う、海と陸との相対的な高度差の増加によってもたらされたと考えられ、その条件の失われた入り江の時代以降、低地の川が新たに川底を削り込むようなことは起きていません。」
時間観念なしに考えてきたので、思考の中に河川争奪により、沖積層を切ることがあったかのような一種の勘違いが混在していたことを意識することができました。
ウ 花見川河川争奪の谷地形変化モデル
oryzasan氏の図2のモデルに従って、自分のイメージしている花見川河川争奪プロセスを想像たくましく整理して時間軸に投影してみました。
花見川河川争奪による谷地形変化モデル
oryzasan氏論文「花見川の地学」 第1章引用に対する感想を述べます。
感想
ア 自分の思考に時間観念が無いことに気がつく
最新地学の基礎をわかりやすく噛み砕いて教えていただき、ありがとうございます。
図1と図2で花見川付近の地形発達の模式がとてもよくわかりました。
この模式図をみて、私の花見川河川争奪のイメージには地史的な時間観念がないことに気がつきました。
この教えていただいた地形発達モデルを思考の基盤として、それに自分の考えていた花見川河川争奪の概念をあてはめたところ、次のようなことが、まず、わかりました。
イ 沖積層を切るような形での河川争奪ではないこと
oryzasan氏の次の文章から、花見川河川争奪は沖積層を切るような形での河川争奪ではないことに気がつきました。
「浸食作用の卓越は、海水面低下期に伴う、海と陸との相対的な高度差の増加によってもたらされたと考えられ、その条件の失われた入り江の時代以降、低地の川が新たに川底を削り込むようなことは起きていません。」
時間観念なしに考えてきたので、思考の中に河川争奪により、沖積層を切ることがあったかのような一種の勘違いが混在していたことを意識することができました。
ウ 花見川河川争奪の谷地形変化モデル
oryzasan氏の図2のモデルに従って、自分のイメージしている花見川河川争奪プロセスを想像たくましく整理して時間軸に投影してみました。
花見川河川争奪による谷地形変化モデル
2011年10月16日日曜日
花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想1
花見川河川争奪を知る12 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想1
oryzasan氏から河川争奪に関連して再度コメントをしていただきました。「図を使わずに文章だけで意見を述べるのは困難なので、掲示板での場ではなく、メールに添付する形でコメントする」ということで、立派な論文をメール添付で送っていただきました。専門家の立場から詳しい情報を懇切丁寧に教えていただき、大感激、大感謝です。
論文は次のような4章構成になっており、11画像付きA4版8ページに及ぶものです。(論文題名はクーラーが付けました)
花見川の地学
Ⅰ. 台地と低地の形成史
Ⅱ. 現在の川筋が決まったのはいつか
Ⅲ. 「古柏井川」は存在したか
Ⅳ. 花見川付近でのみ分水界が北にずれたのはなぜか
ブログという性格上記事を区切る必要がありますので、1章1章別記事として順次紹介させていただき、その都度私の感想等も述べさせていただきます。後日論文全体を別のページに掲載させていただきます。
……………………………………………………………………
oryzasan氏論文「花見川の地学」 第1章引用
Ⅰ. 台地と低地の形成史
房総半島北西部を含む関東平野の地形は、大きく見ると、高さの異なる二枚の平坦面と境界の急斜面とから出来ています。高い方の平坦面が「台地」、低い方の平坦面が「低地」、境界の斜面を「段丘崖」と言います。
図1
台地では古東京湾と呼ばれる海に積もった、上岩橋層や木下層の上に、常総粘土層や武蔵野ローム層、立川ローム層などの火山灰層が堆積しています。なお、これらの火山灰層のうち、常総粘土層は湿地堆積ですが、他は乾いた陸上に降灰したものです。またこれらの火山灰層中には、三色アイス軽石層(SIP:約13万年前の箱根山の噴出物)、東京軽石層(Tp:約5万年前、箱根山)、姶良-Tn火山灰(約2.4万年前、鹿児島湾の姶良カルデラ)などの年代、分布、噴出源の明確な「鍵層」が挟まれています。
一方低地では、これらの地層をV字状に削り込んだ谷を、沖積層が半分ほど埋めています。沖積層はこの地域では、約1.7万年前以降に堆積した地層で、海または海へと続く湿地堆積の地層です。この海はいわゆる縄文の海で、この地域では、印旛沼方向から入り込んだ「古鬼怒湾」と、東京湾側から、海老川、菊田川、浜田川-花見川低地などに入り込んだ小さな入り江がありました。古鬼怒湾は新川低地の宮内付近まで入り込んでいたことが、沖積層中のケイソウ化石の分析からわかっています。また花見川低地では、天戸付近にまで海が入り込んでいたことを、もう20年も前のことですが、河川敷に散布されていた工事残土中の貝化石から確認しています。
従って台地と低地とは、新川低地を例にすれば、次のようにしてできたと考えられます。
台地と低地の形成には、海水面の上下が密接に関係しており、古東京湾の時代以降V字谷の時代に至る海水面低下期にかけての、浸食作用卓越期に低地の基本形となるV字谷が形成され、海進期の入り江の時代に底が埋められて低地が完成します。浸食作用の卓越は、海水面低下期に伴う、海と陸との相対的な高度差の増加によってもたらされたと考えられ、その条件の失われた入り江の時代以降、低地の川が新たに川底を削り込むようなことは起きていません。
図2
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oryzasan氏から河川争奪に関連して再度コメントをしていただきました。「図を使わずに文章だけで意見を述べるのは困難なので、掲示板での場ではなく、メールに添付する形でコメントする」ということで、立派な論文をメール添付で送っていただきました。専門家の立場から詳しい情報を懇切丁寧に教えていただき、大感激、大感謝です。
論文は次のような4章構成になっており、11画像付きA4版8ページに及ぶものです。(論文題名はクーラーが付けました)
花見川の地学
Ⅰ. 台地と低地の形成史
Ⅱ. 現在の川筋が決まったのはいつか
Ⅲ. 「古柏井川」は存在したか
Ⅳ. 花見川付近でのみ分水界が北にずれたのはなぜか
ブログという性格上記事を区切る必要がありますので、1章1章別記事として順次紹介させていただき、その都度私の感想等も述べさせていただきます。後日論文全体を別のページに掲載させていただきます。
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oryzasan氏論文「花見川の地学」 第1章引用
Ⅰ. 台地と低地の形成史
房総半島北西部を含む関東平野の地形は、大きく見ると、高さの異なる二枚の平坦面と境界の急斜面とから出来ています。高い方の平坦面が「台地」、低い方の平坦面が「低地」、境界の斜面を「段丘崖」と言います。
図1
台地では古東京湾と呼ばれる海に積もった、上岩橋層や木下層の上に、常総粘土層や武蔵野ローム層、立川ローム層などの火山灰層が堆積しています。なお、これらの火山灰層のうち、常総粘土層は湿地堆積ですが、他は乾いた陸上に降灰したものです。またこれらの火山灰層中には、三色アイス軽石層(SIP:約13万年前の箱根山の噴出物)、東京軽石層(Tp:約5万年前、箱根山)、姶良-Tn火山灰(約2.4万年前、鹿児島湾の姶良カルデラ)などの年代、分布、噴出源の明確な「鍵層」が挟まれています。
一方低地では、これらの地層をV字状に削り込んだ谷を、沖積層が半分ほど埋めています。沖積層はこの地域では、約1.7万年前以降に堆積した地層で、海または海へと続く湿地堆積の地層です。この海はいわゆる縄文の海で、この地域では、印旛沼方向から入り込んだ「古鬼怒湾」と、東京湾側から、海老川、菊田川、浜田川-花見川低地などに入り込んだ小さな入り江がありました。古鬼怒湾は新川低地の宮内付近まで入り込んでいたことが、沖積層中のケイソウ化石の分析からわかっています。また花見川低地では、天戸付近にまで海が入り込んでいたことを、もう20年も前のことですが、河川敷に散布されていた工事残土中の貝化石から確認しています。
従って台地と低地とは、新川低地を例にすれば、次のようにしてできたと考えられます。
台地と低地の形成には、海水面の上下が密接に関係しており、古東京湾の時代以降V字谷の時代に至る海水面低下期にかけての、浸食作用卓越期に低地の基本形となるV字谷が形成され、海進期の入り江の時代に底が埋められて低地が完成します。浸食作用の卓越は、海水面低下期に伴う、海と陸との相対的な高度差の増加によってもたらされたと考えられ、その条件の失われた入り江の時代以降、低地の川が新たに川底を削り込むようなことは起きていません。
図2
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2011年10月15日土曜日
絵図から読み取れる興味深い情報
花見川河川争奪を知る11 絵図から読み取れる興味深い情報
1 堀割普請前の地形記述
論文「木原善和(1995):江戸期の印旛沼掘割工事で描かれた絵図、印旛沼自然と文化第2号」は、下総国印旛沼御普請堀割絵図(八千代市指定文化財)について説明したものですが、堀割普請前地形に関する次のような興味深い情報が掲載されています。
……………………………………………………………………
この工事で最も重要で、かつ難工事の箇所である勝田村と花島村の間で新川と花見川を繋げる箇所に、「□□ 拾四丁芝地 高七丈壱尺」と書かれ、二つの川を繋げるところが約1.4㎞の芝地で、台地と川の水面までの高さ(深さ)が約21mであることが判明した。
写真3 新川と花見川を繋ぐ掘割箇所
……………………………………………………………………
この写真を拡大して読むと、私には「ここより 拾四丁芝地 高○○○尺」と読めました。○○○は画像が不鮮明で確認できないのですが、この論文通りとすると、「ここより 拾四丁芝地 高七丈壱尺」となります。
2度目の普請である天明の普請前の地形の記述が残っていたことを指摘したという点でこの論文は画期的であると思います。
この部分の意味として次の「ア」あるいは「イ」が考えられるように感じました。
ア 地形的凹部の存在を意味に含んでいない解釈
新川から花見川方向を向いて、「(この台地は)ここから拾四丁が芝地であり、その高さは(新川の低地からみて)七丈壱尺である。」
イ 地形的凹部の存在を言外に意味しているかもしれない解釈
新川から花見川方向を向いて、「(この眼前にある堀割は)ここから拾四丁が芝地であり、(眼前の堀割の底面から、先に広がる台地の最高点までの)高さは七丈壱尺である。」
私は、この絵図が堀割の普請のために作られたので、この説明記述を書いた人の視点が(空間位置に台地ではなく)堀割にあるということと、河川争奪後の無能谷がそこに在ったことを想定しているので、「イ」のように解釈することができるのではないかと考えています。
なお、○○○が七丈壱とすると、七丈壱尺=約21mで、新川低地標高約10m、台地最高地点標高約30mですから、値そのものは、その差分とほぼ一致する値です。
2 溜池存在の表現
上記写真の地形説明文章の上に「溜井」という表現で溜池の存在がわざわざ表現されています。村名と同じ字の大きさになっていることから、絵図作成者は溜池の存在を堀割普請の開始地点として捉えていたことがうかがえます。
溜池の存在はそこが谷津の出口であることを想起させます。そのくくり線も北に向かって開いた凹みの開口部を堤防で塞いでいる様子が表現されています。
同時に水田ではなく、溜池になっているということは、その谷津が空谷であることを示しています。
また、溜池の形が谷津の奥深くに伸びた細長いものになっていないことから、その空谷の勾配が、その場所では、急であることを物語っているように感じます。
さらに、表現が溜「池」ではなく、溜「井」になっているところにも注目します。「井」とは「泉や流水から、水をくみとる所」(国語大辞典、小学館)です。溜池表現より溜井表現の方がより流水流入、湧泉の存在を念頭に置いた言葉だと思います。そこが谷津(と言っても無能谷ですが)の出口であることを強く示唆します。
なお、溜池は3度目の普請である天保の堀割普請前の絵図にも出ています。
印旛沼干拓工事関係図(部分)
幕張町中須賀武文家所蔵 「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)掲載
この絵図の溜池は天明普請で出来た堀割の出口を塞いでつくられています。

印旛沼干拓工事関係図(部分)の地形対比
幕張町中須賀武文家所蔵 「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)掲載及び旧版1万分の1地形図に加筆
1 堀割普請前の地形記述
論文「木原善和(1995):江戸期の印旛沼掘割工事で描かれた絵図、印旛沼自然と文化第2号」は、下総国印旛沼御普請堀割絵図(八千代市指定文化財)について説明したものですが、堀割普請前地形に関する次のような興味深い情報が掲載されています。
……………………………………………………………………
この工事で最も重要で、かつ難工事の箇所である勝田村と花島村の間で新川と花見川を繋げる箇所に、「□□ 拾四丁芝地 高七丈壱尺」と書かれ、二つの川を繋げるところが約1.4㎞の芝地で、台地と川の水面までの高さ(深さ)が約21mであることが判明した。
写真3 新川と花見川を繋ぐ掘割箇所
……………………………………………………………………
この写真を拡大して読むと、私には「ここより 拾四丁芝地 高○○○尺」と読めました。○○○は画像が不鮮明で確認できないのですが、この論文通りとすると、「ここより 拾四丁芝地 高七丈壱尺」となります。
2度目の普請である天明の普請前の地形の記述が残っていたことを指摘したという点でこの論文は画期的であると思います。
この部分の意味として次の「ア」あるいは「イ」が考えられるように感じました。
ア 地形的凹部の存在を意味に含んでいない解釈
新川から花見川方向を向いて、「(この台地は)ここから拾四丁が芝地であり、その高さは(新川の低地からみて)七丈壱尺である。」
イ 地形的凹部の存在を言外に意味しているかもしれない解釈
新川から花見川方向を向いて、「(この眼前にある堀割は)ここから拾四丁が芝地であり、(眼前の堀割の底面から、先に広がる台地の最高点までの)高さは七丈壱尺である。」
私は、この絵図が堀割の普請のために作られたので、この説明記述を書いた人の視点が(空間位置に台地ではなく)堀割にあるということと、河川争奪後の無能谷がそこに在ったことを想定しているので、「イ」のように解釈することができるのではないかと考えています。
なお、○○○が七丈壱とすると、七丈壱尺=約21mで、新川低地標高約10m、台地最高地点標高約30mですから、値そのものは、その差分とほぼ一致する値です。
2 溜池存在の表現
上記写真の地形説明文章の上に「溜井」という表現で溜池の存在がわざわざ表現されています。村名と同じ字の大きさになっていることから、絵図作成者は溜池の存在を堀割普請の開始地点として捉えていたことがうかがえます。
溜池の存在はそこが谷津の出口であることを想起させます。そのくくり線も北に向かって開いた凹みの開口部を堤防で塞いでいる様子が表現されています。
同時に水田ではなく、溜池になっているということは、その谷津が空谷であることを示しています。
また、溜池の形が谷津の奥深くに伸びた細長いものになっていないことから、その空谷の勾配が、その場所では、急であることを物語っているように感じます。
さらに、表現が溜「池」ではなく、溜「井」になっているところにも注目します。「井」とは「泉や流水から、水をくみとる所」(国語大辞典、小学館)です。溜池表現より溜井表現の方がより流水流入、湧泉の存在を念頭に置いた言葉だと思います。そこが谷津(と言っても無能谷ですが)の出口であることを強く示唆します。
* 印旛沼開削工事は享保、天明、天保の3回行われています。上記記述は最初の享保における印旛沼開削工事で、台地部の堀割普請がほとんど行われていないという前提で思考しています。
余談
なお、溜池は3度目の普請である天保の堀割普請前の絵図にも出ています。
印旛沼干拓工事関係図(部分)
幕張町中須賀武文家所蔵 「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)掲載
この絵図の溜池は天明普請で出来た堀割の出口を塞いでつくられています。
天明堀割普請地形の表現
同時に天明普請でできた堀割跡(古堀)の地形が絵図では下記のように表現されています。絵図の表現一つ一つに現場の事実が反映されていることを確認できます。
印旛沼干拓工事関係図(部分)の地形対比
幕張町中須賀武文家所蔵 「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)掲載及び旧版1万分の1地形図に加筆
(2011.10.15 記事アップ後一部訂正しました。)
2011年10月14日金曜日
ようやくベールがとれた花見川河川争奪(追記)
花見川河川争奪を知る10 ようやくベールがとれた花見川河川争奪(追記)
白鳥孝治氏の論文「印旛沼落堀難工事現場の地理地質的特徴」(印旛沼自然と文化№5、1998)の引用文献リストに掲載されていた論文「木原善和(1995):江戸期の印旛沼掘割工事で描かれた絵図、印旛沼自然と文化第2号」を読み、白鳥孝治氏が八千代市有形文化財「下総国印旛沼御普請堀割絵図」をヒントに花見川河川争奪を考えていることを知りました。
2011年10月3日記事「ようやくベールがとれた花見川河川争奪」には、千葉市のことしか書かれていないので不十分ですから、次のように文章を追記し、記事の一部を修正しました。
……………………………………………………………………
「下総国印旛沼御普請堀割絵図」が昭和53年に八千代市有形文化財として指定されました。この時合わせて安永9(1780)年「下総国印旛沼新開大積り帳」と天明3(1783)年「印旛沼新堀割御普請目論見帳」の2冊の古文書も附指定されています。この絵図は印旛沼堀割工事に係った時に描かれたものとして貴重な歴史資料です。
下総国印旛沼御普請堀割絵図(部分)
「八千代市の歴史資料編近世Ⅲ」カバー
この絵図は掘り割る以前の花見川の姿を伝えていて、花見川は柏井を谷頭とし、花島を南流する東京湾水系になっていることが確認できます。
八千代市教育委員会や千葉市教育委員会の活動により印旛沼堀割普請前の花見川水系の姿が一般に知られるようになり、その中で地学関係者等にもその情報が伝わり、花見川河川争奪を覆っていたベールがようやく、はがされた。ということがこの数十年程度の間に生起したと考えます。
……………………………………………………………………
追記 この記事を書いた後に八千代市ホームページでの名称「下総国印旛沼御普請掘割絵図」の「掘割」は誤で、「堀割」が正であることを八千代市に申し入れ、訂正していただきました。
専門家の間でも誤った用語「掘割」が使われています。(2014.06.01)
白鳥孝治氏の論文「印旛沼落堀難工事現場の地理地質的特徴」(印旛沼自然と文化№5、1998)の引用文献リストに掲載されていた論文「木原善和(1995):江戸期の印旛沼掘割工事で描かれた絵図、印旛沼自然と文化第2号」を読み、白鳥孝治氏が八千代市有形文化財「下総国印旛沼御普請堀割絵図」をヒントに花見川河川争奪を考えていることを知りました。
2011年10月3日記事「ようやくベールがとれた花見川河川争奪」には、千葉市のことしか書かれていないので不十分ですから、次のように文章を追記し、記事の一部を修正しました。
……………………………………………………………………
「下総国印旛沼御普請堀割絵図」が昭和53年に八千代市有形文化財として指定されました。この時合わせて安永9(1780)年「下総国印旛沼新開大積り帳」と天明3(1783)年「印旛沼新堀割御普請目論見帳」の2冊の古文書も附指定されています。この絵図は印旛沼堀割工事に係った時に描かれたものとして貴重な歴史資料です。
下総国印旛沼御普請堀割絵図(部分)
「八千代市の歴史資料編近世Ⅲ」カバー
この絵図は掘り割る以前の花見川の姿を伝えていて、花見川は柏井を谷頭とし、花島を南流する東京湾水系になっていることが確認できます。
八千代市教育委員会や千葉市教育委員会の活動により印旛沼堀割普請前の花見川水系の姿が一般に知られるようになり、その中で地学関係者等にもその情報が伝わり、花見川河川争奪を覆っていたベールがようやく、はがされた。ということがこの数十年程度の間に生起したと考えます。
……………………………………………………………………
追記 この記事を書いた後に八千代市ホームページでの名称「下総国印旛沼御普請掘割絵図」の「掘割」は誤で、「堀割」が正であることを八千代市に申し入れ、訂正していただきました。
専門家の間でも誤った用語「掘割」が使われています。(2014.06.01)
2011年10月13日木曜日
花見川河川争奪の成因検討1 白鳥孝治氏の説
花見川河川争奪を知る9 花見川河川争奪の成因検討1 白鳥孝治氏の説
白鳥孝治氏が考える花見川河川争奪の2つの原因(地殻変動、花見川の浸食力)は素因として捉えるなば、その通りだと思います。
なぜ花見川だけが河川争奪したかという肝心の成因については、「常総粘土層の高度分布は,柏井,花島を通る花見川付近が低い鞍部になっているので, ここは下末吉ロームの堆積後に沈降していると考えられるから」としています。
白鳥孝治氏が示した図に私が印をつけました。この部分が鞍部だということだと思います。花見川は鞍部Aのはずれです。鞍部Aの中央には長作川の「元気のよい」谷頭浸食部がありますが、河川争奪に至っていません。また鞍部Bにも河川争奪はありません。
このような事情から、常総粘土層の高度分布からみた沈降を、花見川河川争奪の成因として特定することは、大きな無理を伴っていると感じました。
鞍部を加えた図
白鳥孝治氏の論文「印旛沼落堀難工事現場の地理地質的特徴」(印旛沼自然と文化№5、1998)の本文から沢山の有用な情報を得ることができました。またこの論文の引用文献リストを活用して、こえまで接触できなかった情報に到達することができました。白鳥孝治氏の花見川河川争奪記載に敬服するとともに、感謝します。
白鳥孝治氏が考える花見川河川争奪の2つの原因(地殻変動、花見川の浸食力)は素因として捉えるなば、その通りだと思います。
なぜ花見川だけが河川争奪したかという肝心の成因については、「常総粘土層の高度分布は,柏井,花島を通る花見川付近が低い鞍部になっているので, ここは下末吉ロームの堆積後に沈降していると考えられるから」としています。
白鳥孝治氏が示した図に私が印をつけました。この部分が鞍部だということだと思います。花見川は鞍部Aのはずれです。鞍部Aの中央には長作川の「元気のよい」谷頭浸食部がありますが、河川争奪に至っていません。また鞍部Bにも河川争奪はありません。
このような事情から、常総粘土層の高度分布からみた沈降を、花見川河川争奪の成因として特定することは、大きな無理を伴っていると感じました。
鞍部を加えた図
白鳥孝治氏の論文「印旛沼落堀難工事現場の地理地質的特徴」(印旛沼自然と文化№5、1998)の本文から沢山の有用な情報を得ることができました。またこの論文の引用文献リストを活用して、こえまで接触できなかった情報に到達することができました。白鳥孝治氏の花見川河川争奪記載に敬服するとともに、感謝します。
2011年10月12日水曜日
花見川河川争奪の成因の3説
花見川河川争奪を知る8 花見川河川争奪の成因の3説
これまで、この花見川河川争奪シリーズ記事では、
ア 白鳥孝治氏によって初めて花見川河川争奪現象が記載され、証明されたこと
イ 河川争奪による東京湾水系と印旛沼水系の分水界の変化について把握したこと
などについて述べてきました。
こうしたことを踏まえて、いよいよ花見川河川争奪の成因について検討します。
検討は次の手順で行います。
ア 最初に白鳥孝治氏、oryzasan氏と私クーラーの3説を並べて比較します。
イ 3説のそれぞれについて、検討します。
ウ 成因を特定するために必要な今後の検討方法について検討します。
* * *
1 花見川河川争奪の成因に関する白鳥孝治氏の説
この河川の争奪を起こす原因に,次の二つが考えられる。一つは,先に述べたように,印旛沼沼水系と東京湾水系の分水界の北側で地盤の隆起が起こったと考えることである。今一つは東京湾方向に流れる谷津が延びて, 印旛沼水系の谷津を取り込んだと考えることである。東京湾水系の谷津は,いずれも谷頭付近まで深谷津的地形をなしているので,台地を崩壊させながら谷頭を延ばしていると思われるからである。
隣接する数本の谷津のうち,花島を通る花見川だけが分水界を越えて北上した理由は, ここが弱い沈降帯であったためではなかろうか。即ち,図2にみるように(千葉の自然をたずねて, P49),常総粘土層の高度分布は,柏井,花島を通る花見川付近が低い鞍部になっているので, ここは下末吉ロームの堆積後に沈降していると考えられるからである。
図2
2 花見川河川争奪の成因に関するoryzasan氏の説
この地域には関東ローム層の下部に「常総粘土層」という火山灰層が分布しますが、この地層は「古東京湾」と呼ばれる海が退いた後に生じた湿地に堆積したものです。花見川流域でのこの地層の層相分布を見ると、下流の天戸-長作地域には同時期の陸成の火山灰層(下末吉ローム層)が分布しますが、上流の花島-横戸では湿地堆積の層相を示し、天戸-長作地域の陸化・離水の時期が早かったことを示しています。もちろん現在では花島-横戸地域の方が高いのですが、古東京湾の海退直後は逆だったことになり、その後花島-横戸地域の隆起が始まって現在の分水嶺が形成されたのではないかと思います。柏井の谷津を作った川は、この海退直後の地面の傾きに従って、印旛沼に向かう流路を形成した後、分水嶺地域の隆起の開始によって行く手を阻まれて東へ曲がり、更に南へと流れて、現在の花見川の流路を作ったのではないでしょうか。
風成下末吉ローム層の分布
この図は「三谷豊・下総台地研究グループ(1996):下総台地北西部における後期更新世の地殻変動、地団研専報45」より引用しました。
3 花見川河川争奪の成因に関するクーラーの説
ア 台地形成後の地殻変動により河川争奪の素因がつくられた
花見川の周辺には、印旛沼水系河川として台地に刻まれた浅い谷がその後の地殻の沈下により東京湾水系に組み込まれたり、台地上で谷形状を残しながら凹地となり流域帰属が不明となった地形が数多くみられます。印旛沼水系には踏みとどまっていますが谷津が湖沼化した例(長沼池)もあります。
このように、台地形成後の地殻変動により河川争奪の素因がつくられたと考えます。しかし、それだけでは本格的河川争奪は起こらなかったと考えます。
イ 断層破砕帯等の差別浸食という固有の要因により河川争奪が生じた
花見川の花島付近では安政2年の大地震で大地開裂があり、他の事象も含めて印旛沼堀割線路中断層の存在を推測するに足るものであると報告されています。(巨智部忠承「印旛沼堀割線路中断層の存在」[地学雑誌4巻3号 明治25年])
また、花見川は、平面的にみて、古柏井川(花見川に争奪された印旛沼水系河川)の河道に沿って差別的に浸食を進めています。
地下水湧水量が多く、激しい谷頭浸食地形を示す近傍の谷津(例 子和清水など)と比べて、花見川の浸食力は段違いです。
そして最も特徴的で決定的なことは、花見川は一貫して古柏井川の下流に向かって浸食を進めていることです。上流に向かって浸食を進めているのではありません。
このことから、花見川河川争奪の主要な要因は、存在が推測される断層の破砕帯等地質的脆弱部の差別浸食という固有の要因によるものと考えます。
未知の断層あるいはそれ以外の未知の理由による地質的脆弱部を理由にしているので、説とは言えないかもしれませんが、思考を発展させる踏み台として述べました。
花見川河川争奪説明図
この図では、河川争奪に至らない地形(谷中分水界、台地上凹地)分布と古柏井川の下流に向かって突き進む花見川を示しています。
これまで、この花見川河川争奪シリーズ記事では、
ア 白鳥孝治氏によって初めて花見川河川争奪現象が記載され、証明されたこと
イ 河川争奪による東京湾水系と印旛沼水系の分水界の変化について把握したこと
などについて述べてきました。
こうしたことを踏まえて、いよいよ花見川河川争奪の成因について検討します。
検討は次の手順で行います。
ア 最初に白鳥孝治氏、oryzasan氏と私クーラーの3説を並べて比較します。
イ 3説のそれぞれについて、検討します。
ウ 成因を特定するために必要な今後の検討方法について検討します。
* * *
1 花見川河川争奪の成因に関する白鳥孝治氏の説
この河川の争奪を起こす原因に,次の二つが考えられる。一つは,先に述べたように,印旛沼沼水系と東京湾水系の分水界の北側で地盤の隆起が起こったと考えることである。今一つは東京湾方向に流れる谷津が延びて, 印旛沼水系の谷津を取り込んだと考えることである。東京湾水系の谷津は,いずれも谷頭付近まで深谷津的地形をなしているので,台地を崩壊させながら谷頭を延ばしていると思われるからである。
隣接する数本の谷津のうち,花島を通る花見川だけが分水界を越えて北上した理由は, ここが弱い沈降帯であったためではなかろうか。即ち,図2にみるように(千葉の自然をたずねて, P49),常総粘土層の高度分布は,柏井,花島を通る花見川付近が低い鞍部になっているので, ここは下末吉ロームの堆積後に沈降していると考えられるからである。
図2
2 花見川河川争奪の成因に関するoryzasan氏の説
この地域には関東ローム層の下部に「常総粘土層」という火山灰層が分布しますが、この地層は「古東京湾」と呼ばれる海が退いた後に生じた湿地に堆積したものです。花見川流域でのこの地層の層相分布を見ると、下流の天戸-長作地域には同時期の陸成の火山灰層(下末吉ローム層)が分布しますが、上流の花島-横戸では湿地堆積の層相を示し、天戸-長作地域の陸化・離水の時期が早かったことを示しています。もちろん現在では花島-横戸地域の方が高いのですが、古東京湾の海退直後は逆だったことになり、その後花島-横戸地域の隆起が始まって現在の分水嶺が形成されたのではないかと思います。柏井の谷津を作った川は、この海退直後の地面の傾きに従って、印旛沼に向かう流路を形成した後、分水嶺地域の隆起の開始によって行く手を阻まれて東へ曲がり、更に南へと流れて、現在の花見川の流路を作ったのではないでしょうか。
風成下末吉ローム層の分布
この図は「三谷豊・下総台地研究グループ(1996):下総台地北西部における後期更新世の地殻変動、地団研専報45」より引用しました。
3 花見川河川争奪の成因に関するクーラーの説
ア 台地形成後の地殻変動により河川争奪の素因がつくられた
花見川の周辺には、印旛沼水系河川として台地に刻まれた浅い谷がその後の地殻の沈下により東京湾水系に組み込まれたり、台地上で谷形状を残しながら凹地となり流域帰属が不明となった地形が数多くみられます。印旛沼水系には踏みとどまっていますが谷津が湖沼化した例(長沼池)もあります。
このように、台地形成後の地殻変動により河川争奪の素因がつくられたと考えます。しかし、それだけでは本格的河川争奪は起こらなかったと考えます。
イ 断層破砕帯等の差別浸食という固有の要因により河川争奪が生じた
花見川の花島付近では安政2年の大地震で大地開裂があり、他の事象も含めて印旛沼堀割線路中断層の存在を推測するに足るものであると報告されています。(巨智部忠承「印旛沼堀割線路中断層の存在」[地学雑誌4巻3号 明治25年])
また、花見川は、平面的にみて、古柏井川(花見川に争奪された印旛沼水系河川)の河道に沿って差別的に浸食を進めています。
地下水湧水量が多く、激しい谷頭浸食地形を示す近傍の谷津(例 子和清水など)と比べて、花見川の浸食力は段違いです。
そして最も特徴的で決定的なことは、花見川は一貫して古柏井川の下流に向かって浸食を進めていることです。上流に向かって浸食を進めているのではありません。
このことから、花見川河川争奪の主要な要因は、存在が推測される断層の破砕帯等地質的脆弱部の差別浸食という固有の要因によるものと考えます。
未知の断層あるいはそれ以外の未知の理由による地質的脆弱部を理由にしているので、説とは言えないかもしれませんが、思考を発展させる踏み台として述べました。
花見川河川争奪説明図
この図では、河川争奪に至らない地形(谷中分水界、台地上凹地)分布と古柏井川の下流に向かって突き進む花見川を示しています。
2011年10月11日火曜日
「下志津特殊演習場に関連した要望」に対する回答
(花見川河川争奪に関するシリーズ記事掲載が長引くことになりましたので、シリーズを中断して「『下志津特殊演習場に関連した要望』に対する回答」記事を掲載します。)
千葉市長より、2011年9月7日記事「毒ガスに関する要望の提出」で紹介した要望の回答を受領しましたので報告します。
……………………………………………………………………
平成23年9月27日
○○○○様
千葉市長熊谷俊人
下志津特殊演習場に関連した要望について(回答)
平成23年9月6日付「下志津特殊演習場に関連した要望」につきまして、貴重な情報をご提供いただきありがとうございます。
早々に所管である環境省に情報を送付し、検討頂きました。その結果、次の3点の理由から、現在早急に対応しなければならない切迫した危険な状況にはないとの回答がありましたのでお知らせします。
今後、新たなリスクの存在を疑わせるような廃棄・遺棄情報等が認められましたら、環境省と協議し、必要な対応及び所要の環境調査等の実施を検討してまいりますので、引き続き情報の提供をお願いします。
① 演習場要図に示された特殊演習場周辺で、戦後における化学兵器の廃棄・遺棄、発見情報がないこと。
② これまでに同場所周辺での市民生活に化学弾によると思われる支障がなく、周辺の地下水調査においてもヒ素濃度に異常値が認められないこと。
③ 化学兵器を繰り返し使用して野外演習が行われていた旧陸軍習志野学校の演習場跡地において、平成19年度に行われた環境調査においても、毒ガス成分やその関連物質は検出されておらず、本件演習場においても同様の状況であると推測されること。
なお、旧軍下志津演習場内の長沼原町の研究農場においては、化学弾の可能性のある砲弾が発見・回収されておりますので、土地改変等による掘削作業における災害の未然防止のための広報として、周辺住民の皆様や、建設・土木業者の方々に注意喚起のリーフレツトを配布し、不審物への注意喚起を行っております。
また、近衛師団管轄演習場規程付図の開示につきましては、所蔵管理機関に問合せたところ、開示を希望される方が直接相談してほしい旨の回答がありましたので、直接お問合せ下さるようお願いいたします。
問合せ先
千葉市環境保全部環境保全課
(以下略)
……………………………………………………………………
感想
ア 下志津特殊演習場存在事実の認知
戦後66年経って初めて、国(環境省)と千葉市によって千葉市花見川区に在った毒ガス演習場の存在が認知されました。
遅すぎた感は否めませんが、永遠に無知であることと比較すると画期的な出来事であると思います。
イ 毒ガス事故発生の懸念に対する評価
私の毒ガス事故発生に対する懸念に対して、行政として、主として緊急性の観点から、次のように評価していただきました。
「現在早急に対応しなければならない切迫した危険な状況にはない」
環境省の専門的判断として受け止めたいと思います。
ウ 行政としての一定の規範の発生
アとイから、次のような行政上の一定の規範が生じたものと理解します。
・中長期的観点から、毒ガス事故発生の可能性を排除しないで、当該地域に対する監視を行うこと。
・周辺住民に対して啓発活動を行うこと。(現在稲毛区住民に対して啓発活動が行われていますが、花見川区住民に対しても啓発活動を行うことが大切です。)
千葉市長より、2011年9月7日記事「毒ガスに関する要望の提出」で紹介した要望の回答を受領しましたので報告します。
……………………………………………………………………
平成23年9月27日
○○○○様
千葉市長熊谷俊人
下志津特殊演習場に関連した要望について(回答)
平成23年9月6日付「下志津特殊演習場に関連した要望」につきまして、貴重な情報をご提供いただきありがとうございます。
早々に所管である環境省に情報を送付し、検討頂きました。その結果、次の3点の理由から、現在早急に対応しなければならない切迫した危険な状況にはないとの回答がありましたのでお知らせします。
今後、新たなリスクの存在を疑わせるような廃棄・遺棄情報等が認められましたら、環境省と協議し、必要な対応及び所要の環境調査等の実施を検討してまいりますので、引き続き情報の提供をお願いします。
① 演習場要図に示された特殊演習場周辺で、戦後における化学兵器の廃棄・遺棄、発見情報がないこと。
② これまでに同場所周辺での市民生活に化学弾によると思われる支障がなく、周辺の地下水調査においてもヒ素濃度に異常値が認められないこと。
③ 化学兵器を繰り返し使用して野外演習が行われていた旧陸軍習志野学校の演習場跡地において、平成19年度に行われた環境調査においても、毒ガス成分やその関連物質は検出されておらず、本件演習場においても同様の状況であると推測されること。
なお、旧軍下志津演習場内の長沼原町の研究農場においては、化学弾の可能性のある砲弾が発見・回収されておりますので、土地改変等による掘削作業における災害の未然防止のための広報として、周辺住民の皆様や、建設・土木業者の方々に注意喚起のリーフレツトを配布し、不審物への注意喚起を行っております。
また、近衛師団管轄演習場規程付図の開示につきましては、所蔵管理機関に問合せたところ、開示を希望される方が直接相談してほしい旨の回答がありましたので、直接お問合せ下さるようお願いいたします。
問合せ先
千葉市環境保全部環境保全課
(以下略)
……………………………………………………………………
感想
ア 下志津特殊演習場存在事実の認知
戦後66年経って初めて、国(環境省)と千葉市によって千葉市花見川区に在った毒ガス演習場の存在が認知されました。
遅すぎた感は否めませんが、永遠に無知であることと比較すると画期的な出来事であると思います。
イ 毒ガス事故発生の懸念に対する評価
私の毒ガス事故発生に対する懸念に対して、行政として、主として緊急性の観点から、次のように評価していただきました。
「現在早急に対応しなければならない切迫した危険な状況にはない」
環境省の専門的判断として受け止めたいと思います。
ウ 行政としての一定の規範の発生
アとイから、次のような行政上の一定の規範が生じたものと理解します。
・中長期的観点から、毒ガス事故発生の可能性を排除しないで、当該地域に対する監視を行うこと。
・周辺住民に対して啓発活動を行うこと。(現在稲毛区住民に対して啓発活動が行われていますが、花見川区住民に対しても啓発活動を行うことが大切です。)
2011年10月8日土曜日
河川争奪による分水界の変化
花見川河川争奪を知る7 河川争奪による分水界の変化
花見川河川争奪による分水界変化図
ベースマップは旧版1万分の1地形図
堀割普請前の復元水系図にもとづいて、大正6年測量の地形図により東京湾水系と印旛沼水系の分水界図を作成し、その中に花見川河川争奪前の復元想定分水界を点線で図示しました。
この図により、花見川河川争奪により、印旛沼水系から東京湾水系に移行した流域を面的に把握することができます。
この図のベースマップを現代の地図に置き換えて、次に示します。
花見川河川争奪による分水界変化図
ベースマップは2万5千分の1地形図
なお、既報(2011年7月27日記事「河川争奪の胚」)でも述べましたが、東京湾水系と印旛沼水系の分水界付近のコンター分布は極めて特徴的な様相を呈しています。分水界線を引くことが困難です。
こうした、私にとって「いわくつき」の地形について、分水界線を引くために、旧版1万分の1地形図のコンターを改めて詳細に見たところ、分水界線を引くためには次のようなイメージを持つと合理的に引けることが判りましたので、河川争奪の成因にもかかわることなので、記録しておきます。
分水界線を引くための地形解釈イメージ
分水界線を引くことが困難な表面的な理由は大きな凹地等を含むどちらの流域に含めてよいのかわからない地域が広がっていることです。
この「困難」を「困難」として捉えるのではなく、そうした流域未確定領域が存在すると考えたらどうだろうかと気がつきました。つまり、人世界でたとえれば、国境紛争地帯があり、国境未確定になっている領域があると考えれば、よいのではないかと気がついたことです。
これまで、力づくで流域界線を引こうとしていたのですが、自然地形にも流域未確定領域という概念を導入すれば、地形(とその成因)の理解がより合理的にできそうだと気がつきました。
今回の作業では、流域未確定領域を東京湾側の水系に「一時帰属」させて分水界線を引きました。
花見川河川争奪による分水界変化図
ベースマップは旧版1万分の1地形図
堀割普請前の復元水系図にもとづいて、大正6年測量の地形図により東京湾水系と印旛沼水系の分水界図を作成し、その中に花見川河川争奪前の復元想定分水界を点線で図示しました。
この図により、花見川河川争奪により、印旛沼水系から東京湾水系に移行した流域を面的に把握することができます。
この図のベースマップを現代の地図に置き換えて、次に示します。
花見川河川争奪による分水界変化図
ベースマップは2万5千分の1地形図
なお、既報(2011年7月27日記事「河川争奪の胚」)でも述べましたが、東京湾水系と印旛沼水系の分水界付近のコンター分布は極めて特徴的な様相を呈しています。分水界線を引くことが困難です。
こうした、私にとって「いわくつき」の地形について、分水界線を引くために、旧版1万分の1地形図のコンターを改めて詳細に見たところ、分水界線を引くためには次のようなイメージを持つと合理的に引けることが判りましたので、河川争奪の成因にもかかわることなので、記録しておきます。
分水界線を引くための地形解釈イメージ
分水界線を引くことが困難な表面的な理由は大きな凹地等を含むどちらの流域に含めてよいのかわからない地域が広がっていることです。
この「困難」を「困難」として捉えるのではなく、そうした流域未確定領域が存在すると考えたらどうだろうかと気がつきました。つまり、人世界でたとえれば、国境紛争地帯があり、国境未確定になっている領域があると考えれば、よいのではないかと気がついたことです。
これまで、力づくで流域界線を引こうとしていたのですが、自然地形にも流域未確定領域という概念を導入すれば、地形(とその成因)の理解がより合理的にできそうだと気がつきました。
今回の作業では、流域未確定領域を東京湾側の水系に「一時帰属」させて分水界線を引きました。
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